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短編

とばっちりだよ! 妹ちゃん!!

作者: 猫宮蒼



 ファリス・ランディエラは激怒していた。

 きっと間違いなく今までの人生の中で一番激怒していた。


 ファリスはまだ12歳と幼いが、それでも侯爵家の人間として既に淑女としての教育は受けている。

 いつかは家のためになるような相手と政略結婚をして嫁にいくのだろうと既に理解していた。

 というか、その相手が決まっていたのだが、その婚約は解消される流れとなってしまっていた。


 お相手に何かがあったわけではない。むしろ逆。こちらの家の都合である。


 ファリスの婚約者だったエルリックとは、政略であろうともお互い歩み寄りそれなりに仲良くなってきたところだったのに、婚約は解消。折角あの人となら幸せな家庭を築けるだろうと思い始めていたところだったのに! となるのも当然の話だった。


 ファリス自身に問題があって婚約がダメになった、とかであれば彼女自身激怒する必要はない。

 ファリスは現在ランディエラ家の父の執務室とも呼べる部屋にいて、背後には両親を従えるように立っていた。


 ファリスの向かいには、一人の青年がいた。

 ファリスよりも年上だと明らかにわかる見た目の青年は、しかし今はその大きな体を縮こまらせて床に座っている。

 東洋の国で正座と呼ばれる姿勢であった。


 そんな青年をファリスは腕を組んでふんぞり返るようにして睥睨する。


「まったく……一体何を考えていらしたのかしら」

 ファリスの口から、それなりに高いソプラノボイスが出る。本人としてはこれでも精一杯低い声を出しているつもりなのだが、お子様特有の高い声は限界まで低くしてもなおソプラノだった。


「大体ね、この家の後継ぎはお兄様だったはずなんです。なのになんです? 兄だと思っていたガラクタがボロを出したせいで、わたくしの婚約までなくなってしまったじゃございませんの!」


 きぃっ、とハンカチでも噛みしめそうな金切り声を出して目の前に座って小さくなっている兄だった男を見る。怒りのあまり思い切りぶん殴ってやりたいが、兄だった男と自分の体格差は一目瞭然。殴り掛かったところでファリスが腕を痛めるだけであった。

 だからこそファリスは肉体言語で語るのではなく、言葉での対話を試みたわけだ。

 対話というか一方的にフルボッコするつもりだが。


「ねぇそこのポンコツ。貴方、今年でおいくつだったかしら?」

「…………」

「言葉も話せませんの? 答えなさい」


 だんまりを決め込んだ兄だった男を睨むも、いかんせん迫力がない。あともうちょっと成長したら少しは身につくかもしれないが、今は迫力とは無縁であった。

 かといって、目の前の男がファリスを侮っているというわけではない。

 まぁ、仮に侮ったところでファリスの背後には黙って佇んでいる両親がいる。

 ファリスが振り返れば両親はにこやかに微笑んでいるが、きっとファリスが前を向けば二人の視線はそれはもう冷え切ったものになるのだろう。


「喋れないなら構いません。無駄な時間をこれ以上費やす気もないわ。温情も何も必要ないということね」

「……十八、です」

 温情、という言葉で青年はびくっと一瞬震えたものの、それでもようやく言葉を絞り出した。


 目の前にいる男はサフィロ。ファリスの六つ上の兄だった。

 この兄だった男こそが、ファリスの婚約を台無しにしてくれた元凶である。


 大きな体を縮こまらせて正座した状態のサフィロだが、目線の高さはそこまでファリスと変わらない。なのでファリスを見るにはほんの少し目線を移動させれば済む……とはいえ、サフィロはファリスと目を合わせる事ができなかった。


「その年にもなって、やって良い事と悪い事の区別もつかなかったのですか」

「…………」


 疑問形ですらなかった。

 それが余計に居た堪れなくなってくる。


「全く、馬鹿なんですか? 馬鹿なんですね。本当に、なんてことをしてくれたのです。一族の面汚しと言われても否定できませんわよまったく」

 ふぅ、と露骨な溜息を吐かれるも、言い返す事はサフィロにはできなかった。

 何故ならどうしたって悪いのは自分なのだから。


「大体、かつて遊びで手を出した女が子を産んで? それでその子供がそれなりに見た目も良く育っていた事に気が付いて? 引き取って将来的にどこぞの家と縁付かせよう、と考えて貴族としての教育を施したもののそれだって突貫工事みたいな短期間。まだ平民としての暮らしの期間が長く、貴族としての暮らしに慣れていないから、とよりによって貴族たちが義務として通う事になっている学園で平民まるだしな態度で馴れ馴れしくも近づいた礼儀知らずの女にのぼせあがって?

 それを最初は物珍しさで近づいていたはずだというのに? 貴族令嬢とは異なる親し気な態度にコロッとやられて? 婚約者蔑ろにしただけならまだしも? 元平民の女の嘘に騙されてしてもいない虐めの罪を婚約者にかぶせようとして? 学園の卒業パーティーで大声で婚約破棄まで宣言して? でもって虐めは冤罪だと色んな証拠出されて返り討ちにあって? 同じ女にのぼせあがってた面々同様貴方は我が家から縁を切られ貴族籍からも存在を抹消。

 ……そのせいで、本来家を継ぐはずだった長男はいなくなったのでわたくしが跡継ぎになってしまったわけなんですけれど。

 嫁入り予定が婿を迎えなければならなくなって、エルリックはあちらの家の跡取りなので当然婿入りは不可能。結果としてわたくしの婚約も解消。これから急ぎで新たな婚約をしなければなりませんの。


 ……で、各方面に多大な迷惑をかけた兄だった方。

 貴方、一体何がしたかったのです? わたくしの目から見てもあんな杜撰な計画失敗するのが目に見えていたのですけれど?」


 ボロクソである。

 容赦も何もない。

 まぁ当然だろう。

 サフィロが勝手に失敗して自滅するだけならまだしも、そのせいでファリスは心を通じ合わせかけていた婚約者との婚約を解消し、これからまた新たに婚約者を選び直さなければならないのだから。

 それだけではない。跡取りが自分になったという事は、つまりこれから跡取りとしての教育が待っている。

 勿論、もしサフィロの身に何かがあったならやはりこの道を辿る事になっていたかもしれないが、例えばそれが事故で大怪我をしてマトモに動けなくなって跡取りとしても致命的だとか、病気になって治る見込みがないだとか……そういう、まぁ、仕方がないよね、と言えるような理由であったならファリスだってこんな風にねちねちやる必要はなかったのだ。


 だがしかし実際は先程ファリスが言ったように、どこぞの男爵家に引き取られた元平民の娘に入れあげてコロッとやられて本来大事にしなければならない婚約者を蔑ろにしただけなら飽き足らず、してもいない虐めをしたと仕立て上げ冤罪で相手有責の婚約破棄をしようとしていた始末。

 蔑ろにされていた件の婚約者――将来ファリスの義姉になるはずだったシルヴィアは、途中でサフィロに見切りをつけて万一何かやらかした時を想定してそれはもう用意周到に様々な準備をしていたからこそ、冤罪吹っ掛けは失敗に終わったのである。


 まぁ、計画が杜撰すぎて物的証拠もちょっと調べたら証拠にもならない代物。

 目撃証言をしてくれる第三者などの数も相当数集まっていたし、元平民の女が虐められてるんですぅ……とめそめそしつつのたまった話の大半は嘘だとわかるものばかりだった。


 というかだ。

 その事件に関してはファリスは当事者ではないので、学園の卒業パーティーに参加すらしていないけれど、やらかした後、つまりはもう当事者に処分が下った後話を聞かされただけのファリスでも「おかしいですわね……?」と思えるような部分はぽろぽろしていたのだ。


 サフィロより六つ年下の、それも現場にいなかった少女が話を聞いただけでもおかしいと思えるような部分がある話を、何故兄だった男は気付かなかったのか。

 ちょっと冷静になって考えたらすぐにわかるような矛盾点だってあったくらいなのに。


 そりゃあ返り討ちにもされますわ、としか言いようのないくらい見事な断罪返しだったらしい。

 ファリスは卒業パーティーに参加できなかったが、サフィロの両親――つまりはファリスの両親でもある――二人は参加していたのだ。我が子の晴れの舞台を見るために。


 しかも件の男爵令嬢は、サフィロだけではない。他の高位貴族の令息複数名にも言い寄っていたらしく、パーティーの場ではそれはもう彼女を守る騎士のように数名の男たちが立ち並んでいたのだとか。


 馬鹿が兄だった男だけではなく他にいた事に頭痛がしてくるが、しかしサフィロ一人が引っかかったとしてその場合その場にいるのは唯一馬鹿。

 複数いるならいっそ可哀そうな被害者扱いもできなくも……いや、まぁ、唯一よりかはインパクトが薄まるだけか。ここでオンリーワンじゃなかったのはマシと言えよう。


 どちらかと言えばその中に王子がいたのが問題である。

 高位貴族の令息が引っかかるくらいなのだから、そりゃあ王族から見たら珍獣みたいな珍しさを感じたのだろう。王家からも視察として平民と関わりが全くないわけではないけれど、王家が関わる平民というのは基本的に貴族との関わり方を理解している者たちである。つまりは、平民であるけれど貴族相手の礼儀作法をある程度弁えている。孤児院訪問ですら、お子様たちは最低限の礼儀をそれはもう厳しく教わっているのだ。だって下手に不敬な事をして当人だけが死ぬだけで済めばいいが、場合によっては連帯責任が発生する事だってあるのだから。

 なので、平民ではあるけれど低位貴族を相手にしているような感覚だったのかもしれない。

 だが、そこに低位貴族以前に本当の平民が紛れ込んでしまったのだ。王子の目にはさぞ珍しく映ったのだろう。


 その時点では特に好意を抱いていなかったとしても。

 珍しい動物が、愛嬌たっぷりに自分に懐いてくる様を見れば人間というのはそれなりに絆される生き物であるとファリスは知っている。

 現に母親の友人であるルクレート伯爵家のご夫人は猫が嫌いと言っておきながら、家の近くで生まれたばかりなのに親からも見捨てられたらしき子猫をルクレート家の次女が拾ってきた時はそれはもう嫌だと口でも態度でも示していたはずなのに、三日くらいしたらすっかり絆されていたらしいので。

 それに、父の友人でもあるカルロテンプティ子爵は庭に迷い込んできた足を怪我した犬をしぶしぶ、家の敷地内で死なれても困るという理由で保護してとてもいやいや面倒を見ていたらしいけれど、今ではすっかり新しい家族としてその犬を迎え入れているのだ。


 だから王子が最初の時にその元平民の女をそういった珍獣として見ていた場合、絆される可能性はとても高いと思われるのだ。


 犬や猫との違いといえば、元平民の女は人の言葉を喋る事ができるという点だ。

 結果として王子とその仲間たちは珍しい動物の話す内容をすっかり信じ込んでしまった。


 ファリスは元平民の女を彼らは人間だと思っていなかったのではないか? とすら思っている。

 大体その女が現れるまでは、彼らは特に何も問題のない者ばかりだったのだ。

 一方の話だけを聞いて鵜呑みにするような事などしなかったし、そうでなくとも裏付けをとって調べて真実を明らかにするくらいはしていた。


 だがあの女に関しては、人間ではなく珍獣だと思われていたからこそ、裏を取るという事をしなかったのではないだろうか。だって動物に人間を騙そうとする知能があるはずがない、そう思いこんだとしてもおかしくはないからだ。勿論、人よりも知能が高い生物はいるけれど、しかし賢くとも人と同じ言葉を自在に操る動物というのはいないため、無意識で下に見ていてもおかしくはない。


 だって猫だとか、ご飯をしっかり食べていながらもまだ足りない時、自分朝から何も食べてないんです、みたいな情けない鳴き声を出してご飯を強請るけれど、あえて追加でご飯を上げる人間の大半はそれなりに分かった上であえて騙されてあげているようなものだし。


 多分、そういう感じで、騙されてあげているつもりになってたけれど踏み込んだらいけない部分まで入り込んでしまったのではなかろうか。

 実際、あの女に騙された男たちは厳しい処分を下されている。

 王子に至っては廃嫡されたし、それ以外の令息たちだって跡取りから外されたり領地の片隅に追いやられて二度とマトモな生活は見込めない、みたいなのもいるようだし。


 元平民でありながら養子として貴族になったあの女は、処刑が決まった。

 流石に見せしめとして大衆の前で殺すという事はないようだけど、やや苦しんで死ぬタイプの毒を飲んで死ぬ事は決まってしまった。


 無理もない。

 多くの家のあれこれを台無しにした元凶だ。

 生きて償わせるにしても、多くの貴族たちの恨みを買っている以上安全な生活とは程遠いものとなる。

 下手に幸せになっていたら、あの女のせいで不幸になってしまった者たちの恨みは消える事なく本人へ向けられる。不審な事故で命を落とす程度で済めばいいが、いかにもなゴロツキを雇われていっそ死なせてくれと思うような目に遭うかもしれない。

 死んでいればいいが、そうでなければさらに悲惨である。


 だからこそ、楽に死ねない程度に苦しんで死ぬ毒を飲む事が決められたのだ。

 もっとも、彼女はそれを素直に受け入れられないだろうけれど。


「あの女さえいなければ、とわたくしも思いましたわ。直接会って話をした事もありませんけれど。

 ねぇ兄だった人、貴方から見たあの元平民はきっとさぞ素敵な女性に見えたのかもしれませんけれど。

 会った事も話した事もないお子様からも恨まれるような女が、本当に素敵なレディだったのかしら?」


 例えば、これがかつて婚約者だった女から言われた言葉であったのなら。

 君が彼女の何を知っているんだ、だとか、嫉妬か? みっともない。なんて返せただろう。

 けれども、ファリスは別に知りたくもなかったし知らないままなら恨むこともなかったと言うだろうし、ましてや妹だ。恋愛面での嫉妬などするはずもない。四六時中べったりしていて兄を取られたという嫉妬、という意味でならあるかもしれないが、元々そこまでべったりした関係ではない。だからこそ、それもないと断言できてしまう。


 今までも、一応周囲から注意というか警告はされていた。婚約者だった女性からも。

 けれどもそれらを逆上せ上ったサフィロたちは、煩わしい雑音だと判断してマトモに聞こうとしなかった。結果、自分たちは絶対的に正しいのだと根拠もなく思い込み、彼女を守ろうとして逆に――彼女を死に追いやったのだ。


 あの時少しでも彼女の言葉だけを聞いて信じ込まず、きちんと調べていたならば。

 彼女の言う内容の矛盾だとか、おかしな部分にきっと気付けたはずだった。

 けれども、確かにサフィロたちは、彼女が自分たちに嘘をつくはずがない、とそう無意識に信じ込んでしまっていた。

 もし調べていたなら、きっと自分たちはそのおかしな部分を丁寧に彼女に話して冤罪で誰かを貶めるような真似をしてはいけないと諭したかもしれない。実際にもしそんな事をすれば君もただでは済まないと、貴族の恐ろしさをきちんと伝える事だってできただろう。


 何せ彼女は、サフィロだけではない。他の令息たちや王子にも同じような事をしていて、彼らの婚約者からも目をつけられていた。

 一人や二人ではないのだ。

 あのパーティーで、冤罪を突きつけた相手は何もサフィロの婚約者だけではない。他の令嬢たちもいたからこそ、そして彼女たちはきちんとした証拠を持っていたからこそ。

 ロクな証拠もなく杜撰な計画でやらかしたこちらをそれらの証拠と正論でボコボコにできたのだから。


 真実の愛を貫く――そんな気持ちがあったのをサフィロは否定しない。

 しかしあれは、傍から見れば滑稽な断罪ショーであったと今ならわかる。


 六つも年下の妹に淡々と告げられる言葉に返す言葉も出てこなかった。

 何故ってファリスはかの男爵令嬢の事を知らない。きっとその名すら知るつもりはないのだろう。そして容姿も、性格も。

 何も知らないからこそ悪しざまに彼女の何かを罵るような事はしていない。ただ、彼女のした行動について言っているだけだ。


「貴方がたがした事の結果迷惑を被ったのは何も我が家だけではございません。貴方たちは、国を揺るがすほどの事をしでかしたのです。本当にわかっているのですか」


 そうだ。

 あの時、卒業パーティーの時にはそんな事思いもしていなかった。あの時はただ、彼女を守ろうとして彼女を不当に虐げている者たちを我らの手で裁くのだという思いだけが先行していた。

 もし、もしそうなっていたとして、その後自分たちは果たしてどうするつもりだったのだろう……? 今更ながらにそう思える。


 サフィロたちは確かに彼女を愛していた。

 王子は婚約破棄を突きつけた後、彼女を新たな婚約者とすると宣言していた。

 では、サフィロたち令息は。もしあのまま思い通りに事が運んだとして、彼女が王妃になったとして。

 そんな相手とはもう恋だのなんだのできるはずもない。叶わぬ想いを抱えてずっとあの二人を支えていく事が、果たしてできただろうか。

 この愛は彼女だけに、なんて言って家の後継ぎは適当に迎えた新たな婚約者と?

 いや、無理に決まっている。


 そもそも、王子やサフィロたちが思い描いたような未来になったとしても、他の家は婚約破棄を告げた令息たちの家に自分の娘を嫁がせようなどと思うはずがない。あれだけの醜聞を堂々としでかすような相手に政略の駒として娘を送り込む価値があるはずがないのだから。



 国を揺るがす、とファリスに言われるも、確かにその通りだった。

 少し前のサフィロなら「そんな大げさな」と鼻で笑ったかもしれない。

 けれども実際それだけのことになっているのだ。


 王子は廃嫡された。

 次の王には第二王子か第三王子のどちらかがなるだろう。

 とはいえ二人は双子で、能力的にも同じくらい。どちらが王になっても問題はないと思えるが、しかしそのために水面下では第二王子派と第三王子派の派閥争いが密かに起きつつある。


 それに、サフィロのように婚約破棄を告げ家の跡取りから外された令息たちのせいで、婚約を破棄された令嬢たちもまた新たな婚約者を探さねばならなくなってしまった。

 あれだけの醜聞をしでかしたので令嬢たちに瑕疵はない、とわかっているとはいえ学園を卒業したらすぐさま結婚を……となっていた家もあった。

 婚約者を新たに選ぶにしても、それなりの時間はかかるだろう。


 それに、第一王子が失脚した時点で派閥は大きく変化する。

 今までは周囲との関係を考えて婚約していた家も、それらの関係を見直さなくてはならなくなってしまった。


 あの時婚約破棄を突きつけられた令嬢たちだけではない。

 他の家でも今頃は婚約の解消や新たな婚約の手続きだとかをする事になってしまっているはずだ。

 第一王子派だった派閥は……王子のせいで立場が低くなってしまっている。あのまま王子が王になっていればそれなりに力を得ていたはずの家は、しかしそうもいかなくなる。

 目先の事だけを見てどうにか流れをやり過ごそうとしていたら、どこかで立場がより悪くなる事はあり得る話だった。今、どの家も大局を見据えて行動しないといけなくなっている。それものんびり機を見て、などできる余裕もない。早急に、それでいて慎重に、結論を出さねばならないのだ。


 盤石だと思われていた足場が崩れたも同然な今、早めに体制を整えなければその隙を突いて他国が手を出してこないとも限らない。


 最悪侵略戦争が起きてしまうかもしれないのだ。



 そこまで想像して、ようやくサフィロは事の重大さを理解した。

 今まで両親や友人に咎められていた時はこれっぽっちもそんな風に思わなかったけれど、自分より年下の妹に言われてそれでも理解しないというわけにもいかない。


 跡取りから外されたばかりの時は随分と大袈裟な処分だと思っていた。何もここまでしなくとも……と。

 しかし、もう跡取りではなくなり家から籍も抜かれてしまったけれど、これはまだ優しい方だとようやくサフィロは気付いたのである。

 下手をすればサフィロだって彼女のように毒を飲み死ぬ事になっていたかもしれないのだから。


 事ここにきてようやくしでかした事態の危うさに気付いたサフィロの顔が青く染まっていく。

 それを、やっと理解したのか……とでも言いたげに父だけが片眉を跳ね上げてサフィロを見ていた。


 ぼろ、と大粒の涙がファリスの目から零れたのは、サフィロがそんな父の顔を見て申し訳なくなってきた直後の事だ。


「ファリス!?」

 もっと小さかった頃はそれなりによく泣く事もあった妹だが、それでもここ最近は滅多な事では泣いたりしなかった。妹の目からぼろぼろと溢れる涙に、正座していたサフィロは思わず立ち上がり妹の近くまで行こうとした。

 しかし足が痺れていたため、その場で不様に倒れ込んでしまう。


「う~~、お、お兄様の馬鹿ッ! バカバカバカ!! どうして、どうしてこんな事しちゃったの!? どうして実行する前にもっとよく考えなかったの!? そうじゃなくたって、もっと他の人にきちんと相談するとかできる事いっぱいあったでしょっ!?

 わ、わたくしいつかはお嫁に行くけれど、それでも少しの間でもシルヴィア様の事、おねえさまって呼ぶの楽しみにしてたのにっ!

 お兄様とシルヴィア様ならこの家を盛り立てていってくれるから安心だって思ってたのに! それにそれに、二人の子ならきっと男の子でも女の子でも素敵な子が生まれるだろうなって、思って、思ってたのに……っ!


 ねぇ、どうして、どうしてあんな女好きになっちゃったの!? おねえさまを切り捨てて、それでどうするつもりだったの!? だってあの女、もし思い通りに上手くできてたなら王子と結婚するつもりだったんでしょう? じゃあ、お兄様が婚約破棄した意味って何!? 


 う、うぅ……返してよ、聡明で優秀な跡取りで誰よりもカッコ良かったわたくしの自慢のお兄様を返してよぅ……

 今の貴方はもう家とは無関係の兄だった人で、も、もうお兄様って呼べなくなっちゃったのに……!!

 それでもお兄様がいなくなるのは寂しいです、うぅ、うぇ……ぐすっ」


 ぼたぼたと大粒の涙を溢れさせ、更に鼻水だって出てきてとてもじゃないが酷い顔をしているファリスを、サフィロは痺れる足のせいで倒れ込んだまま見上げていた。涙を拭おうと手の甲で擦るファリスに、それはいけない、赤くなってしまう、と思ったけれど声を出せなかった。


 なおもバカバカ言っているファリスに、果たしてサフィロは何を言えただろうか。


 人を好きになるのに理由なんてない、とか、馬鹿しか悪口が出てこないの可愛いなだとか、シルヴィアとの子が産まれた後の事まで想像してたのか気が早いだとか、思ってたより自分は兄として慕われていたのだな、だとか……


 こんなことになる前に、確かに両親は忠告と言うか警告をしていた。けれどもそれをあまりにも軽く考えていた。自分が失敗するはずなんてない、なんて今にして思えば随分とまぁ驕り高ぶった考え方だ。

 けれどもあの時はそういった言葉は全て疎ましくて、自分を思っての事だというのに全くわからなかった。


 しかし、年の離れた妹がいよいよ自分の感情を抑えられなくなってみっともなく顔をくしゃくしゃにして泣きながら言われた言葉でようやく。


 ようやく、サフィロは自分が家族から愛されていたという事実に気付いたのだ。


 あれだけの事をしておいて、お咎め無しなど有り得ない。

 王子が廃嫡されたのだ。その他の令息たちだって相応の処罰を受けねばなるまい。


 やらかした事がやらかした事で、すぐに家から追い出された者もいたようではあるがサフィロは少しの間家で謹慎する事となっていた。

 家から追い出すにしても、事前にやらねばならぬ手続きだとかが必要な家もあるのだ。


 そして、その間に妹に呼び出され――背後に両親が控えた状態で――ふんぞり返るように言い出した妹の言葉から最初はまぁ、うるさいお小言か何かがくるんだろうなと思っていたのだ。

 温情とかいう言葉が出た時点で、もしかしたら態度如何で両親が更に何か……と思ったから一応妹の言葉に返事をするようになったとはいえ、まだこの時は軽く考えていた。内心ちょっと普段と違う剣幕の妹に怯えがなかったとは言い切れないが。まぁどうにかなるさ、という精神が残されていた。


 しかしそうではなかったのだ、と気付いた。


 お前など兄ではないとばかりに、家から縁を切られたのだというのを強調するかのように兄だった人だとか言われていたが、それは別に己の立場を弁えろという意味ではなかった。


 ただ、兄だった相手をこれから兄と呼ぶ事を許されない、妹の精一杯だった。


 両親には嘆かれた。呆れられもした。

 けれどもそういったものにサフィロはいつまでも自分を子ども扱いして、とかそういう風に疎んでいた。

 しかし、妹にこうまで言われて泣かれるのは相当に心にきた。

 自分の婚約が無かったことになった当てつけか、とも最初は思っていた。確かにそれもあるだろう。けれど……今もまだずびずびと鼻を啜って泣く妹の、自分に向ける感情に――


「ごめん、ごめんな……」


 ――駄目な兄様でごめん。


 サフィロもまたその目から涙を零し、嗚咽を漏らしたのである。



 いつまでもサフィロを家に置いておけるはずもない。そうしてしまえばあれだけの事をしておいて、ランディエラ家はマトモな沙汰も下せない、と周囲から言われるようになる。そうなると、ここでは何かしでかしてもそこまでの処遇は下されない、と思われてしまう。ただの身内びいきであったとしても、その場合ファリスやそれ以外のランディエラ家の親戚だとか、そちらへ迷惑がかかってしまう。

 だからこそ、サフィロは家を出なければならない。


 とはいえ今まで貴族として何不自由なく生活してきた男が一人外に放り出されてマトモにやっていけるか、となるとそれはとても微妙な話だ。

 運が良ければどこかで働き口を見つけて生活できるかもしれない。しかし、運が悪ければ野垂れ死ぬならマシな方だ。最悪犯罪者に身を落とすか、犯罪者によって何か酷い目に遭わされるかもしれない。


 流石にやらかした事が大きすぎて、サフィロはこの国を出る事になった。

 大体家を追い出されたというのが知れ渡ったとして、その上でこの国に居続けても嘲笑の的だ。ロクな生活もできないだろう。


 かろうじて家に残された令息たちもいないわけではないが、彼らは生涯家の中でいいように――それこそ使用人以下の立場として――扱われるしマトモに外を出歩く事さえ許されない。

 どちらがマシか、と比べるのはあまりにも無意味だろう。


 いよいよ家を出る日がやって来たサフィロは、最後の温情とばかりにそこそこの金銭と数日分の着替えなどが入った旅行鞄を渡された。更にその中には隣国行きの船のチケットまで入っている。


 妹曰くの温情だ、というのはわかっていた。


 本来ならば、こんな風に送り出すつもりは両親にもなかったのかもしれない。

 けれど、妹の兄に対する最後の我儘だから、と押し切られた結果、家を追い出されるというよりは送り出されるという方がしっくりくるような出発となってしまった。


 隣国には母の遠い親戚がいるのだとか。

 そちらにどうやら話をつけてくれたらしく、そこまでいけばどうにか生活はできそうだ。

 自分ができる仕事が果たしてどういったものがあるのかはまだわからないが、やれる事はなんでもやるしかない。もうサフィロは貴族ではなくなってしまったのだから。贅沢を言える身分ですらないのだ。


 乗合馬車で港がある街まで行き、そこから船に乗る。


 もう家族とは顔を合わせる事は生涯ないだろうけれど。


(もう、妹に泣かれるような馬鹿な事はしない)

 両親には盛大に叱られたし嘆かれたし呆れられもされたから、しない、とか誓えるものではないけれど。

 せめて妹にだけは、この先また何かで泣かれるような事をしないように……と思った。

 サフィロのこの先の事などきっと知る事もないだろうとは思っている。それでも、これはサフィロなりのけじめでもあった。



 もし、サフィロが何の反省もせず家を追い出されただけならば、きっともっと陰鬱な雰囲気であっただろう。けれども今のサフィロは、そんな気配もない。どころか、いっそ清々しささえあった。


 もう妹は自分の事を兄と呼ぶ事はないけれど。

 それでも、この先また妹が失望する事のないような人間になろう。

 船の上から遠ざかる陸地を眺め、そう決意したサフィロの目は――


 思っていたよりも穏やかなものだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] よくある断罪返しのような冷静なやれやれ系とか あるいは元婚約者強火信者かと思ったら まさかのガチ泣きで年下の妹っていう設定が生きてて好き きちんと喋ろうと頑張ってたんだなぁって場違いながら…
[一言] ここまで少年たちを魅了したその女は、美人局の天才だったのかチート持ちの転生者だったのかどっちにしろもう闇の中だな。 彼については今後のご活躍をお祈り申し上げます、かな?
[良い点] 話し合えてよかったねぇ。 (多少……大分手遅れだが…… [一言] 色々想像しちゃってきになる結末です。 社会が、あたえる信用というものを、何から発生しているのか。色々な時に与えて貰って入る…
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