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第十話 地獄……って、このこと?

 初夏の陽気。清々しい風がリリア・マルシェのグレージュの髪を撫でる。

 この頃、日中はすっかり夏らしさを感じるようになったが、夕方はまだ過ごしやすい。これからねっとりとした気候になると思うと、ため息が出そうだ。いつも低い位置で二つに髪を結っているリリアだが、首周りが暑くなってきた。制服の衣替えをする日も近いかもしれない。

 オフホワイトのブレザーの裾を僅かに摘みつつ、季節も移り変わりに思いを馳せていたリリアだが、そろそろ現実に戻らないといけないようだ。

 リリアは今、正座をしている。

 一応、言っておくと強要されている訳ではなく自主的にだ。


「……少しは頭が冷えたか?」


 誰もが凍りつく冷ややかな重低音が、リリアの背筋を通り過ぎた。

 声の主は、魔法戦闘学の教師――フェランディ・オルレアンだ。

 オルレアン先生が氷の声を浴びせたのは、リリアではなく彼女の唯一気の許せる友人――ヴィヴィアン・ボネットである。

 リリアはすぐにでも謝り尽くしたい気分だが、当事者のヴィヴィアンはそんなこと無さそうだ。オルレアン先生がどんなに空気を凍らせても、リリアが胃の縮む思いをしていようとも、何処吹く風のようだ。

 オルレアン先生の闇魔法によって手足を拘束されたヴィヴィアンは、元気よく大きく口を開ける。

 

「平熱は36.8!多分今もそのぐらいだ!!」

 

 ふんすっと鼻を鳴らし、何故か得意げだ。

 もちろん「頭が冷えたか?」というのは物理的なものではない。それなのにヴィヴィアンは、彼女の性格をそのまま表したような、カッパーレッドの髪を勢いよくかきあげて、おでこをペチペチと触ってみせる。

 頭が痛くなるような発言を受けて、オルレアン先生はこめかみを押さえてしまった。

 

 決して、平熱少し高めだな、と呑気なことを思っている場合ではない。

 もうずっとこんな調子だ。ヴィヴィアンがちょっと――いや、かなりズレたことを言って、オルレアン先生を刺激する。

 場を収めてくれそうなフェリシア先輩とオリビア先輩は、ドゥヴァル姉妹とラモンさんを探しに行ってしまった。


 三人とも、どこ、行っちゃったんだろ。


 自分も同じく、補習に遅れてきたことはすっかり棚上げして、行方不明の三人を責めた。

 こういう時、自分が気遣いの言葉をかけられたら良いのに、と幾度となく思う。とはいえ対人恐怖症のリリアには、オルレアン先生に気の利いた事を言う事なんて出来ない。

 結果、拘束されて転がっているヴィヴィアンの隣で置物になることに徹した。これこそが事の真相である。

 ヴィヴィアンをほっておくという選択肢もあるのだろうが、ピリピリとした雰囲気の中、知らん顔をして平然と出来るほどの神経の図太さをリリアは持ち合わせていない。

 それでもリリアにはできることが一つだけあった。

 これ以上ヴィヴィアンが余計な事を言わないように祈ることである。

 祈りに祈って、心の底から祈りまくった。


 ……どうかこれ以上、ヴィヴィアンが変なこと、しませんように。


 神でも精霊でも何でもいい、とにかくこの場を穏便に終わらせてほしい。しかし、リリアの必死の祈りはあっさりと砕かれた。

 ヴィヴィアンは生徒らしくバシュッ、と勢いよく手を挙げる。

 

「先生っ、一つ質問!!」


 やめて、やめて、やめて。

 

 声にならない懇願は、誰の耳にも届くはずもない。


「…………なんだ」

 オルレアン先生がつっけんどんな態度で返した。

 リリアの肩がびくりと跳ねる。恐る恐る目を開けると、案の定、ヴィヴィアンがきらきらとした目でオルレアン先生を見上げていた。拘束された人間がこんな顔をしたと言って誰が信じようか。

 

「この拘束魔法……ゆるいような?簡単に解けそう」


 ヴィヴィアンは、魔法で作り出された黒い縄を気にするように、眉を寄せる。

 なお、リリアが思ったことは一つだけである。

 

 ……お願いだから黙って。


 オルレアン先生は「ふん」と軽く鼻で笑ってから、口を開く。

「抜けられるものなら抜けてみろ」

「おぉー!いぃなぁ、そーゆうの!!面白くなってきた!!!」


 リリアとしては何も面白くない。もう、補習なんてどうでもいいから早く帰りたい。胃に穴が開く前に帰りたい。切実にそう思った。

 ヴィヴィアンは嬉々として、縄抜けを披露しようとしたが、ヴィヴィアンが力を入れれば入れる程、服のシワが濃くなっていくように見える。


「あぁん?なんだこれぇ!?」

「それは縄から逃れようとすればするほど、締めつけがきつくなるように改良した魔法だ」

 普通の闇魔法の使い手ならば、ヴィヴィアンの力技が通じたかもしれない。だが、オルレアン先生は、名門魔法学園の教師なのだ。ヴィヴィアンは喧嘩を売る相手を間違えたとしか言いようがない。

 

 ……まぁ、ヴィヴィアンは喧嘩を売った自覚なんて、ないんだろうけど。


 負けじと、力を強めたヴィヴィアンだが、脱出できる気配は微塵もない。

 その様子を見てオルレアン先生は笑みを浮かべる。笑っているのに、冷ややかで恐ろしい。怖いから帰りたい。


「力任せとは……。仮にも魔法を学ぶ者がすることではないな」


 オルレアン先生が嫌味ったらしくそう言った瞬間、悔しそうな顔をしたヴィヴィアンの懐からパリンッ、と乾いた音が不自然なほどに響いた。

「ぬわ!?」

 ヴィヴィアンが間の抜けた声を漏らす。

 同時にリリアの背中をゾワゾワッ、とした嫌な予感が駆け上がった。


 今の音、なに……!?


 リリアの視線が自然と、ヴィヴィアンの胸元へと向かった。

 オフホワイトのブレザーの内側。

 懐のあたりが、じんわりとインクを零したように光っていた。


「動くな」


 緊急事態を察知してリリアはもちろん、ヴィヴィアンもピタリと動きを止めた。

 オルレアン先生の声は、先程とは違う冷ややかさを纏っていた。それはほんの僅かに緊張を含んでいたように感じる。その変化にリリアの心臓は跳ねた。自分の心音がやけに近く聞こえる。


「おぉぉぉ、あぇ、オ、オルレアンせん……」


 状況を聞こうとリリアは、何とか声を発したが、全て言い終わる前にヴィヴィアンの内ポケットからポトリと何かが落ちた。

 それはオルレアン先生が、早口の詠唱で拘束魔法を解除したのとほぼ同時だった。

 地面に転がって姿を見せたのは、小さな球体だ。

 黒々と不吉に光るそれは、表面にヒビが入り、内部の光が不規則に脈打っていた。

 オルレアン先生は眉をひそめて、低いくけれどよく響く声で呟く。


「……魔道具か。それもかなり高価な」


 この魔道具の価値などリリアには皆目見当もつかないが、オルレアン先生の声色から、それが普通ではないものだと分かった。

 そうすると、一つ疑問が残る。

「ボネット、何故こんなものを持っている?」

 リリアの疑問をそのまま、オルレアン先生が言葉にした。

 本当になぜなのだろう。高価な魔道具など、いち学生が持てる代物ではない。

 ヴィヴィアンはひょいっと、魔道具をオルレアン先生から取って、手の中でころりころりと転がす。

 

「これ、さっき廊下で拾ったんだけど。……綺麗だよなぁ!」

 

 ヴィヴィアンが、まるで河原で小石でも拾ったかのような軽さで言った。

 その能天気な態度に、リリアの思考は固まって動かなくなった。


「馬鹿者。出処も、用途も分からんような魔道具を持ち歩くな」


 オルレアン先生も思考が一時停止していたようだが、再起動したところで、ヴィヴィアンに雷を落とした。

 オルレアン先生が「こちらによこしなさい」とヴィヴィアンに一歩近づいたが、遅かった。

 パキッ、パキパキパキ、と音を立てて一気にひびが広がる。

「えっ、ちょっ、わっ、わわわわ」

 亀裂が入った箇所から、黒い何かが滲み出るように溢れ出した。布のようなインクのような、正体不明の黒くて細長い何かがヴィヴィアンの体を取り巻いていく。それはまるで意思のある生き物かのように見えた。

 ヴィヴィアンとは、長い付き合いだが、これ程焦った声をリリアは聞いたことがない。


「離れろ!」


 オルレアン先生が叫ぶのと、ヴィヴィアンの体が完全に見えなくなるのは、ほぼ同時だった。

 そして、今までで一番鋭い音を立てて、魔道具が完全に砕けた。世界が暗転したかと思えば、次の瞬間にはパッと、照明がついたかのように地明かりになった。あまりの速度に瞳孔の調節が追いつかない。リリアは、数回瞬きをして物の輪郭を見ようと努めた。

 ぼんやりとした輪郭が徐々に鮮明になって、すぐに異変に気がついた。


「ヴィヴィアン…………?」


 そこにいたはずのヴィヴィアンの姿は何処にもなく、残っているのは割れた魔道具の破片だけだった。

リリアの懇願は、ヴィヴィアンには何も伝わりませんでした。


次回は、ヴィヴィアン視点です。

異空間を探検します。

ヴィ「ひゃっふぅーー!!!」

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