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境界

作者: ごはん

新潟のアパートに住んでいたのは、冬の入りかけの季節だった。曇天の続く日々に、外界との接点を失いかけたような心地がしていた。築年数の経った木造二階建て。誰もいないはずの部屋のどこかで、ときおり、水の音がした。


蛇口が緩む音――チリ、チリリ……


その音は夜になると頻発した。不規則な滴りの音が、深夜、静寂を切り裂くように耳へと染み込む。初めのうちは、老朽化による水道設備の劣化と考えた。しかし、何度締め直しても、音は止まらなかった。


ある夜、夢と現の狭間――「夢まなこ」と呼ぶにふさわしい状態の中で、突然、腕を誰かに強く引かれる感覚に襲われた。抵抗できないまま、体が引っ張られ、床に落ちそうになる直前、目が覚めた。周囲には誰もいない。だが、皮膚には生々しく「掴まれていた」感覚が残っていた。


それは一度ではなかった。

何度も、夜の中で、誰かが“ここ”にいるような気配。

そして、あるときふと思ったのだ。


「これは、誰かが私の中に入ろうとしているのではないか?」


そう思ったとき、恐怖は理屈を超えて胸を占めた。

だが、次の瞬間にはまた別の考えが生まれる。


「それとも、私が私の外に押し出されようとしているのか?」


その問いは、本人の内部で留まらなかった。次第に、自己と他者、現実と夢、生と死の境界線が曖昧になっていく。

自分が自分である保証は、どこにあるのか。今、この身体に宿っている「私」は、本当に「元の私」なのか――。


日中、何気ない窓辺の光を見つめているときも、自分の視線に微かな“ズレ”を感じた。まるで、視線の奥に「もう一つの視点」が潜んでいるような奇妙な感覚があった。


ある夜、アパートのキッチンで再び蛇口がわずかに開いていた。明確に「捻られていた」。自分が無意識でやったとは到底思えなかった。そして、その直後――鏡の中の自分が、ほんの一瞬、わずかに遅れて動いたのだ。


その日以降、現象は消えた。

蛇口の音も、手を引っ張られる感覚も、ぱったりと消えた。


だが、彼女は気づいていた。

それは「収まった」のではない。入れ替わったのだ。


現在の自分が、あのときの「本当の自分」とは微妙に異なる感覚。思考の端々、口に出る言葉の選び方、記憶の中で曖昧になっていく感情の色彩……そのすべてが、少しずつズレている。


それを確かめる術はない。ただ、あの夜以来ずっと、自分の背後に、もう一つの「視線」を感じ続けているだけだ。

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