23話 静かに重なる、過去のひかり
―5月23日 木曜日―
季節は、もうすっかり初夏の匂いだった。
図書館からの帰り道、空を見上げると、
青さがぐっと深くなっているのがわかる。
(今週も、会えるかな)
そんなふうに思ってしまうのが、もうすっかり“当たり前”になっていた。
それを口に出すことはないけれど、
この“木曜日の鼓動”が、日常の一部になっているのは間違いなかった。
カフェの扉を開けると、
やっぱり今日も、彼はいた。
黒髪。ノートパソコン。
でも、今日は画面を閉じたまま、カップを両手で包んでいた。
リリカに気づくと、アオイは少し目を細めて笑った。
「こんにちは、リリカさん」
「こんにちは」
今日は、アールグレイと、ベリーの焼きタルト。
二人でいつものテーブルに座ると、風がレースのカーテンをふわりと揺らした。
「……最近、また依頼が増えてきてて。
夏前は結婚式が多いから、なんだかアトリエにずっとこもってる感じです」
「忙しいんですね。いいじゃないですか?」
「……うん。嬉しい。けど、ちょっとだけ、怖いときもある」
「怖い?」
「“また何か失ったらどうしよう”って、思うことがあるんです。
一度全部壊れちゃったから……やっと立て直せてきた今が、こわれるのが、こわい」
そう言ってから、リリカは少しだけ後悔した。
木曜日のこの時間には、似合わない話題だったかもしれない。
でも、アオイは黙ってうなずいて、
カップに口をつけると、少しだけ目線を遠くに向けた。
「……わかります」
それは、心の奥から出てきた声だった。
「……僕も、一度、“全部”終わったと思ったことがあるから」
「……“全部”?」
「うん。俺すごい嫌なやつだから。」
リリカは息を飲んだ。
アオイは、紅茶でもなく、パソコンでもなく、
まっすぐリリカのほうを見ていた。
その目に、痛みが浮かんでいた。
隠してきた痛みが、ほんの少しだけ、表に出ていた。
「……だから人と距離をとるようにしてるんです。
全部知られるのが怖くて。
でも……リリカさんと話すと、なんか……静かに、自分が戻ってくる感じがするんです」
リリカは、手の中のカップをそっと持ち直した。
「……わたしも、たぶん。
アオイさんといると、“がんばらなくていい感じ”がするんです。
ちょっとだけ、安心するっていうか……」
二人の間に流れる空気が、ゆっくりとあたたかくなった。
会話は、少しだけ重なって、また静かになった。
でも、沈黙はもう、怖くなかった。
その沈黙の中で、リリカは思っていた。
(この人の過去を、わたしはまだ何も知らない。
でも、知りたいって思ってる)
そして、
(……わたしのことも、知ってほしい)
木曜日の午後に、ようやく芽を出した感情。
それはまだ名前にならないけれど、
でも確かに、ここにあった。




