8話 一歩、踏み出せないまま
―4月 木曜日―
朝の空は、まるで水で薄めた絵の具のように淡かった。
アトリエの窓辺には、ラナンキュラスの花束。
でも今日のリリカは、どこか心ここにあらずだった。
日曜日、偶然の再会。
眼鏡をかけていた彼。
少しだけ疲れたような横顔。
カップを持ち上げたときの、ぼんやりした目。
それが、ずっと残っていた。
紅茶を飲んでも、花を束ねても、心の奥に貼りついていた。
(……もう、ちゃんと“気になってる”ってこと、わたし、気づいてる)
でも、その気持ちに名前をつけるのがこわかった。
図書館では、今日は詩集の入れ替え作業。
春から初夏へ向かう棚替え。
季節は確実に進んでいるのに、自分の時間だけがうまく流れない気がした。
「話しかけたいなあ」
思わず、小さく声に出しそうになって、慌てて口元を押さえる。
(わたしが……?)
驚いたのは、誰より自分自身だった。
でも本当は、日曜日からずっと思っていた。
「話したい」「知りたい」「もう少しだけ、近づきたい」――
そんな気持ちが、小さな泡みたいに胸の奥で湧き続けていた。
カフェのドアを開けると、
今日もいつもの香り。
焙煎されたコーヒーの匂いと、木のぬくもり。
「こんにちは、リリカちゃん。今日も紅茶でいい?」
「はい。」
シノさんは何も聞かずに笑って、紅茶を淹れてくれた。
「はい。どうぞ。今日はバターのサブレがあるよ」
「じゃあ、それもください」
注文して、店内を見渡す。
いた。
彼は、今日も、そこにいた。
パソコンの画面を見つめながら、静かにコーヒーを飲んでいる。
(今日は眼鏡じゃないんだ)
いつも通り。
なのに、胸が少しだけ締めつけられる。
リリカは、彼の斜め後ろの席に座った。
今日も、何も起こらないかもしれない。
でも、それでも来てしまった。
紅茶の香りを吸い込むと、
日曜日の記憶が、また蘇ってくる。
(話しかけたい)
でも――
(何を話せばいいの?)
名前も知らない。
共通の何かもない。
ただ、何度か偶然が重なっただけ。
それだけで「話す理由」になるんだろうか?
彼がコーヒーを置いた瞬間、目が合いかけて―
リリカはとっさに目をそらした。
心臓が、うるさくなった。
今日は、何も起きなかった。
会話もなかった。
でも、ずっと“話しかけたかった”という事実だけが残った。
帰り道、風が少し強くなっていた。
空には雲が広がりはじめている。
(また、会えるかな)
そう思ったとき、リリカはようやく認めた。
自分の中にある気持ちを。
これは、もう――“恋”だ。
でもまだ、それを本人には伝えられない。
伝える勇気なんて、どこにもない。
だからリリカは、気づかないふりを続けるしかなかった。