閑話 とある信者の通過儀礼(イニシエーション)
その夜、私は初めて、まともに眠れた。
毛布があった。
水があった。
怖い人がいなかった。
それだけで、胸の中の何かがほどけていった。
——名前を聞かれたのは、もっと後だ。
今の私は、まだ“被害者”という札を首から下げられている。
その札が、嫌だった。
被害者。
私は、助けられた。
助けられたのに、また誰かの手で分類されている。
そんな風に思ってしまう自分が、最低だとも思った。
でも。
救ってくれた人たちは、分類をやめない。
ただ。
分類の仕方が、異常に丁寧だった。
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「……落ち着いた?」
声をかけてきたのは、見張り役らしい男だった。
派手な鎧もない。
脅す声でもない。
それなのに。
背中に“怖さ”がある。
怖さの種類が違う。
「は、はい」
私が頷くと、男は紙を一枚出した。
「これは確認」
確認。
私は、その言葉にだけで肩がすくむ。
邪教の中では「確認」は、殴られる合図だった。
けれど。
男は殴らない。
ただ、紙を指で示した。
「名前」
「年」
「帰りたい場所」
「帰る家がない場合は、ここに丸」
「……え」
私は、思わず紙を見た。
丸をつける欄。
丸をつけるだけ。
「話せないなら書くだけでいい」
男は淡々と言う。
「事情聴取は後。……首領の順番だ」
首領。
私は、その単語を初めて聞いた。
「しゅ、首領?」
男は少しだけ、胸を張った。
「うちのボス」
言い方は軽い。
でも目は真剣だ。
「ボスが決めた。救う順番がある」
救う順番。
私の中で、その言葉が引っかかった。
順番。
邪教にも順番はあった。
祈れ。
払え。
黙れ。
間違えたら罰。
——こっちの順番は、違う。
逃げたい人を逃がす。
逃げられない人を守る。
最後に顔役を抜く。
私は、その一文を、何度も読んだ。
「……本当に?」
口から漏れてしまう。
男は頷く。
「本当。だから今、お前はここにいる」
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翌日。
私は“通過儀礼”を受けることになった。
といっても。
血の杯も。
闇の祈りも。
焼けた鉄の印も。
ない。
代わりに。
紙があった。
紙。
紙。
紙。
そして。
妙に、良いお茶。
「……ここ、宗教じゃないの?」
思わず呟くと、案内役の男が首を傾げた。
「宗教? 違う」
否定が早い。
「悪の組織だ」
……え?
私は言葉を失った。
悪の組織。
それは、邪教より怖いはずの単語だ。
なのに。
この人たちは、毛布を渡す。
水を渡す。
丸をつけさせる。
「悪の組織なのに?」
聞くと、男は当然の顔をした。
「悪の組織だからだ」
意味が分からない。
でも、案内役は続けた。
「正しいことをするには、順番がいる」
順番。
またそれだ。
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通過儀礼の部屋は、館の奥だった。
扉の前に立った瞬間。
私は気づいた。
この家。
空気が、静かすぎる。
静かすぎて、耳が変になる。
案内役が、小声で言う。
「ここから先は、声を落とせ」
私は頷いた。
「首領の部屋は、首領の健康が最優先だ」
健康。
悪の組織が、健康。
もう一度言う。
悪の組織が、健康。
私は、笑いそうになって、慌てて口を押さえた。
「笑うな。……真面目な会議になる」
案内役が真顔で釘を刺す。
会議。
通過儀礼で会議。
私は、だんだん混乱してきた。
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扉が開いた。
中には長い机。
椅子がいくつか。
そして。
一番奥の席に、青白い顔の青年が座っていた。
年は、私とそう変わらない。
でも。
この場の空気は、完全に“その人のもの”だった。
——首領。
私は、喉が鳴るのを止められなかった。
その横。
銀髪の女性。
美しい。
美しいのに、怖い。
表情が穏やかなのに、怖い。
そして、フードの女性。
目が鋭い。
最後に、小さな少女。
無言。
無言なのに、部屋の温度がその子で変わる。
私は、反射で頭を下げた。
「……し、失礼します」
少年——首領が、少し困ったように笑った。
「そんなに固くならないで。……えっと、座っていいよ」
その一言で、肩の力が抜けそうになって。
怖くなった。
優しいのが。
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「通過儀礼って聞いた?」
首領が、軽い調子で言う。
私は頷く。
「はい」
すると、フードの女性——レイナが、紙を一枚出した。
紙。
やっぱり紙。
「手順です」
手順。
邪教の手順は、罰の手順だった。
ここの手順は。
“守る”手順だ。
レイナが淡々と読み上げる。
「第一。名前を言えるなら言う」
「第二。帰れる場所があるなら帰す」
「第三。帰る場所がないなら、仮の居場所を用意する」
私は、思わず顔を上げた。
「……帰してくれるんですか」
首領が頷く。
「帰れるなら帰っていいよ」
軽い。
軽いのに。
それは、邪教では絶対に言われなかった言葉だ。
銀髪の女性——マリーダが、静かに言う。
「首領の言葉です」
その一言が。
私の胸に、落ちた。
首領の言葉。
それは。
“ここでは絶対”という意味に聞こえた。
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「じゃあ、君はどうしたい?」
首領が聞く。
私は、喉の奥が痛んだ。
帰る場所。
ある。
でも。
帰ったら。
また“あそこ”に引きずり戻される。
「……怖いです」
絞り出す。
首領は、少しだけ真剣な顔になった。
「そっか」
それだけ。
責めない。
急かさない。
そして、続けた。
「じゃあ、守る順番を守ろう」
順番。
またその言葉。
レイナが補足する。
「首領が決めた順番です」
私は、心臓が跳ねた。
——その瞬間。
私の中で。
“首領”という単語が、ただの役職じゃなくなった。
助けてくれた人。
順番を決めた人。
私の命を、紙の上で守った人。
それが、首領。
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通過儀礼の最後は、意外なものだった。
紙に、署名。
それだけ。
《窓辺の闇 構成員(仮)申請書》
(仮)。
仮。
悪の組織が、仮。
私はもう、笑いをこらえられなかった。
「……すみません」
首領が笑う。
「いいよ。僕も、ちょっと変だと思う」
……首領が認めた。
その瞬間。
部屋の温度が一度だけ下がった。
銀髪の女性が、微笑んだまま言う。
「首領は、変ではありません」
フードの女性も、即答した。
「変ではありません。最適です」
小さな少女が、短く頷いた。
「……うん」
三人の目が、同じ熱を持つ。
私は、背筋がぞくりとした。
——首領は、自覚がない。
でも。
この人たちは。
首領を、神さまみたいに扱っている。
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署名が終わると、レイナが言った。
「筋が良い」
それだけ。
褒め言葉のはずなのに、なぜか怖い。
マリーダが続ける。
「よく耐えました」
“耐えた”。
私は思い出す。
邪教で耐えた日々。
でも。
今日の“耐えた”は。
紙に丸をつけること。
帰りたいと言えること。
笑いをこらえること。
そういう耐え方だった。
首領が、軽い調子で言う。
「これで終わり。……あ、怖かった?」
私は首を振った。
「……怖かったです。でも」
言葉を探して、続ける。
「助かりました」
首領は、ほっとした顔で笑った。
「よかった。じゃあ、お茶飲んで帰ろう」
悪の組織の通過儀礼が、お茶で終わった。
私は、なんだそれ、と思いながら。
胸の奥が、少しだけ温かくなっているのを感じた。
——そして。
帰り際に、レイナが私を呼び止めた。
「一つだけ、最後の確認です」
また確認。
でも今度は、怖くなかった。
レイナは紙を一枚差し出す。
《窓辺の闇 加入届》
(仮)じゃない。
“加入”と、はっきり書いてある。
「……入って、いいんですか」
私が聞くと、レイナは淡々と頷いた。
「あなたが望むなら」
マリーダが、穏やかな顔のまま言う。
「首領が“守る”と仰いました」
ルナが小さく頷き、私の手首に細い紐を結んだ。
黒い糸。
小さな金具。
——印。
案内役の男が、真面目に宣言する。
「これで、お前は窓辺の闇の一員だ」
その言葉で。
私はようやく理解した。
私は、救われただけじゃない。
“入った”。
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その夜。
私は新しい寝床で、手首の黒い糸を何度も触った。
《救う順番》
・逃げたい人を逃がす
・逃げられない人を守る
・最後に顔役を抜く
私はそれを、祈りみたいに何度も読んだ。
邪教の祈りは、私を縛った。
この言葉は、私をほどく。
——だから。
私は決めた。
この組織で生きる。
首領の言葉を忘れない。
忘れないために、ノートを作る。
明日から私は、“構成員”として働く。
まずは、救われた人の世話係。
毛布を配る。
水を運ぶ。
丸をつける紙を用意する。
——救う順番の、一番最初の仕事だ。
……変な話だ。
悪の組織なのに。
私は、ここに入って、救われた。




