第2話 高3・春篇(その2)
その1の続きです。
翌日。
この日は土曜日。
朝食後、朝から、一週間分の溜まった家事を、父の璃玖と分担して行う詩奏。
「お父さん、先にコーヒーマシンの掃除を先にやってよ。 コーヒー飲むのお父さんだけなんだから」
「私は、洗濯と掃除を先にやるから」
「それで終わったら、お風呂場の掃除お願いね」
家事奉行の差配で、効率良く済ますのが、教来石家のやり方なのだ。
約1時間後、溜まっていた家事がおおかた片付いたので、璃玖は寛ごうとしていると、着替えてきた詩奏がリビングに現れた。
『我が娘ながら、キチンとお洒落すると、見違えるなあ~』
そんなことを思っていると、
「お父さん。 今日一緒に行くの? それとも行かないの?」
少しイラッとした口調の詩奏。
「行くよ。 ちょっと待っててくれ〜」
お怒りの一人娘の様子に、慌てる父。
3分で着替えて、準備完了。
しかし、あまりにも適当過ぎる父の服装に、少し怒りが込み上げてきた詩奏。
「ちょっと〜。 年頃の娘と一緒に出掛けるんだから、もう少しキチンとした服を選ぶでしょ?普通。 信じられない......」
そう言うと、大股で父の部屋に行き、クローゼットから適当に見繕って、リビングで佇む璃玖の前に差し出す。
「これに着替えて。 3分以内」
「アイアイサー」
だいぶ古い、死語っぽい言葉で了解し、急いで着替え直す璃玖。
2分50秒でリビングに戻ると、その姿を見て、詩奏は漸く笑顔を見せた。
「今日、帰りにTS屋寄って、お父さんの新しい服買おうよ」
「もう少しで役員になるかもしれないエリート社員なんだから、普段の身だしなみもキッチリしようね」
「もしかして、詩奏が買ってくれるのかな?」
「お父さんのカード払いで〜す。 女子高生が払える訳ないでしょ?」
アッサリ自腹だと言われて、ちょっとガッカリする璃玖なのであった。
KW駅前から路線バスに乗って、渋滞に少し嵌りながらで約30分。
新路線の駅に近いバス停で降りて、3分程歩くと、璃玖の実家に到着。
「ただいま〜」
璃玖が鍵を開けて、家に入ると、たった一人の孫が久しぶりにやって来たことに気付いた祖父母が、嬉しそうに詩奏を出迎える。
「詩奏ちゃん、久しぶりね」
「おじいちゃん、おばあちゃん、久しぶりだね~」
アメリカンな習慣がある詩奏は、祖父母に対して、順番にハグをする。
「璃玖も、お帰り」
『も』付きで出迎えられた璃玖は、ちょっと不満げな表情を見せたが、それを見逃さなかった詩奏は、
「お父さん、オマケでちょっと不満そうだけど、カワイイ娘が主役なのは、致し方ないよね?」
と言って、父を誂うのであった。
「これから楽器弾くので、ちょっと五月蝿くなるけど、赦してね~」
そう言うと、詩奏は2階に上がってしまった。
直ぐに自分の世界に入ってしまった孫の行動に、ちょっと残念そうな両親の様子だったので、璃玖は、
「年頃の女の子なんて、こんなもんだよ。 まして詩奏は、色々と忙しい子だから」
そう言うと、リビングのソファーに座って、ゆっくりし始めるのであった。
暫くすると、ギターの音色が聞こえてくる。
『昨晩、あんな話しをしたから、彩陽のギターを思い出すなあ~』
詩奏のギターの音色を聞き流しながら、璃玖はそんなことを考えているうちに、ウトウトとしてしまったのであった。
暫くすると、エレクトロなベースの音が鳴り響いて、璃玖は起きる。
直ぐ横で詩奏が、ワザと大きな音を出したのだ。
「お父さんの為に、ギター弾いてあげようと思ったら、寝てるんだもん」
起こした理由を説明する詩奏。
「ベースはダメね~。 全然上手くならないわ〜。 今後は止める」
独り言を言いながら、自己評価する詩奏。
「今日ギター持って帰るから。 お父さんよろしくね」
「え〜。 俺が持って帰るの?」
「レディファーストは基本だよね? 時々家で弾いてあげるから、お願い〜」
「了解〜」
息子と孫の微笑ましいやり取りを見ていた璃玖の両親は、素直に育った孫の様子に、目を細めていた。
「オヤジ。 璃子は?」
璃玖が詩奏の為に確認すると、璃玖の父は大きな声で、
「まだ寝てるんじゃないのか? おい母さん。 璃子はまだ寝てるよな?」
「朝帰りだったのよ。 もう少ししたら起きてくるんじゃない? とにかく仕事が忙しい子だから......」
「詩奏。 だってさ。 どうする?」
「うーん。 もう少し待ってみるよ。 1時間経っても起きて来なかったら、帰ろうよ」
暫くすると、
「呼んだ〜? さっき私の名前が聞こえたからさ〜」
漸く、教来石璃子が現れた。
「兄貴。 なんか用?」
凄く嫌な顔をしながら、璃子が璃玖に確認する。
すると璃玖は、ギターを弾いている詩奏の方を見る。
父の視線に気付いて、ギターを弾く手を止め、
「璃子お姉さん、私がね、尋ねたいことがあるの。 起こしてしまってゴメンなさい」
ワザとらしいけど、妙にしおらしい様子の詩奏を見て、璃玖は少し笑ってしまったが、
「詩奏ちゃんの用件なら、何でも聞いちゃうよ〜」
と急に態度を変えて、優しいお姉さんになる璃子。
『ちっ。 何だよ、あの変貌ぶり......』
心の中で舌打ちする璃玖。
「私って、璃子さんのように頭良く無いから、勉強がイマイチ出来ないでしょ?」
「理数系を選択したんだけど、もう受験迄時間が足りないので、文系を完全に捨てたいのですけど、それで良いのかな?って思って」
「お父さんに尋ねても、優柔不断で結論出ないから、璃子さんにアドバイスして欲しいなって思ったの」
超〜猫を被った詩奏の口調に、璃玖はちょっとムッとして娘を少し睨むと、『余計なこと言わないで』という意思を込めた睨みで返されてしまう。
璃子は、詩奏の言葉に機嫌が非常に良くなり、兄貴を見て、
『勝ったな!!』
という顔をしながら、
「そうね〜。 詩奏ちゃんは英語出来るから、本来は文系を選ぶべきだったよね。 でも帰国子女だから、国語系駄目なので、理数系選んだのでしょ?」
「私の個人的意見としては、理数系選択で良いと思うよ。 今の時代、私や兄貴の受験時代以上に、理系の人気無いからね。 だから、文系必修科目は捨てちゃえば? 卒業するのに必要な点数だけ取れば十分だよ」
「やっぱり璃子さんに尋ねて良かった~。 理路整然としていて、本当に参考になりました。ありがとうございます〜」
そのやり取りを聞いて、『大したこと言って無いじゃん』と冷たい目で璃子と詩奏を交互に見つめる璃玖。
詩奏は、父の方を見て、
『ゴメンなさい!』
という顔をしている。
その後、ワザとらしくギターを弾き続けていた詩奏であったが、暫くすると、
「お父さん、そろそろお暇しようか? 私、帰って少し勉強しないとイケないから......」
と頃合いを見て言い出したので、
「そうしようか。 ギター俺が持つよ」
詩奏がケースにしまった後、手渡されたギターを受け取ると、2人は立ち上がり、
「おじいちゃん、おばあちゃん、璃子さん。 また来ます」
詩奏は、その様に挨拶し、璃玖は詩奏の従者のような態度に徹して、実家を出たのであった。
実家から少し離れると、立ち止まった詩奏は父の目をじっと見つめて、
「お父さん。 本当にゴメンナサイ」
と言って、璃玖の両手を握るのだった。
娘に手を握られて、ちょっと嬉しくなった璃玖。
「タイミングが悪かったね。 まさか仕事で疲労困憊朝帰りの璃子だったとは......」
「起こしちゃったし、おべっか使うしか無かったの。 ゴメンね」
「あんなアドバイス、誰でも出来るよ。 優柔不断な俺だって......」
ちょっと傷付いてしまっていた璃玖。
「あの表情の璃子さん、ヤバいんだよね。 起こされたせいか超不機嫌だったから、ライバルのお父さんを貶すしか無かったの。 この不手際の穴埋めは、必ず致しますから、赦して下さい」
詩奏が、そんな言い方をしたので、璃玖は笑い出してしまった。
「全然怒ってないよ。 詩奏が持ち上げてなかったら、璃子はオヤジの大声で起こされて、めちゃくちゃ不機嫌な腹いせに、俺に酷い八つ当たりしてきただろうからな」
「あれだから、旦那のなり手が居ないんだよ。 歴代彼氏も震え上がっていたんだろうね。 とにかく機嫌悪いと怖すぎるもん」
「......」
しかし、詩奏は黙ったままであった。
帰りは電車を乗り継いで帰ることにし、KW駅に戻ると、一旦ギターを置きに自宅へ戻ってから、駅前のデパートに入った。
詩奏は、璃玖を引き連れて、紳士服売り場を行ったり来たり。
1時間位色々見て廻って、ようやく詩奏のお眼鏡にかなった私服が見つかり、璃玖に試着させた後、支払いは詩奏がして、そのまま父へのプレゼントとなった。
「詩奏、支払い大丈夫なの? 結構高いし......」
少し心配になった璃玖。
「大丈夫だよ。 お父さんだって知っているでしょ? Rの件。 お母さんの取り分も今は全部私の取り分になっているし」
「それに、さっきおじいちゃん家で、緊急避難とはいえ、お父さんに酷いこと言っちゃった御詫びも込めてだから」
詩奏はその様に説明すると、心にも無い事を言ってしまったことで、自己嫌悪から非常に悲しい表情になっていた。
「詩奏、気にするな。 璃子が悪い」
少し冗談めかしてそう言うと、詩奏の頭を撫でて、慰める父であった。
帰宅後。
日が傾いて、夕日が差し込む自宅。
璃玖はワインを開けて、最上階からの眺めをツマミに一人飲み始める。
都心の様な華やかさは無く、郊外らしい緑の多い眺望であるのだが......
詩奏は、ギターを持ってきて、亡き母が好きだった曲を弾く。
「こういう時間もイイね。 プロの生演奏を聴きながらの様な感じで、非常に贅沢なことだよね」
「お父さん。 私のギターはそんなレベルじゃないから」
「そんなこと無いって」
「ピアノだけは、まあまあのレベルだと思うけど......」
「中学の頃は、時間が有ればずっと弾いていたもんな〜。 あの頃、俺、詩奏はクラシックのピアノ奏者目指していると思っていたよ」
「芸音大附属高の音楽科受かるには、それくらいの気持ちと練習量をこなさないと、合格出来ないんだよね」
「私自身もそうだけど、お母さんも、私をクラシックのピアノ奏者にする気は全く無かったんだよ」
「そんな感じだから、高校に入ったら、同じピアノ専攻の同級生と比べて、実力不足が露呈する様になって、完全な落ちこぼれに」
詩奏は、そんな言い方で自嘲するのであった......
「でも、人生って不思議だよね~」
「音楽科の落ちこぼれで、結局普通科に転校した私が、あの時の附属高の同級生の中で、一番稼ぎが良かったのだからね」
「スポンサー付いている子も居たけど、ミサキ社長とお母さんの企画が大成功して、上手いこと音楽で稼げちゃったから......」
「それで、お父さんにお願いが有るんだけど......」
「俺に出来ることかい?」
「うん。 お父さんマーケティング企画部長だから、うってつけかも」
「???」
「ミサキさん、お母さんと始めた『RYU』プロジェクトなんだけど、お母さんが亡くなって、宙ぶらりんになったまま、1年半経っちゃって」
「そうだな」
「それで、そろそろ終わりにしなきゃイケないと思っているんだけど、お母さんが準備していた曲が、あと一曲残っているの」
「その一曲をレコーディングして、発表して終わりにするのが、一番良いと思っているんだ」
「でも、私、未成年だから、正式な交渉や契約関係を直接交わせないから、お父さんに代理になって貰いたいの」
「社長のミサキさんとの交渉も含めてね」
「ダメかな?」
「俺がやるしかないだろ?」
「詩奏がやりたいことは、全面的に協力してやってあげるから、心配するな。 俺の唯一人の娘なんだから」
「高校生活最後の1年。 受験勉強だけで終わったら、転校した意味ないだろ?」
「大学入試なんか、浪人して先送りにしてもイイんだから、残り10ヶ月、大事にするんだぞ」
「ただでさえ詩奏は、3年間しかない貴重な高校生活の半分を、泣いて過ごすことになっちゃったんだから、その分取り返そうよ。 絶対にな」
「お父さん、ありがとう〜」
そう言うなり、娘に突然抱き着かれてしまった璃玖は、恥ずかしそうな顔をするのであった。
翌日。
この日は日曜日なので、璃玖はリビングでウトウトしながら過ごし、詩奏は午前中、ピアノの練習を歌いながら長時間していた。
お昼過ぎになって、練習を打ち切った詩奏がリビングに来て、父を起こさないように、静かにお昼ごはんを作り始める。
もうすぐごはんが出来上がるという時に、詩奏のスマホが鳴り始めた。
最初は着信を無視していた詩奏であったが、着信音に気付いた璃玖が起きてしまったので、画面を確認。
すると、再び鳴り始めたので、渋々応答する。
電話を掛けてきたのは、ミサキだったので、用件はおおよそ予測が付いていた。
「はい、教来石です」
詩奏がイヤイヤ会話を始める。
「詩奏ちゃん、今自宅?」
「そうですけど......」
「今日の夜、空いてる?」
「他に居ないんですか? キーボード兼ピアノの演奏者」
「なんだ〜。 そこまで分かっているのなら、話は早いね~。 お願いっ」
「私、高校生ですよ。 転校したのでアルバイト禁止だし」
「え〜。 そんなつれないこと言わないでよ~」
「それで、今回は誰の代打ですか?」
「MASAの」
「またですか?」
「私、未成年だから、今からそっち行く場合には、お父さん連れて行かなきゃイケないし、安易に代打出来ないですよ」
「ダメ〜」
「ダメです」
「じゃあ、もう少し考えるから、一旦切るね」
ミサキは詩奏との電話を切る前に、璃玖のスマホを鳴らしていた。
「お父さん、電話出ちゃ......」
「遅かったか〜。 スマホ2台持ちにやられた〜」
詩奏は、父がミサキ社長と話を始めてしまったのに気付き、諦めモードに......
「詩奏、俺はこれから一緒に行っても良いぞ~」
「で、どうする?」
父にそう尋ねられた詩奏は、渋々父に向かって、OKのサインを送った。
ガックリ肩を落とす詩奏。
「そんなに嫌なら、やっぱり断ろうか?」
父が心配して、そう言ってくれたものの、
「本当に代役が誰も居ないんですよ。 私に掛けて来る時は、そういう時だけだから......」
「お世話になってるし、断り切れないんだよね。 いつも」
「お父さん、昼ごはん出来たから、とりあえず食べようよ」
昼食後、詩奏は出掛ける準備を始める。
「般若のお面でも被って出るか〜」
独り言をブツブツ言いながら、素早く準備を終わらせた詩奏。
「お父さん、出掛けようよ」
璃玖は、昨日娘に買って貰った私服を直ぐに着る用事が出来て、なんだか嬉しそう。
その様子を見ていると、文句言うのを止める気持ちになった。
『お父さんと、デートでコンサートに向かうって考えることにしようかな......』
午後2時半。
璃玖と詩奏は、都内M田の事務所に居た。
「おはようございます」
詩奏は、事務所の人達に挨拶しながら、奥に入って行く。
そして、社長室の前に。
ノックしてドアを開けると、ミサキが準備で忙しそうにしていた。
「詩奏ちゃん、ゴメンね~」
「さっき言い忘れたんですが、私、生理中です......」
「えっ、マジで?」
「マジです。 だから、長時間はキツいんです」
「それに今から、契約して上がるんじゃあ、リハ無しでしょ?」
「ちょっと、厳しいよね~」
「UR町の国際ホールで、18時開演だと......」
「議論している時間無いね。 お父さん、一緒に説明聴いて」
ミサキは契約書を出して、素早く説明を始める。
条件の部分に、詩奏が手書きで、色々記載。
それを見て渋い顔をするミサキ社長だが、時間が無いので、丸呑み。
直ぐにコピーをして2通作成し、それぞれに、ミサキと詩奏と璃玖がサインして、契約が成立した。
「ありがとう、詩奏」
「ミサキさん、出発しましょう。 話は車内で」
詩奏が促して、準備されていた車に乗り込む。
「契約交わしてからこんなこと言うのも何ですが、本当に私で大丈夫ですか? 以前の様にピアノ弾いて無いから、多分ミスしますよ」
「分かってるわ。 代役見つけられなかった私の責任だから、ミスが有っても気にしないで」
「あと今日、撮影しながらですよね? 全部カットして下さいね。 私の映ってしまう部分は」
「でも心配だから、フェイスガード付けるので、許可して下さい。 感染症が流行っている時分だから、特別問題無いですよね?」
「OKOK。 18歳未満だからちゃんと配慮します。 アンコールも時間短くしないと、条例違反になっちゃうかもだし」
「お父さん、どうする? 観客席で観る? 控室にずっといても構わないよ」
「璃玖さんには、昔の大恩が有るから、特等席用意するわよ」
「俺は、控室で良いですよ。 詩奏ばかり目で追っちゃうだけだし、娘の心配でドキドキし過ぎの2時間半は長いからさ」
「詩奏。 今日の曲のリストと曲順」
ミサキは、部外秘のコンサート資料を渡す。
「知らない曲有る?」
「母が亡くなって以降、最近まで結構引き籠もりだったので、全くわからないのは、この3曲ですね」
詩奏が説明すると、ミサキは詩奏の頭を急に抱いて、
「ゴメンね、詩奏。 こんなことで音楽嫌いにならないでね。 私、彩陽に怒られちゃうから」
と言い、涙ぐんでしまった。
「......」
「ミサキさん、今回は特別ですよ。 私、もう前の様には弾けないけど、それでも引き受けたのは、小さい頃から可愛がって貰っていることへの恩返し」
「そして先日、転校したのは、普通の女子高生してみたいから」
「将来のことばかり考えている同級生しか居ない音楽科じゃなくて、今、この時を謳歌している同級生が沢山居るだろう世界に行ってみたかったんだ」
「......」
「......」
「母が亡くなって、1年半が過ぎて、やっと私も気持ちの整理がついたと思う。 そして、辛い時間を温かく支えてくれた、パパやミサキさんや、みんなに感謝したくて......」
「ピアノの腕は落ちちゃったけど、きっと私が出す音色は、前よりずっと良くなっていると思うの」
「だから、それを今日確かめてね。 ミサキさん」
その様に話した時の詩奏は、本当に綺麗な顔をしていたのだった。
会場に着くと、ミサキは大急ぎで準備に掛かる。
予定より3時間も遅れてしまったからだ。
詩奏も、父を連れて、一緒に控室へ。
「詩奏ちゃん、久しぶりね~」
「今日は、よろしくお願いします」
「急な代打、大変だけど、頑張ってね」
見知ったスタッフも多いので、その様な会話が交わされる。
衣装合わせが直ぐに始まり、髪型も直して貰う。
時間が無いけど、詩奏が初めて弾く曲が有るので、会場に客が入ってしまう前に、ステージで一度弾いて見ることに。
「月曜日、偶然練習に参加していたから、聞き覚えは少し有るけど......」
周囲にその様に説明しながら、キーボードとピアノを交互に弾き始める詩奏。
何回か弾いたが、会場に観客が入場する時間になってしまったので、練習を打ち切って、控室に戻ったのであった。
渋い顔をしながら戻ってきた娘を見て、心配する璃玖。
その様子に気付いた詩奏は、父に向かって、
「まあ、どうにかなるよ。 お父さん、心配しないで」
とわざわざ気を遣う。
いよいよ時間になり、ミサキを中心に輪になって、掛け声と共にスタートしたステージ。
控室に設置されたモニターを見ながら、娘のことが心配で、ずっとハラハラし通しの父璃玖。
バラード曲だと、ピアノの独奏の時間が長く有るので、モニターにピアノを弾く詩奏が、大きく映し出される。
普段は、常に観客の方を見ているミサキが、今回はピアノの独奏の間、詩奏の演奏をじっと見つめているので、5千人の観客の視線も、フェイスガードを着けた謎のピアニストを見つめ続けている。
バラード曲の連続したパートが終わる時に、ミサキの瞳から涙が溢れ始めてしまい、想像以上の良い音色に思わず詩奏に抱き着いてしまったのだ。
観客から、今日一番の大きな拍手。
ずっと鳴り止まない......
ステージが暗くなって、衣装替えの為、みんなが戻って来ると、ミサキは詩奏に向かって、
「詩奏の奏でる音色、本当に良かったから、思わず抱き着いちゃった。 ゴメンね」
と褒められたものの、詩奏は、
「体調悪いから、次同じことしそうだったら、逃げますからね」
と苦言を呈されてしまうのだった。
幕間のMCの時、ミサキは観客に、本来のキーボード奏者が急な食中毒で出演出来ず、急遽ピアニストに代役を頼んで出演して貰っていることを説明し、リハーサル無しのぶつけ本番で有るので、その点について容赦を求めていた。
それと同時に、キーボード奏者MASAよりも、今日のピアニストの方が数段良い音色を奏でてくれているので、思わず嬉しくて抱き着いちゃったことも話していた。
アンコールに入ると、ミサキは予定のプログラムを急遽変更し、SAYA作詞作曲で自身のミリオンヒット3曲の連続演奏となった。
そして、亡くなったSAYAへの感謝を観客に伝え、急遽代役で弾いていた謎のピアニストの正体が、親友SAYAの忘れ形見で有ることを仄めかしてから、曲が始まると、涙を流すミサキの姿に、観客席からはすすり泣く声が続いたのであった......
ステージが終わると、スタッフとメンバーに称賛されながら、詩奏は疲れた表情を見せつつ、父の元に戻ってきた。
そして、開口一番、
「お父さん、帰ろうよ」
と言ったので、控室は笑いに包まれたのであった。
「皆さん、ご迷惑お掛けしたかもしれませんが、ありがとうございました。 打ち上げ楽しんで下さいね」
詩奏は、その様に挨拶すると、着替えの為、更衣室に向かった。
暫くして、着替えて戻って来ると、ミサキが璃玖に御礼の挨拶していたので、
「ミサキさん、サプライズちょっとやり過ぎ。 もう代役受けないよ」
「詩奏に高いギャラ払うんだから、少し元を取らせて貰っただけだけよ」
「......」
そう言われるとぐうの音も出ない詩奏。
すると、事務所の会計責任者の中年女性が詩奏に近付いて、切符を渡すのであった。
詩奏は、切符を受け取る際、
「佐藤さん、いつもありがとうございます」
と言って握手したので、佐藤という女性は感激のあまり、立ち尽くしていた。
「お父さん、18歳未満の就労の条例違反になると社長に迷惑掛けちゃうから、帰ろ」
と言って、璃玖を促して、全員に対して、深々とお辞儀をしてから、ホールをあとにした。
佐藤という女性は、
「詩奏ちゃんに握手して貰っちゃった」
と言って嬉しそうにしていると、古株のスタッフから、
「佐藤さん、いいなー」
という声が上がった。
その様子に、ミサキが手を叩いて、
「ほら、片付けが終わるまでが仕事よ」
と言って、全員に気合いを入れ直していた。
新しい事務所のスタッフや、音楽関係のメンバーは、『何故佐藤さん喜んでいるの?』という不思議な顔をしており、古株のスタッフやメンバーに理由を尋ねる。
すると、事情を知っている数名の人達は一様に、
「社長に怒られるから、理由は言えないの」
と口をつぐむだけであった。
ミサキは、ザワついたままの状況は、保秘の観点から良くないと思い、
「みんな、ザワザワしない。 特に音楽関係のメンバーは貴方達自身が有名人なのだから、これから私が話すことを理解してくれると思うの」
「詩奏の魅力は、さっきのピアノ演奏じゃなくて、歌うことにあるのよ。 詳しくは話せないけど、既にうちの事務所からデビューしているミュージシャンなの。 お母様が亡くなってから活動を止めていて、当面は普通の女子高生で居たいそうだから、あの子のためを思うなら、これ以上詮索しないであげてね」
「あと、特に事務所のスタッフさん。 うちは音楽事務所なのだから、有名人の出入りが有るのは普通のことでしょ? その度に大騒ぎするの? もう少し自覚を持って下さいね。 私が握手したってあんなに感激しないのに、詩奏が握手したことで過剰反応し過ぎ。 そういうことしていると、あの子事務所に来なくなっちゃうよ」
その様に話すと、その場に居る全員の面持ちが変わり、いつもの雰囲気に戻ったのであった。
みんなが落ち着いて、それぞれの仕事に戻ったところで、ミサキは事務所の古株の女性の佐藤に、声を掛けた。
「社長、申し訳ありませんでした。 年甲斐もなく少し興奮してしまって......」
「みんな、詩奏のこと好きなのね。 気に掛けてくれてありがとう」
「佐藤さんも古株だから、あの子がアメリカから帰ってきた10歳の頃から、うちの事務所に出入りしている姿を見ているものね」
「そして、あの天真爛漫なSAYAの一人娘なのですもの。 感情移入しちゃうの、わかるわ~」
すると、佐藤という女性は涙を流し始めた。
「母娘で、あんなに楽しそうに音楽していたのに、SAYAが亡くなって、詩奏は激しく傷付いて、引き籠もって、『もう立ち直れ無いかも』って私も思っていた。」
「でも、事務所の出入りを再開するようになったと思ったら、嫌嫌ながらも今日のステージに上がってくれて......」
「私も嬉しくて、車の中で思わず抱き締めちゃったわ」
「しかも、以前はちょっと冷たい雰囲気を身に纏っているところが有ったけど、それが無くなったのよ」
「お父様の璃玖さんに尋ねたら、『間違いなく、人間として大きく成長しました。以前より素直で、思いやりのある娘になりましたよ』だって」
「私、嬉しくて嬉しくて......」
控室の隅で2人は、涙が止まらなくなってしまったのだった。
ひとしきり涙が出切ると、ミサキは佐藤さんに、
「それでね~。詩奏、一昨日ついに人前で歌ったそうよ。 それもピアノを弾きながら」
「だから、きっとまた歌ってくれると思うの。 SAYAの残した未発表曲をあの子はまだ抱えているからね......」
ホールを出た詩奏と璃玖。
詩奏が去った控室で一悶着が発生していたとは、勿論つゆ知らず。
「そう言えば、さっき切符受け取っていただろ?」
「KW駅までの特急券だよ。 日曜日なのに、遅くなったから、少しでも早く帰ろうと思って」
「え〜。 ちょっと贅沢過ぎない?」
「お父さんだって、会社の海外出張はビジネスクラスでしょ? それに比べたらささやかなものだよ」
「そうだけど......」
「お父さん、少し急いで。 特急の時間が迫っているから」
TK駅に着くと、IB県の奥の方迄行く特急が入線してきたので、直ぐに乗り込む。
そして、静寂の車内で座ると、2人共疲れから、直ぐにウトウトし始めたのであった。
帰宅すると、詩奏は、
「あ~あ。 今日の午後は勉強する予定だったのに......」
「半日位、大丈夫だろ?」
「ヤバいよ、本当に......」
「このままだと、数科目は赤点確実」
「期末テストも赤点だったら、夏休み補習授業で潰れちゃう〜」
「勉強も大事だけど、詩奏疲れただろ? 汗もかいたままだし、風邪引かないように、早くシャワー浴びたら?」
「お父さん、もしかして私、汗臭い?」
「いや〜......」
「マジで〜。 生理で辛くて体臭も気になるのに、最悪。 お父さん、臭い私でゴメンね」
「そこまで、気にする程じゃないよ」
「そういうのを気にする年頃なの〜」
詩奏はそう言い残すと、早足にバスルームへ向かうのだった。
璃玖は和室に行き、彩陽の仏壇に手を合わせた。
そして、彩陽の写真を眺めながら、
「彩陽。 お前が亡くなってから、初めて詩奏がステージに上がったよ。 あの子、だいぶ立ち直ってきたみたい。 だから、このまま見守っていてくれよな」
そう呟くと、線香をあげるのであった。
翌朝。
忙しくなってしまった、土日の影響で、詩奏は寝坊する。
父に起こされて、漸く目が覚めた詩奏。
「お父さん、ゴメンね。 寝坊しちゃって......」
寝惚けたまま謝ると、
「もう、朝ごはん出来ているから、安心しろ」
「だから、顔を洗って早く着替えて、学校行く準備をな」
「あー、寝癖あるじゃん。 急いでいるのに、最悪」
「も~。 適当でいっか〜」
ひとまず、髪をとかして束ねて誤魔化して、リビングへ。
そして、パジャマのまま、立って食べ始める。
優雅に食後のコーヒーを飲みながら、その様子を見ていた璃玖は、可笑しそうに笑い始める。
「まだ、時間有るだろ? そこまで急がなくても......」
「ゴニョゴニョ、ゴニョゴニョ」
「何言ってるか、わからないよ」
「お父さん、汗臭く無い? 私」
「全然。 逆に良い香りがするぞ」
「......」
「なんか、変なこと言ったか?」
「ちょっと、ヤラシイ言い方」
「え〜〜」
「お父さん、ありがとう。 私の匂い嗅いでくれて」
「それだと、俺が変態みたいじゃないか?」
璃玖が真面目にそう答えると、詩奏は笑い始めた。
「ちょっと誂っただけ。 あまり真面目に受け止めないで」
「あと、昨日は本当にありがとう。 お父さんも仕事で疲れているのに、巻き込んじゃって」
「初めての経験だったけど、彩陽が何をしていて、どういう心境だったのか、少し理解出来たよ」
「まあ、もう今年は、ああいうこと無い筈だから」
「MASAっていうキーボード奏者、食いしん坊だから、食べ過ぎなんだよね。 いつも」
「そのせいで、時々体調崩して穴開けるんだよ。 本当に困っちゃう人」
その様に説明しながら、食べ終わった食器を手際良く洗って、登校準備を続ける詩奏だった。
結唯と駅入口で、いつものように合流し、学校に向かう。
学校に向かって歩いていると、深月と合流。
「金曜日は、本当にありがとう。 詩奏があんなにスゴイとは思わなかった」
「みんな泣き過ぎで、ちゃんと落ち着いて聴けて無いよね? だから、過大評価だよ」
「そうそう。 昨日、お母さんとミサキのコンサート行ってきたんだ。 その時、詩奏が居た様な気がするんだけど......」
「えっ?」
「終わった後、男の人と一緒に駅に向かって歩いていなかった? お父様なのかな?」
「うん、行ってきたよ。 お父さんと」
「やっぱり。 声掛けようかと思ったんだけど、なんか楽しそうに詩奏が歩いていたから、邪魔しちゃいけないと思ってね」
『ふ~。 バレて無いみたいで良かった』
騒がれるのが嫌いな詩奏は、一安心。
「そう言えば、金曜日言い忘れたんだけど、私が弾き語りしたことは、深月のお母さんを含めて4人だけの秘密にして欲しいんだ。 当面の間」
「私、契約でカラオケ禁止だし、学校の人に色々言われても、何も出来ないから......」
「うん、わかった。 秘密にしておくね」
「ありがとう。 それに暫く勉強に専念しないと、夏休み無くなっちゃうし......」
「詩奏って、そこまで勉強ヤバいの?」
「中間テストは数科目赤点確実。 期末テストで全部は挽回出来ないと思うし......」
「......」
「......」
「2人共、私の成績良くなる方法、知らない?」
「ひたすら努力有るのみです」
「同感」
「やっぱり、それしかないか〜」
以後、大きな出来事は無く、学校と家を往復する日々が続き......
2週間後。
中間テストが終わり、結果が帰ってきた。
詩奏の成績は......
英語系は、全て満点に近い成績だった。
しかし、
国語系必修2科目、赤点。
数学系必修は、ギリギリ赤点を免れる。
しかし、理数系選択の数学系2科目は赤点。
それ以外は全部平均点レベルという酷い成績で終了した。
『やっぱり、酷い成績。 私っておバカってこと?』
ガックリする、詩奏。
自分の机上で、突っ伏している詩奏に気付いて、様子を見に来た深月。
成績表を見て、
「......」
「夏休み、このままだと半分以上無くなったね。 4科目赤点とは......」
「卒業も危ういね~。 年間成績赤点が一つでもあると、卒業出来ないかもよ」
すると、そのやり取りを聞いていた詩奏の隣の席の久留嶋英美里が、
「補習さえ出れば、赤点に加点されて、赤点じゃなくなるから、卒業は出来るよ」
「でも、うちの学校進学校だから、みんな大学受験の勉強していて、学校の授業より進んでいるから、高3で赤点取る人殆ど居ないよね。 英語だけは苦手で少し居るみたいだけど。 大学受験の邪魔にならないように、学校のテストも配慮されているから」
「教来石さんは、大学受験しないの?」
「するけど、1年浪人する予定。 色々有って勉強遅れちゃったから」
「それなら、致し方ないよね。 赤点は気にしなくて大丈夫だよ。夏休みと冬休みをある程度返上すれば、卒業させてくれるようになっているから」
「......」
「とりあえず、少し楽な気持ちになったよ。 久留嶋さん、ありがとう」
あまり慰めになっていない話だが、赤点恐るるに足らずと気付かされた詩奏は、夏休み確保に向けて猛勉強の決意をしたのであった。
この日の放課後。
久しぶりに都内M田の音楽事務所を訪れた詩奏。
半月前のコンサートで、詩奏が帰った後、ちょっとした出来事が有ったと聞いて、ひとまず佐藤さんを探す。
そして、経理の責任者の席に座っているのを見付けて、近寄る詩奏。
「佐藤さん。 先日は色々有ったみたいで、申し訳無かったです」
笑顔の詩奏に、その様に謝られてしまい、恐縮する女性。
「私の方こそ、ちょっとはしゃぎ過ぎちゃって......」
「これからも、よろしくお願いします」
詩奏は、その様に挨拶すると、改めて佐藤さんと握手してから、ミサキを探す為、事務室を出て行った。
「まだ17歳なのに......どうしたら、あんなに良い子になれるの? 大好きだったお母さんが亡くなったのに。 1年半経って戻って来たら......」
佐藤という女性は、そう呟くと、嗚咽が止まらなくなってしまった。
事務室に居た、事情を知る古株のスタッフも、その様子を見て、貰い泣きして涙が止まらなくなるのだった。
社長室に居るミサキを見つけた詩奏。
「詩奏、この間はありがとう。 今日は練習に来たのでしょ?」
「うん。 それと、一つお話が有って......」
詩奏は、そう言うと、社長室に居た見知らぬスタッフの方をチラリと見る。
その視線に気付いたミサキ。
「ちょっと待ってて」
そう言って、社長室に居たスタッフを一旦部屋の外で待機させる。
「前から居る人だけは、一緒に聞いて貰おうかな? スタッフの人の手伝いも必要だから」
詩奏がそう言うので、ベテランの側近だけ部屋に招き入れた。
「詩奏、お話どうぞ」
「ミサキさん。 『RYU』プロジェクト、どうしようか?」
「SAYAが居ない以上、このまま自然消滅で良いんじゃない?」
「スタッフさん、どう思います?」
「私は、もう少し聴いてみたかったって思ってます」
「実は、あと一曲、RYU用の曲が有るんです。 母が急死していなかったら、レコーディングして配信していた筈の」
「このまま自然消滅でも良いかなって思っていたのですが、折角母が準備してくれていたものを、このままお蔵入りさせてしまうのは、惜しい気がして」
「でも、詩奏。 貴方歌えるの? 彩陽のこと思い出して、難しいのでは?」
「だから、この最後の一曲を世に出して、プロジェクト終了させませんか?」
「もう1年半以上、休止したアーティストですから、以前の様に話題にはならないと思いますが、この事務所の収益にも大きく貢献してくれたプロジェクトですから、キチンと締めましょうよ、という提案です」
「詩奏が、そういう気持ちならば、私は構わないわよ」
「私も、あのプロジェクトに関わった者ですから、最後まで関わらせて欲しいです」
「それでは、決まりで......」
「彩陽のパートは、ミサキさんが歌ってくれるということで良いですか?」
「曲を聴いていないし、詞も見ていないから、なんとも言えないけど、私で良ければ歌うよ」
「私、学校の成績悪くて、期末テスト頑張らないと、夏休み無くなっちゃうんです」
「???」
「ですから、1か月ちょっと、学業に専念しますので、試験が終わったら、企画書を父と作って持って来ます」
「ミサキさんも、ツアー続くので、その準備が有るでしょうから、この件は7月半ばから始めて、8月終わり迄に実施の予定でお願いしたいのです」
「OK。 詩奏の歌声が有ってのRYUだから、その予定でいきましょう」
「スタッフさん、事前準備は事務所宛にメールしますので、少しずつ進めておいて下さい」
「わかりました」
「じゃあ、ミサキさん。 私はボイストレーニング兼ねて、スタジオでこの最後の曲、キーボード弾きながら歌ってみるからね」
「えっ。 今から?」
「そう。 今から」
それを聞いてドタバタし始める、ミサキと側近の女性。
その姿を見ながら、詩奏も準備を始めるのだった。
事情を知る最側近の者のみ、事務所内のスタジオに入り、詩奏の弾くメロディーと歌声を聴くことが許された。
1年半ぶりに聴く、詩奏の声。
曲も詞も、詩奏のことを一番良く知る母である彩陽が、最期の命を込めて作ったもので有るから、駄作であろう筈が無かった。
この作品は、彩陽の、詩奏を愛する想いが込められた詞と曲であって、自身の死を予感していたことも窺える感じのものであった。
事情を知る者しか居ないスタジオ内は、SAYAの想いの深さに、涙と嗚咽で溢れてしまったのである。
「やっぱり、こうなっちゃったか〜」
詩奏は呟く。
「ミサキさん、彩陽のパート、泣かずに歌うの厳しいよね?」
「私、この曲泣かずに歌える様になったの、今年になってからだから......」
「だから、練習しておいてね。 レコーディングだけで、人前では歌わない配信のみ前提の曲だけど、もしヒットして気に入ったら、ミサキさんのライブでも、歌ってくださいね。 来年以降解禁しますので」
「それでは、気分を変えましょうか?」
詩奏はそう言うと、ミサキの曲を歌い始めるのであった......
その1とその2で1話分となります。
25,000字を超えると、レスポンスが悪くなったので、分割しました。