1話
夕日に晒された黄金の野は輝きに満ちている。風に吹かれて黄金の植物はサラサラと音を立てて美しく揺れる様は、まるで御伽話か夢のような美しい光景だった。
恐らくこの光景を一度でも見てしまえば、忘れることなんて出来ない。そう思う程に絶景だった。
そんな美しく輝きに満ちた黄金の麦畑で子供の大きな泣き声が響く。
「おかぁさん⋯っ、おかぁさんどこぉ⋯っ」
子供が悲痛の声で叫んでいる。その小さな体で黄金に輝く麦畑の中を掻き分けながら進んでいるが、まるで子供の行く手を阻むかのように強い風が吹いて麦が大きく揺れた。
大きく実る麦の高さは子供の身長を優に超えている。きっと子供に見えているのは麦の茎だけだろう。麦のせいで子供は帰り道も目的地だって分からない。
前が見えない。行き先が分からない。その状況は大の大人でも怖くなるだろう。だが泣きじゃくる子供は麦畑を一切恐れていなかった。
むしろ麦畑の中は安心安全だと言わんばかりに嬉々として麦畑の中を進んでいく。
子供は何かを探すように麦畑を掻き分ける。麦ばかりで周りなんて見えないというのに、子供は周りを見渡したと思ったらまたハッキリとした足取りで麦畑の中を歩き出した。
だが次第に子供の歩く早さが遅くなっていき、目に溜めていた涙がぽろり、と一粒落ちる。
「おかぁさん⋯っ、むぎはっ、ちゅむぎはここだよぉ⋯っ」
溢れてしまった涙に我慢の限界がきてしまったのか、子供はその場にしゃがみ込んでわんわんと泣き出してしまった。
だが子供は分かっていた。どんなに泣いても子供が待ち望んでいる存在が来る事はない事を。
だが子供は泣くしかできなかった。そうする事でしか、その存在の呼び方を知らなかったから。
ふわりと風が子供を慰めるように吹き、子供の頬を掠めた。
「むぎちゃ〜ん?朝よ〜、起きて〜」
遠くから優しく穏やかな声が聞こえる。その声が誰のものかを認識する前に、少女は目が覚ました。
「⋯んぅ⋯」
小さな声をあげて目を擦りながらベットから起き上がる。
ベットの側に誰かいるのか認識する前に、その存在は少女に抱き付いてきた。
「むっぎちゃーんっ。おはよう〜いい朝よっ」
少女──〝和極 紬希〟はその存在──母親の〝ラブラ・和極〟を抱き締め返した。
紬希はほぼ意識がない。だがそれでも長年繰り返してきた習慣と慣れが、意識の無い紬希の体を自然に動かす。
ラブラに頭を撫でくり回された紬希は眠気眼のまま、ラブラの撫でで紬希の頭が豪快に揺らされる。
紬希は自分の頭をラブラにぐわんぐわんと揺らされながら、大人しくその撫でを受け入れていた。
もう少し詳しく言うなら紬希は眠気に勝てず未だに残る眠気に襲われながら、目を擦りながら少しだけ開いた目でラブラを見る。
ぽや⋯と眠そうな顔をして今にも寝てしまいそうな紬希に、ラブラは眉を下げて愛おしそうな顔でクスクスと笑った。
紬希が眠気から覚醒し始めているのにラブラは気付いたのかラブラは紬希の額にちゅ、と可愛いリップ音を立てる。
そして紬希の額にキスを落としてラブラは満足したのか、満面な笑みのまま紬希の部屋から出て行った。
とんとんと紬希の部屋の扉の外から聞こえるラブラの階段を降りて行く足音を聞きながら、紬希は眠気眼でラブラを見送った。
眠気のせいで暫く頭が働かず、紬希はベットは壁にくっつけて置かれているため壁に背中を預けながらベットに座りボーとしていた。
壁に背を預け、空いているサイドフレーム側に足を下ろす。
だが体を起こしていたおかげか眠気が少し引いて行くのを感じて、のそりと座っていたベットから立ち上がる。
ベットから真正面が大きな窓。窓から陽の光が眩しいほどに差し込んでいるため二度寝は出来なさそうだ。
ベットから左が部屋の角に合わせて置かれた長テーブルと椅子。長テーブルと椅子から左に本棚が二つ設置してある。
そしてその壁際の本棚の前に長テーブルへと向けて設置された一人用ソファー。
その一人用ソファーに座り長テーブルの方向を向いたまま少し右の二歩程横に部屋の出入り口の扉。
ベットのフッドボードの方のすぐ側には、小さな絨毯が引かれた小さな空間。その小さな空間にミニテーブルが置いてあり、その小さな空間からすぐ横が部屋の出入り口の扉だ。
そしてベットから右──ベットボードの方の側面壁に沿うように縦に設置されたタンス。
要するにベットに乗ってベットボードの方を向いた時、真っ直ぐに向いた正面ではなく、右の側面に合わせてタンスが設置されているというわけだ。
そのタンスの向こう側にタンスと同じ向きでドレッサーが置かれている。
そして窓が嵌められている壁に沿うように大きな座卓が置かれている。座卓の右側の空いているスペースに大きな本棚が設置されていて、本がぎっしりと詰め込まれていた。
簡単に言うなら、ベットのサイドフレームに背を預けて正面に窓。
右斜めに座卓とその横に本棚。後ろ右斜めにタンスとその奥にドレッサー。
左斜めに長テーブルと椅子。後ろ左斜めに二つの本棚と一人用ソファー。そしてほぼ後ろといってもいいぐらいの位置の後ろ左斜めに、小さな空間とミニテーブルに部屋の扉。
見慣れた部屋。自分の安心出来る部屋。紬希はいつもと変わらない部屋に少しの安堵を残し、タンスへと進む。
タンスに着いた紬希は浴衣と言われる白の寝巻きを脱ぎ、いつもの普段着に着替えた。
白色で長袖のオープンショルダーハイネック。赤色のキュロットに、黒のガーターベルトとニーハイソックス。
そして腰まである黒髪を頭の真ん中辺りでお団子に纏め、月と藤の花が飾られているとても美しい簪で固定して纏める。
支度が終えれば紬希も眠気は覚めており、紬希はしっかりと目を開けて鏡を見た。
黒髪に黒目。髪と目が同色なこの色味はステラ国ではたいぶ珍しい。
髪や瞳のどちらかが黒なのは良くある事だが、髪と瞳が両方黒なのはあまりおらず紬希も見た事は無い。
紬希の色彩は和国と呼ばれる島国出身の父からの遺伝らしい。因みに父も黒髪黒目だったという。
和国は人口約三十億人の極東に浮かぶ島国。国民全員が黒髪から黒に近い茶髪、それから明るい茶髪が殆ど。明るい髪色の髪を持つ者は少ないが全くいないわけでは無いらしい。
和国には〈魔法を使う者〉とはまた違う神秘的な存在がいる。その為和国の者達は魔術を使う者をいるにはいるのだが、大体が和国で生み出された不思議な術や技を使う。
基本国民は穏やかで優しく争いを嫌う気質の者が多い。
だが自らや大切な者を害する者や敵には一切の容赦はせず、狂戦士になり襲いかかる。本当に両極端な二面生を持つ国なのだ、和国は。
その為どの国無闇矢鱈に手を出さない。無闇矢鱈に手を出さなければ穏やかで付き合いやすい国でもあるからだ。
その国の血が混じる紬希も和国の気質を少し受け継いでいるのか、争い事が苦手である。
争いが起きそうな気配を感じればすぐさま争いにならないようにするし、争いが起きてしまっても止めようと全力を尽くす。だがどうやっても止まらないと分かったらすぐさまその場から逃げてしまう。
その気質のせいで、何度大変な事に巻き込まれたか⋯。あまりにも多すぎて途中から紬希は数えていない。
性格だって引っ込み思案で人見知り、そして恥ずかしがり屋という、和国の国民の性格に多い和国民に似た性格をしている。
紬希のその気質と性格、そして島国の国民に多い黒髪黒目の色彩で紬希もよく和国出身だと間違えられる。
因みに父は紬希が自我が芽生える前に亡くなった為、紬希は父の事をあまりよく覚えていない。
だが何となく紬希と同じ色彩だった事は覚えていた。
紬希が自分の髪を纏めるこの月と藤が飾られている一本の簪も父がくれたもので、父について覚えている数少ない記憶の一つだ。
その簪には生前の父が紬希の為、紬希を守る呪いをかけてくれているという。その為紬希は御守りとして常に身につけていた。
は自我が芽生える前に父は亡くなってしまった為紬希は覚えていないが。
「むぎちゃ〜ん?」
「は、はーいっ」
ラブラの声に紬希はハッと我に返る。思い出に沈み込みすぎてしまった。
紬希は慌ててラブラに返事を返す。
タンスの上に置いてあった黒色の革と柔らかい頑丈な生地で作られている銀の美しい刺繍がされた肩掛け鞄を、紬希は肩に斜めに掛ける。
部屋を出ると階段への細い通路があり、その先を進むと階段がある。紬希はそのまま通路を進み、丸く曲線を描く一階への階段を降りて行く。
一階の間取りは玄関から見て、すぐ右にお茶会用の小さいテーブルと椅子。その奥に壁に沿ったL字型の大きく広いキッチン。
その奥が二階へと階段で、階段の下に小さな収納。更に奥には調合や何か作り物をする時の十七畳の作業部屋。その部屋の左隣りがラブラの部屋だ。
そして玄関から左は大きなテーブルが置いてある。
一階に降りるとリビングでは丁度ラブラが作り終わった朝ごはんの料理をキッチンからテーブルに置いている所だった。
「むぎちゃん、朝ごはん出来てるわよ〜」
腰まである桃色の髪を揺らして、その蜂蜜のように甘そうな瞳で紬希を見た。
ルンルン、と音符マークを飛ばしそうなぐらいご機嫌なラブラ。嬉しそうにくるりと回ったラブラのその髪から柔らかく太陽のような、でもどこか甘い匂いがふわりと漂う。
四十歳だというのにラブラの美貌は未だ衰えない。まだ二十代だと言われても通じてしまう程ラブラは若々しかった。
だがその若々しい見た目に反してその瞳は甘く柔らかい母性に満ちた優しい光を湛えており、その瞳で見つめられればきっとどんな人でも言う事を聞いてしまいたくなるだろう。
それぐらいラブラのその目には、抗う事の出来ない程の引力があった。
相変わらずお母さんは凄いなぁ、と紬希は思いながらテーブルの席に着く。
席に着いてテーブルの上に並んでいた料理を見た瞬間、紬希は顔を綻ばせて嬉しそうに笑った。
豚肉、こんにゃく、大根、ごぼうの豚汁。キャベツともやしの野菜たっぷりの塩焼きそば。
キャベツと豚肉の回鍋肉に、チョコの甘さとタルトのバターの濃厚さが効いた、紬希の大好物の生チョコタルト。
どれも紬希が好きな食べ物だった。紬希が嬉しそうにラブラを見ればラブラはパチン、と楽しそうにウィンクした。それに紬希も嬉しくなって笑う。
二人はテーブルの席に着いて朝ごはんを食べながら楽しそうに会話をする。
ファルシナ街の外れの花屋で集団の蜂が来てしまって大パニックになったとか、中央街の本屋で明かりの魔道具が故障して一時閉店したとか。
ラブラの話しは面白いものが多く、毎回紬希はラブラの話しに夢中になってしまう。
話しもだけど一番はラブラの話し方が上手なのだ。一度聞くと次の話しが気になってしまうのだから困ったものである。
朝ごはんを食べ終わり空いた食器をキッチンに持って行ってシンクに食器を入れる紬希に、ラブラを思い出したように紬希に聞いた。
「むぎちゃ〜ん、今日九時頃に、ミューちゃんが迎えに来るって言ってたかしら〜?」
「えぁ⋯う、うん、九時ぐらいに来るって言ってたよ」
急に聞かれた紬希が慌ててその事を思い出して狼狽えながらも肯定すれば、ラブラはチラリと時計を見た。
時計が示す今の時間は七時十五分。約束の時間まで全然余裕がある。時計を見たラブラは名案を思いついたと言わんばかりに紬希を見て笑う。
「お土産、作っちゃいましょうか!」
ニヤリ、と悪巧みを企んでいるような悪そうな表情を浮かべるラブラ。
ラブラの言葉を少ししてから飲み込めた紬希も、ラブラを真似してニヤリ、と悪そうな表情をする。
だが悪そうな表情をするのに慣れていないのか、悪そうな表情というにはだいぶ可愛く控えめな表情だった。
悪そうな顔というより、ドヤ顔をして笑っている顔と言った方が合っているかもしれない。
腕まくりして食器を洗っている紬希の隣にラブラは立ち、お土産用のスイーツを作るための道具を棚から出し始めた。
食器を洗い終えた紬希もキッチンに掛かっているハンドタオルで濡れた手を拭き、ラブラのスイーツ作りを手伝う。
ラブラはあらかじめ寝かしてあったタルト生地を伸ばし、型にバターを塗り薄力粉を振ってから型に乗せて形を整える。
タルトの生地の底に全体的にフォークで穴を開けて、冷蔵庫で一時間冷やす。
道具を片付けて、生地を一時間程寝かせている間は紬希はラブラと二人でお茶を飲んでゆっくりと休憩する。
一時間経った頃に生クリームとチョコを混ぜたチョコレート液を作り、冷やし終えたタルト生地を冷蔵庫から取り出して注ぐ。
そしてまた冷蔵庫で冷やす為に紬希がタルトを持って冷蔵庫に行こうとすると、ラブラがパチン、と親指と人差し指で使って音を鳴らした。
「うふふ。ちょっと、ズルしちゃいましょう〜」
するとタルトを持つ紬希の周りに水分が集まっていき、その水分がパキパキと割れるような甲高い音を立てて凍っていく。
それに紬希が驚く前にその凍った氷がタルト生地をキン、と甲高い音を立てて一気に冷やした。
「わぁ⋯」
急に冷えたタルト生地に紬希が驚いている間にラブラがもう一度パチン、と指を鳴らす。
その音に応えるように紬希の手からタルト生地がふわりと浮いて離れていった。
浮いているタルト生地の周りにパチパチと炎の中で何かが爆ぜる音を小さく鳴って、小さかった炎がゆっくりと大きくなっていく。
大きくなった炎は宙に浮いているタルト生地がゴウッ、と火力の高い炎で焼かれていくのを、紬希は目を輝かせて見ていた。
火力が強くて焦げように見えるがそれは外見だけだ。実際はもっとゆっくりと、だけど時間を早送りするように均一で正確にタルト生地だけを焼いている事だろう。現にチョコレート液が焼けている様子は無かった。
そもそも、ラブラは一度も魔術を使って失敗した事は無かった。少なくとも紬希が知る限りでは一度も無い。
きっとラブラは〈魔術を操る者〉の中でもかなりの実力者なのだ。紬希はラブラの魔術を見る度にいつもそう思う。
ラブラが人差し指を立てて円を描くように動かす度に、炎と形を変えてタルト生地を焼いていく。
形を変える度に炎からパチパチと爆ぜる音が鳴り、リビングに響く。タルトを焼く炎の周りで、炎から弾けた火が花火のように美しく煌めき続ける。
その光景を紬希は目を輝かせて見つめていた。




