第五話 魚横流し事件
「うーん、どれにしようかなぁ」
「迷いますねぇ」
フェリシアとオリビアは、寮の食堂の片隅で、夕飯のメニュー表と真剣ににらめっこしていた。
魔導灯の明かりが二人の頭上でゆらゆら揺れ、木製のテーブルに小さな影を落とす。
まだ敬語のままのオリビア。
……正直、少し落ち着かない。
でも、怒らせたのは自分なので何も言えなかった。
「私は日替わりディナーにする」
フェリシアはメニューを指でなぞりながら言う。
今日の日替わりは、塩気と旨味が絶妙のサルモーの香草焼き、ふわっとした白パン、それからアルガのスープ。
アルガは海藻の一種だ。
サルモーは身がピンク色をしている魚で、初めて見たときは驚いた。
――ピンクの魚がいるなんて、世界は広い。
「うーん、パーゲルの煮込み定食も捨て難いですが、私も日替わりディナーにしようと思います」
オリビアは少し考えてから、そう微笑んだ。
パーゲルは白身魚。煮込むと柔らかくてとても美味しい。
魚料理の札には、まだ「売り切れ」の文字はない。
さっき話していた魚不足の噂は、杞憂だったのかもしれない。
魚派のオリビアにとって、それは朗報だ。
「おばさん!日替わりディナー二つで!!」
フェリシアとオリビアは、カウンター奥にいる食堂のおばさんへ声をかけた。
おばさんは小太りで、茶色のワンピースに緑のエプロン、そして三角巾。赤毛をきっちりお団子にまとめたその姿はいかにも料理人、という感じだった。
「日替わりは売り切れてるよ。札かけ忘れてたね、ごめんねぇ」
おばさんは申し訳なさそうに、眉を下げた。
「それは残念です。では、私はパーゲルの煮込み定食でお願いします」
フェリシアが「じゃあ、私も――」と言いかけた、その瞬間。
「魚料理も全部売り切れてるよ」
時間が一瞬止まった気がした。
(え、うっそ)
「……分かりました。考え直してきます」
「ごめんねぇ」
カウンターを離れると、オリビアから静かに負のオーラが漂っていた。
日替わりディナーが売り切れるのは分かる。人気だから。
しかし、魚の定食はオリビアが頼もうとした以外にも四種類はある。それが全滅なんて、そんなことあるのだろうか。
オリビアが困惑した表情で口を開く。
「……どういうこと?」
(あ、敬語戻った)
きっと、魚が食べられないショックが大きすぎたのだろう。
「ずばり!事件の匂いがする」
オリビアにビシッと人差し指を向けた。
「私は魚料理の匂いを嗅ぎたい……」
オリビアは切実に呟いた。
よし、決まりだ。
事件を解決すれば、きっと魚料理も戻ってくる。
落ち込んでいるオリビアの笑顔を取り戻すためにも――
「食堂の魚料理が消えた悲惨な事件……。このフェリシア・エルダンが解決してしんぜよう!!」
……学園の夜に、頼もしい(ちょっと空回り気味の)宣言が響いた。
* * *
今日のところは、肉料理を頼むことにした。
料理が完成すると、フェリシアとオリビアはトレーを受け取り、窓際の席に腰を下ろす。
夜の食堂は、いつもより静かだった。
天井に吊るされたランプが、木目の天板に淡い光を落とす。
この学園の机や椅子は、すべてドワーフ職人の手によるものだと聞く。
切り株を削った椅子はどこか無骨で、厚い板の机は年月を経て温もりを帯びていた。
本校舎の白く整った雰囲気とは違って、この食堂は少し野性味がある。それがまた、生徒たちには評判がいい。
隣の席では、誰かが小さな声で囁いていた。
「やっぱり変だよ」
「ただの偶然じゃない?」
「考えてみて、日替わりディナーの他にも魚料理は五種類ある。それに定食だけじゃなくて、サイドメニューも売り切れてたでしょ?」
聞き耳を立てなくても、はっきり聞こえる。
やっぱり、みんな気になっているんだ。
――魚料理、連日売り切れ。
食堂の厨房で何か起きているのは、まず間違いない。
フェリシアとオリビアも、さっきまさに同じ話をしていた。
結局、魚が駄目なら……ということで、肉料理を選んだのだけど。
テーブルの上に置かれた皿から、スパイスとバターの香りが立ちのぼる。
嗅覚をくすぐる香ばしい匂いに、空腹が騒ぎ出した。
「いっただきまーす!」
スプーンを手に取り、一口。
――うん、美味しい!肉は柔らかく、バターの塩気が絶妙。
頬が自然と緩んでしまう。
「いただきます……」
「もう、オリビア機嫌直してよぉ。肉料理も美味しいよ」
オリビアは苦笑いしながらフォークを取った。
彼女の動きは、やっぱり几帳面だ。
ひと噛みして、ほっとしたように息をつく。
「うん、美味しいね。でもやっぱり魚料理が恋しい……」
「じゃあ、絶対事件を解決しないとね!!」
オリビアが小さく頷く。
皿の上の肉はあっという間に消えていった。
食後の余韻に浸りながら、背もたれに軽く寄りかかる。
灯りに照らされた食堂は、すっかり夜の顔だ。
木製の椅子が軋む音、奥の厨房から聞こえる鍋の音。
静けさと喧噪が混ざり合って、どこか安心する空気を作っていた。
「ふぅ……美味しかった。お腹も満たされたし、推理開始の時間だね!」
フェリシアは立ち上がって、食器を片づけた。
トレーを回収口に戻すと、オリビアと目を合わせる。
二人は食堂を出て、厨房の裏へ回った。
まだ営業終了前だけど、客足は少なく、通路にはスープと油の混ざった香りが漂っていた。
「うわぁ!!嬢ちゃんたち、ここは入ってきちゃダメだ」
ひょいと顔を出した途端、低い声が飛んできた。
大きな体に白いコック服。
先ほどの食堂のおばさんと一緒に働いていた料理人のおじさんだ。
腕は太く、包丁の跡が何本も残っている。いかにも職人、という感じ。
「少し聞きたいことがあるのですが、お時間いいですか?」
フェリシアはそう言いつつ、制服の内ポケットから杖とメモ帳を取り出した。
『言の葉を紡ぐ筆となりて、記せ』
詠唱とともに杖がペンに変わる。
ペン先には淡い光が灯り、インクの代わりに魔力で文字が書ける仕組みなっている。
この杖は学園長が開発したものだ。生徒限定で一般流通はしていない。
魔力なしでも使える魔導具とは違い、魔力切れになると使えなくなるのが不便ではある。
――魔法で文房具を作るなんて、発想がすでに天才の領域だと思う。
学園長ってやっぱり只者じゃない。
「聞きたいことってなんだ?こっちは忙しいんだが」
おじさんは不機嫌そうに眉をひそめた。
「すぐ終わりますので!」
「たっく、しゃねぇな」
おじさんは渋々手を洗い、厨房の隅の椅子に腰を下ろした。
鉄鍋の向こうでスープが静かに泡を立てている。
あぁ、落ち着くなぁ……などと考えていたら、オリビアが小さく咳払いをした。
「最近、魚料理の売り切れが続出しているようですが、理由は何か分かりますか?」
フェリシアは率直に切り出した。
回りくどい言い方は性に合わないのだ。
「さぁ?知らねぇな。仕入れの数は減ってねぇよ」
おじさんは、壁に貼られた仕入れ一覧表を指さした。
確かに、記録を見る限り変化はない。
むしろ前より種類が増えているくらいだ。
「疑問は持たないのですか?」
自分の職場で食材が消えるなんて、普通なら落ち着かないと思うのだけど。
「疑問も何も……ないものは無い。いちいち気にしてられっか」
おじさんは肩をすくめ、ため息をついた。
その表情には疲れと諦めが混ざっていた。
――たぶん、本当に知らない。
厨房って、時間との戦いだもんね。考えてる余裕なんて、ないのかも。
「お忙しい中ありがとうございました」
「おうよ」
フェリシアは軽く頭を下げて、厨房の奥へと視線を移した。
煮込み鍋の蒸気がゆらゆらと立ち上り、薄暗い照明に照らされて銀色の煙みたいに揺れている。
ああいう光景、ちょっと好きだ。静かで、温かくて。
次は誰に話を聞こう……。
きっと他の料理人に聞いても、似たような答えが返ってくるだろう。嘘なのか否かの判断もつけにくい。
「おじさん、お皿を洗ってくれている人はどこにいますか?」
オリビアが尋ねる。
声の調子が少しだけ柔らかくなった。
彼女はこういうとき、意外と話の切り替えが早い。
「ここから左奥に進むといる。何か言われたら、厨房長に許可を貰ったと言え」
何やら達人感が滲み出ているとは思っていたが、厨房長だったのか。
「ありがとうございます」
私とオリビアは深々と頭を下げ、言われた通り左の奥へ向かった。
通路を抜けると、皿を洗う音が響く部屋に出る。
お湯の立つ匂い、洗剤の泡、カランカランと軽い音。
どこか家庭的な音で、少し安心する。
「すいませ――」
オリビアが声をかけようとした瞬間、私は彼女の口をそっと塞いだ。
中から話し声が聞こえたのだ。
若い女性が三人と男性が二人。
「最近、魚料理がよく売り切れてるよね」
やっぱり、職員の中にも疑問を持っている人がいる。
「私見ちゃったんだよね、副厨房長が魚を沢山、自分の鞄に入れるとこ」
「そういや、俺も見たわ」
数人の会話が重なる。
オリビアと息をひそめ、耳を澄ませた。
……副厨房長。
名前が出た。怪しいにもほどがある。
「その話、詳しく聞かせて下さい!」
――しまった。
オリビアが思わず割り込んでしまい、次の瞬間――
バリーン! という大きな音が響いた。
職員の一人が驚いて、お皿を床に落としたのだ。
「全く!いきなり話しかけないでよね!!大体、こんなところで何してんのさ」
「すみません。ここに入る許可は厨房長に貰っています」
慌てて頭を下げながら、フェリシアは箒を取り、オリビアはちりとりを抑えた。
逆再生魔法で直すこともできるけれど、今の魔力残量を考えると……やめておこう。
ポーション、もう一本持ってくればよかったなぁ。
「それで、先程の話ですけど」
片付けを終え、再び口を開いた。
「あれは、副厨房長が新しいアレンジレシピを作るために使っているらしいぞ」
沈黙を破ったのは、今まで黙っていた男性職員だった。
「魚の数は覚えていますか?」
オリビアは副厨房長の名を最初に出した女に、静かに尋ねる。
「なんかヤバそうな雰囲気を感じたから、パッと見しかしてないね。だから、沢山としか……」
うん、それは仕方ない。
まだ見ぬ副厨房長の怒鳴り声を想像して、背筋が凍る。
「分かりました。貴重な情報ありがとうございます」
オリビアと軽く会釈をして厨房を出た。
廊下に出ると、外の風がひんやりと肌を撫でた。
魔力灯の光が石畳を照らし、二人の影を長く引き延ばす。
「うーん、とりあえず怪しいのは副厨房長かな」
フェリシアは手にしたメモをペラペラとめくる。
「いくら新作の料理のためでも、食堂で魚が出せなくなるほど使うなんて、ありえないよね」
「やっぱり、犯行現場を抑えるしかない」
オリビアは、殺気に満ちた目でそう言った。
「……となると、今は大人しく営業終了時刻まで待つしかないね」
厨房の扉の向こうからは、包丁の音と鍋の沸く音が微かに聞こえてくる。
――このままじゃ、魚料理は永遠に帰ってこない。
でも、まだ終わりじゃない。
フェリシアは杖を握りしめ、小さく呟いた。
「絶対、真相を突き止める……!」
* * *
フェリシアが事件調査開始前日のこと。
ノアリス女学園の学生寮寮母――ミルドレッド・フォーンは頭を抱えていた。
ここ三日間、食堂から魚料理が消えていたのだ。
初日は「仕入れが少なかったのかしら」と思った。二日目は「もしかしたら調理の手違いかも」と自分に言い聞かせた。だが、今日で三日目――これはもう偶然とは呼べない。
「どうして……どうしてこんなことに……」
彼女の肩にかかる白髪交じりの髪が、明かりに揺れる。普段は明るく穏やかな笑顔で生徒たちを迎える寮母だが、今日は眉をひそめ、硬く唇を結んでいる。
キッチンや食堂の職員たちは、忙しさのあまりか特に何も変わった様子は見せない。だが、ミルドレッドの直感は違った。
何か――いや、誰かが意図的に魚を減らしている。
彼女は椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
頭の中で、次々と情報を整理する。
一、学園には生徒が多く、魚は人気料理のひとつ。
二、その魚が売り切れることは、異常事態と言える。
三、厨房の仕入れは変わっていない。調理や管理に問題はない。
「……これは、誰かの仕業ね」
そう考えた瞬間、背筋にぞくりとした寒気が走った。もし生徒の誰かが関わっているのなら、どうやってこんなに大量の魚を隠しているのか。
ふと、厨房内で副厨房長の動きを思い出す。いつも冷静で几帳面、しかし最近、彼の行動に少しずつ違和感があった。
「まさか……副厨房長?」
疑念は一瞬にして芽生えたが、確証はない。だからこそ慎重に動かねばならない。
ミルドレッドはメモ帳を取り出し、食堂職員の動きや魚の在庫を逐一記録し始めた。寮母として、食事の安全と生徒の満足を守るのは自分の責任。例え職員が犯人でも、見逃すわけにはいかない。
その夜、寮の廊下を歩きながら、彼女は思った。
「もし生徒が明日も、魚のことを尋ねに来たら……何て説明すればいいのかしら……」
少しでも不安を見せれば、噂や不満が広がる。
だから、どんな時でも落ち着いている姿を見せなくてはならない。だが、内心では――
「こんなに魚が消えるなんて、絶対に偶然じゃない……誰かが意図的に……」
ミルドレッド・フォーンは、夜の静かな寮の中で、天井のランプの光に照らされながら、深く溜息をついた。
生徒たちの平穏な日常を守るため、そして学園の食事の安全を取り戻すため、明日、真相を確かめる決意を胸に固めたのだった。
* * *
フェリシアは、寮母さんのドアをノックした。
隣にはオリビアが立っている。
――寮のことは〜?
――寮母さんに聞く!!
さっきオリビアと話して決めたのだ。魚料理が提供されない謎を解くためには、厨房だけでなく、寮内の事情にも詳しい寮母さんに話を聞くのが早道だと考えたのだ。
それに寮母さんは以前、寮内でのお化け騒ぎも解決してくれた。
ノックの音が響く。しばらくして、ドアの向こうから明るくも落ち着いた声が返ってきた。
「はーい、どうしたのかしら?」
フェリシアはほっと胸をなでおろす。寮母さんが自室にいてくれて良かった。この広い寮で、一人を探すのは大変だ。
オリビアと目を合わせ、フェリシアは小さく息を吸った。
「ちょっとお伺いしたいことがあるんです」
フェリシアが切り出すと、オリビアも小声で「食堂のことです」と補足した。
オリビアの一言を聞いて、寮母さん――ミルドレッド・フォーンの顔が真剣になった。
「もしかして、魚のことかしら?」
やはり知っていた。さすがは寮母さん、情報のアンテナは鋭い。
「実は、私も気になっていたの」
「何か心当たりは?」
オリビアが寮母さんに詰め寄る。
(……魚料理がかかってるもんねぇ)
寮母さんは、眉を下げて俯いた。
「副厨房長……」
オリビアがそう呟くと、寮母さんは目を真ん丸くした。
動揺しているのは明らかだ。
「厨房の人に聞き取りをしていたら、副厨房長が魚を大量に使っているところを目撃した生徒や職員がいました」
フェリシアはさらに説明を続ける。
「新作レシピを作るためだという話も聞きましたが、提供に影響が出るほど大量に使うのはおかしいと思います。だから、私たちは副厨房長の横流しを疑っています」
オリビアも身を乗り出し、必死に頷く。
「寮母さん、もう一度聞きます。心当たりはありませんか?」
「……副厨房長には何か、ある――としか言えないわ。私も変だとは思っていたけれど、確証がないの」
「分かりました。夜分遅くにすみません、ありがとうございました」
二人は礼を言って、寮母さんの部屋を後にした。
やはり、副厨房長は怪しい。
仮に彼が犯人だとして、なぜ魚を必要としていたのか。しかも、あれほど大量に。
――あぁ……分からない……。
声にならない叫びが、夜の廊下の片隅に吸い込まれていく。
これは下手をしたら首になりかねないことだ。せっかくこの学園の食堂の職員になれたというのに。今まで、そしてこれからの人生をかけてでもやらなくてはならない事などあるのだろうか。犯人の行動は、理解の及ぶ範囲を超えていた。
オリビアに意見を聞こうと振り返ったが――
隣にいたはずのオリビアが、影も形もなくなっていた。
まさか――廊下に立ち尽くす自分の視界の端に、消えた存在が走馬灯のように残像として残る。
「オリビア!?どこ……?」
足を踏み出す。廊下を見回す。
呼びかけるが、応答はない。
心臓の高鳴りが、周囲の闇をより深く感じさせる。
廊下を駆け戻り、角を曲がった瞬間――目に入った光景。
オリビアが、ひざを抱えてしゃがんでいる。
その瞬間、フェリシアの胸に、安堵と同時にひとつのことがストンと落ちた。
――そうか。謎は、解けた。
* * *
食堂の明かりが消え、厨房は静寂に包まれていた。フェリシアは軽く肩を震わせながら、横一列に並ぶ職員たちを見渡す。夜の冷気が背筋を撫で、彼女の鼓動をかすかに揺らす。
その隣に友人のオリビアの姿はない。
「謎が解けました」
小さく告げる声は、空気に溶けるように消えた。
「謎ってなんの謎だい?」
食堂のおばさんの声が、静まり返った部屋にぽつりと落ちる。
フェリシアは静かに息を吸った。
「この食堂から魚が消えるという悲惨な事件……魚横流し事件の謎です」
副厨房長がフェリシアの言葉を鼻で笑う。
彼の目には、何か言葉にできない挑戦的な光が宿っている。
「犯人はこの中にいます!」
空気がピンと張り詰める。
「犯人は――」
フェリシアがそう言いかけると、隠れていたオリビアが静かに姿を現す。
「皆さん全員ですよね?」
オリビアの腕には、黒猫が小さく丸まっている。光に反射する瞳は月夜の湖のように冷たく光った。
「この子……いえ、この子たちが原因ですよね?」
更衣室のドアを開くと、数十匹の猫たちがフェリシアの目の前に姿を現す。
子猫から大人の猫まで、大小様々な猫がいっぱいだ。
「し、仕方ないだろ!上に報告すれば殺処分か、魔法の実験動物にされちまう」
過去の事件が、フェリシアの頭にちらつく。
「集団猫虐殺事件のことですね」
かつて、教師が何百匹もの猫を魔法の実験に使った残虐事件。
教育上不適切として、教師は首を切られた。なお、物理的にではない。
「……通常あの様な事は起こりません」
「でも、あの事件が起きたのは事実でしょう……!」
皿洗いの職員の一人が声を荒らげ「私たちは猫を助けたかっただけ」と主張した。
「バカ!みんな、言うんじゃないよ……私一人が罪を被るそれが約束だっただろ?」
副厨房長がそう言った。
皿洗いの職員に聞き取り調査をした時も盗み聞きしたと思っていた。
けれど本当は、私たちに気づいていたみたいだ。
きっと、厨房長との会話を聞かれていたのだろう。
だとしたら神演技だな、とフェリシア静かに舌を巻く。
緊張の糸が張られ、微かな空気の振動が胸の奥にまで届く。
オリビアの小さな声が、フェリシアの耳に響いた。
「この子たちを本当の意味で助けたいのなら、皆さんは飼い主探しをすべきでした」
オリビアの言う通りだ。いずれバレる事など分かりきっていただろう。
「この事は先生に報告しま」
「フェリシア!」
オリビアは首を横に振った。
(……はぁぁぁぁーー。仕方ない)
「分かった。先生には報告しない」
フェリシアの決断は静かに、しかし確実に場を支配する。
「ただし、飼い主を探すことが条件です」
それから、私とオリビアは厨房の職員たちと一緒に、猫の飼い主募集のチラシを作った。
深夜の厨房はしんと静まり返り、油の香りと紙の擦れる音だけが漂っている。ランプの光が薄く揺れ、影がテーブルの上を泳いだ。
「夜遅くまですまねぇな。嬢ちゃんたちは勉強で忙しいだろうに申し訳ねぇ」
厨房長の言葉に、私は引きつった笑みを浮かべる。
(うぐ……それは禁句だよ、おじさん……)
「あはは……大丈夫ですよぅ」
言葉とは裏腹に、心の中で悲鳴を上げる。
(あぁぁぁぁ、治癒魔法学のレポート!!)
鞄の中に放り込んだ未完成の課題が、脳裏に鮮やかに浮かぶ。今すぐ戻って仕上げたい。けれど今は、それより大切なことがある。
ふと、オリビアが膝の上に抱えた黒猫を見つめていた。
他の子たちはミケや白猫なのに、その子だけが漆黒の毛並みを持っている。
「この子、貰い手見つかるかな」
小さな声が、夜気の中に溶けた。
黒猫は忌まわしい象徴とされることが多い。
闇魔法、魔王、災い――そんな言葉を人々は勝手に結びつける。
本当はただの属性の一つでしかないのに。
「こんなに可愛いのにねぇ」
オリビアが撫でると、黒猫は気持ちよさそうに喉を鳴らした。
黄色の瞳が灯りを映し、まるで夜空に浮かぶ満月のように輝いて見えた。
「この子、私たちで面倒見る?」
そう言うと、オリビアはぱっと花が咲くような笑顔を見せた。
「嬢ちゃん、本当にいいのか?」
厨房長の声に、フェリシアは頷いた。
「使い魔の契約をしようと思います。ちょうど迎えようかと考えていたんですよ」
使い魔の契約――魔術師と魔獣の絆を結ぶ儀。
血で名を刻み、魔力を分かち合うことで、互いに力を貸し合う存在となる。
主人の魔力が強ければ、使い魔もそれに応じて成長する。
フェリシアは厨房にあった小ぶりなナイフを手に取った。
刃先が灯りを反射して、銀の線が一瞬走る。
人差し指に小さな切れ目を入れ、滲んだ血を紙に押しつけた。
その上に自分の名を、そして黒猫の名――
「この子の名前どうする?女の子みたいだけど」
フェリシアは腕を組んで考えた。
「マレ、なんてどう?」
「マレ?確か、中等部の授業でやった……。月の模様のこと、だよね?」
オリビアの言う通り、月の暗い部分を指す言葉だ。
「海って意味があるらしいよ。月の海っておしゃれじゃない?」
「うん、いいね」
オリビアの同意も得たところで、紙の上に文字を刻んだ。
――Mare
私は小さく息を吸って、黒猫を抱きしめた。
「オリビア、私が抑えるから、後ろ足からお願い」
「ごめんね、ちょっとだけ我慢してね」
マレは一瞬、毛を逆立てて小さく鳴いた。
その爪が私の手の甲に細い線を刻む。
「つぅ……。あぁもう、私の血これで良かったじゃん」
涙目になりながらも、どうにか血を取ることに成功する。
『契約』
呪文が静かに響いた瞬間、マレの首に黄色い首輪が現れた。
淡い光が脈打つように明滅し、やがて穏やかに消える。
「ご主人様?」
澄んだ、少女のような声が響いた。
フェリシアは驚いて目を瞬かせる。
「フェリシアって呼んで」
「はい、フェリシア様」
思わず苦笑が漏れた。
「様」は、どうにもくすぐったい。
「これからよろしくね、マレ」
マレは軽く尻尾を揺らし、フェリシアの指先を舐めた。
その瞬間、空気がわずかに震えた気がした。
厨房のランプの炎がふっと揺れ、壁に映る影が波のように広がる。
どこからともなく、甘く冷たい風が入り込み、乾いた紙の端をそっと撫でた。
マレの瞳が金色に光を宿す。
その輝きは、夜の底で灯る小さな灯火のようで、見ているだけで胸の奥が温かくなる。
掌の中のぬくもりが、静かに跳ねる。
マレの魔力が、糸のようにフェリシアの中へ流れ込んでいく。
外を見上げれば、窓の外に月が出ていた。
雲の合間から覗くその光は、マレの瞳と同じ色をしている。
遠くで煮込み鍋の泡がひとつ弾ける音がして、現実がゆっくり戻ってくる。
「……ふふ、やっぱり可愛いね」
オリビアの声が優しく響いた。
フェリシアはマレを胸元に抱き寄せながら、小さく頷く。
夜は深く、レポートも未完成。
けれど、柔らかな光が差し込むような――そんなポカポカとしたものが、フェリシアの心を満たしていた。




