3話 初めて交わした言葉
3月末の土曜日
アトリエの扉を開けた瞬間、ふわっと香りが押し寄せた。
スイートピー、ラナンキュラス、ミモザ、ユーカリ、アネモネ。
どれも今朝届いたばかりの春の花たち。
今日は、今月一番の大仕事。
森のチャペルで挙げられる小さな結婚式の装花。
花嫁が「月霞市国にしかない、やさしい空気に包まれた式にしたい」と言っていた。
「……それなら、わたしも、その空気ごと束ねるつもりでやらなきゃ」
声に出さなくても、気持ちはいつも花に伝わる気がする。
でも今日は、そんな余裕が持てるほど、簡単な日ではなかった。
午前中は、ブーケとブートニアの制作。
淡いピンクとホワイトのグラデーションに、グリーンを織り交ぜながら、
花嫁の笑顔が浮かぶような、ふんわりと優しいラウンド型にまとめていく。
「茎……もう少しだけ短くしておこうかな」
ハサミを握る手が少し震える。
この緊張感は、悪くない。むしろ、少し安心する。
花と向き合っているときは、自分が“自分”でいられる。
午後は、会場の装飾花の準備。
たっぷりのユーカリをベースに、
ラナンキュラスとミモザを風に乗せるように配置していく。
手を止める暇もない。
でも、ふとした瞬間に、思い出す。
木曜日のこと。
低い声。深煎りのコーヒーの香り。
めくるページの音。無言の気配。
(……あんなふうに、誰かを思い出すなんて)
自分の手が花を束ねているのに、
心のどこかは、全然違う場所を見ていた。
「だめだめ。今は……集中しなきゃ」
夕方、作業台は花くずとリボンと、薄い春色に染まっていた。
手は冷えているのに、体の中は熱い。
長い1日だった。
アトリエの片付けをしていると、ドアの向こうからノノの声がした。
「おーい、リリカ、まだ終わってない?」
「入っていいけど……散らかってるよ」
ノノは手に何かを持っていた。木の器だ。
「これ、新作。持ってきた」
「わ……ありがと、すっごくいい」
「お前、目の下ちょっと赤いぞ。ちゃんと寝てんの?」
「寝てるよ。たぶん……」
「嘘つけ」
リリカは言い返せなかった。
確かに、昨日も夢を見ていた。内容は覚えていない。
でも、目が覚めたとき、あの人の横顔だけが、やけに鮮明に浮かんでいた。
夜、アトリエの片隅で、一人花瓶を磨いていたとき。
リリカはふと思った。
どうして今、わたしは――
「恋をしてはいけない」って、
こんなに繰り返し、自分に言い聞かせているんだろう。
もう終わったはずの感情。
壊したくなくて、守りたくて、遠ざけたはずの場所。
でも、その場所に、足音が近づいてきている気がする。
木曜日
結婚式の装花を納品した土曜日から、日々は静かに流れていった。
指先の疲れはまだ少し残っていたけれど、アトリエの窓辺に飾った
ブーケの余りの花たちが、どこかそれを労ってくれている気がした。
(やっぱり、木曜日がいちばん落ち着く)
今日は、図書館も静かだった。
リリカは静かな書庫の奥で、古い文庫本の背表紙を拭いていた。
昼過ぎ、少し肌寒い風を感じながら坂道を下る。
手には紅茶の葉が入った小さな袋。
毎週買い足しているお気に入り。
ふと香った瞬間、頭のどこかであのメモの言葉がよみがえる。
もう何も感じたくなかった。
でも、目を閉じた先に浮かんだのは、
誰かの笑顔でも、未来でもなく、
ただ、紅茶の香りだった。
あれは、誰が書いたんだろう。
最近、ふと思う。
もしあれが――彼の言葉だったら、と。
そんなわけ、ないのに。
カフェの扉を開けると、ふわっとあたたかい香りが迎えてくれる。
いつもの鈴の音。
いつもの紅茶。
そして――
今日も、彼はいた。
窓際のテーブル、奥の壁にもたれるようにして腰掛け、
ノートパソコンを前に、静かにタイピングしている。
(……パソコン?)
今日は本を読んでいなかった。
代わりに、彼はまっすぐ画面を見つめ、手を動かしていた。
時折、眉間にしわを寄せながら、顎に指を当てる仕草。
それから、ふっと小さく頷いて、また静かにキーボードに向かう。
その一連の動作に、リリカはなぜだか見入ってしまった。
まるで“音のしない集中”が、彼の周囲にだけ漂っているみたいだった。
「いらっしゃい、リリカちゃん。今日も、アールグレイ?」
「……うん。あと、今日は焼き菓子ありますか?」
「あるよ。紅茶とくるみのフィナンシェ。合うと思うよ」
トレイを受け取って、リリカは小さく会釈をして席を探す。
今日は少し混んでいて、奥のいつもの席が空いていなかった。
(あ……)
空いていたのは、彼のいるテーブルのすぐ斜め後ろの席。
一瞬だけ迷ったけど、それしかなかった。
そっと腰を下ろして、紅茶に顔を近づける。
香りで気持ちを落ち着けようとするように。
そのときだった。
「すみません」
後ろから伸びた誰かの手が、リリカのトレイの端にふれた。
同時に、彼――が席を立ち、カウンターへ向かっていた。
通路が少し狭くて、リリカの紅茶のカップと、
彼の手に持っていた黒いマグカップがすれ違う。
ほんの一瞬。
指先が、ふれる。
「……すみません」
リリカの声は、小さく震えていた。
けれど、彼はすぐにそれに応えてくれた。
「……あ、いや、大丈夫です」
その声。
やっぱり、落ち着いた、少し掠れた低音。
でもどこか、やわらかくて、耳の奥に静かに響いた。
そして――
初めて、目が合った。
黒目がちで、でも涼しげな目元。
どこか眠たそうにも見えるのに、まっすぐで、
すべてを見透かしてしまいそうな眼差しだった。
だけど、怖くなかった。
その目の奥に、どこか自分と似た“孤独”を見た気がした。
「……どうぞ、お先に」
リリカが一歩だけ引くと、彼はほんの一瞬だけ目を細めて、静かに笑った。
「ありがとう」
その声が、コーヒーの香りと一緒にリリカの胸にしみ込んで、
彼が背を向けたあともしばらく、動けなかった。
その夜。
アトリエで花を整えながら、リリカはそっと自分の胸に触れた。
声。
眼差し。
静かな笑顔。
「……こんな日が、来るなんて」
声に出さなくても、胸の奥に積もっていたものが少しだけ溶けていった。