翻訳破棄
長きにわたる魔族と人間の争いは、疲れ果てた両者の合意により和平が成立した。友好の証に、人間の国で最も高貴な身分の姫が、魔王の妃として輿入れすることになった。
姫の名はトレイシア。
魔王たる余は、今日から彼女の夫である。
「トレイシアよ。余が魔王である。よく魔界に来た」
「……。……?」
トレイシアは何も言わない。
魔族の妻になることに怯えているのだろうか、と思ったが、どうにも恐怖の顔ではない。「んっ?」みたいな顔である。
「……。ナイスチュ、ミーチュ……?」
恐る恐る、といった具合で口を開いたトレイシア。だが発言内容がよく分からない。ナイスチュなんたらとは一体何だろうか。
お互いに「んっ?」という顔で首を傾げ合っていたら、応接室に宰相のモリスが飛び込んできた。ポメラニーニャという小型魔犬の一族であるモリスは、もこもこの二頭身でせわしなくこちらに駆け寄ってくる。
「大変ですぞ、魔王様!」
「なんだモリス、もこもこしいぞ。ただいま余は迎えたての妻と、記念すべき新婚初会話を……」
「翻訳魔道具が機能していません!」
「なんだと……!?」
翻訳魔道具とは読んで字のごとく、翻訳をする魔法の道具である。
魔族と人間では母語が異なる。魔族の言語はそのまま「魔族語」、人間の言語は古代英雄語、略して「英語」だ。
魔族語と英語は、なんかもう文法の時点で色々と掛け離れているので、お互いに理解するのが難しい。言葉が通じないと争うのも一苦労なので、魔族と人間は争いの片手間に手と手を取り合って魔道具による翻訳に着手し、三十年くらい前に大手企業が安価な翻訳魔道具を大量生産したことで大流行、今や魔道具による翻訳が世界のデファクトスタンダードとなった。
デファクトスタンダード。お察しの通り、これは魔族の言葉ではない。英語だ。長きにわたる人間との争いで、英語は魔族の中にもしばしば取り入れられている。
たとえば「ニュアンス」。これは魔族語では「機微」に相当するらしいが、ニュアンスを機微と言ってしまうとニュアンスが違うというか、ともかく英語には英語にしか出せないニュアンスがあるので、そういう英語は魔界にも浸透しているのだ。
が、所詮は単語レベルでの浸透であり、会話を成立させるには翻訳魔道具が不可欠である。翻訳魔道具が流通した昨今、わざわざ英会話を勉強する魔族も、異様に資料の少ない魔族語を好んで学ぶ人間もいない。
そういうわけで、翻訳魔道具が機能しないという状況は一大事であった。
夫婦の初会話の危機である。
世界平和のための結婚なので、世界の危機と言い換えてもいい。
「なぜ起動しない……!?」
「メーカーに問い合わせたところ、『翻訳魔道具の大型アップデートを実施したが、配布プログラムに不備があり、緊急対応中』とのことです。公式の見解では、復旧までに最短で半月掛かると」
「つまり?」
「しばらく翻訳魔道具は使えません」
「なんだと……!?」
ブルースクリーン状態から動かない翻訳魔道具を前に絶句したが、無為に呆けているわけにもいかない。ひとまず状況をトレイシアに伝えねば。だがどうやって?
「恐れながら魔王様。身振り……英語でいう『ジェスチャー』にて、意図を伝えるしかないかと。あと気合」
宰相モリスの進言を受け、うむと頷く。
応接室の翻訳魔道具を指で示し、それから両手で大きなバツを作った。
「翻訳、魔道具、故障した。だめだーめ」
はたせるかな、トレイシアに状況は伝わったようだ。彼女は手を口元に当て、「oh……」と、困惑の表情を見せた。
だが、彼女はすぐに意を決した顔になり、一歩前に出ると。
「わて、トレイシアござます。魔王様、本日はお日柄よろしゅうおま」
なんと、優雅な一礼と共に、魔族の言葉を話してみせた。
「トレイシア……そなた、魔族語を喋れるのか?」
「魔界のお言葉、やや勉強したやねん。嫁ぎ先やから、とりま覚えたろ思てみました。未だ嗜みし程度なる、ごめんください。広い心で聞け」
「おお……!」
なぜか魔界西方の訛りが混ざっていたり微妙に間違った言い回しがあったりするものの(淑女然とした振る舞いとのギャップが激しい)、意思の疎通ができるほどの会話力である。魔族語の勉強になるような本は少ないし、専門の講師もいなかっただろうに、よくぞ独学でここまで。
「素晴らしい。素晴らしいぞトレイシア。これならば魔族と人間の友諠というこの婚姻の目的も恙なく」
「……?」
つい興奮してまくしたてたら、トレイシアは困った顔になってしまった。すかさずモリスが余を手招き、屈んだ余に耳打ちをする。
「魔王様。言語初心者には平易な言葉を。そして単語が聞き取れるよう、文節で区切って話すのですぞ。さらに身振りで補完してくだされ」
「なるほど……。余はトレイシアに、この結婚の目的たる世界平和の実現を、ぜひ頑張りたい旨を伝えたい。どうすれば伝わる?」
「それはこういう風にして、こうして、こうですな」
モリスの指導を受け、トレイシアに向き直った。
「余」
まずは己を指し。
「平和」
腕を広げて世界規模を表現。
「だーいすき♡」
そして両手を頬の横に持ってきて、ハート形を作り、ウインク。
「……」
応接間に居たたまれない静寂が満ちた。
そうだ切腹しよう。介錯はモリスに命じよう。衝動的にそう考えたところで、ぽかんとしていたトレイシアの表情が、みるみる感動に染まっていくのが目に入った。
「激しく同意!」
トレイシアは凄まじい勢いで余の手を取り、ぶんぶんと力強く握手した。
「魔王様、優しみ激しみ! まさにジェントル! ラブ安堵ピース、激しく同意!」
「ラブ、ピ……? あの、その、ちょっと、落ち着いてみないか」
「わても平和熱望! 人と魔族、仲良よしこよし、存じ上げ!」
嬉々として話すトレイシア。言葉は拙いが、余と志を同じくするということは充分に伝わった。これは世界平和という世界規模の責任を背負った政略結婚であり、愛も面識もないまま執り行われた結婚だったが、これならばきっと、お互いに意義のある結婚生活にできるであろう。
心強い同志を得た気持ちで、彼女の手を握り返した。
「同じ気持ちだ。頑張っていこう、トレイシア」
「へい! 長いお付き合い、よろしゅうおま!」
トレイシアの輿入れから一週間が経った頃。
「そういや、魔王様はアイアム魔王様言うてオリハルコン、お名前ないでござんす?」
就寝前のハーブティーの時間を一緒に過ごしていたら、トレイシアがそう訊いてきた。
「ああ。余に名はない。世界に魔王は只一人、魔王という呼称が指すのは余のみを指す。ゆえに名はいらぬのだ」
一週間も経てば、余もトレイシアのぎこちない(謎の流暢さはある)魔族語にも慣れてきて、聞き返すことは少なくなってきた。それはトレイシアも同様で、こちらが話す魔族語を問題なく聞き取れるようになっており、余の返答に「なるへそ」と神妙な顔で頷く。
「魔王様は永遠のぼっち、だから名前呼ばれなくても問題ねえ、納得」
はたから聞くと大変失礼な言い回しだが、トレイシアに無礼を働く意図はないことは分かっている。ゆえに余は鷹揚に頷いて、「余は友がたくさんいる。非ぼっちだ。誕生日にホームパーティーを開けば、たくさんの魔族に祝われる」と補足しておいた。トレイシアは「魔王様はウェイ系リア充パリピ、了解」と温かく微笑む。9割がた何を言っているのか分からなかったが、我が交友関係の広さは伝わったようだ。彼女との会話はなかなか楽しい。
世界平和という大義のもとに結婚したものの、夫婦らしくなるのはお互いを知ってからでも遅くはないし、トレイシアだってよく知らない魔族に我が物顔で触れられるのは不安だろう。というわけで、夫婦といえども未だに口づけの一つすらしていない。
だが、挨拶を交わしたり、食事を共にしたり、こうして世間話に興じたり、そんな交流から、彼女の人となりを垣間見ることができた。
彼女は聡明だ。朝食時、余がさりげなく皿の隅によせたグリーンピースを「奴は敵なり」と言って、一緒に糾弾してくれた。もちろんひとしきり糾弾した後は、共に涙を呑んで「だが栄養はあるからな」「それな」と頷き合い、グリーンピース農家の方角に感謝を捧げながら全部食べた。
彼女は心優しい女性だ。通常の人間ならば恐れを抱くはずの魔族に対し、嫌悪感を示すこともなく、早くも宰相モリスと打ち解けていた。隙あらばモリスをブラッシングしている。膝枕でいい子いい子されているモリスが羨ましいとか別にそんなことは思っていないがモリスは自重すべきだと思う。
彼女は優しいだけではない。魔族だらけの魔界に単身やってきて心細いだろうに、そんな素振りは一切見せないという強さも持っている。聡明で優しく強かで、「魔王様、おはざす」と朝の挨拶をするときの笑顔が可愛い。「魔王様、いい夢見ろよ」と夜の挨拶をするときの笑顔も可愛い。昼間のくしゃみも可愛かった。「へくちゅん」だ。可愛すぎて心配になった。
今度、埃まみれの部屋に連れて行ってみよう……と、トレイシアの可愛いくしゃみに思いを馳せていると、彼女が「魔王様」と口を開いた。
「わて……違った、私。私は、魔王様がラブ安堵ピースで、フル安堵してます」
「う、うむ?」
「最初に魔王様、平和だーいすき、言うてオリハルコン、私、安堵しました。平和への激しい情熱、伝わりました。人間と魔族、無用な争い、腹減るのみ。私が終止符を撃ち抜く所存と意気込んできましたら、魔王様も同じ気持ち、激しい思い。激しく同意でご賛同」
「うむ。その通りだ。余もトレイシアと同じ志だ。平和を愛している。ラブ安堵ピース仲間だ」
トレイシアは嬉しそうに笑って、それから、余をじっと見た。いや、視線が微妙に合わないので、どうやら余の角を見ているらしい。そういえば、トレイシアはよく余の角を見ている気がする。
「どうした? 角が気になるのか?」
「はい。魔王様の角、エレクトリカルタカラヅカですね」
「エレ……タ……なんだって?」
耳慣れなさ増し増しの単語(単語……?)を思わず訊き返すと、トレイシアは律儀に「エレクトリカルタカラヅカ」と繰り返してくれた。繰り返してもらったところで分からなかった。
意図が伝わっていないことを余の表情から察したトレイシアは、天井の照明を指し、「あれもしっかりエレクトリカルタカラヅカ」と言った。次に銀製のスプーンを手にし、「これもまあまあエレクトリカルタカラヅカ」と言った。
知らないうちに「エレクトリカルタカラヅカ」が身近に溢れていたという事実に衝撃を受けている間に、トレイシアは窓を差し、「お星様、とってもエレクトリカルタカラヅカ」と言った。それでピンと来た。
「もしや、『輝かしい』という意味か?」
「かがやかしい」
まあまあ会話ができるようになったとは言え、トレイシアの方にも、まだまだ聞きなれない魔族語は多い。我が角を指し、「ぴかー。きらきらー」と音声を付けて手をひらめかせたら、トレイシアは「それな!」と嬉しそうに何度も頷いた。
「輝かしい。そう。魔王様の角、輝かしい。とってもエレクトリカルタカラヅカ。お星様のよう。初見殺しでお見惚れしました」
「ふ、ふむ……」
見惚れるとまで称賛されて、まあ、その、なんだ、照れた。宝石のような角は高位魔族の誉れである。誉れを誉められて悪い気分はしない。
トレイシアは余の表情に目を丸くしたあと、「魔王様も顔面が血染めなるですね」と、はにかんだ。突然の凄惨な表現だが、おそらく「魔王様も赤面なさるのですね」という意味だと推察される。余の対トレイシア翻訳能力も向上したものだ。
「ト……トレイシアも、エレクトリカルタカラヅカだぞ」
「私も? 私に発光体めく箇所、あらへんですが……」
「そ、そ、そなたは輝いて見えるほどに愛らしい、ということだ」
トレイシア流に表現すると、余の顔面はフル血染めだっただろうが、余の言葉を受けたトレイシアの方は、顔面フルスロットル血染めになった。
照れ照れと両手で顔を覆って「口先が達者やねんからこのカブキチョウナンバーワンホスト野郎」と、9割がた内容は分からなかったがともかく照れているらしい言葉を漏らす彼女は、大変に愛らしかった。
「余はトレイシアが妃に来てくれて嬉しい」
「私も……私もです。魔王様が魔王様で、嬉しみが深みです」
きらきらとエレクトリカルタカラヅカする瞳で見上げられて、思わずトレイシアの手を取った。初日にも平和への熱い思いを込めて固い握手を交わしたが、その時とはまた異なる感情で、彼女の手を握る。
「トレイシア……余は……。……。余の特製ブレンドハーブティーは美味しかったか?」
これ以上は心の準備の問題で進めそうになかったので、卓上の茶器に目を遣りながらさりげなく話題を転じれば、トレイシアは「はい、風味絶佳なるおてまえ!」と屈託のない笑みを見せた。
「寝る前に温かなる茶ぁしばく、おばあちゃんの入れ知恵、魔界でも共通ですね。ごっそさんでした」
「うむ。おやすみ、トレイシア」
「魔王様もいい夢見ろよ」
自室に戻るトレイシアを悠然とした表情で見送ったあと、照れ照れした彼女の姿を思い返して、ひとりで身悶えした。
翌朝。
魔王城では月に一度、朝礼の日がある。朝礼では部下たちの持ち回りで、『今月のいいお話』を発表することになっていた。
余は魔王らしく最上段のボックス席に腰かけ、トレイシアはまだかな、隣に可愛いクッションを置いたんだけど喜んでくれるかな、と彼女の到着を待っていたら、モリスがもこもこと騒がしく飛び込んできた。
「大変ですぞ、魔王様!」
「なんだモリス、もこもこしいぞ」
「黒髪ロングイケメン魔王しか勝たん勢が、魔王様への強火感情から決起しました!」
「すまんモリス、9割がた何を言っているのか分からない」
「黒髪ロングイケメン魔王しか勝たん勢……平たく言うと、魔王様を篤く尊崇する魔族たちです。魔界の6割を占める一大勢力ですぞ」
「余の知らない勢力が魔界の過半数占めてた」
だがまあ、「余を大変に敬っているのであれば、何の問題もないのではないか?」と呑気に問う余に、モリスが「彼らは人間が嫌いなのです」と続けた。
詳しく聞くと、余を特に篤く敬う彼らは、
『好きでもない人間なんぞと結婚させられて、魔王様がお可哀そう』、
『魔王様の恩情で和平で手を打ってもらったのに、図々しく嫁を寄こすとは』、
『どうせ人間は魔族が嫌いなくせに、いやいや魔界に来られてもこっちも迷惑』
と思っており、そのモヤモヤした感情の矛先が、余の妃たるトレイシアに向けられたのだという。
忸怩たる思いだった。余とトレイシアがお互いに歩み寄る姿勢だったために、つい失念してしまっていたが、魔族と人間は最近まで争っていたのだ。わだかまりまくりの仲なのだ。
平和の象徴たらんと結婚したとはいえ、人間を嫌う魔族たちにとって、トレイシアは敵判定……。
「もしやトレイシアの身に危険が……!?」
行く手に画鋲を撒かれたり、赤ワインをぶっかけられたり、夜会でドレスの色を被せてこられたり、お前を愛することはないと言われたり、そんな目に遭っているのでは……と不安に駆られる余に、モリスが「いえ!」と焦った顔で言う。
「黒髪ロングイケメン魔王しか勝たん勢は、トレイシア様が魔族語に慣れていないことに目を付け、トレイシア様に大恥をかかせて実家に帰らせるべく……今から始まる『今月のいいお話』に、登壇させるつもりなのです!」
「なんだと……!?」
思わずモリスを掴み、「現場を見ていたならなぜ止めない、このもこもこめ!」と揺さぶると、「トレイシア様に言われたのです」と、予想外の答えが返ってきた。
「ぜひ出たいと。トレイシア様は、やる気満々でした。『魔王様と仲良しこよし証明して、魔界の皆と仲良しこよす』と……」
「トレイシア……」
黒なんたら勝たん勢の魔族たちは、余が乗り気ではない不幸な結婚をしたと思って、胸を痛めて決起したのだという。つまり、余とトレイシアの仲が良いことを証明すれば、心穏やかになるかもしれない。なるほど。やる気満々なのだな、トレイシア。
「そうか。ならば何も言うまい。トレイシアの心意気、しかと見届けよう!」
舞台に目を遣ると、ちょうど朝礼の司会が、「今月のいい話」の紹介に入るところだった。
「以上、『今月の魔王城の標語』でした~。続いて皆さまお待ちかね、『今月のいい話』です。当番は魔界きってのツンデレ邪竜、ジルガ……え、急遽チェンジ? え、代打で……お妃様!? え、あ、はいっ、これがマイクですっ」
少しバタバタした引継ぎがあって、音声拡大魔道具(通称マイク)を持ったトレイシアが、舞台の真ん中に立った。
「あー、あー、マイクテス、マイクテス」
律儀にマイクテストをするトレイシア。魔族たちの6割が人間を――彼女を快く思っていない状況なので、会場はざわざわと騒がしい。トレイシアのやる気を尊重したいが、もしも野次の一つでも飛ぼうものなら即座に割って入ろう……と、腰を浮かしたところで。
マイクテストを終えたトレイシアが、喧騒にもめげずに声を張った。
「こんにちは親愛なる貴様ら、ごきげんよろしゅうおま。私、トレイシア申します。本日はお日柄も良く、貴様らにおっしゃりたいことございます」
トレイシア語第一人者たる余には分かる。「貴様」にはあんまり尊敬の意はないが、トレイシア的には「様」だから尊敬の意を込めたつもりなのだと。演説をハラハラしながら見守っていたら、トレイシアがおもむろに、ピン、と小指を立てた。
「魔王様、私のこれ」
一瞬で会場が静まり返った。
余は両手で顔を覆った。
人間の国では、運命の恋人同士は「運命の赤い糸」で小指が結ばれているのだと言う。だからトレイシア的には、「魔王様と私は運命で結ばれています」という意志表明したのだろう。
だが、残念なことに魔族の文化においては、小指を立ててその台詞は「俺の女だぜ?」の意だ。
『魔王は俺の男だぜ?』
初手でこれをぶっ放した人間の姫に、会場の魔族たちは度肝を抜かれたのだ。
「魔王様は、私の星」
続けられた静かな声と、その真摯な表情に、ドン引きしていた魔族たちが惹き込まれ始める。余は内心で「いいぞ!」と拳を握った。そうだ。トレイシアの言葉はつたないが、それでも聴く者の心を動かす真心に溢れている。
大丈夫だトレイシア、君の言葉は必ず伝わる!
「魔王様、誰よりもエレクトリカルタカラヅカ」
すまないトレイシア、それはたぶん誰にも伝わらない。
「星めく強い意志、だけど顔面が血染めにもなる、その温かみ」
謎単語からの顔面血染め発言に、静まり返っていた魔族たちが、徐々にざわめきはじめた。
「エレ……なんとかって、古代魔法の一種か?」
「大規模な攻撃魔法でやりあったってこと?」
「魔王様と流血沙汰……?」
「魔王様の返り血を浴びた感想が、温かい……だと……?」
「えっ怖っ、人の子怖っ」
不穏な想像が会場を駆け巡ったところで、トレイシアがすっと息を吸う。魔族たちは再び沈黙し、彼女の次なる発言を、固唾を飲んで待った。
「そして二人は同意の上、熱い夜を過ごしました」
過ごしてないよ???
さっきの5倍くらいざわつく会場に構わず、話すことに全霊を懸けているトレイシアが、真顔でこう続けた。
「魔王様は激しかった」
待つんだトレイシア。落ち着くんだトレイシア。
いやもちろん、トレイシア語の第一人者である余には、彼女の言葉が平和を愛する者同士の思いを確かめ合った、昨夜のことを指しているのだと分かる。
が、なんというか非常に絶妙な言葉選びだったため、魔族たちの間に急速に誤解が広まっていった。
「あっ、そういう……」
「あらやだ大胆……」
「死闘の果てにお互いを認め合って……」
「なんだ惚気話か全く」
「幸せ溺愛新婚夫婦かよもう」
魔族たちがトレイシアに向ける視線が、徐々に生温かいものに変わっていく。
何かちょっと想定とは異なっていたが、余がトレイシアを快く妃に迎え、トレイシアも魔族たる余を忌避していないことが、彼らに伝わり始めているようだ。
敵意が薄れていく空気を感じ取ったトレイシアは、ふんわりと微笑んで。
「私」
己を指し。
「魔王様」
両手を広げて大きな親愛を表現し。
「だーいすき♡」
広げた両手を頬の横に持ってきてハート形を作り、ウインク。
わっと会場が湧いた。
「熱々じゃねえかよちくしょう!」
「惚気やがってこのやろう!」
「リア充爆散しろおめでとう!」
「えっ、可愛っ、人の子推せる」
「ウインクおかわりしてー!」
「ばきゅんしてー!」
会場は歓迎ムード一色に染まった。
魔族たちの温かい歓声を受けたトレイシアは、嬉しそうに頬を染め。
「人間と魔族、末永く仲良しこよしたい所存。ご静粛、ありがとござんした!」
そう締めくくり、ぺこりと頭を下げた。
「素晴らしいぞトレイシア……!」
拍手に包まれる会場、余も熱い拍手の一員として手を叩く。モリスは会場の魔族たちの様子を見て、安堵の声を上げた。
「どうやら黒髪ロングイケメン魔王しか勝たん勢の強火感情が推しの幸せを願うフェーズに移行したようですな!」
9割がた何を言っているのか分からないが、皆がトレイシアを迎え入れた、ということは伝わった。良いことである。
いやしかしトレイシアの大好き♡ウインクショットは可愛さの暴力であったな……と、深い感動および映像記録魔道具で残しておきたかったという悔恨が入り混じった複雑な心境を味わっていると、登壇を終えたトレイシアが、小走りでボックス席にやってきた。
「魔王様! 私、平和の一歩を踏んづけました!」
「ああ、見ていたぞトレイシア、君は平和の一歩を踏み出した!」
余と彼女はハイタッチを交わした。
きっと魔族と人間の未来は明るい。
さらに一週間後。
「ビッグニュースです、魔王様!」
「なんだモリス、もこもこしいぞ。ただいま余は、可愛い妻と結婚14日目記念日のお祝いを……」
「翻訳魔道具が直りました!」
「おお。無事にプログラム不具合が改修されたか」
これでトレイシアと円滑な会話ができる。さっそく電源を入れかけ、直前で思い留まった。
「いや……翻訳は不要だ。翻訳されずとも、トレイシアの言葉は伝わる。余はトレイシアが考えた言葉を、そのまま聞きたい。だから翻訳魔道具は使いたくない。……トレイシアは、それでもよいか?」
翻訳したくないという余の我儘を、彼女は許してくれるだろうか。
ちらっとトレイシアを伺えば、彼女は優しく微笑んで、ビッと勢いよく親指を立てた。
「翻訳破棄、激しく同意!」
『翻訳破棄』 終
~おまけ:登場人物の容姿の描写~
・魔王(以下、トレイシアによる説明)
クールなご尊顔の黒髪ロング野郎お見惚れ。
・トレイシア(以下、魔王による説明)
その瞳は海神竜の鱗が如き深き青を湛え、その髪は黄金の絹糸のように細く美しく輝き、その微笑は地上に降り立った(以下略)。
・モリス
毛玉めく犬。(トレイシアによる説明)
もこもこしい。(魔王による説明)
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読了ありがとうございました!
本シリーズには色んな魔王(四十肩で腕が上がらない魔王、生贄を食う前にカレーのお口になった魔王etc.)がいるので、お気に入りの魔王を探してみてね!