閑話 とある信者の布教活動(エバンジェリズム)
私は、窓辺の闇の一員になった。
手首の黒い糸が、まだ少しだけくすぐったい。
あれは印だ。
加入した証拠だ。
——だから私は、今日も働く。
毛布を配る。
水を運ぶ。
丸をつける紙を用意する。
救う順番の、一番最初の仕事。
地味。
でも。
地味だからこそ、尊い。
私は胸の奥で、勝手にそう決めた。
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朝。
仮の居場所——いや、もう“うち”と呼んでいいのかもしれない部屋の前で、案内役の男が真顔で言った。
「今日の任務」
任務。
悪の組織っぽい。
私は背筋を伸ばす。
「はい」
男は紙を一枚出した。
紙だ。
この組織、だいたい紙で動いている。
「被害者の世話。……あと、布教」
「……布教?」
言葉が邪教すぎて、私は一瞬固まった。
男は首を傾げる。
「布教だ。新入りに、うちの正しい順番を教える」
あ。
こっちの布教。
邪教のやつじゃない。
私は、ほっとした。
そして次の瞬間、胸が熱くなった。
教える。
私が?
昨日まで被害者だった私が?
「……できるかな」
小声で言うと、男は淡々と頷いた。
「筋が良いって言われただろ」
それを思い出して、背中がぞくりとした。
筋が良い。
褒め言葉。
怖い褒め言葉。
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作業場。
そこには、私みたいな人がいた。
目が泳いでいる。
指が震えている。
救われたばかりの人。
昨日の私。
私は水を差し出して、できるだけ優しく言う。
「大丈夫。ここは……殴られない」
相手の目が、少しだけ大きくなる。
「……ほんと?」
「ほんと。確認はされるけど」
「確認……」
怯える。
分かる。
だから私は急いで付け足す。
「丸をつけるだけ」
紙を見せる。
「名前。年。帰りたい場所。帰る家がない場合はここ」
相手は紙を見て、呆然とした。
「……これ、だけ?」
「これだけ」
嘘みたいだよね。
私も思った。
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そして、今日の本題。
布教。
私は、紙の束の一番上をめくって、声を落として言う。
「これが、首領の順番」
《救う順番》
・逃げたい人を逃がす
・逃げられない人を守る
・最後に顔役を抜く
相手が、目を瞬かせた。
「首領……?」
「うちのボス」
私は昨日の案内役の真似をした。
言い方まで。
なぜか誇らしい。
「首領が決めた。だから、守る」
相手が小さく言う。
「……なんで、そこまで?」
なんで。
私は答えを探して。
結局、正直に言った。
「優しいから」
言ってから、恥ずかしくなる。
悪の組織のボスを、優しいって。
でも。
優しい。
事実だ。
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昼前。
作業場の扉が静かに開く。
空気が一段、整う。
銀髪の女性。
マリーダ。
穏やかな顔。
なのに、背筋が勝手に伸びる。
マリーダは、私に気づくより先に、案内役の男へ小声で言った。
「首領は、今日も書類を見ただけで状況を当てられました」
案内役が、息をのむ。
「……また、ですか」
「はい。首領は“遊び”のつもりで口にします。でも、現実は必ずその通りに動きます」
穏やかな声。
内容は、穏やかじゃない。
「首領がいる限り、順番は乱れません」
その断言が、私の背中をぞくりと撫でた。
「……お疲れさま」
私が言うと、マリーダは微笑んだ。
「よく守っていますね。順番を」
褒められた。
胃が、きゅっとなる。
「はい。首領の順番です」
口から出た瞬間。
私は自分に驚いた。
“首領の”って言っている。
自然に。
マリーダは、穏やかに頷いた。
「首領は、優しい方です」
その言い方が。
優しいのに。
重い。
重さの種類が違う。
私は、昨日感じた背筋のぞくりを思い出した。
幹部は、首領を神さまみたいに扱っている。
でも。
本人は、その自覚がない。
——尊い。
私は胸の中で、また勝手に決めた。
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次に現れたのは、フードの女性。
レイナ。
レイナは作業場に入るなり、私ではなく周囲の末端へ先に言った。
「いいですか。首領の凄さは、“当てる”ことじゃない」
末端が、固まる。
「首領は、争いを起こさずに結果だけを残します。しかも、被害者が増えない形で」
淡々。
淡々なのに、圧がある。
「順番を守れない者は、首領の名前を口にしないでください」
……怖い。
そのあとで、机の上の書類を一瞥して、すぐに言う。
「水が一つ足りません」
「えっ」
見れば、本当に足りない。
なぜ分かる。
レイナは淡々と続けた。
「首領の順番を守るなら、水は先です」
首領の順番。
また。
私は慌てて水を運び直しながら、思わず聞いた。
「レイナさん……首領のこと、すごく……」
言葉が詰まる。
すごく、何。
好き?
尊敬?
怖い?
レイナは手を止めずに答えた。
「最適です」
それだけ。
それだけなのに。
胸が熱くなる。
最適。
それは、神託みたいな断言だ。
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夕方。
小さな少女——ルナが、無言で作業場を見回した。
誰も声を出せなくなる。
怖いからじゃない。
静かにしたくなる。
ルナは、棚の上の紙束を指先でちょん、と押した。
風もないのに、紙が一枚だけ揃う。
案内役が小声で言う。
「……首領の部屋に持っていくやつだ」
ルナは、首領のいないこの場で、珍しく短く言った。
「ユーリ、すごい」
それだけ。
なのに。
全員が頷くしかない、重さがあった。
ルナは私の手首の黒い糸を見て、短く頷いた。
「……仲間」
その一言で。
私は、泣きそうになった。
邪教では、仲間なんて言葉は飾りだった。
ここでは。
結び目一つで、現実になる。
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夜。
私は、寮のような部屋に戻って、机に向かった。
ノート。
白い紙。
私は、震える手で書く。
**首領の言葉**
そして、その下に。
《救う順番》
……これが、私の布教の武器だ。
明日も。
新しく救われた人に、これを渡す。
「丸をつけるだけ」
「水が先」
「守る順番がある」
そのたびに。
首領は、また一人救う。
首領は、知らないまま。
——だから私は。
首領を、もっと正しく崇拝したい。
そして。
この尊さを、仲間たちに伝えたい。
……変な話だ。
悪の組織なのに。
私は今日、布教して。
もっと救われた。




