6話 恋のはじまりは、気づかないふり
―4月の木曜日―
木曜日が、来てしまった。
アトリエで花を束ねながら、リリカはずっとそわそわしていた。
チューリップとレースフラワーの小さなアレンジ。
ピンクの花びらが少しだけ反って、春の光を受けていた。
(……また、いるのかな)
心の中で問いかけた瞬間、胸の奥が、そっと跳ねた。
(でも、別に……会いたいわけじゃ……ない)
そう言い聞かせるたび、どこか自分の声が遠くに感じられた。
否定するほど、それは輪郭を持って迫ってくる。
ノノとのごはんの帰り道、言われたことを思い出す。
「こわいって言えるのは、もう少しだけ前に進めそうな証拠だし」
……進んでしまってるんだと思う。
わたしは、気づかないふりをしてるだけで。
図書館では、今日は子ども向けの新刊の整理をした。
春休みも終わり、館内はまた静けさを取り戻している。
作業の合間、ふと手が止まった。
カートの上に置かれた絵本のタイトルに、やけに心をつかまれる。
『いちばん だいじ な ひと』
(……いちばん、なんて、誰の中にもいないほうが、楽なのに)
そう思って、微笑むふりをして、本を棚に戻した。
カフェの角を曲がったとき、風が髪をふわっとなでた。
それだけで、少し顔を上げたくなる。
木のドアを開けると、
紅茶の香りと、カップの重なる音が出迎えてくれた。
「こんにちは、何する?」
「レモンティー……あと、今日はスコーンってありますか?」
「あるよ。クリームもつける?」
「お願いします」
温かく、やわらかい。
この場所は、たぶんリリカの「避難所」みたいなものになっていた。
そして今日も――
あの席には、彼がいた。
ノートパソコンを開いて、タイピングの音だけが小さく響く。
画面にはコードのようなものが並び、
ときどきメモ帳を開いて、何か考え込みながら文字を打っている。
その横顔。
少し目を細める癖があるみたいだった。
キレイだな。
紅茶を口に運びながら、リリカは気づいていた。
この人がそこにいると、なんだか安心する。
言葉を交わさなくても、目が合わなくても、
同じ空気の中にいるだけで、深呼吸がうまくできる。
それって――
(……好き、なのかな)
一瞬だけそう思って、すぐに首を小さく振った。
違う。まだ。まだ早い。
名前も知らない。
何が好きかも知らない。
知らないことばかりなのに、
心だけが勝手に歩き出そうとしている。
でも――
彼が本を閉じて、カップに口をつけるその仕草を見たとき。
あの、さりげなく色っぽい指先と、喉のラインを目にしたとき。
リリカの心臓は、確かに跳ねた。
今日、会話はなかった。
でも、それでもよかった。
彼がそこにいるということ。
それだけで、リリカの木曜日は、ちょっとだけ特別だった。
紅茶の香りと、心のざわめき。
それはもう、風景の一部になりつつあった。