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1話 小さな紙切れ

花に触れているとき、リリカは静かになれる。


アトリエの窓を開けると、まだ冷たい春の風がレースのカーテンを揺らした。

木のテーブルに並ぶのは、朝に市場で手に入れた花々。

アプリコット色のラナンキュラス、白いアスチルベ、淡いスイートピー。


「……この子は、ちょっと気まぐれそう」


ラナンキュラスをそっと手に取り、茎を斜めにカットする。

その所作だけが、リリカの心を凪のように落ち着かせてくれた。


東京での生活が、遠い記憶になりつつある。

騙されたこと、信じたかったこと、終わらせたかった関係。

あのとき、彼女は静かにすべてを終えて、この国にやってきた。





木曜日の午後、図書館でのボランティアを終えた帰り道。

丘の上から町を見下ろす景色には、薄曇りの光がやさしく落ちていた。


図書館では春の棚を整える担当だった。

詩集のコーナーを整理しているとき、

ふと、ある一冊の間から、一枚の紙が落ちた。


拾い上げると、薄いクリーム色のメモ用紙に、インクのにじんだ手書きの文字。


もう何も感じたくなかった。

でも、目を閉じた先に浮かんだのは、

誰かの笑顔でも、未来でもなく、

ただ、紅茶の香りだった。


声に出すことはできなかった。

でも、その言葉が、心の奥にすっと入りこんできた。

あたたかくもなく、冷たくもなく、

ただ「共鳴」だけがあった。


誰が書いたのだろう。

それはわからなかったけれど、リリカはその紙をそっとバッグの内ポケットにしまった。




坂道を下った先にある、小さなカフェ。

木の看板が控えめに風に揺れている。


「……あの席、空いてるかな」


小さく呟いて、ドアを押す。

チリン――と控えめな鈴の音。


カウンターの向こうで、マスターのシノさんが微笑んだ。


「いらっしゃい、リリカちゃん。いつもの?」


「うん、アールグレイで……あと、今日はパウンドケーキありますか?」


「あるよ。レモンとポピーシードのやつ、焼いたばっかり」


「じゃあ、それも」


シノさんは、いつもリリカの“無言の雰囲気”をちゃんと察してくれる。

話さなくてもいい。けれど、話したくなったときは、そこにいてくれる。

だからこのカフェは、木曜日のルーティンになった。


ふと、視線の先にある席――

窓際、壁に背を預けるようにして座るその人が、今日もいた。


黒髪、無造作な前髪、細長い指がマグカップの取っ手を包んでいる。

深煎りのコーヒーの香りと、本のページをめくる音が、その人を中心に漂っているようだった。


まだ、目が合ったことはない。

それでも、リリカは知っている。

彼がいると、カフェの空気が少しだけ変わること。


その雰囲気に、言葉にできない「なにか」を感じてしまう自分が、少しだけ悔しい。





紅茶の湯気に顔を寄せながら、窓の外をぼんやり見つめる。

スカーフの巻き方が甘かったのか、首元に風が少し入る。


そんなとき、ふと感じた気配に、リリカは思わず目を向けた。


彼が、立ち上がったところだった。

マグカップを片手に、無造作に本を閉じ、ゆっくりとカウンターに向かう。


その歩き方は、驚くほど静かだった。

けれどどこか、肩の動きや指の先まで、ゆるやかに波打つような“しなり”がある。


誰に見せるでもない、意識していない動きなのに、

その一つ一つが、リリカには、妙に目についてしまった。



ただ歩いているだけなのに。

ただ、飲み終わったカップを返しにいくだけなのに。

なぜか胸がざわつく。


紅茶を口に運びながら、リリカは自分の内側を持て余していた。




その夜。

アトリエの作業台の上に、花束と一緒にそっと置かれた一枚のメモ。


もう何も感じたくなかった。

でも、目を閉じた先に浮かんだのは、

誰かの笑顔でも、未来でもなく、

ただ、紅茶の香りだった。


たったこれだけの言葉が、今日のリリカを終わらせていく。

やさしく、でも確かに、何かを残しながら。


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― 新着の感想 ―
なんだか読んでいて切なく、でもこの後の展開が気になる作り、 そしてリリカのことを気になっているぼく。 これは続きを読むしかない!! 花が好きってだけで惹かれてしまうぼくは馬鹿でしょうか?笑
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