表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/17

閑話 とある信者の通過儀礼(イニシエーション)

その夜、私は初めて、まともに眠れた。


毛布があった。


水があった。


怖い人がいなかった。


それだけで、胸の中の何かがほどけていった。


——名前を聞かれたのは、もっと後だ。


今の私は、まだ“被害者”という札を首から下げられている。


その札が、嫌だった。


被害者。


私は、助けられた。


助けられたのに、また誰かの手で分類されている。


そんな風に思ってしまう自分が、最低だとも思った。


でも。


救ってくれた人たちは、分類をやめない。


ただ。


分類の仕方が、異常に丁寧だった。


---


「……落ち着いた?」


声をかけてきたのは、見張り役らしい男だった。


派手な鎧もない。


脅す声でもない。


それなのに。


背中に“怖さ”がある。


怖さの種類が違う。


「は、はい」


私が頷くと、男は紙を一枚出した。


「これは確認」


確認。


私は、その言葉にだけで肩がすくむ。


邪教の中では「確認」は、殴られる合図だった。


けれど。


男は殴らない。


ただ、紙を指で示した。


「名前」


「年」


「帰りたい場所」


「帰る家がない場合は、ここに丸」


「……え」


私は、思わず紙を見た。


丸をつける欄。


丸をつけるだけ。


「話せないなら書くだけでいい」


男は淡々と言う。


「事情聴取は後。……首領の順番だ」


首領。


私は、その単語を初めて聞いた。


「しゅ、首領?」


男は少しだけ、胸を張った。


「うちのボス」


言い方は軽い。


でも目は真剣だ。


「ボスが決めた。救う順番がある」


救う順番。


私の中で、その言葉が引っかかった。


順番。


邪教にも順番はあった。


祈れ。


払え。


黙れ。


間違えたら罰。


——こっちの順番は、違う。


逃げたい人を逃がす。


逃げられない人を守る。


最後に顔役を抜く。


私は、その一文を、何度も読んだ。


「……本当に?」


口から漏れてしまう。


男は頷く。


「本当。だから今、お前はここにいる」


---


翌日。


私は“通過儀礼”を受けることになった。


といっても。


血の杯も。


闇の祈りも。


焼けた鉄の印も。


ない。


代わりに。


紙があった。


紙。


紙。


紙。


そして。


妙に、良いお茶。


「……ここ、宗教じゃないの?」


思わず呟くと、案内役の男が首を傾げた。


「宗教? 違う」


否定が早い。


「悪の組織だ」


……え?


私は言葉を失った。


悪の組織。


それは、邪教より怖いはずの単語だ。


なのに。


この人たちは、毛布を渡す。


水を渡す。


丸をつけさせる。


「悪の組織なのに?」


聞くと、男は当然の顔をした。


「悪の組織だからだ」


意味が分からない。


でも、案内役は続けた。


「正しいことをするには、順番がいる」


順番。


またそれだ。


---


通過儀礼の部屋は、館の奥だった。


扉の前に立った瞬間。


私は気づいた。


この家。


空気が、静かすぎる。


静かすぎて、耳が変になる。


案内役が、小声で言う。


「ここから先は、声を落とせ」


私は頷いた。


「首領の部屋は、首領の健康が最優先だ」


健康。


悪の組織が、健康。


もう一度言う。


悪の組織が、健康。


私は、笑いそうになって、慌てて口を押さえた。


「笑うな。……真面目な会議になる」


案内役が真顔で釘を刺す。


会議。


通過儀礼で会議。


私は、だんだん混乱してきた。


---


扉が開いた。


中には長い机。


椅子がいくつか。


そして。


一番奥の席に、青白い顔の青年が座っていた。


年は、私とそう変わらない。


でも。


この場の空気は、完全に“その人のもの”だった。


——首領。


私は、喉が鳴るのを止められなかった。


その横。


銀髪の女性。


美しい。


美しいのに、怖い。


表情が穏やかなのに、怖い。


そして、フードの女性。


目が鋭い。


最後に、小さな少女。


無言。


無言なのに、部屋の温度がその子で変わる。


私は、反射で頭を下げた。


「……し、失礼します」


少年——首領が、少し困ったように笑った。


「そんなに固くならないで。……えっと、座っていいよ」


その一言で、肩の力が抜けそうになって。


怖くなった。


優しいのが。


---


「通過儀礼って聞いた?」


首領が、軽い調子で言う。


私は頷く。


「はい」


すると、フードの女性——レイナが、紙を一枚出した。


紙。


やっぱり紙。


「手順です」


手順。


邪教の手順は、罰の手順だった。


ここの手順は。


“守る”手順だ。


レイナが淡々と読み上げる。


「第一。名前を言えるなら言う」


「第二。帰れる場所があるなら帰す」


「第三。帰る場所がないなら、仮の居場所を用意する」


私は、思わず顔を上げた。


「……帰してくれるんですか」


首領が頷く。


「帰れるなら帰っていいよ」


軽い。


軽いのに。


それは、邪教では絶対に言われなかった言葉だ。


銀髪の女性——マリーダが、静かに言う。


「首領の言葉です」


その一言が。


私の胸に、落ちた。


首領の言葉。


それは。


“ここでは絶対”という意味に聞こえた。


---


「じゃあ、君はどうしたい?」


首領が聞く。


私は、喉の奥が痛んだ。


帰る場所。


ある。


でも。


帰ったら。


また“あそこ”に引きずり戻される。


「……怖いです」


絞り出す。


首領は、少しだけ真剣な顔になった。


「そっか」


それだけ。


責めない。


急かさない。


そして、続けた。


「じゃあ、守る順番を守ろう」


順番。


またその言葉。


レイナが補足する。


「首領が決めた順番です」


私は、心臓が跳ねた。


——その瞬間。


私の中で。


“首領”という単語が、ただの役職じゃなくなった。


助けてくれた人。


順番を決めた人。


私の命を、紙の上で守った人。


それが、首領。


---


通過儀礼の最後は、意外なものだった。


紙に、署名。


それだけ。


《窓辺の闇 構成員(仮)申請書》


(仮)。


仮。


悪の組織が、仮。


私はもう、笑いをこらえられなかった。


「……すみません」


首領が笑う。


「いいよ。僕も、ちょっと変だと思う」


……首領が認めた。


その瞬間。


部屋の温度が一度だけ下がった。


銀髪の女性が、微笑んだまま言う。


「首領は、変ではありません」


フードの女性も、即答した。


「変ではありません。最適です」


小さな少女が、短く頷いた。


「……うん」


三人の目が、同じ熱を持つ。


私は、背筋がぞくりとした。


——首領は、自覚がない。


でも。


この人たちは。


首領を、神さまみたいに扱っている。


---


署名が終わると、レイナが言った。


「筋が良い」


それだけ。


褒め言葉のはずなのに、なぜか怖い。


マリーダが続ける。


「よく耐えました」


“耐えた”。


私は思い出す。


邪教で耐えた日々。


でも。


今日の“耐えた”は。


紙に丸をつけること。


帰りたいと言えること。


笑いをこらえること。


そういう耐え方だった。


首領が、軽い調子で言う。


「これで終わり。……あ、怖かった?」


私は首を振った。


「……怖かったです。でも」


言葉を探して、続ける。


「助かりました」


首領は、ほっとした顔で笑った。


「よかった。じゃあ、お茶飲んで帰ろう」


悪の組織の通過儀礼が、お茶で終わった。


私は、なんだそれ、と思いながら。


胸の奥が、少しだけ温かくなっているのを感じた。


——そして。


帰り際に、レイナが私を呼び止めた。


「一つだけ、最後の確認です」


また確認。


でも今度は、怖くなかった。


レイナは紙を一枚差し出す。


《窓辺の闇 加入届》


(仮)じゃない。


“加入”と、はっきり書いてある。


「……入って、いいんですか」


私が聞くと、レイナは淡々と頷いた。


「あなたが望むなら」


マリーダが、穏やかな顔のまま言う。


「首領が“守る”と仰いました」


ルナが小さく頷き、私の手首に細い紐を結んだ。


黒い糸。


小さな金具。


——印。


案内役の男が、真面目に宣言する。


「これで、お前は窓辺の闇の一員だ」


その言葉で。


私はようやく理解した。


私は、救われただけじゃない。


“入った”。


---


その夜。


私は新しい寝床で、手首の黒い糸を何度も触った。


《救う順番》


・逃げたい人を逃がす


・逃げられない人を守る


・最後に顔役を抜く


私はそれを、祈りみたいに何度も読んだ。


邪教の祈りは、私を縛った。


この言葉は、私をほどく。


——だから。


私は決めた。


この組織で生きる。


首領の言葉を忘れない。


忘れないために、ノートを作る。


明日から私は、“構成員”として働く。


まずは、救われた人の世話係。


毛布を配る。


水を運ぶ。


丸をつける紙を用意する。


——救う順番の、一番最初の仕事だ。


……変な話だ。


悪の組織なのに。


私は、ここに入って、救われた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ