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月霞市国の物語 ──この出会いも、感情も、最初から仕組まれていたのだとしたら──  作者: 神崎妃光子


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70話 大学3年〜卒業 壊れた心と逃げ場所


 あの冬の夜、メモを書いたあと。

 胸の奥にあった黒い塊は形を変えただけで、消えはしなかった。


 翌朝、目が覚めた瞬間に分かった。


(俺は、昨日より何も感じなくなっている)


 体のどこかが欠け落ちたみたいに、感情の反応が遅い。

 まるで濁った水の底に沈んでいるみたいな気分だった。




 大学三年の春。

 周りは就活の話題で盛り上がっていた。


「どこの企業にエントリーするの?」

「OB訪問行った?」


 そんな声が耳障りで、イヤホンを深く押し込んだ。


 俺は就職活動をしなかった。

 未来のことを考える気力が、まったくなかったからだ。


(生きていく予定なんか、今は考えられない)


 そんな投げやりな考えが頭を占めていた。


 代わりに時間を潰していたのは、浅い交際だった。


 誰かの部屋。

 誰かの期待。

 誰かの温度。


 触れられるたびに痛みが増えるのに、やめられなかった。


 愛されたいわけじゃない。

 ただ――


(ひとりになりたくなかった)


 それだけだった。


 幼稚な理由だと分かっていた。

 でも、それが本心だった。



 大学三年の夏に関係を持っていた子は、料理がうまくて、笑うとえくぼができて、

 「アオイくんは優しいから好き」とよく言った。


 その言葉を聞くたび、胸の奥が冷たくなる。


(俺が優しい? 冗談だろ)


 兄を追い詰めて、母を泣かせて、

 自分が壊れたのを言い訳にして、他人の好意に甘えているだけなのに。


 ある夜、彼女が言った。


「アオイくんは、私のどこを見てるの?」


 俺は答えられなかった。


 見ていなかったからだ。

 本気で誰かを見ることが怖かった。


 その子とは、それきりだった。


  

 何も守れないまま大人になってしまった気分だった。


 その頃から、逃げ場はプログラミングだけになった。


 画面の前では、感情を使わなくて済む。

 書いたとおりに動き、間違えたらエラーが出る。


(人間よりずっと正直だ)


 音が消えたみたいに静かな深夜の部屋で、

 モニターの光だけが俺を照らしていた。


 気づけば夜が明けている日も多かった。


 コードだけが、孤独の底へ落ちていくのを防いでくれていた。




 大学四年。

 友人たちは有名企業の内定をもらい、スーツで写真を撮り合っていた。


 俺はその輪に入らなかった。


(俺は会社に向いてない)


 それは逃げではなく、直感だった。


 誰かと上手くやれる自信がなかった。

 他人に期待されるのが怖かった。

 また失望させるのがもっと怖かった。


 だから、一人で仕事を受け始めた。

 プログラミングのアルバイトをいくつも掛け持ちし、

 時々知り合いの紹介で小さな案件を請けた。


 納期は守れる。

 黙って作ればいい。

 二度と人間関係で失敗しなくて済む。


 やがて、それが“普通の生活”になった。




 卒業の少し前、実家を出る事を決めた。


「……春から一人暮らしする」


『どうして? 一人になっちゃうわよ』


「一人でいいんだよ」


 本心だった。


 母を嫌いなわけではない。

 ただ、同じ家で暮らしていると、

 兄の影が濃すぎて、息ができなくなる。


 卒業式の日、母は泣きながら喜んでくれた。

 写真も撮った。

 けれど、その日を境に俺は実家を出た。


 誰もいない小さなアパート。

 何もない部屋。

 冷蔵庫の音だけがする生活。


 それが、当時の俺には“安全な世界”だった。


 一人暮らしを始めた最初の夜、

 机に向かって静かに思った。


(1人が落ち着く…)



 兄の死も、母の苦しみも、

 俺の未熟さと傲慢さが引き起こしたものだ。


 もう二度と、誰も巻き込まない。


(これ以上、人を傷つけたくない)


 その言葉を最後に、俺はベッドに倒れ込んだ。

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