悪の組織に、信託が下りた件
南区の路地は、昼でも薄暗い。
陽が届かないのではない。
人が、届かせない。
レイナはその“届かないもの”の匂いを、鼻ではなく、手順で嗅ぎ分ける。
《首領なら、どうする》
答えはいつも、同じ形をしていた。
派手な勝利ではない。
誰も気づかないうちに、勝ち筋が出来上がっている。
レイナはその形を、頭の中で小さな札にして並べる。
状況。
役割。
代替。
撤退。
「捨てるもの」。
そして最後に。
首領の、あの声を添える。
『最短は、正しいとは限らない。だが、正しい最短を選べれば、余計な血を流さずに済む』
——最適解。
レイナはその言葉を、胸の中で静かに抱えた。
熱くはない。
ただ、冷たいまま燃える。
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その夜。
首領の執務室は、静かだった。
静かすぎて。
紙が擦れる音と、ペン先が止まる音が、やけに大きい。
「……あれ」
首領は机の隅にある紙束を見つけて、首を傾げた。
誰かが置いていったものだ。
そういうものは基本、危ない。
でも——表紙が、危なさを上回っていた。
《首領語録(暫定)》
「暫定って、何」
めくる。
《撤退の判断》
《勝ち筋の作り方》
《部下が震えたら、まず水を飲ませる》
最後の一つで、首領の手が止まった。
「……言ってない」
言ってない。
言ってないはず。
だが、読んだ瞬間に「言いそう」と思ってしまった。
首領は、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
感じたので、咳払いをした。
「……このページ分け、丁寧だな」
丁寧。
丁寧は、好きだ。
しかも——
《最適解=神託(レイナ談)》
「レイナ……言ってないよね?」
誰もいない。
返事もない。
首領は、しばらくその行を見つめた。
嬉しい。
まずい。
嬉しいと、余計なことをしたくなる。
余計なことをすると、現場が大変になる。
——分かっている。
分かっているのに。
首領は、ペンを取った。
「追記しない。追記はしない」
口に出してから。
余白に、短く書いた。
《※神託ではない。たぶん。》
書いてしまった。
「……やった」
その瞬間、扉が控えめに叩かれる。
「失礼します。首領」
入ってきたのはレイナだった。
いつもの顔。
いつもの声。
「報告です」
首領は、紙束を反射で伏せた。
机の上に。
隠すには遅い位置に。
「……うん。聞く」
レイナは一瞬だけ紙束に視線を落とし、何も言わない。
言えば、崩れる。
崇拝も、羞恥も、業務には不要だ。
淡々と、報告が始まる。
短い。
必要十分。
そして——筋が通っている。
首領は聞きながら思った。
(やっぱり、この人……仕事になると怖いな)
怖いのに。
誇らしい。
レイナは報告を終えると、最後に一言だけ添えた。
「現場の手順は共有しておきました。
迷いが減ります」
「……うん。ありがとう」
首領が頷く。
その“ありがとう”が、たぶん余計に効く。
レイナの胸の奥が、冷たいまま熱くなる。
——最適解。
レイナはそれを口に出さない。
出した瞬間に、また紙束が増える。
「では」
レイナが去る。
扉が閉まる。
首領は、机の上の紙束をそっと持ち上げた。
《※神託ではない。たぶん。》
自分の字を見て、もう一度咳払いをした。
「……絶対に回覧されるな、これ」
遅い。
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翌朝。
廊下が、いつもより騒がしい。
足音が多い。
声が小さい。
——小さいのに、やけに揃っている。
「おはようございます」
末端の一人が、やけに丁寧に頭を下げた。
誰に、というより。
“空気”に。
その手には紙束。
昨日までは無かったはずの、分厚い紙束。
表紙。
《首領語録(改)》
見出し。
《撤退の判断》
《勝ち筋の作り方》
《部下が震えたら、まず水を飲ませる》
そして。
《※神託ではない。たぶん。(首領追記)》
「……追記してる」
マリーダが、紙束を見た瞬間に吹き出した。
笑いを堪えようとして失敗し、肩が震える。
「ねえレイナ。
これ、もう宗教よ」
周囲の末端が、一斉に真顔で頷いた。
「はい。宗教ではありません」
レイナは淡々と答える。
否定の言葉が、訂正の手順みたいに滑らかだ。
「業務です」
「業務で、ここまでページ分けしないでしょ!」
マリーダが突っ込む。
末端が、恐る恐る補足した。
「回覧用に、二部。
保管用に、一部。
携帯用に、一部です」
「携帯……?」
「はい。
現場に持っていけば、迷いが減ります」
レイナの言葉を借りて。
末端が言う。
レイナは一瞬だけ息を止めた。
(もう、増えている)
止めるには。
首領に「やめて」と言わせるしかない。
だが。
首領が“追記”した。
追記した人間に、止めろと言うのは。
——難しい。
「……燃やす?」
マリーダが耳元で囁いた。
「燃やしたら、次は石板です」
レイナは淡々と言った。
自分でも、予想がついてしまうのが怖い。
淡々としているからこそ、周囲が真顔になる。
末端の一人が、紙束を抱き直しながら小さく呟いた。
「首領も、ちゃんと見てくださってるんだな……」
その声が、廊下に静かに伝染した。
「ほら」
マリーダが肩をすくめる。
「否定しないから増えるのよ」
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その頃。
宮殿の奥。
防衛結界の管理台帳に、新しいメモが書き足された。
《防御専用》
《暴走時、停止手順不明》
一滴だけ。
今はまだ、誰も気にしない程度の。
だが、その一滴が。
いずれ、街の夜を満たす。
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