幕間 帝国の影
帝国の皇帝は、夜の香りを好む。
香炉にくべた樹脂が甘く煙り、黒い天蓋の内側で渦を巻く。
重いカーテンの向こうは、護衛が幾重にも立つ“帝都の奥”。
そのさらに奥――皇帝の寝所。
ここは、帝国で最も安全で、最も近寄りがたい場所だ。
……普通なら。
皇帝は寝台の縁に腰掛け、深い赤のワインを傾けた。
夜光石の灯りが、グラスの縁で不気味に踊る。
龍后ディアルカ。
かつて地上を席巻したと謳われる竜人の末裔。
そして同時に――帝国の「是正」の象徴として、人心を奪う美女でもある。
夜光石の灯りを受けた肌は、白磁ではなく、研ぎ澄ました刃のように冷たく艶がある。
長い睫毛が影を落とすたび、瞳の金が静かに光った。
赤い唇はワインより濃く、微笑みの形だけで“許し”と“処断”を同時に匂わせる。
薄衣の胸元から覗く鎖骨は細く、指先がグラスを撫でる仕草だけで、宮廷の空気が息を呑む――そんな種類の美。
美しさが、武器だと知っている者の美しさ。
その血は、獣のように強く、王冠のように傲慢だ。
「――よい夜だ」
ディアルカは微笑んだ。
王国の結界。
あれが、帝国の侵攻における最大の“面倒”だった。
真正面から叩けば、竜騎兵の羽が焼ける。
補給線は裂け、帝都の将軍たちが眠れなくなる。
それが今はどうだ。
「安い命で、よくやった」
テロリスト。
名も価値もない連中。
彼らの血で、王都の結界は壊れた。
儀式のように。
玩具のように。
ディアルカの機嫌が悪いはずがない。
「王都が裸になった。ならば――」
グラスを置き、指先で空をなぞる。
「竜騎兵で、直接焼いてもよい」
言葉が軽い。
都市が燃える重さを、理解していないわけがない。
理解したうえで、軽い。
「弱き王は、打倒されるためにある」
笑いが漏れる。
だが、ディアルカの視線はまだ先を見ていた。
「……それでも」
王国が“ただ腐って沈むだけ”なら簡単だ。
しかし、あの国にはしぶとい骨がある。
腐敗に引きずられず、王国の藩屏として独自勢力を保ち続ける者。
帝国の進行を、ずっと拒み続けてきた軍。
「辺境伯軍」
憎たらしい。
王都が崩れれば、普通は尻尾を巻く。
だが、辺境伯軍は違う。
王都が弱るほど、むしろ“守るため”に硬くなる。
ディアルカは、唇の端を吊り上げた。
「次は、あれを折る」
夜の帝都で、皇帝の声は静かに響いた。
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同じ頃。
王国の空。
飛空邸の一室。
「……情報、入りました」
レイナが淡々と言った。
その声の温度は、いつもと同じ。
なのに内容だけが、やけに重い。
僕は思わず聞き返した。
「え、何の情報?」
レイナは紙を一枚、机に置く。
《帝国皇帝 龍后ディアルカ 寝所にて ワイン 機嫌:良》
……寝所。
「寝所!?」
声が裏返った。
「はい」
淡々。
「いや、待って。寝所って、あの寝所? 皇帝が寝る部屋?」
レイナは瞬き一つ。
「はい。寝る場所です」
そこを定義されると余計怖い。
「え、どうやって?」
レイナは、さらに紙を一枚追加した。
《香:樹脂系 天蓋:黒 護衛:多 だが、隙あり》
隙。
皇帝の寝所に隙があるの、情報の出し方がもう怖い。
「……隙って何!? 寝返りのタイミング!?」
僕のツッコミに、レイナは真面目に答えた。
「寝返りのタイミングも把握できます」
把握できるな。
できなくていい。
マリーダが、どこからともなく現れて、にこやかに言った。
「素晴らしいですね、レイナ。首領のための雑音排除が捗ります」
「捗らないよ! 雑音がデカいよ!」
ルナが、静かに付け足す。
「……寝所。危ない。守る」
守るって何を。
もう皇帝、情報だけで守りが必要な存在になってる。
レイナは淡々と結論を言った。
「帝国は動きます。
王都結界が消えた今、攻撃の選択肢は増えました。
ただし最優先は、辺境伯軍の排除」
まじめな話だ。
まじめな話なのに、寝所情報が強すぎて頭に入らない。
僕は紙を見つめながら、呻いた。
「……情報網、やばくない?」
レイナは首を傾げた。
「通常です」
通常じゃない。
窓の外。
雲の向こう。
帝国の影が、王国へ伸びてくる。
……その影の“寝所のカーテンの色”まで、こちらが知っているのは。
やっぱり、どう考えてもおかしい。




