幕間 マリーダ、実家へ
飛空邸は、王国の空を静かに離れていった。
王都で起きたあの騒ぎ――宮殿、結界暴走、王女の確保。そんなものを抱えたまま、同じ空を飛び続けるのは愚策だ。
補給と、身を隠す場所が要る。
進路は中立商業地域。
王国の法も帝国の命令も、雑に踏み越えて金が流れる“灰色の空域”。
そこで一行を匿える人物がいると、レイナが淡々と報告した。
「……マリーダの実家だ」
僕が口にすると、マリーダは一瞬だけ目を伏せた。
いつもの穏やかな笑みは崩れない。崩れないからこそ、その瞬間の“揺れ”が目に刺さった。
「はい、首領。補給と整備、そして――安全の確保は、父が請け負います」
父。
マリーダがその単語を口にするのは、妙に重い。
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中立商業地域の空は、王都よりも濁っていた。
雲の層が厚く、陽の光が弱い。
それでも飛空邸は迷いなく高度を落とし、港のように整備された大きな空中停泊地へ滑り込んだ。
「……え、あれ、港……?」
「分類上は港です」
ばあやが当然の顔で言う。
停泊地には武装した衛兵が並び、旗がいくつも翻っていた。
王国の旗でも、帝国の旗でもない。
――金と交易の旗。
その中心に、一人の男が立っていた。
背が高く、黒髪に白いものが混じる。
鎧は着ていない。だが、立ち姿の“重さ”が、鎧よりも物騒だった。
「……ラシード」
マリーダが、小さく名前を呼んだ。
男はゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
足取りは静か。なのに空気だけが鳴る。
周囲の衛兵が一斉に姿勢を正したのを見て、僕は遅れて理解した。
この人が、ここ一帯の“強力勢力”だ。
中立を中立のまま保てるほどの、力の持ち主。
男はマリーダの前で止まり、次に――僕を見た。
目が、戦場の目だった。
「……ユーリ様」
呼び方が、貴族のそれだった。
でも、その声音は貴族に仕える者のものではない。
もっと、ずっと古い。
「お父上と……戦場を駆けた時のことを、思い出していた」
それだけ言って、男――剣聖ラシードは、目を伏せた。
泣いているわけではない。
ただ、泣く直前の顔だった。
「守り切れなかった」
低い声。
「主君を、守り切れなかった。……それで、俺は一度死んだ」
死んだ。
生きているのに。
言葉の意味が、骨に刺さる。
ラシードは、マリーダへ視線を戻した。
「ユーリ様から、お前を託された」
「……はい」
「そこで、俺はもう一度――生きる理由を拾った」
マリーダの指が、わずかに震えた。
「だから俺は、お前に“愛”を注いだ」
愛。
その単語が、ここで出るとは思わなかった。
ラシードは淡々と言い切る。
「生き残れるだけの力。
折れないだけの精神。
主君の背を守れるだけの剣。
……常人が耐えられない量の訓練を、全部だ」
マリーダは、いつもの笑みで頷いた。
「はい。父の愛は、とても重かったです」
軽口みたいに言うのに、目だけが本気だ。
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「で」
ラシードが、短く言った。
「王都で、お前はユーリ様と共にいた。
……弱くなっていないか?」
マリーダが瞬きを一つする。
「父。確認しますか」
「確認する」
模擬戦。
言葉が出るより先に、周囲の衛兵がさっと距離を空けた。
まるで、日常の手順みたいに。
僕は反射で言った。
「いや、やめ――」
止める前に。
マリーダが、剣を抜いた。
抜く音が、嘘みたいに静か。
(この人、無音で抜くのが普通になってる……)
ラシードは剣を抜かない。
代わりに、腰を落とした。
――それだけで。
空気が、切れた。
最初はラシードが優勢だった。
マリーダの踏み込みを、受け止めて。
弾いて。
ずらして。
“教える側”の剣で、完璧に制御していく。
(強い……これが剣聖)
マリーダが一瞬、息を吐いた。
それは焦りじゃない。
“次へ行く”合図だった。
ラシードが言う。
「――甘い」
マリーダが答える。
「はい」
次の瞬間。
マリーダの剣速が、跳ねた。
さっきまでの“娘”じゃない。
“首領の剣”だ。
ラシードの足が半歩下がった。
目が細くなる。
「……何だ、それは」
その問いに、マリーダは答えなかった。
答える必要がないから。
――僕が、その理由を言ってしまった。
「マリーダ! いけ!」
応援。
ただの、勢い。
いつもの軽口。
なのに。
マリーダの背中が、さらに加速した。
ルナの強化でもない。
魔法でもない。
……“主命”の発火だ。
ラシードの表情が、変わった。
驚き。
そして――納得。
マリーダの剣が、ラシードの喉元で止まった。
止めた。
折らない。
殺さない。
ラシードは、ゆっくりと笑った。
「……若者の時代だな」
悔しそうじゃない。
むしろ、救われた顔だった。
「そして、俺の命の使い道も――ようやく分かった」
ラシードは、僕に向き直り、深く頭を下げた。
「ユーリ様」
「……え、ちょ、頭上げて」
上げない。
上げないまま、剣聖は言い切った。
「次にあなたが動く時。
王都の外の力を、必ず呼びます。
……かつての仲間を集める」
それは誓いだった。
王国の外にいる。
王国の中枢にも負けない。
強力勢力。
その“頭出し”を聞いて、僕は喉の奥が乾くのを感じた。
(……また会議資料、増えるな)
不吉な確信が、なぜか一番リアルだった。




