4話 紅茶の香りとすれ違う手
―木曜日―
春の風が、ようやくやさしくなってきた。
図書館へ向かう道の途中、
道端に咲いたタンポポに、小さな子どもがしゃがんでいた。
その隣で、母親らしき人が微笑んでいる。
(……春だなあ)
そう思って見上げた空は、透けるように青かった。
図書館は今日も静かだった。
春の詩集を並べ直していると、先週のことがふと蘇る。
ほんの一言。
たった二言のやりとり。
それだけなのに、今週の木曜日が来るのを、どこかで待っていた。
(また、いるのかな)
自分の中にそういう気持ちがあることを、
リリカはまだ、認めたくないでいた。
図書館を出た帰り道。
今日は紅茶の葉を切らしていたことを思い出し、
途中のお気に入りの紅茶専門店に立ち寄った。
袋に包んでもらった葉を手に、
やや早足でカフェへ向かう。
風が少し強くなってきた。
カフェの角を曲がったとき、
手に持っていた袋が手から滑り落ちた
「……あっ!」
しゃがみこんで、急いで拾おうとしたとき――
目の前に、すっと差し出された手があった。
「どうぞ」
驚いて顔を上げると、
そこには、やっぱり彼がいた。
「……あ……ありがとうございます……」
リリカの声は、かすれていた。
彼は、紅茶の袋をそっと返してくれた。
拾いあげたときに、少しだけ指先がふれた気がした。
でも、それはもう、どちらが意識するよりも自然な動作だった。
「紅茶、好きなんですね」
彼が、初めてリリカに“質問”をした。
「あ……はい。図書館のあと、いつも……ここで飲むのが、楽しみで……」
彼はうなずいて、少しだけ笑った。
笑顔というより、口元が緩んだくらいの、静かな表情だった。
「俺も、ここのコーヒーが好きで。週に何回か来てます」
(知ってる……)
とは言えなかった。
彼の声は、静かに地面に馴染むようだった。
風の音に溶けていくようで、それでもちゃんと届く、不思議な響き。
風がまた吹いて、ふたりの間の距離が一瞬だけ近づいた気がした。
「それ、アールグレイですか?」
「……はい」
「香り、いいですよね。落としたとき、ふわっと香って……なんか、春の匂いがしました」
その言葉を聞いた瞬間、
リリカの心に、あのメモの言葉がふっと浮かんだ。
ただ、紅茶の香りだった。
この人が、あの言葉の主だったら。
そんな想像が、ふと頭をよぎって、
すぐに打ち消した。
「じゃあ、先に入りますね。あ、扉……開けます」
彼は、先にカフェのドアを引いた。
リリカが入るのを、何も言わずに待っていてくれる。
その仕草にも、やっぱり、どこかあたたかくて――
少しだけ色っぽかった。
力んでいないのに、自然と人に気を配る動き。
どこか距離を保ちながらも、やさしく触れてくるような雰囲気。
そんな彼の“間”が、リリカの心をまた少し、揺らしていた。
この日、リリカは紅茶を飲みながら、
ほとんど本を開くことができなかった。
彼が席に着き、ノートパソコンを広げるのを、
まるで日常の光景のように見つめていた。
この時間、この空間が、
少しずつ、心の居場所になっていくようで――
リリカはまだ、それを“恋”とは呼べなかった。
けれどもう、どこかで知っていた。