悪の組織に、正しく救う順番がある件
今日もまた、胃が痛い——という感覚が来た。
体が壊れたサインじゃない。
壊れていないのに、壊れそうなほど耐えている、という証拠だ。
エリシアは、あえて同じ理屈をもう一度だけ胸の内で転がしてから、机の上の紙へ視線を戻した。
前回の封筒。
整いすぎた束。
確認しないといけない、という“仕事で殴る”やり方。
——効いた。
だから余計に、腹ではなく胃が痛む。
「……次だ」
部下が、喉を鳴らす。
「監察官。今朝も、また“人を集めている集団”の噂が……」
「邪教」
エリシアは短く言い、紙を一枚弾いた。
被害は、まだ小さい。
だが増え方が、最悪の形をしている。
「まだ小さいが、放っておくと大きくなる」
部下が頷く。
「ですが、上が……」
「上は、上で止まる」
言い切って、エリシアは椅子から立つ。
「だから、現場の順番を守る」
「守って、増やして、潰す」
自分で言いながら、胃がきしむ。
——本来なら。
本来なら、国家警察が最初に手を伸ばすべき火種だ。
けれど。
今の王都では。
“正しい仕事”が、いつも先に止められる。
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同じ頃。
窓辺の館では、紙が増えていた。
封蝋付きの報告。
整理された帳簿。
そして。
なぜか僕宛ての“提出用フォーマット”。
「……これ、誰に提出する前提なんだろ」
ユーリは笑いながら、紙を指で揃えた。
真面目なのは、紙だ。
僕じゃない。
扉が叩かれる。
控えめに。
控えめすぎて、急ぎだ。
「どうぞ」
入ってきたのはレイナだった。
フードを外し、いつも通り無駄のない顔で言う。
「首領。小さな問題が、もうすぐ大きな事件になります」
「火種?」
「人を集めている集団です。表向きは祈り。裏は徴収と拘束」
「被害はまだ小さい。しかし、放置すると一気に増えます」
ユーリは、少しだけ眉を寄せた。
新聞の事件欄で見たことがある。
“祈り”は、時々、刃になる。
「……じゃあ、悪の組織として。どうしようか」
言った瞬間。
部屋の空気が、いつもの“会議の顔”になる。
マリーダが、静かに頷く。
「御意」
ルナが、無言で近づく。
毛布を直す。
それだけで、何かの防御が一段増えた気配がする。
レイナは紙を一枚出した。
「場所。資金源。顔役。集めている名簿」
「うわ、全部ある……」
「集めました」
淡々。
でも、目の奥に熱がある。
ユーリは、椅子の背に体重を預けた。
「じゃあ、順番だね」
三人が微動だにしない。
ユーリは、あくまで“設定”として、手順を口にする。
「入口を塞ぐ」
「資金を止める」
「顔役を静かに抜く」
マリーダが、わずかに目を細めた。
「……静かに、とは」
「殺さないで」
即答。
マリーダの目が一瞬だけ揺れて、すぐ戻る。
「……御意」
完璧に止まる。
ユーリは、ほっとして笑った。
「それとね。救う順番がある」
レイナが問う。
「順番」
「まず、逃げたい人を逃がす」
「次に、逃げられない人を守る」
「最後に、悪い大人だけを抜く」
言いながら、ユーリは自分の胸の奥に、少しだけ痛みを覚えた。
——昔。
自分も“逃げられない側”だった。
だから、順番を間違えるのが怖い。
「救う、が先」
その一言だけは、遊びじゃなかった。
レイナが、静かに頷く。
「首領の最適解です」
「え?」
「順番を守れば、被害者が増えません。恨みが残りません。余計な戦いも起きません」
言い方が、冷静で。
冷静すぎて、逆に怖い。
ユーリは照れて、軽く笑って誤魔化した。
「……まあ、悪の組織だし」
「はい。悪の組織です」
レイナは、当然のように続けた。
「だからこそ。救う手順を、こちらが先に作って配ります」
「配る?」
「現場へ」
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翌日から。
王都の裏側で、妙に“きっちりした救出作業”が始まった。
邪教の集会場。
閉じられた扉。
逃げ道。
出入口。
そこに。
誰にも気づかれないように、先に“逃げ道”が作られる。
ルナの結界。
物音を消し、見張りの視線をそらし、足跡を残さない。
それは戦いのためじゃない。
逃がすため。
人が、静かに連れ出される。
見張りからは、ただ“いなくなった”ように見える。
捕まっていた人にとっては、やっと外に出られた、ということだ。
そして。
連れ出した先には。
毛布。
水。
名簿。
簡単な問診。
「……更生プログラム」
その紙を見た末端が、真顔で言う。
「再発防止の手順書も必要です。被害者の保護手順。連絡手順。食事の基準」
「基準……」
誰かが言う。
「首領が“救う順番”を定義した」
「順番を守れば、誰も壊れない」
「だから、現場で守る」
守る。
その言葉が、やけに現実味を帯びていた。
末端が、真面目に書き足していく。
・保護した人の呼び方(“被害者”ではなく“保護対象”)
・寝床の確保
・水と食事
・事情聴取は後(まず休ませる)
・身分証がない場合の暫定手続き
どこかの役所の手順書みたいだ。
でも、どこにも“役所”の印はない。
ただ。
紙の端に、窓辺の闇の印だけが押されている。
誰が押したのか、ユーリは知らない。
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顔役を抜く役は、マリーダだった。
静かに。
首領が言った。
殺すな。
だから。
峰打ち。
顔役は、音もなく崩れる。
護衛が剣を抜く前に。
護衛の腕が、ねじれる。
血は出ない。
だが。
抵抗する暇だけが、きれいに奪われる。
マリーダは、息一つ乱さない。
それが一番怖い。
そして。
仕事が終わった後。
彼女は、いつも通り清潔なまま館へ戻る。
ユーリの前では。
穏やかな友達の顔。
「首領。終わりました」
「お疲れさま」
それだけ。
その“それだけ”の裏で、王都の裏側の揉め事が、静かに片づいていく。
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数日後。
国家警察の詰所。
エリシアの机に、また紙が置かれていた。
今度は封筒じゃない。
紙束。
厚い。
そして。
異様に、整っている。
「……また、か」
部下が言う。
「監察官。これ、今回も……」
エリシアは、束の最初の頁をめくった。
“救出記録”
“保護手順”
“更生プログラム(仮)”
“再発防止の運用案”
——運用。
善意。
やりすぎなくらい丁寧な善意が、書類の形になっている。
エリシアは、胃の奥を押さえたい衝動を飲み込んで言った。
「……救った、のはいい」
部下が唾を飲む。
「でもこれは、救った後の仕事まで置いていってる」
紙の束は、重い。
それなのに、汚れ一つない。
現場で書いた紙じゃない。
「誰かが、順番を作った」
エリシアはページをめくる。
そこには、太い字で一行。
《救う順番》
・逃げたい人を逃がす
・逃げられない人を守る
・最後に顔役を抜く
部下が、小さく息を吐く。
「……正しい」
「正しい」
エリシアは同じ言葉を繰り返した。
正しい。
正しいから。
怒りより先に、胃が痛む。
「監察官。これ、助かりました。……でも」
「でも、仕事が増えた」
淡々。
それが一番ひどい。
「これだけ整っていれば、確認しないといけない」
「確認すれば、手続きが走る」
「手続きが走れば、“上”も知らん顔ができない」
部下が、顔をしかめる。
「……仕事で殴ってくる」
エリシアは、頷いた。
「真面目な人間を、仕事で殴るやり方だ」
そして。
もう一枚。
新聞の切り抜きが挟まっていた。
小さな記事。
『結界事故。敵味方識別に不具合。過去の点検報告』
結界。
宮殿。
今度は、別の種類の不安が胸を刺した。
「……噂は、噂で終わらない」
エリシアは立ち上がった。
「現場へ」
部下が頷く。
「はい」
胃は痛い。
それでも。
痛みがあるうちは、まだ前に進める。
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その頃。
窓辺の館。
ユーリは、紙の山を見て、笑っていた。
「……みんな、真面目だなあ」
真面目なのは、紙だ。
僕じゃない。
でも。
“救う順番”だけは。
少しだけ。
自分の言葉だった気がした。




