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月霞市国の物語 ──この出会いも、感情も、最初から仕組まれていたのだとしたら──  作者: 神崎妃光子


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12話 はじまり

5月はじめ

風は、まだ春の名残を含んでいる。

庭先では、薔薇たちがそっとつぼみをつけていた。


いつもより、街が静かだった。


木曜日なのに、図書館は休館日。

祝日というだけで、日常がふっと緩む。


「……お昼、どうしようかな」


軽く掃除をして、アトリエの窓を開ける。

風がやわらかくて、空が高かった。


どこかへ出かける予定もなかったけれど、

気がつけば、靴を履いていた。


(カフェ……やってるかな)


歩きながら、自分の胸の奥にある期待を押さえようとする。

でも、それはもう、“抑える”というより“隠しておく”というほうが近かった。



カフェのドアを開けると、

祝日の午後の店内は、いつもより少し賑やかだった。


小さな子どもの声。カップが触れ合う音。

そして、香ばしいコーヒーの香り。


「リリカちゃん、来てくれると思ってたよ」


「え?」


「今日は祝日だから、来ないかなと思ってたけど、

なんとなく……来そうな気がしてたんだ」


シノさんの声に、思わず笑ってしまった。


「予知能力?」


「経験値かな?」


マスターのやさしい冗談に頷きながら、紅茶とレモンケーキを受け取る。

そして、店内をそっと見渡した。


いた。

彼が、窓際の席に。


パソコンが開かれていたけれど、

その手は止まっていて、コーヒーを手に、窓の外をぼんやり眺めていた。


(……やっぱり、いると安心する)


静かに歩いて、空いている席に腰を下ろす。



しばらくして。

彼が立ち上がる姿が見えた。

注文、だろうか。もう一杯、コーヒーを。


そう思っていたとき――


彼の足が、ほんの少しだけ、止まった。


そして次の瞬間。

リリカのすぐ横で、その声が、ふいに落ちた。


「……こんにちは」


――声をかけられた。

まっすぐに、やわらかく。

落ち着いた、低くて、少しだけ掠れた声。


リリカは、顔を上げる。

彼が、こちらを見ていた。


驚きと、少しの照れくささが混ざったような表情。

でも、その目にはちゃんと“意志”があった。


「……こんにちは」


リリカの声は、いつもより小さかったけれど、

それでも確かに届いたとわかったのは、彼の目が少し和らいだから。


それだけで、胸の奥がふわっと熱くなった。


「この前……紅茶、落としてた日。あれ、アールグレイでしたよね?」


「……うん。香りで、わかった?」


「はい。好きなんです、僕も」


たわいない会話。

でも、リリカにとっては、心に灯るような言葉の連なりだった。



「……席、ここいいですか?」


彼が、隣の空いている席を指さして聞いたとき、

リリカは何も言えずに、ただ頷いた。


祝日の午後。

珈琲の香り。

ほんの少し強くなってきた風の音。


そのすべてが、今この瞬間を、やさしく包みこんでいた。

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