第一話 金髪の私
これは、永き戦乱に終止符を打った一人の少女の物語。
光魔法を操り、人々に希望を灯した勇者にして、魔王の妃。
その名は、フェリシア・エルダン。
* * *
あぁ、暇だなぁ。
十六、七ぐらいの見た目の金髪の少女は、水色の目を細めて欠伸をする。
彼女は、治癒士の両親が営む店――ポーションの専門店「HERBA」で店番中だ。
昼を過ぎると客足が途絶えるのがいつものことで、今日も店内はぽかぽかとした陽気に包まれている。
何が言いたいかと言うと……
「フェリシア、起きなさい!」
「ふがっ!」
そう、とても眠いのだ。
母が棚から薬草を取ろうと調合室から出てきた。
「母さん……全然、客来ないけど私の存在価値ある?」
「文句言うなら、お小遣い減らすけど良いのかしら〜?それにお客様でしょ?」
母はそれだけ言うと調合室に戻ってしまった。
フェリシア・エルダンは、ノアリス女学園に席を置いている。ノアリス女学園の教育理念――それは魔法関係職につける魔法使いの人材の育成だ。騎士学科、治癒魔法学科、魔道具士学科の三つの学部に分かれている、国内だと、五本の指に入る名門学校である。
ノアリス女学園は全寮制。
休日にこうして実家に帰って来ているだけで、親孝行だとフェリシアは思う。それなのに、こき使われて……。一体娘をなんだと思っているのだろうか。
それでも、フェリシアにとって臨時のお小遣いは魅力的だった。
(……ぐんぬぅぅぅ、致し方ない)
フェリシアは眠い目をこすりながら、店番を続けることにした。
* * *
ここは領地セレスターリア領。
治安がよく、治癒士や薬師などの魔法職が多く集まる中規模の領地だ。
しかし平民でも魔力を持つ“上級平民”でなければ、住民権を得ることが出来ない。それだけに、どの家もそれなりに豊かな暮らしをしている。
フェリシアは、自分の髪の一部を摘み、気の向くまま指先で回した。
腰ほどまで伸びた金髪は、毛先まで手入れが行き届いている。
魔力には八つの属性があり、髪や瞳の色がその資質を示す。
光は金、闇は黒、風は緑、水は青、氷は水色、土は茶、炎は赤、雷は橙。
髪や瞳に現れる色は、当人の努力次第で上級魔法まで習得可能だ。その逆は、せいぜい初級までだろう。残酷なことに、生まれ持ったもので将来の道がある程度決まってしまうのだ。
フェリシアはその中でも光属性を象徴する髪と目で生まれた。
光属性と闇属性は初級魔法を使えるだけで将来安泰と言われている。それだけ八つの属性の中でもこの二つの属性は稀有なのだ。
(⋯⋯なんで、こんな髪で生まれちゃったかなぁ)
周囲の反応はさまざまだ。
期待、嫉妬、崇拝。
けれど“私”という人間を見てくれる人はほとんどいなかった。
* * *
「カランカラン」
お店のドアの開閉音が鳴り、フェリシアはサッと姿勢を整えて沈んだ気持ちを切り替えるべく、営業スマイルを作る。
「いらっしゃいま⋯なんだ、オリビアかぁ」
フェリシアは、店に入ってきた人物を見るなり、再び頬杖をついた。
「なんだとはなによ⋯それに顔と声、変わりすぎ」
彼女はオリビア。小学部時代からの付き合いであり、いわゆる幼なじみと言うやつだ。
オリビアは友人の変わりように、紫色の目を細めて苦笑いする。
しかしフェリシアはというと、オリビアの呆れ顔を前にしても、気だるげな態度を隠くそうともしない。
「営業スマイルと営業ボイスは、友達に対して振りまくもんじゃないの。それより今日は何を買いに?」
店番を任されている身で、耳を疑いたくなる発言だ。
フェリシアは「よいしょ」と言い、椅子から立ち上がった。疲労を感じさせる声はまるで、おばちゃんのようだ。
そのまま重たい足で、ポーションの棚へ移動する。
「悪いんだけど解毒系は、売り切れてるよ」
「え、解毒系って……何かあったの?」
「先週近所の酒場で結構な人数が食あたりになってねぇ……」
フェリシアは、虚ろな目で何処か遠くを見つめる。
あれは、本当に大変だった。
店を閉めて家族で夕食を食べようとしている時に、来るものだからタイミングも最悪だ。あまりに患者の人数が多いものだから当然、光魔法の使い手であるフェリシアも駆り出された。
ポーションだけでは対応しきれず、ヒールもかけなければいけなかったので、かなりの魔力を消費した。それなのに深夜まで対応に追われて、何も食べれなかったから、お腹が空いて仕方がなかった。
無論、ポーション代は店主にしっかり払って貰った。加えて、店主は「夜遅くまですまねぇ」と言って店の割引券をくれた。
誰が食中毒患者を大量に出した店に行こうと思うのだろうか。割引券を床に叩きつけなかった私を褒めて欲しいものだ。
フェリシアが深く息を吐くと、全て察したかのようにオリビアはポンッと肩に手を置いた。
そしてフェリシアを慰めるような声で、オリビアは解毒系を買いに来たわけではないことを伝えてきた。
「お母さんが料理中に手を怪我しちゃって、切り傷用のポーションを貰える?」
「あー、じゃあ、プラーガがいいかな」
「でもお母さん、最近疲れてるみたいだから、疲労回復効果もあるハオマの方がいいかも。在庫ある?」
何時でも取れることで有名なプラーガとは違い、ハオマは時期が限られている。今は少し時期がズレているので置いてない店も多いだろう。
流石、オリビア。治癒魔法学科で成績がトップなだけあるね。
ポーションの知識、薬草の知識、両方とも申し分ない。ポーションの原料は薬草なので治癒士を志すなら、薬草の知識は当然必須になってくる。
「うーん、確か……。ちょっと待ってて」
フェリシアは店頭を離れて、裏にある家族の生活スペースに入った。すると、すぐに母に呼び止められた。
「ちょっとフェリシア、店番は?」
母は、鬼の形相でフェリシアを睨む。
元々スッキリとした顔立ちの母が睨むと、やはり迫力がある。平常時よりもつり上がった目から、逃れるように、フェリシアは視線をさ迷わせる。
(……誤解だよ、母さん)
きっと、裏に居るものだから、サボっていると思っているに違いない。
「ハオマのポーションを探してたの。オリビアが買いたいらしくて」
「あら、オリビアちゃんが」
母は“オリビア”の名を聞いた途端、にっこり笑った。
(⋯⋯いや、表情が一気に変わりすぎ)
心做しか声のトーンも変わった気がする。
「ハオマのポーション、家族が使う用に残して置いた気がするんだけど?」
「そうね、確かそっちの棚にあったわ」
母はフェリシアが向かおうとしていた棚を指す。
フェリシアは「だから、最初からそこに行こうとしてたんだよっ!」という言葉を飲み込み、口を開く。
「分かった探してみる」
フェリシアがそう言うと、母はそそくさと自室へ向かった。どうせオリビアが来たからと、身だしなみを整えに行ったのだろう。
まったく、外ズラはいいんだから。
フェリシアは棚の中を覗いてお目当てのポーションを探す。
「どれどれ、プラーガ、オヴゥレ、シラーム……」
オヴゥレはリラックス効果、シラームは傷跡を消す効果があるものだ。
(うーん、おかしいなぁ。まだ使ってないはずなんだけど)
手前のポーションを避けて、奥の方も覗いてみる。
「あ!!あったあった」
良かった、最後の一個だ。
これで、オリビアも喜んでくれるだろう。フェリシアは避けたポーションを綺麗に並べて、店頭へ戻る。
「オリビア、お待たせ。あったよ」
「でもそれ家族で使う分じゃなかったの?」
「大丈夫、まだ五つぐらいあるから」
本当は最後の一つなのだが、嘘も方弁ってもんよ。
オリビアにはいつも助けられてるし、こういう時は役に立ちたい。
中等部の頃は、大の苦手な応用算術の課題を、よく手伝ってもらったものだ。
応用算術は重さや古代単位の換算ばかりで、本当にややこしい。小学部で習った足し算や引き算なんて可愛いものだ。たとえば──『古代数字に直したときの値を求めよ』なんて問題が出る。一カルクスは二グラムで、一ラピスが二キログラムだから……って、もう頭がこんがらがる。
あぁぁぁ、ややこしい!本当に応用算術は嫌いだ。
魔法具士になりたい者にとっては必要な学問らしい。彼らは、自分で魔導具を作る魔導具士とは違い、ドワーフが鍛えた器具に魔法を付与するから、古代数字を使うドワーフたちと協力する機会が多いのだとか。
けれど、当時から騎士学科を目指していた自分には、ただの苦行に思えた。
「これでよしっと」
包装を終え、彼女に手渡す。
「ありがと。それでね、今日は他にも用事があって……」
オリビアは何やら、口をモゴモゴと動かしている。
微かに揺れている白髪は、店に差し込んだ光を反射させ、キラキラと光っている。
最近のオリビアはずっとこんな調子だ。何か相談事があるのだろうが、言い難いのか、なかなか話してくれない。
オリビアに出会ったのは小学部三年の時だから、かれこれ九年の付き合いになる。ただ付き合いが長いと言うだけでない。辛い時に一緒に居てくれた、大事な友人なんだ。もし、オリビアが何か悩んでいるのなら、真面目に聞くし、解決策がないか一緒に考える。
「オリビア?」
「⋯⋯あ、あのね実は」
「いらっしゃいオリビアちゃん」
奥から母が出てきた。
つい先程までいかにも、引きこもり研究者といった感じの身なりをすっかり整え、キメ顔でやって来た。
フェリシアはそんな母を、ついジトっとした目で見てしまう。
茶色い髪は、ボサボサからサラサラに。緑の瞳は、まつ毛が整えられているからか、いつもよりパッチリして見える。
それを見てオリビアは「ヴェルディおばさん、お邪魔してます」と軽く頭を下げた。
それにしても、丁度オリビアが何か話してくれそうだっのに――。
間が悪いったらありゃしない。
「それで、オリビア話の続きは?」
「えーと…………私、ヴェルディさんに相談があるんです」
(なぬ!?私にではなく、母さんに?オリビア、私なんでも聞くよ??)
フェリシアはキョトンとした顔をした母を、今度は意識的にジトっとした目で見つめた。
オリビアはと言うと、母に相談があると言って置きながら未だに口をもごもごさせ続けていた。
けれど、少し間をおいて顔を上げると、まっすぐ母を見つめた。
「実は、後期から始まる実習先にこの店を考えていまして、許可を頂きたく!」
オリビアはガバッと頭を下げる。
(ははあーん、そういう事ね)
言い出しづらいわけだ。
フェリシアたち高等部三年生は、後期から実習が始まる。そのため、実習先の争奪戦は高等部に上がってすぐ始まるのだ。
(私は騎士学科だから、自動的に騎士団に決まってるけど……)
最近の、オリビアらしからぬ落ち着きの悪さは、このせいだったようだ。もっと早く気づいてあげるべきだった。
「なんだ、あまりに深刻な顔をしていたのもだから、何かと思ったわ。それなら大歓迎よ!」
母は笑顔で言った後、ちらりとフェリシアを見やる。
「気が利くオリビアちゃんが来てくれたら、お店の仕事が大分楽になるわ〜」
後半に妙な皮肉が混じってた気がするけど、聞かなかったことにしよう。
「ですが……」
オリビアの顔に影が落ちる。
「他の子たちは受け入れ先を探すのに苦労しているのに、私はフェリシアと仲がいいからってだけで、こんなコネみたいな事……」
真面目だぁ、ほんと。
使えるものはなんでも使えばいいのに。その方がきっと人生楽に生きれる。
「オリビアは『コネ』って言ったけどさ。私と仲が良くて、許可が出そうだからうちに交渉しに来たわけ?」
自分でもオリビアに問いかけたそれを、愚問だと感じる。
「違う」
ほら、やっぱり。
母もそれを分かっているから、すぐに頷いたのだろう。
「それなら、理由を聞いてもいいかしら?」
「私は、お客さんに寄り添える治癒士になりたいと考えています」
優しいオリビアらしい夢だなぁ。
フェリシアは胸の奥が暖かくなるのを感じた。
「このお店に、兄や両親もたくさんお世話になりました。でも、それだけじゃないです。私は、ヴェルディおばさんの怪我人に対する対応を見て、治癒士を志しました」
オリビアはやや肩に力が入った状態でそう言った。
「私は?私は??私の対応は〜〜?」と和ませるつもりで、冗談を投げてみた。けれど、すぐ「今はそういうのやめて」とオリビアが目で訴えかけてきた。
少し、申し訳ないことをしたと、フェリシアは縮こまる。
(ごめんね、オリビア。後で、好物のシホンケーキご馳走するから)
オリビアはコホンと軽く咳払いをして、続ける。
「私たちエルフ族は、長い時を生きています。私自身、特に目標も夢もなく、ダラダラと生きてきました……」
フェリシアも母も、自然とオリビアを耳に視線が動く。
エルフ族は、高い魔力を持って生まれてくることが多いと、学園の授業で学んだ。そして、基本八属性以外の白は、高い魔力を持っている証だ。オリビアが白髪なのは、エルフ族あるがゆえのことだろう。
「つい最近までは、学園に通ったり、友達ができたり……。こんな幸せなこと、想像もしませんでした」
オリビアは、フェリシアの方を見て微笑む。
「私に、生きる意味をくれたこのお店の役に立ちたいです」
今までどんなに聞いても、治癒士を志た理由を教えてくれなかったのは、うちの店が関わっていたからだったみたいだ。
きっと、照れくさかったのだろう。
「なら、胸を張って実習に来なさいな」
母は柔らかく微笑んだ。
「私が許可を出したのは、娘と仲が良いからじゃないわ。努力家で、自分の夢にまっすぐなオリビアちゃんを応援したいと思うのは、おかしいかしら?」
「全然おかしくないね。至極真っ当だね」
フェリシアは即答していた。
「ふふっ、じゃあ、もう一つお願いをしても良いですか?」
「何かしら?」
「普通は、いろんなお店を回って課題をこなして、候補生同士で枠を競います。私だけ楽をするのは嫌なんです……!」
「つまり、課題を出して欲しいってことかしら?」
母は、指を口に当てる。これは、母が何かを考える時のくせだ。
(……あーあぁ、黙ってればいいものを)
どうして自らの首を絞めるような真似をするのか。
「オリビア、競う相手がいないのに課題を出したって意味が……」
「それじゃあ、私の気が収まらないの!」
真面目を通り越して努力家バカだな、この子は。
オリビアのそういうところは嫌いではないが、少しは要領よく生きることを覚えた方がいいと思う。でないと、苦労するのは自分だ。
「分かったわ。任せる仕事も変わってくるし、実習前に実力を測っておくのはいい考えね」
母さん、頼む。
難易度はそんなに高くない、でもってオリビアが納得するような、そんな絶妙なラインの課題を――。
何か思いついたのか、母は口に添えていた手を顔の横に持っていき、ピンッと人差し指を立てた。
「お店に出せるようなポーションを種類別に三つ、作ってきて頂戴」
…………。
……はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!?
母がにこやかに爆弾発言をするものだから、思考が一瞬で吹っ飛んだ。
「私がオリビアちゃんぐらいの年齢の時、すでにポーション作りをしていたし」
だから、優秀なオリビアなら余裕だと、そう言いたいのだろう。
フェリシアは眉間に手を添えて項垂れる。滅多に取り乱すことの無いオリビアですら、目を丸くしていた。
いくらオリビアが優秀とはいえ、無茶ぶりが過ぎる。
それぐらい学科が違うフェリシアにだって分かる。しかし、母はそれを無茶だと思っていないのだろう。
(これだから独学で資格取れちゃう天才は⋯⋯!)
お店に出せるポーションの課題といったら、働き初めて二年経った見習いが受けるレベルだ。それだけ、お店に出せるような完成されたポーション作りは、難しいのだ。
当然学生に出す課題ではない。
「あー、母さん、それは流石に……」
母に物申そうとしたフェリシアの手を、オリビアがそっと取った。
「分かりました」
なんで分かっちゃっうの!?
フェリシアの頭の中で警報が鳴り響く。
天然で無茶ぶりをふっかけてくる母に、期待に応えようとする努力家のオリビア。
この二人を掛け合わせたら、絶対ロクなことにならない。
「オリビア……実習先考え直した方がいいんじゃない?」
「何を言っているの?」
「そうよ。どこのお店にも、オリビアちゃんを渡さないわ」
(何が「そうよ」だっ!)
「私は茶髪の緑目だから、上級まで扱えるのは土魔法と風魔法。光魔法は初級までしか使えないのよねぇ」
なんだか、嫌な予感がしてきた。
そんな私の不安を他所に、母は涼しい顔をして続ける。
「オリビアちゃんは、部分的に金髪が混ざっているから、光魔法も中級程度まで扱えるはず。それに、水と炎魔法もポーション作り向きだわ」
母はオリビアの紫色の瞳を見つめる。
確かに、オリビアは、光、水、炎魔法の中級魔法を全て扱える。三年に上がってから、いくつか、水と炎なら上級まで扱えるようになった。
本来、母の土属性は魔道具作り向きだ。だから、内心少し羨ましいのだろう。年甲斐もなく、目がキラキラと輝いていた。
「期待してるわね」
あぁぁぁー、頼むからそれ以上オリビアに圧をかけないでくれ。
フェリシアは頭を抱えた。
その時、店内に「ジリジリジリジリィィ」という鋭い音が響いた。
この国に流通している一定間隔で鳴る魔道具だ。
学校でも授業終了時刻の合図として利用されている。
「母さん!店番の時間終わりだし、買い出しにでも行ってくるよ!!」
「あら、珍しいわね。じゃあ、モーリュの実を買ってきて頂戴」
モーリュは毒を打ち消す作用がある薬草だ。
実は、滅多に手に入らないだけあって値も張るが、死に至るほどの毒でも打ち消すことが出来る。
うちみたいな小さい店だと、まず置くことは無い。
最近は、贔屓にしてくれるお貴族様がいるので、潤っているようだ。きっと、モーリュの実もそのお貴族様の注文なんだろう。
それにしても、下町の店に来るなんて、変わっているお貴族様だ。
フェリシアは母から薬草代を受け取る。大金を持ち歩くことはそうないので、なんだか緊張してきた。
「オリビアもポーションの材料買うでしょ?一緒に行こ!」
「そうね。失敗することも考えると、結構な量がいるかも」
そういえば、ポーションに使う材料費はオリビアが出すのだろうか。
「オリビアちゃん、薬草店で領収書をお願いしてね」
フェリシアは肩を下ろす。その点は天然が発動せずに済んで安心した。
「遠慮せずに買ってきていいのよ?この間、夫のへそくりが見つかったところだし」
父は休みを貰って、騎士時代の友人と出かけているところだ。
(父さん、お気の毒様)
フェリシアは、遠い目をして、父の顔を思い浮かべる。
「テオおじさんに悪い気もしますが、分かりました。ありがとうございます」
「ささ、オリビア、行こ!」
名残惜しそうなオリビアの腕を引っ張って、店を出た。
* * *
街の通りはまだ明るく、傾きかけた陽の光が屋根瓦を淡く照らしていた。
商人たちは店先で、常連客との世間話に花を咲かせている。
香辛料の香りが風に乗って流れ、遠くからパンを焼く香ばしい匂いも混じった。
石畳を歩くたび、靴底が小さく鳴る。
その音が、夕刻の街のざわめきと溶け合って、心の奥に妙な静けさを残す。
「オリビア……あの課題、本当にやるつもり?」
「近い将来やることだもの!それに、期待してくれてるんだから頑張らなきゃね」
やはり、努力バカのオリビアに「期待してる」は禁句だ。
「オリビア、無理しないでよ……」
「ええ」
オリビアの横顔は夕陽を受けて金色に輝いている。
彼女の髪が風に揺れるたび、白と金の糸がきらきらと光をはじいた。
あんな無茶な課題を出されたのに、不安よりも決意の色が濃い。
フェリシアは重い足を前に出しながら、心の中で小さくつぶやいた。
まったく、努力の方向が真っすぐすぎるんだから。
思わず苦笑して、空を見上げた。
陽はゆっくりと傾き、雲の端が橙に染まりはじめている。光はまだ温かいのに、風だけがほんの少しだけ冷たい。
今日のところは、オリビアを早く店から引き離せただけでも、上出来だと思うことにしよう。
夕焼けの空に溶けるように、フェリシアのため息が静かに消えていった。




