悪の組織に、過保護要塞が発生した件
ルナの気配は、音がしない。
扉の向こうで誰かが息をするだけで、部屋の空気が、ほんの少し整う。
そんな「静かな過保護」が、最近の僕——ユーリの日常だった。
たとえば。
机に向かえば、ペン先が一瞬だけ軽くなる。インクの粘りが、ちょうどいい具合に整えられている。
たとえば。
窓辺に立てば、外気が少しだけ柔らかい。冷たさの角が取れて、頬を刺さない。
たとえば。
夜、寝返りを打てば、毛布が勝手に追いかけてくる。逃げ場がない。
……ありがたい。とても。
でも、最後のやつは、ちょっと怖い。
「ルナ、最近すごいね。家が……いや、部屋が、快適すぎる」
ベッドの上から声をかけると、ルナは扉の近くで小さく頭を下げた。
いつも通り、表情は控えめで、動きは丁寧だ。
「……お役に立てて、よかったです」
よかった、が。
その「よかった」が、いつの間にか部屋全体を巻き込み始めている。
この幽閉部屋は、元々はただの広い客室だった。
石造りの壁。重い扉。天蓋付きのベッド。
豪華ではあるけれど、閉じ込められているという事実が、すべてを薄暗く見せる。
ところが最近、部屋は別の意味で薄暗い。
要するに——守りが濃い。
床に薄い文様が走った。ルナが施した魔術式だ。
目を凝らすと、廊下側から伸びる線と窓側から伸びる線が、見えない格子で組み合わさっている。
しかも。
格子の上に、さらに格子がある。
いや、これ……どこかで見たことがある気がする。
「うわ、迷宮みたい」
遊びに来た——というより、様子を見に来たマリーダが、額に手を当てた。
隣ではレイナが、冷静に床の文様を観察している。
「これは……防衛結界の多重化ですね。しかも、生活動線に合わせて組み直している」
レイナの言い方が、やたら軍事的だ。
「生活動線?」
「ええ。ユーリ様が動く場所に合わせて、最適化されています。寝台、机、洗面台、窓……」
言われてみれば。
机からベッドへ。
ベッドから窓へ。
窓から扉へ。
その「いつもの動き」に沿って、結界がぴったり付いて回る。
追いかけてくる毛布と同じ発想だ。
僕が思わず肩をすくめると、ルナが小さく視線を伏せた。
「……危険が、近い気がして」
「危険?」
レイナが眉をわずかに動かす。
マリーダは、もっと分かりやすく顔をしかめた。
「また“気がする”か。ルナ、それ、だいたい当たるから余計に厄介なのよ」
「すみません……」
ルナは謝るとき、本当に悪いと思っている。
だから困る。
この屋敷には、僕を狙う敵が“いるかもしれない”。
国家警察の監察官がどうこう、という話はひとまず置くとしても、屋敷の外からの視線が増えているのは事実だ。
その中で、ルナが警戒するのは分かる。
分かるけど——。
「ルナ、守ってくれるのは嬉しい。でも、これは……ちょっと過保護すぎない?」
言い方を選んだ。
選びすぎたかもしれない。
ルナは、ほんの少しだけ唇を噛んだ。
「……ユーリ様が、危ないのは、嫌です」
短い言葉。
でも、そこに詰まっている重さが、結界より強い。
マリーダが、横から小声で言う。
「ほら。そこ、そこよ。重いのよ」
「聞こえてます……」
ルナは、ちゃんと聞こえる声で返した。
ちゃんと刺さった。
その瞬間だった。
床の文様が、ふっと脈打つ。
光が一度だけ走って、僕の足元を円で囲む。
「え?」
足元の円は、次の瞬間、僕の周りを縦に伸びた。
見えない壁が立ち上がる感覚。
——守りが、僕本人に常時かかり始めた。
「……え、これ、いつから?」
僕が動くと、結界も動いた。
部屋を守る結界が、「僕を守る」結界に切り替わった感じだ。
レイナが、すぐに状況を言語化する。
「対象指定が更新されています。ユーリ様の周囲に、個人用の防衛膜が常時展開されました」
「常時!?」
マリーダが声を上げる。
「常時って、何? これだけ強い魔法なら、もしかして外出もできるんじゃ……」
……外出。
僕の中で、その言葉が跳ねた。
正直に言うと、外に出たい。
堂々とじゃなくていい。ほんの少しでいい。
外の空気が吸いたい。
けれど、この屋敷は僕を幽閉している。
外出許可なんて、あるはずがない。
だからこそ。
今の結界の変化が、妙に気になった。
「ルナ。これ、外まで行ける?」
ルナは即答しなかった。
少しだけ目を閉じ、何かを“聴く”ようにしてから答える。
「……行けます。でも……」
「でも?」
「屋外判定が、強いです」
「判定?」
レイナが、説明を引き取った。
「屋敷には、屋内と屋外を識別する結界の基準があります。本来なら外へ出た時点で、屋外として強制的に切り替わるはずです」
「はず?」
「ええ。ですが——」
レイナが窓を指した。
窓の向こうは夕暮れで、まだ空が明るい。
「今は結界で“屋内扱いの範囲”が広がっています。ユーリ様が動くと、その範囲も引きずられる」
「つまり……」
マリーダが顔をしかめながら言う。
「屋外に出ても、一瞬だけ屋内扱いになるってこと?」
「はい。ユーリ様の周囲を屋内扱いにしてしまえば、屋外でも屋内判定が成立します」
それは。
ものすごく、面白くないバグだ。
……いや、面白い。
僕の胸が、小さく跳ねた。
外に出られる。
出られる可能性がある。
でも、すぐにレイナが続ける。
「ただし、太陽光があると、屋外判定が優先されます」
「太陽光……?」
「明確な外界情報が入ると、屋外として固定される、ということです。つまり、昼間は無理です」
マリーダが、うわぁ……という顔をした。
「……夜だけってこと?」
僕は、言葉にしたら負けな気がして黙った。
ルナが、静かに頷く。
「……夜なら。太陽の判定が弱いので……屋内扱いの揺らぎが、残ります」
ルナの声は、嬉しそうではなかった。
むしろ、怖がっている。
でも。
その怖さがあるからこそ、守りが本物だと分かる。
「ルナ。ありがとう」
僕が言うと、ルナはほんの少しだけ目を見開いた。
「……はい」
それだけ。
でも、胸の奥が熱くなる。
マリーダが肩をすくめて、わざと軽い声を出した。
「はいはい。感動してるところ悪いけどさ。これ、要塞化しすぎ。目立つ。便利だけど、目立つ」
「ええ。便利ですが、痕跡が残りやすい。外から見ても、分かる人には分かります」
レイナも同意する。
僕は、笑ってごまかした。
「……だよね。うん。ちょっと控えめにできない?」
ルナは、少しだけ困った顔をした。
珍しい。
「……控えめにすると、守れません」
「そこを、こう……」
マリーダが、ルナの肩に手を置いて、真顔で言った。
「守るのは大事。でも、守りすぎると、逆に敵を呼ぶ守りもあるのよ」
ルナは、視線を落とした。
「……分かってます。目立たないように……闇に溶ける感じに改良すればいいんですよね」
分かってる。
それが、いちばん厄介だ。
守りたい。
でも守り方が分からない。
その迷いが、結界になって床に描かれている。
僕は窓の外を見た。
夕暮れは、やがて夜になる。
夜なら。
今夜なら、出られるかもしれない。
そんな小さな可能性が、結界の文様の隙間から、ぽとりと落ちてきた気がした。
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そんなやり取りをしてから数日後の夜。
寝不足でふらふらのルナが、勝ち誇ったような顔でやってきた。
「できました」
「え……なにが?」
「いきます! *ナイトガウン・フォートレス*!!」
部屋を覆っていた魔法が、ぎゅっと凝縮する。
要塞だったはずの守りが、今度は黒い布みたいに僕へまとわりついた。
床の魔法陣が闇を吐き出し、その闇が滑らかなビロードみたいに形を取る。
高級な寝巻き——そんな言葉が、妙にしっくり来てしまう。
いつか見た「悪の組織の首領」は、たしかにこんな格好をしていた。
頭の中で、気の抜けた感想が何度も反芻される。
「ルナ、これ……外、行けるの?」
「はい。夜だけですが……」
「じゃ、ちょっと散歩に行こうか」
出力は要塞の時と遜色ない……のかな。
とにかく、身体がやけに軽い。
「ははは。闇の主の出陣だ。ルナ、行くよ」
精神を高揚させる作用でもあるのか、妙に気分がいい。
寝静まった街の屋根から屋根へと駆けると、風まで味方してくる。
今なら。
この格好なら。
助けに行けるかもしれない。
深い闇のなか、それでも存在感を失わない巨大な白亜の城を遠目に眺め、
僕は——いや、俺は。悪の組織の首領として、決意した。




