マツリの危機
――sideサトリ
「っというか!!サトリは来るのが遅いっ!!自分達とっても危なかったんだからね!」
「それは悪い…というか仕方がなかっただろ!何せお前らどの森に行ったか書き置きすらなかったじゃねえか!西じゃなくて東の森の方に探しにいっちまっまてたよ」
「雰囲気と匂いと音とかで見つけられたんじゃないの~?」
「無茶言うな!俺はもう単なる人間だ!」
全てを換金し終わり、そのお金で二人は安い服(マサリは薄紫色の生地に花柄の刺繍が施されたワンピース、マツリは桃色に近い赤色のシンプルなワンピース)を買い、荷物を一旦整理してから、ようやく俺達はまた例のカフェに晩御飯を食べに来た。
そしてその頃にはいつもの調子が戻っていたマサリは俺に理不尽な小言をぶつけてくる。そのまま言い合いがヒートアップしかけると、店員に注意された。完全に俺達が悪かった。
そして落ち着いて晩御飯を頼む。俺とマサリは昨日少し食べてみたかったハギスと魔物のスープを、マツリはジャケットポテトとダージリンティーを注文した。
「魔物のスープって美味しいんですか?」
始めに届いた美味しそうに俺とマサリが飲むその透明でどろどろのスープを覗き込む。俺とマサリは目を見合わせた。
「いや、俺はまずいと思ってる。でも落ち着くっていうか…」
「自分は美味しいなって思ってる。」
「俺としては、マサリはもっとまともな飲み物を好き好んでほしいんだがな。」
「無理だね。でももしサトリが我慢するなら」
「…………無理だな。」
魔物の多くは牛や豚とは違った独特のくさみやうま味ならぬまずみがあって、万人受けは絶対にしないが、人によっては少し中毒性がある。
マツリはそう説明する俺達が信じられないようで、ややひきつった笑顔で変わっているねと一言。
これにはぐうの音もでなかった。
「ところでさ、結局座長とは会えたの?」
料理が大体揃ったところで一旦雑談は中断し、マサリが切り込んでくれる。
「会えなかったが、明日の朝なら良いって言われた。」
「肩書きのお陰?」
「いや、なんかすんなり。逆に怖かった。そいつ、わざわざ来てくれてありがとうとも言ってたな。」
いかにも魔法を使いそうな身なりだったが、いい奴だったと思う。
「うーん。なら、種族判別キットは使わなくて良いかもね。あれ、使用してから結果がわかるまで一日使うから。」
「じゃあキットだけつくっておくか。」
「サトリ、座長に聞き出せたらいいけどさ、うまく聞き出せる?うん。やっぱ万一のためにキットも使わなくて良い?」
「ああ、大丈夫。俺がどうにかするよ。…安心しろ、脅さないようにする。」
そう、それもまた約束したもんな。
俺はここのカフェのメニューの中で一番ハギスか美味しいご飯だなと自身の皿の上の料理の減りようを眺めながらまた一口フォークで中身を食べる。
「マツリ、この様子だと明日の夜には種族説明書を作成してこの町を離れられるよ。カルジャンに行こう。マツリは一人を旅してて、自分とサトリは二人でカルに行くかもね。」
マサリはどんどんカルマアラネ・アンダージャン公国を略していきながら提案する。
よくわからないが、マツリはやっぱり一人で旅することに固執しているようだ。
そして俺達は理由を深く追求できないし、だから別のパーティーとしてたまたま同じ目的に向かうと言うていを装う。これで止められたり嫌な顔をされれば深追いはやめなくてはならないが、しかしマツリは少し嬉しそうにポテトから顔を上げた。
「あの、それは本当に悪いよ…悪いけど、その……そうだととても嬉しいな。」
フワッと赤くなった頬をしきりにつねり、マツリはその熱を冷まそうとしているようだが全く効果はなく、俺とマサリは目を合わせて微笑んだ。
食事が終われば俺はマサリとマツリを彼女達の部屋に返し、俺も部屋に戻る。…が、二人はすぐに俺の部屋にやってきた。それぞれ二匹づつ猫を抱えている。それぞれ頭や腹を撫でられ、幸せそうだ。
「で?マサリ、マツリ、どうしたんだよ」
「サトリ、今何時だと思う?」
「何時って…」
俺は扉から離れ、窓を上にスライドして開け、首を突っ込んで数百メートル遠くの時計塔を見た。
暗いので目を凝らすと、恐らく時刻は七時か八時。暗い夜だが、眠るほどの時間ではない。
「退屈にでもなったのか?カードゲームは?」
「うん、でも人数も多い方がいいよねって思って」
「いや俺今から種族判別キットつくるんだが」
「はい、僕つくり方教えてほしい!」
「え?カードゲームは?」
「いつでも出来る!」」
二人は息をぴったりに揃え、グッと両手で拳をつくり、俺に一歩迫る。
わざわざキットをつくりたいなんて。マツリは俺を変人だと言うが、お前らもなかなか変わり者だな。
…まあ、いいか。
俺は机乱雑に並べた魔物の角や血抜きをした肉や青い血、黄色い血、種族をリトマス紙のように色判別する用の紙、そして固い木であるリグナムバイダの小さなすり鉢とすりこぎ。その他エトセトラの乗っかった四角い机を持ち上げる。
部屋の中央にどんと置き直し、近くの椅子とソファを取り寄せ、二人を手招く。
すると二人は揃って顔を見合わせ、猫達をベッドに置いて、マサリなんかは俺に抱きついてくる。マサリの体重は非常に軽いが、それを上回るチーターくらいのスピードで突進されたので、俺は情けなくも立ったまま耐えることが出来なかった。
「おまっ、あぶねえだろうが!」
「えへへ!ごめんなさーい!」
「だ、大丈夫!?」
全く反省の様子無くマサリは俺に手を貸し立ち上がらせてくれる。その近づいた瞬間には花の香りがあった。いつもこいつからは金木犀の香りがする。
俺はため息をついてから、二人を椅子に座らせ早速キットづくりに移ることにした。
といってもその作業は簡単で、用意した特定の臓物や血や角などを全部鉢にぶっ込んですり潰し、専用の紙を浸し、乾燥させて完成だ。
そうした紙の上に調べたい魔物の細胞の一部を濡らしたものを置けばどんどん紙に色と模様が現れ、それを俺の持つ図鑑の一覧と照らし合わせれば判明する。
きっと混血だろうこの猫達は、少し模様が複雑になるだろうが…
「どうだ?簡単だろ?」
中身の入ったすり鉢とすりこぎをマツリに渡せば、マツリは楽しそうに混ぜ合わせる。こいつ、ほんとに力あるな。
「うん、本当だ!」
少しして、マツリはマサリにすり鉢を手渡した。
マサリは初めは嬉しそうに受け取ったものの、しばらくすると顔が曇り始めた。全く混ぜられていないのだ。顔を赤くさせ、立ち上がったりしゃがんだりと体全体を使って回すが、それらの動きは余計に力を無駄にしている気がする。床に鉢を置いて体重を使って混ぜようとして、一度姿勢を崩しすっころぶ。
「うっぐぐ…」
「おーいマサリ、もう俺が…」
「いーやーだー!!」
とは言うものの、彼女は既に息切れし始めている。
更に数分すれば部屋にはゴリ、ゴリュッと不気味な音が響き、どんどん中身が固まってきているのに気づく。ああ、二人には固まるってこと説明してなかったな。固まったら使えなくなる。そろそろ代わらないと。
腰かけていたベッドを振り返ると、猫達は思いきり怯えて音の方向を威嚇していた。
みるみるうちに猫の瞳孔が開いてゆき、段々血のような赤色に変わっていく。――音に反応して暴走しかけているのか?
慌てて制御か気絶させようと立ち上がれば、それより先に水色と赤色のエフェクトが視界の隅に確かに光った。
「《揺籃歌》」
淡々とした口ぶりで魔法がかけられる。猫達が大人しくなる。
「マツリ、さすがだな」
夕方には魔力を大分消費していたというのに、やっぱり若いやつは魔力の回復が早いな。
そう頭の中で考えたとき、俺は床に倒れていることに気づく。
あれ?
「あっ!!」
慌てて俺を床に座らせるマツリの顔を見て何となく理解する。
揺籃歌は術者がどれだけの人数にその魔法をかけるかを決められる。それは無意識の内でも些細なことが影響していて、例えば咄嗟で焦りがあれば一人にのみ影響したり、リラックスしていれば大勢に影響したり。その逆も然りだったりするが、とにかく今回は俺達にも影響してしまったのだろうな。
「ごめんなさ……ちゃんと……」
俺は勇者時代にどんな魔法にも耐えていたという記憶を元に目覚めようとしたが、努力も意味なく段々と気が遠くなっていく。
きっと俺も力が衰えた。昨日寝るのが面倒になったのも原因のひとつか?
けれどそれ以上に、マサリの力はえげつないんだろう。
体の感覚はないが、視界的に俺は今ベッドの上に運ばれたのだろうとぼんやり考える。子供に軽々運ばれるとは恥ずかしい。
「すぐに……戻りま……」
何をいっているんだろうか。
どんどんと意識は吸い込まれていく。
さすがは…ミューズの……魔道…………師………………
――sideマツリ
これはチャンスだ、と思った。
猫達のための揺籃歌が何故かマサ姉達に効いてしまったのだ。全く悪気はないけれど、実は僕にとってはちょっと都合がよかったりする。
僕は一人で旅をする。
それがとある人達と約束した条件だった。
――僕は出来るなら、あのサーカスで産み出された全ての魔獣を助けてあげたかった。何でって、サーカスで使えなくなれば魔獣は即刻処分されるからだ。人間への見世物として充分なそれは、人間への脅威としても充分だから。
だからこそ、それを知ったときからずっと、僕は全ての魔獣を助けたかった。
けれど、どうだ。
現実はそんなに甘くなくて、僕は唯一保護している四匹の限りなく猫に近い魔獣位しか助けられていない。
せめて、あと一匹だけでも助けられれば。お母さん猫だけでも。
そんなことを考えている時、僕はとある人に出会った。その人はとても親切な人で、魔獣が大好きだと話してくれた。
僕とその人は意気投合して、そのうち四匹の猫とお母さん猫を助ける方法を一緒に考えてくれた。
四匹の猫の方はサーカスに出ていないために鍵も余裕に開けられて実に簡単だった。
僕達の問題はお母さん猫の方で、するとその人は条件を提示する代わりに必ず一緒に助け出すと意気込んでくれたのだ。
「母猫を助けたあと、きっとすぐにこの町を発て。お前以外は信用ならないから必ずお前一人でどこでもいい、保護区まで向かうんだ。それが守られなければ俺がお前の命を奪って猫達を保護するからな」
それに倣い、僕はまず四匹の猫の檻を壊した。けれど異常にはやく見つかって、僕を良く思わない人達に殺されかけた。運良く、その前日にお兄さん達に助けられたけど…
お兄さん達にするつもりの依頼はあの猫達を僕が引き取る数日間守ってほしいというもので、主にあの男二人がは猫達を殺しかねなかったのでそう頼もうとしたんだけど、マサ姉が、思いきり魔法を放ってくれたお陰で猫を執念深く殺そうとまではしないはずだ。
だからこそ、僕は依頼を解除しようとした。
……結局、沢山助けてもらったけど……
でも、だからこそ今日行う親猫解放には、一人で…正確には僕ともう一人の協力者で赴きたかった。
ベニトサーカスはすごく大きくて財力や権力みたいなものも豊富だ。そんな人達とマサ姉達を敵対させるわけにはいかない。絶対に。
けれどそれをあの二人にどう説明しようか悩んでいたんだ。丁度良かった。
僕は部屋に戻り、動きやすいいつもの服に着替えて部屋をあとにする。揺籃歌は数時間で効果がきれるだろうし、それまでに戻ってくれば問題ない。
高鳴る心臓をおさえようとして、余計にうるさくなる僕の心は本当に落ち着きがない。
扉の前で深呼吸をして、こっそり宿をあとにした。
待ち合わせ場所には数日前に親猫救出策を一緒に考えてくれた、フードを被った細い男がいた。
「お待たせ。僕だよ、マツリです」
「ああ、やっと来た。とっとと逃げたのかと思ったよ」
「そんな、逃げて意味ないじゃないじゃんか。」
「ああ、そうだ。お前サーカスをやめたみたいだな?」
「あ…ええとその、それは成り行きというか…」
「責めてる訳じゃない。ただそうなると、お前が今から向かう先はもうお前の職場ではないからもうそれは不法侵入に当てはまる。罪を犯す気はあるか?」
その人は僕と出会うなり歩き始めていて、つまりは覚悟がないならここから去れとでもいうのだろう。僕は彼を小走りで追いかけた。
「あるよ。僕は出来る。」
「だが、元来お前は性分が真面目だと思う。そういうのは俺にはよくわかる。」
その人は街頭の元で立ち止まる。白い息を吐いて、顔の見えないまま僕をまじまじと見た。
僕は咄嗟にヴェール越しに口元をおさえた。何となく、怖くなって。
でも、母猫を助けるには怖じけてちゃ駄目だ。
「それは昨日までの僕の話だ。僕は今日、沢山の命を奪った。誇れることでは全くないけれど、そんな僕が守らないといけない命をルールを理由に助けなくて、どうするんだ」
声は確かに震えていた。僕はうつ向いたままだったけれど、それでも意思は伝わったと思う。
するとその男はため息を大袈裟についた。
「良くない思想に向かってるな」
「え?」
「命は沢山奪います、ルールはしっかり守りません。今日まで何も意図的に殺したことが無かったお前が、随分思いきったことを言うね。なかなか珍しい」
「……滅茶苦茶かな」
「さあ?俺は好きだけどな。血が好きで、秩序を気にしない信念があって、守ろうって気持ちもある。将来有望だよ。あの子に似ていてとってもほしい。」
「あの子…?」
僕が聞き返したところで、そこで僕はようやくあれ?と首をかしげた。
いや。おかしいぞ。この会話全てがおかしい。
何でこの人、こんなにも僕のことを知ってるんだ。
だって僕はこの人を全然知らないのに。
その途端、なんだかとてつもなく悪い予感がしてしまって、僕は一歩下がって夜に紛れようとした。
わずかに冷たく汗ばんだ僕の手を、グッと掴まれる。
「魔法っていうのはどうしてあんなにも便利なんだろうな」
耳元でねっとりとした声が響く。ベタベタの異物に侵食されるような嫌悪感。
「かの勇者様すら、どの人間に、どんな魔法がどれだけかかっているのか、そんなことは中々見抜けない。現にお前は一度も俺を疑わなかったね。或いは元から何でも信じるような純粋な頭か。お前のお姉様の教えの賜物か?」
その言葉は明らかに皮肉を交えられていて、僕は反射的にその男を睨む。今、僕がすべき行動はこの男の手を振り払うことなのだろうが、その瞬間に目の前に向けられたあの剣の鈍い銀が視界に映る錯覚を見て思わず顔を歪ませ目を擦るばかりで、その手を振り払うという動作にまでは時間が足りなかった。
一瞬、男の掌が夜に目立つ白色に光る。
「《揺籃歌》」
それを最後に、僕の記憶は途切れた。
――side✕✕✕
「お姉様!」
青い鳥が背中に刺繍された、他の子供とお揃いの薄浅葱色の洋服を身に纏ったマツリは、その刺繍を施した私の袖を引っ張る。
「おはよう。どうしたの、マツリ」
「あのね、あのね、お姉様、ぼく見つけたんだ!だから行ってきてもいい?」
「ちょっと待って、何を何処で見つけたの?」
齢七歳のその女の子は誰よりも無邪気で活発な子供だ。大方、こっそり町の外れの川にでも出掛けて、そこでなにか珍しい花でも見つけたのかもしれない。
マツリはえーと、えーとと言いたいことが多すぎて逆にうまく話せない状況のまま両手を上下にブンブンと振りつつ、ゆっくり言葉を紡ぎだした。
「もう本当にすごい綺麗な音!近くの川の方で…あっ、抜け出したのはお姉様以外には秘密だよっ!!」
「そっか、音を見つけたんだね。……音?」
「うん、音。」
マツリは猫か柴犬に似た耳をピコピコさせて、目はキラキラと熟れた林檎の赤のような色で輝かせていた。
こっそり家を抜け出したのにわざわざ私の方に戻ってきたということは、少し帰るのが遅くなるということだろう。好奇心旺盛で勝手にいろんな所に行くのに、マツリは心の底は真面目だから報告してくれるのはありがたい。
私は少し悩む。本来なら、マツリが敷地外に出ようとするのは止めなければならない。けれどここの近くの川は全くモンスターが出なくて安全だし、傍には沢山民家だって並んでる。すぐに助けも呼べる。なにより、毎日他の一般家庭のように外で遊べないのもルールとはいえマツリにとっては少し窮屈だろう。
私は辺りを見渡した。幸いにも今庭に出ているのはマツリと私だけだ。施設長もいない。これなら、彼女がこっそり抜け出したこともばれないだろう。
私はマツリの頭を撫でて笑って見せる。
「お昼ごはんまでには帰るのよ。とびきり美味しいご飯を作るからね」
「っ、うん!!」
「あ、待って」
私はポケットの中から二枚銅貨を取りだし、マツリの手に乗せた。
「今の朝の時間なら、まだマツリの好きな花が売り切れてないはずだよ。ついでだし、お花屋さんにでも行っておいで」
「え、良いの!?」
その顔があまりにも可愛くて、私はマツリのもちもちの頬をふにふに触る。
「うん、良いよ。だって最近沢山お手伝いしてくれたからね、そのご褒美。」
「わぁい!!」
「他のお友だちも誘わなくて良いの?」
「うん!とびっきり素敵な音を見つけて持って帰ってあげるんだ!」
いったい、彼女の想像世界には何があって、彼女には何が見えているのだろうか。マツリはパタパタと川の方へ走り去っていった。あるいは、お花屋さんかな。
私はその純粋さを少し羨ましく思いながら、そっと傍の教会の鐘を眺めた。心地よい風。
私は今日にもその教会が壊れてしまうことを知らないまま、何百年も前から現存する建物を微笑みながら眺めた。
――sideマツリ
体がゆっくり冷えていくにつれ僕の意識も段々浮上してくる。夢の暗くてぼんやりした世界は段々と明るくなっていき、覚醒する。
そうして目を開けた視界の先には、オイルランプの途切れそうな炎がチカチカとひとつ、透明な瓶の中で揺らめいていた。よくある光なはずなのに、それは何故かずっと光るのではなく断続的に輝いていた。魔法の何かかな。
「ここは…あれ、僕…」
ゆっくりと体を起こすと、そこで僕は縛られた手を見る。
サーカスのテントを組み立てる時に使うような頑丈なひもだ。
続いて立ち上がろうとすると、足も不自由なことに気づく。こちらは重い鉄枷で、枷には右足と左足を繋ぐ短い鎖と、近くの机や壁へ伸びた少しだけ長めの鎖がついている。立ち上がろうとしても、壁や机に鎖を通して繋がっているためにうまく立ち上がれない。
それでも尚どうにかして立ち上がろうとすれば、近くのランプがスローモーションのように倒れて光がふっと消えた。
「しまったな…」
僕は冷や汗が背中を流れているのを感じながら、暗くなった視界を見渡したが何も見えない。
ならば音をと思ったが、どうやら耳栓をされているようで全く音は聞き取れない。頭を振って、耳の異物を取ろうとするが取れず、近くの机の角に慎重に耳を当てて動くことで、ようやく右の耳栓だけはコロンと地面に落下した。
と、同時に足音。
慌てて前に縛られた両手から魔法を繰り出そうとするが、魔法をしようする際のエフェクトは一瞬光ったっきりもう二度と現れなかった。そうだ、魔力が切れてる。ひもをひきちぎれるほど力が回復していないしし、そんなことが出来るかも怪しいぞ。
ぐるぐる思考が回り回って、とりあえずここは何処なのか改めて見渡してみて、相変わらず夜目は効かないが、代わりに部屋の匂いに覚えがあることに気づく。
「あれ…ここって」
「久しぶり」
暗い空間から誰かがやって来た。聞き覚えのある声。
そのままその低い初老のような声は近くの倒してしまったランプの火を再びつけると、改めて姿をぼくに見せた。
「ざ、座長…!」
「ああ、覚えてくれてたんだね。最後に会ったのは大分前なのに。」
なんだか紙芝居の悪役のようなわかりやすい不気味な笑顔を張り付ける座長に僕は思わず後ずさると、その人は僕の頬をそっと撫でた。ぞわり、と鳥肌が立つ。
「どうして、僕は何処にいるの」
「どうして何処に、か。マツリはここに来たがっていただろ?」
「座長の部屋?」
「ほら、知ってるじゃないか。」
僕は座り込んだまま、もう一度撫でられるのを首の動く限りで避ける。ゴキッと、凝っていたのか嫌な音が首からはした。
「この鎖、解いてほしい」
「駄目だ」
その声はひどく低く、ゆっくりと点滅している明かりが消えるごとに、座長の顔のほりは深くなっているような気がした。
僕はなぜこの状況におかれているのか…大方、猫について協力してくれると行ったあの男は僕を裏切ったのだろうけれど、なんで座長がこんなことをするのかがわからなかった。
考える。
前提として、魔獣である猫達の扱いで僕は一人孤立していて、座長はよく仕事でサーカスのテントにいることすら少なかったけど、特に僕に対しては言伝てや小言を別の人に伝えておくのみで、ほとんどの面識はなかった。嫌われていたはずだ。だからこそ僕はサーカスをやめる時に未練も罪悪感も殆んど無かったんだ。僕にとってサーカスは素晴らしいものだが無くしても悲しくはないものだったし、サーカスの主も僕を嫌っていたのだもの。
だとすればこれは、何も言わずに止めた僕への罰か。てっきり、専属の魔道師が僕に魔法をかけると思っていたんだけど。…いや。僕をここへ運んだ男は、もしかすると魔術師なのかもしれない。…見覚えはなかったけれど。
「昔からずっと意見が合わなかったから?サーカスを勝手に止めたから?猫を盗もうとしたから?」
嫌われる要素は充分有り余ってる。どれに対する制裁だ。猫のこと以外なら、まだ交渉できるかもしれない。
しかし座長はゆっくりと首を横に振った。どれも違う?
その間、僕は縛られた両手でフェイスヴェール越しに口元をなぞろうとしたが、フェイスヴェールは口元にはない。そのまま、かつて顎から口元にかけてある、かつて座長に従える魔導師に切られた痕を手の母趾球でなぞらえた。
その癖である動作を見て、座長は心底悲しそうな顔をした。
「マツリに傷をつけたのは、悔やむべき事故。誰がつけたのか、思い出せないが。だがしかし、別に恥ずかしがるような傷じゃない。亜人らしく野生感が出て、それはそれで好ましい」
「別に、恥ずかしがってない」
「でもいつも隠していただろ。食事の時だって、あれ、どうやってこうもヴェールを汚さずに食べてるんだ?」
「…………口を隠していたのは、なるべく皆に顔の特徴を覚えられないようにするため」
「ああ、そうだったな。結果的に秘匿性が強まって、素晴らしいと思う。」
僕は本来こんな不毛な反論をしている暇など無いので、彼のどうでも良さそうな意見に突っかかろうとして話の主導権を握ろうと努力をしてみるが、あまり意味はなさそうだった。
仕方がないので単刀直入に聞き出す。
「ねえ、あの猫達のお母さんを僕に預けてほしい」
「何故?」
「でも、どんな生き物にだって親は必要だ。猫とは言ったけれど、あの魔獣は総じて長命だ。他のよくいる猫とは違ってまだ子供なんだ」
「マツリは親もいないじゃないか」
「お姉様がいた」
「そのお姉様とも今は離ればなれだろ。それでもお前は生きている。」
「…でも、僕は寂しいよ。だからお姉様を見つけるんだ。それはずっと、変わってない」
僕がベニトサーカスに入団した時から、ずっと。
僕はせめてまっすぐに見つめて座長を睨んでみると、座長はおろしたてスーツのポケットから小さな小瓶を取り出す。恐らくはガラス瓶はお日様の元で見れば淡い何色かをしているのだろうけれど、今は近すぎるオレンジ色のランプに照らされて、色の判別はつかなかった。ただ、中には少量の粉末が入っていることは確かだった。
「まあ、マツリが昔から全く変わっていなくて安心したよ。そうでなければこの契約は成立しないからな。お前はつまり、猫達はお前のように悲しい思いをしてほしくないんだろ?だったら、マツリ。取引しないか?」
「…………取引?」
「取引だ。それも、とても簡単なものにしてやる。」
いやいや、どういうことだろう。
何がどうなって取引を持ちかけられたのだろう。
ありがたいけれど、座長はどうしてそんな提案を持ちかけてくれたのだろうか。
「とっ、とりひき?するなら、とりあえずこの拘束を…」
「言っておくが、お前の探す化け猫はもうすぐお役御免だ。最近弱くなってきたからな。加えてあれは、本来存在してはいけないような改良を加えている。つまりは、今日殺したっていい。」
それが嫌なら取引を呑め、と。
「……なんでいきなり取引を?」
「それはただ、元からその予定だったからだ。手荒な真似をしてしまったが、それはマツリだって子猫を不正な方法でサーカスから引き離した。つまりは、お前も俺と同じようなことをしたからおあいこだろ。ただマツリ、勘違いしないでくれ。俺は端からずっと、お前に全く敵意もなかった。」
その端からは、僕を今日捕まえてからのことか、はたまた僕を入団させた時を示すのか。
「一部の団員からは、お前は嫌われているからサーカスで芸を披露できない等といった噂話を耳に挟んだが、それは見当外れだ。あの誰に対しても仲間意識を感じない冷たい団員の連中すら哀れと言ったが、お前はそんなわけがない。お前の最大の旨味は歌で、それはお金を払ってからではなく歌ってからお金を払わせた方がより大衆の注目を浴びると思ってな。特別な歌姫としてではなく、一度、出会えたことが奇跡と感じられるような、それからは客にとっての尊い日常になれるような。そうすれば、庶民に向けたサーカスを好まない上級貴族達も、お前のことはよく知れるだろ」
「でも、よく手紙で怒られた」
「それは意見の相違から来るものだよ。現に、お前はいつも心付けから銀貨を横領した。が、俺達は何も言わなかった。その金額がお前に必要だと知っていたんだよ。それに、お前のことが嫌いじゃなかったからな。」
座長は小瓶のフタを開け、中のまるで細かく砕かれた金箔のような粉末を黒革の手袋越しに指で掬いとって舐める。
白くなりつつある前髪を真ん中で分けたその男は紳士的に控えめに笑って見せた。
「これは人間にはデザートの上に乗せる少量のチョコレートくらいの感覚でしかないが、亜人には強く効く薬でな、なんだと思う?」
きっと亜人のことを人間として考えていない座長はガラス瓶の底で僕の首筋から鎖骨辺りをまるで掌サイズの緻密な置物を塗装するかのようになぞる。ぞわり、と悪寒が走る。
僕は全力で首を振って拒絶したあと、嫌なことが頭をよぎった。毒。あれが毒だとすれば。死ぬか、もしくは死には至らないにせよ、何処かが動かなくなってしまうのではないだろうか。
僕が一番失って困るのは、ヴァージナルを弾く手。あとは…歌。
「…どこか、使えなくなる?」
恐る恐る、呟く。
すると座長はナイフを首筋にあてがわれたかのように一瞬体が固まると、それから不気味な声で笑い出す。お腹を抱え、過呼吸になるくらい。
その拍子に重そうな四つ脚の机からはぱさりと巻物が落ちてきて、そこの一部には見覚えのある猫が描かれていた。
僕の助けたい猫達に関しての紙だとわかった。
しかし座長は書類が落ちたことは全く気にせずに、手袋を外して僕の髪に触れる。そしてグッと引き寄せられ、耳元で囁かれた。
ああ、ほんとに。今日は嫌悪感と不快感と恐怖、そして今まで感じたことのない、寒気のするよくわからない好意を感じる。
「いや、違うよ。君の特技を活かせるんだ。喉が痛くなろうが、君は歌い続けられる。大丈夫、とても疲れるだろうから、とりあえず全て終われば眠れる薬も与えるし、次に目覚めたらマツリのお姉さんと会えるかもな」
「お姉、様、は、死んでなんて…」
「ああ、きっと死んでない。お前を気に入ったお客の家に、もしかするといるかもな」
お客、家。意味がわからなかった。が、姉は生きているの言われて、こんなにも安心できないのは初めてだ。
とにかく逃げないと、そう考えたが体は動かない。
座長は僕の左肩をがっしり掴みむ。
座長は瓶を右手で掴み、僕の口に流し込もうと迫った。
「あ…いや…」
「大丈夫さ。歌うのは好きだろ?赤い靴が躍り続けたように、意思とは関係なく歌い続けられる。最高だろ。ここから去られればお金はお前の分の入らなくなるからな。だったら……」
体は動かない。が、口が粉を拒んだので、座長は僕の肩を思いきり押して押し倒す。ゴッと鈍い音がして、きっと僕がもっと幼ければ肩は潰れていただろうと思う。
「猫は助けてやるよ、猫はお前をここまで連れてきた男に渡す。」
それは結局、座長の仲間で。助けたことにはならないわけで。
怖い。怖い。怖い、怖い。思わず涙が流れ落ちる。
でも、肝心の体は動けない。勇気は夕べに使いきったか、そばに仲間……マサ姉がいないからか。
僕はもうこれが夢であれば、と必死に目をつぶって…
「それ、俺にくれよ」