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弓彦と毛利の銀塊  作者: 廣瀬智久
8/12

家族旅行と焼きカレー

 弓彦一家は門司港に来ていた。


 家族で父親の軽自動車に乗り一時間ほどドライブした。ドライブ中は父が話を始めるが、それを常に母が否定し続けるという不毛な時間だった。


 父は軽自動車を門司港駅の裏の有料駐車場に止めた。しかも父は犬のレッシーまで連れてきていた。後部座席の妹の優美と弓彦の間に挟まり、父の乱暴な運転に必死の形相で耐えていた。犬も耐える運転というのはどういうものなのだろうか。ラッシーは赤いちゃんちゃんこを着せられている。今朝、父が「出かけるんだ。外に出て裸は恥ずかしいだろう」とよくわからないことを言いながら着せていた。


「今日もいい天気だな」


 曇り空を見上げて父が言う。ラッシーは座り込んでいる。慣れない車中移動で疲れたのだろう。

「何で呼び出したのよ。こんなところで何するっていうのよ。だいたい久しぶりの家族旅行が日帰りの門司港なんてどういうことよ。もっと遠いとこにしなさいよ」


 ばっちり厚化粧をしている母が言った。妹はぼんやりとどこか遠くを眺めている。父がつぶやく。

「この、歴史と風情がお前たちにはわからんのだろうな」

「風情なんてただの観光地じゃない」


 優美がぼそりとつぶやいた。ラッシーが少し顔をこわばらせて妙な体制になる。父が「ああ」と言いながらおむつを取り替えていた。公衆の面前でおむつを替える父の姿を泰彦はぼんやりと眺めた。一応犬用おむつを履かせているようだ。


 弓彦たちが家族旅行に向かったのは門司港駅一帯の『門司港レトロエリア』である。 年間二百万人もの人々が訪れるという一大観光地である。


「バナナの叩き売りでも見に行くか」

 父がニコニコしながら犬を引っ張っていく。

「門司港だからバナナのたたき売りなんて定番を思いつくなんて発想が貧相なのよ。だいたい門司港って安っぽい建物以外何があるのよ」


 安っぽい建物と言われてしまうと国指定重要文化財も形無しである。このレトロ地区には門司港駅をはじめ旧大阪商船、門司区役所、かのアインシュタインも宿泊した旧門司三井倶楽部、旧三井物産門司支店などとにかく文化財だらけである。

「そういえば腹が減ったな。」


 父が言った。時刻は午前12時を過ぎたころだった。平日の昼間である。門司港駅周辺はそこまで混んでいない。曜日を気にせず日程が組めるのは家族全員サービス業の特権である。

「さて、どこへ行こうか。どっか行きたいところがあったら言ってみろ」

「おいってもんよ」


 弓彦は驚いた。家族を誘っておいてノープランである。門司港駅を見たらそれで満足というのだろうか。そういえば豆汽車が走ってたぞ。なんだっけ、潮風号とかいったか。

「トロッコ列車に…」

「カレー」


 由美がぼそりとつぶやいた。

「そうか。カレーか、焼きカレーだったな。門司港名物は。たしか有名な店があったはずだが」

「そこ閉店してる」

「そうか。じゃあどっかやってるだろう。あそこのぼりが立ってるぞ」

 いつになく饒舌な由美の意見に賛同した父は、犬を連れて意気揚々と歩きだした。


「いらっしゃいませ」


 カレー屋に入ると、蝶ネクタイをつけたオールバックの、少し疲れた顔をした店員が出迎えた。さすが平日だけあって、それほどお客さんは入っていないようだった。きっと週末は満席なのだろう。父が店員に話しかけた。


「大人4人と犬1匹」

「申し訳ございませんが、ワンちゃんは店内に入れません」

「そうなのか。犬の分も払うから中に入れさせてくれないか。家族と離れ離れは寂しいだろう」


 ラッシーはふてくされて座り込んでいる。

「ですがうちはレストランですので、他のお客様にご迷惑がかかるのは…」

「しかたないな。お前は外で待て」


 父はラッシーを外につなぎに行った。観光地のレストランで家族の食事が終わるのを待つ犬。瀟洒な建物が続く門司港レトロエリアで珍しい光景である。

「焼きカレー5つ」


 父は店員に頼んだ。釈然としない表情をして店員が厨房に入っていく。その間、家族の誰一人とも話そうとしなかった。


 ちなみに『焼きカレー』の始まりは昭和30年代、この近くの商店街にあった和食店が発祥といわれている。土鍋にカレーをいれグラタン・ドリア風にオーブンで焼いたところ、実に香ばしく、美味しく仕上がったので、のちに店のメニューとして出し、好評であったという逸話が残っている。

 『焼きカレー』について、特に決められた定義はないが、オーソドックスな形状は『米の上にカレーをかけ、チーズと玉子をのせてオーブンで焼く』というものである。しかし、お店によって玉子がのっていないものもあるため、少なくともカレーとチーズがかかっていて焼いてあれば『焼きカレー』と呼んでいるようである。


 オールバックの疲れた顔をした店員が困惑した表情で鉄板でおいしそうな音を立てる焼きカレーを持ってきた。それを満面の笑みで受け取ると、父は立ち上がった。

「どちらへ行かれますか?」

「犬に」

「え?」

「だから犬にあげるんですよ。犬は家族の一員ですから」

「申し訳ございませんが、ご注文いただいた品はテーブルでいただいていただかないと」

「なんでも出来立てがおいしいんだから早くあげないと。出来立ての唐揚げもそうだろう」

「テイクアウトにすればよかったのよ」

 ブスっと母が言った。


「このアツアツを食べさせないとラッシーがかわいそうだ。今からでも間に合う。連れてこよう」

「ですから当店はペット入店禁止なんですが」

「いや、あれはペットじゃない。家族の一員だ。一緒に食事ができないと寂しくなって死んでしまう」

「それはウサギだってもんよ」

「あんまり熱いと犬もヤケドするよ」


 いつになく饒舌な優美はそう言って焼きカレーに手を伸ばした。

「あ。そうだった」

 父は落ち着きを取り戻すと、椅子に座って二人前の焼きカレーを見つめた。店員は、災難が去ったと一安心した顔をして厨房へ入った。今頃この客に向かって罵詈雑言の嵐だろう。


「あなた食べなさいよ」

 母が言った。70歳手前の中年男性が食べるにしてはすこしボリュームが多く、しかも濃い味である。父は40分近くかけて頑張って二人前を完食した。


 店を出ると、次はトロッコ電車に乗ることになった。父親が食事中に気合を入れて語っていた話題である。

「…たしかこの先だ…」

 カレーを食べすぎたせいだろうか、よたよたしながら父は進む。それを全く無視して母と優美は進んでいる。弓彦はしょうがないので父の横を歩いた。


 青い車体が見えてきた。このトロッコ列車・潮風号は昔の貨物線を走る汽車である。父は案の定、犬を連れて汽車に乗りたいといって係の人と揉めている。


「犬好きなのはわかるけど、もう犬がいないと生きていけなくなってるわね」

 母がそう呟いた。係の人と揉めている父を放置して、3人ともばらばらにチケットを買うとそのまま乗り込んだ。景色が見えるように作っているので窓はない。シートが対面にあるシンプルな車内である。


 3人を乗せた汽車が出発した。父が「えっ」と驚いた表情で潮風号を見ているのがほんの一瞬だけ見えた。

 潮風号の一番後ろの車両に弓彦たちは乗った。平日だけあって、乗客は弓彦たちしかいなかった。3人は、関門海峡の海が広がる風光明媚な風景を見ながら、全く会話をしなかった。


 最初の駅に差し掛かるとき、弓彦がようやく口を開いた。

「おいって」

 母が振り向いた。優美は外を眺めている。

「何よ」

「かあさん、なんで父さんと結婚したってもんよ」

「?」


 優美が振り向いた。だが、気にしない風で再び車窓を眺めた。

「それは、成り行きよ」

「なりゆき?」


 弓彦が聞く。ふつうならここでここで2,3倍になってダメ出しをしてくるのだが、いつになく言葉が少ない母である。妹は車窓を眺めるふりをしながらしっかりと耳をこちらに向けている。

「この近くであの人とお見合したって話は知ってるわよね」

「たしかハカセタロウアンっていう料亭だってもんよ」

「そんな名前じゃないわよ。もじゃもじゃのヴァイオリニストじゃないわよ。しかも最初しかあってないわよ。そこで知り合って」


「父ちゃんのどこに惚れたってもんよ」

 優美がそば耳を立てている。

「だから、成り行きよ。さっきも言ったわよ」

「え」


「あの人のどこが好きで結婚したかなんて思い出せないわ。義父さん、康種お爺ちゃんね。あの人が本当はどこぞの名家の出身なんだけど家出して、体一つで畑仕事始めて、ナマコ漁勝手にしてヤクザといつも小競り合いしてるっていうぐらいは聞いたけどあたしは興味がなかったわ」


 死んだ祖父が家出少年という話は聞いたことがあった。数々の修羅場を潜り抜けてきたらしい。本当かどうか眉唾物だが。


「そうねえ。あの人は義父さんと仲が良くて。よくつるんでたわ。義父さんは流行りの人の物まねするのが大好きで、父さんもお見合いの時も変な物まねやってたわ。あたしは興味なかったけど。ああいう無邪気なところが気に入ったのかしら。前の会社でもホープだったのに、いつの間にかリストラ対象になって。上司とも仲良かったはずなのに。コネ使えばいくらでも長居できたのにどうしてこんなことになってしまったのかしら」


 母はため息をついた。

「媒酌人は上司って聞いたってもんよ」

「あたしの結婚前に勤めてた会社の上司と父さんの会社の上司の仲が良かったのよ。それで紹介してもらったわ。あたしの父さんは、死んだ義父さんが名家の出身だなんて聞いて少し盛り上がってたけど。あたしは興味なかったわ。結婚してすぐにあの人のことが嫌になったわ。恋愛結婚の方がよかったのかもしれないわね」


 結婚当時から倦怠期だったのか。聞かなければよかったと弓彦は思った。

「でもそこで先生に会ったのよ。前江田さんの紹介で」

 母の目が輝いた。前江田さんは母が信仰する某宗教の熱狂的な信者である。ちなみに弓彦も何度か某宗教を勧誘されているが、お布施が高いのとコンビニ勤務は忙しいから礼拝に参加できないと言って断っている。


「そこで、子供は二人産めって言われたからそうしたの」


「おいって…」

 弓彦はため息をついた。自分たちの出生の理由は先生の勧めですとはさすがに思いたくなかった。

 潮風号が終点に着いた。乗客はすべて降りたが、弓彦たちはそのまま降りずに折り返す汽車に乗った。結局それから会話もなく、門司港へ戻ってきた。


 父と愛犬はいなかった。どこかへ行ったのだろうか。

「おいって、父さん」

「知らないわよ。トイレにでも行ったんじゃないの。そのうちどっかからでてくるわよ」


 結婚して40年もたてばこうなるのか。


 父は携帯電話を持たない。ましてやスマートフォンなどは存在すら知らない。母も同様である。携帯電話があるといろいろと束縛されるので意図的に持っていないそうだ。


「弓彦、何か食べたいものでもあるの?焼きカレーはあたしの口に合わなかったわ。大体あの人の食べてるものはあたしの口には合わないのよ。昔一度だけあの人が作ってくれたカレー鍋は夢に出るぐらいまずかったわ」


 そういえば、弓彦は父が料理している姿を見たことがない。父と母が別居をして以来、厨房のコンロは誰も使わずほこりまみれである。父が食べるものといえば常にコンビニ弁当かパンぐらいである。初老の男性にしては少々塩気のきつい食生活であるが、今のところ父が体の不調を訴えたことはない。


「あのカレー鍋事件以来厨房にも立たせてないわ。弓彦は食べたいものはとくにないのね。優美は?」

「フグ」

 優美がつぶやいた。母が聞く。

「え?フグの揚げのこと?」

「そう」


 優美は遠くを見ている。

「おいって、今から下関行くってもんよ?父さんは探さないってもんよ?」


「優美が食べたいっていうならしょうがないんじゃないの?父さん?あの人はどっかで犬のトイレにでも付き合ってるわよ。だいたいこんな観光地に犬連れてくるってどうなのよ。トイレの処理さえしとけばいいってもんじゃないのよ。帰りの車が犬のフンのにおいで大変なことになるわよ。だいたいコンビニ経営者っていうのに衛生観念ってものがないのよ。この前も朝からトイレの大便器掃除してるときに間違ってティッシュ入れて詰まって水びだしよ」


 ぶつぶつ言いながら母はフェリー乗り場まで歩き出した。


 門司港から下関まで小型の連絡船が往復しており、下関まで10分で向かうことができる。3人は父を九州に残し、本州の玄関口山口県下関市へ向かうこととした。チケットを三人分購入して係員に見せる。やはりここも客は少なかった。


 船の中に客は3人しかいなかった。何故か3人そろって窓際の席に縦一列に座った。 

 船は揺れた。源平合戦で平家を滅ぼした陰の主役・関門海峡の潮流が小型フェリーに襲い掛かる。

「おいって、これしんどいってもんよ」


 弓彦が前に座る母に話しかける。母は座ったままポリ袋を持ってうずくまっていた。嫌なものが見えた。後ろを向くと、優美は波しぶきが窓にぶち当たるのを死んだ目で見つめていた。


 下関に着いた。

 弓彦は真っ青な顔をしてうずくまっている母を抱きかかえると、何とか連絡船の外に出した。母を引きずり、とりあえず唐戸市場へ向かう。母は真っ青な顔をしてトイレに駆け込んだ。子供たち二人が残された。


「おいって母さん」

「唐揚げ」


 そう呟くと、優美は市場の中に入っていった。弓彦はトイレに入ったまま出てこない母をそのままにしてよいのか逡巡したが、優美を追いかけた。


 市場には寿司屋や唐揚げの店がたくさん並んでいる。客はそこで買い物をすると外に出て海を見ながらその辺のベンチで食事をする。優美は大量の唐揚げを買ってきた。弓彦は寿司を食べた。


 母は来ない。優美は食事を終わらせると、再びフェリーに乗ろうとした。

「おいって、揺れるのはいやってもんよ」


 弓彦は言った。またあのフェリーにだけは乗りたくない。

「どうやって帰るの?」

「おいって、確か歩けるってもんよ」


 本州と九州を結ぶ関門海峡には関門大橋とトンネルがある。このトンネルには人道があり、1キロほどで行き来できる。


 優美は無言でうなずくと歩き出した。2人はエレベーターに乗りトンネルに下る。トンネルは比較的明るく、ウォークキングしている高齢者の姿もちらほら見えた。2人は黙々と歩いた。


「おいって、なんとなく気持ち悪いってもんよ」

 弓彦の歩くスピードがどんどん落ちていく。

「そう、あたしは平気よ」

 優美は見向きもしない。

「おいって、苦しいって」

「そう」


 弓彦はうずくまった。しかし、無情にも優美はそれを気にせずずんずんと進んでいく。

「おいって」

 弓彦が小声でつぶやいたが、優美は気にせず、そのまま歩いた。


 トンネルの終点にはエレベーターがあり、そこを上がると門司港側に着く。優美は地上に上がると、そのまま駐車場に向かった。時刻は午後3時。観光客はちらほらいるが朝とそれほど変わらない。天気も曇り空だったが、結局雨は降らなかった。


 優美は父親の乗っていた車に乗る。なぜか鍵が付いていた。自宅に向かって出発する。ラジオをつける。エフエムラジオからいつものDJのモノマネ天気予報が流れている。優美はこのラジオ番組が好きだった。


 自宅に到着したのは夕方である。由美は母親と一緒に住んでいた。


 部屋に入ると、冷蔵庫からジュースを出して、一杯飲んだ。ふう、とつぶやき、ソファーに座る。何気なくテレビをつけた。


『続いてニュースです。門司港で食中毒事件がありました』


 よく見るローカル局のアナウンサーが話している。


『事件があったのは門司港と唐戸市場、関門トンネルの人道です。調べによりますと、うずくまる初老の男性と女性、四〇代前後の男性が付近を歩いていた観光客に発見されました。三人は近くの病院に緊急搬送されましたが命に別状はないということです。搬送された症状から食中毒に近いということで警察は調べを進めています』


 優美は、大きな忘れ物をしていることに気づいた。

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