善を壊す処刑場
――sideウツリ 現在
この白い空間に閉じ込められるのは今回で二回目だ。
一度目はあの日、サトリ様に助けられた日。ここに閉じ込められて、私はセェガーと出会った。
正直言って、出会った時から恐怖は感じなかった。お父様がいつもセェガーの良い人ぶりを語ってくれていたから…
それよりも、会った時は彼女の美しさの方に目を持ってかれたな。洋服に巻き付いた、氷の落ち行く奇妙な薄い水色のヴェールも気になったけど、それよりも本当に綺麗な人だったから。
彼女は恐ろしく落ちぶれて燻っていた私達一家の威厳をどう取り戻すかにおいて大変協力的に悩んでくれて、最終的には、そのお陰で私はこうして聖女を騙って今日まで生きてこれた。
私は地面の真っ白い床を指で埃を払うようになぞる。床があるから、少なくとも宇宙みたいに浮遊しているわけではないはずなのに、私はそれでも確信を抱けなかった。それほどまでに不気味なところなんだ。同時に居心地が良いから厄介でもある。
だけど、すぐにここを離れないと。
私はすっかり水を溜め込んで重くなった衣類の上だけ脱ぐと、力のあらんかぎりで絞る。滝のようにドバッと流れる水は澄んで透明で、そうだ、人の住まないところの水や空気は雨や黒煙とは違ってこんなにも綺麗なんだった。
と、そんなことでぼんやりしていると、気付けば服から垂れる水で諸に靴がびしょ濡れになった。
「最悪ね」
溜め息を吐きながら、私は足ごとぶらぶら水を弾かせてまた歩く。
ふと、どこからか呻き声が轟いた。前回も声だけは聞いたことがある。前回は、なんとかセェガーが苦心しながらも倒してくれたはずのその声は、昔と何ら変わらない、全く同じ威厳と驚異をもつものだった。
ただ、前と違うのはセェガーと会えていないこと。これは非常に不味かった。私はモンスターもろくに倒したことがないのだから。
私は早足でその声からはなれようとする。
どう走ったって景色は変わらないし、なんでか声は響き方が常に均等で、逃げている感覚がない。
なんなら、声はどんどん大きくなっている。
ああ、もう、やるしかない。
私は胸にしまっていた短剣を取り出す。雪の結晶の彫刻が刃に彫り込まれた綺麗な短剣。
私は少し震えた右手を左手で押さえつけて自己暗示を唱える。
「何てったって、私は貴族よ。魔力だって決して少なくはないし、こんな危機よりもっと怖いこともあったじゃないの。たかだかモンスター一匹よ。そう、きっと一匹…」
そうして覚悟した次の瞬間には、背後に黒い物体がうごめいているのに気付く。私のところまで影が伸びるまで気付けなかった。
身長は私よりも遥かに高く、目は見えず、獣みたいに剛毛なのに所々から黒くどろっとしたスライムのような液体がボタボタと垂れ、よくわからない声をあげ、たまにおかしくないはずなのに奇妙に感じる口元は笑顔を見せる。こちらに掌を向けている両手は何も持っておらず、振りかざされればひとたまりもない。
――確かに私はここに来ることを望んだ。ここに来て、またセェガーに会おうとした。何度も何度もここに来て、失敗してしまった。だからこそ、サトリ様達を連れて今日この山を登れたときは奇跡かと思った。サトリ様がいるならと、わずかな不安さえも払拭していた。
お父様は、最後までここに来るのを止めてくれていたのに。
私だって、本当に非合理的な行動だってわかっていたけど。
私は自嘲して、懐中時計を握りしめた。ニセイジョ、本当にそうね。私はこんなにも弱い人間らしいもの。
…早くここから逃げないとな。
いや違う。逃げられない。
私は最大限の勇気を振り絞ってこの怪物のすぐ横を通りすぎようとした。
怪物は図体がでかく、早さはそれほどに見える。今後ろを振り向いて走るより、一か八かで横を通って振り向く間に少しでも遠くに行けた方がいい気がするんだ。
これが冷静かどうかはわからないけど、とにかく私はその横を通りすぎようとする。
しかし、全力で逃げればよかったのに、私は慎重に、静かに移動してしまった。本能が走るなと告げているようで、それに従うように私の足は震えたまま摺り足のように鈍く動く。
真っ黒な怪物の、汚れた手が伸びる。私は思わず頭を抱えて目を瞑った。
「っ、はぁはぁ…怖くなんか、そんなわけ…っ!!」
「ウグ、ゴ…ア……ジョー」
聞いたことのないような文字の羅列だが、紐解けば意味をなすように丁寧に発せられる、怪物の声が頭に染み付く。
しかもタイミングが悪いことに、頭に染み付いた途端に心臓がいつもとは違う方向へと波打ち、いつもの突発的な体調不良がやってくる。
私はあり得ないくらいに体が冷えていくのを体感した。
――side マサリ
「ねえねえマサ姉、なんかさ、瞬間移動みたいな魔法ないかな?僕はまだ結構魔力あるし、教えてくれれば、僕達すぐサト兄を見つけられるかもだよ」
「残念だけど魔法にそんなのはないんだよ。」
「でもマサ姉、さっき僕を助ける時瞬間移動してなかった?」
「あれは他の魔法の応用だし一ヶ月そこらじゃ簡単に出来ないからね」
「!!やっぱりさっきのは瞬間移動みたいな感じだったんだね!!僕を助けに来てくれた時!すごいよ、えへへ、すごいのが見れて嬉しい!」
「まあ、マサリちゃんは、何でもできちゃうんだからね。…………今は魔力ほとんどないからあれだけど」
「出口、あるといいね…」
マツリは一瞬不安げな顔を見せうつむいたが、すぐに気を取り直したように前を向く。自分がいるから安心して前を向けるらしいが、マツリのこの暗くならないポジティブさは彼女の魅力のひとつだろう。そんなマツリの明るさに劣らないよう自分はせめて彼女と横にならび、マツリ曰く真っ白い空間で自分達は出口を…正確には出口になりえる怪物を探し求めた。前例的には大抵の人間の前にはすぐに現れるはずなんだけど。
「でもさ、マサ姉。ここが聖女様の処刑場…っていうのは聞いたけど、ギロチンとかはどこにも無いね。」
マツリは自分が注意深く辺りを見渡しながら歩く間、淡々とそう聞いてくる。その声からはやはり、処刑場という事実を信じきれていないところがあることを悟らせた。
――先程自分は、マツリにここが聖女様の持つ処刑場だということを伝えた。そう聞けば当然マツリは驚いたが、彼女は衝撃が走るよりも理解が追い付かずにポカンとする感じで、自分に詳しい説明を求めた。
自分としてはこの部屋全体に刻まれている文字を読みさえすればわかることなんだと思ったが、確かに古い文字で読めないのも無理はない……と思っていたところ、マツリ曰くここはそもそもなんの文字も見えないらしい。
だって自分の目には、ここは至るところに細かい時が刻まれていて、ほとんどが同じような内容だった。違う人間達が同じ内容を書き込んでいる辺り、まるで何かの団体が、この空間のどこに降り立ってもこの空間のことを知れるように、色々な言語、ちょっと古めかしくて堅苦しい表現、色々な癖を持つ字で、そして昔見たことがある、どっかの特産品っぽい…ちょっと古いインク特有のくすんだ虹色で…徹底して床等に書きなぐられている。ここには何百もの言語があることになる。これをたった数人か数十人で書いているならマルチリンガルだし、そうならば、これら文字を書いたのはエルフの可能性が高い。
自分は適当に床の古代文字をなぞり、そこでも全く内容が同じことを確認してから口を開く。
「要はさ、処刑場っていったって、もとは違うの。元は聖女がノアの箱船みたいに様々な災害から善人を囲う特別な場所だったんだけど、永い年月を経た後で脆くなったここに加えて、ここが存在する上で鍵となる聖女の懐中時計に汚れた人間の魔力が吸い込まれたこの空間は歪んだってね。囲われていた人間がどんどん死んじゃうか、化け物になった。それをこの空間にいる人達は皮肉って聖女の持つ処刑場って呼ぶみたいね」
まあ、そんな皮肉を言う奴らが果たして本当に善人だったのか。自分はそれをさらに皮肉るように嘲笑すると、そこでマツリが幼い顔を末期の病気かと疑わせるくらい青ざめていることに気付く。
「待って、マサ姉…それって、聖女様が悪人ってこと…?」
ここでいう聖女様はウツリのことだろう。自分は嘘をついてでもいいから、そうだと肯定してウツリの評価を地の底まで落としたくなる衝動に駆られたが、駄目だぞマサリ、マサリはもう単なる餓鬼じゃないのだ。アンフェアな嘘はたまにしかつかない。
「いいや…全体的に文字が結構昔っぽいし、この文字の指す悪人はウツリじゃないね。尤も、本物が聖女様の懐中時計を持っているならとっくにここは正されてる。」
「懐中時計って、聖女様…ウツリさんが首にぶら下げてた、あの?」
「そうそう。あれは多分本物みたいだね…ってことを、さっき思い出したよ」
勇者の剣と違って懐中時計についての文献はほとんど読んだことがないもんだから、この空間に刻まれた文字を見るまでうっかり忘れていた。
「さて、怪物を見つけられればこっちのものだよ!流石にサトリはきっともうここを出てるだろうし、自分達も倒してとっととここを出よう!」
自分はマツリに倣うよう、なるべく不満を垂らさずに意気揚々に声色をあげてみる。水で重い袖を無理矢理にあげて、指揮をあげようとする。
けれどなぜかマツリは目をぱちくりとさせる。
「ん?あれ、なんで怪物を倒せばここを出られるの?」
「ほら、怪物はもとはここに保護されていた連中だし、自分達が外でもやっていけるかを試すために本当は現れるはずなんだ。きっと問答無用で襲ってくるから、それを倒せばここにいる意味はない~って外に出してもらえる。そう、いわば試練みたいなの!」
「へぇ!詳しいんだね」
「?うぅん、そんなの当たりま…」
あれ、ほんとだ。当たり前じゃないな。
自分は聖女の懐中時計について詳しく知らないはずなのに、なんでこんなにすらすらと頭に思い浮かんだんだろうか。知らないから、さっきまで思い出せなかったんじゃないのか。
「…童話とかで似た話があったのかも」
「童話かぁ、確かに聖女様のお話多いもんね」
マツリは素直に納得してくれるから非常に助かる。
自分はニコッと笑ってまた、怪物探しに専念する。
けれども今のケモ耳で音を聞いても怪物は現れない。
もしかするとどこかに固まっているのかもしれない。例えば、サトリとかが全員引き付けているとか。
…うん、あり得る。だってサトリは勇者だから目立つもの。
困ったな、と自分は溜め息をつく。
最悪、明日まで待って、明日の自分の魔力量が多ければもうこんなところ無理矢理突破できるけど、明日明後日に魔力量が少ないなら食糧的に危険な状況になる。
それまでには必ずサトリが来てくれるだろうけど、マツリはとても不安に思うだろう。
自分は何かを考え込むマツリを横目で眺める。彼女、彼女の魔力量は非常に多い。彼女一人では駄目でも、二人協力すれば、自分はそれなりの魔力量で済むかもしれない。そうなれば明日にはここを出られる可能性が高くなる。
ちょっと難しいけど、ここから出る時に使えるような魔法を教えてみようか。
そう思ってマツリの肩を叩こうとした時、マツリは小振りの耳をぴこんっと動かした。ちょっと吃驚した。
「マサ姉、音!!」
「音?」
「へんな、唸る音がした気がする!!」
「ほんと!?」
それはもしかすると怪物かもしれない。
「でもどうしよ、姿は全然見えないよ」
いいや、大丈夫。自分は確信があった。
怪物はどこからともなく現れる。そう、声さえ聞こえればあとは勝手にやってくるのだ。だから簡単に倒せちゃうよ。そう説明してあげると、マツリは少しだけ眉間にシワを寄せて口を尖らせた。
「……マサ姉、それってもとは良い人だったんだよね」
「え?うん、まあね」
「人が怪物になるなんてよくわかんないけど…倒しちゃって良いのかな…」
「向こうから襲ってくるし、そこら辺は気にしなくたって大丈夫!」
善人だろうが関係ない。人を問答無用で傷つけるのはきっと悪だ。
そう言ってみるけど、マツリは曖昧に頷いてどこかで納得は出来ないようだった。
変なマツリ。優しすぎるのかな。
自分は心底不思議でならなかったけれど、とりあえずはもうすぐ現れるだろう怪物を待つ。何故か完璧に想像図が出来上がっている、初対面の怪物を。
……これから現れるのは善人なのか、怪物なのか。
自分はサトリならなんというだろうか、と思わず辺りを見渡し彼を探した。サトリなら怪物を倒してここをすぐ出ているはずなのに。……まさか怪物を善人だって見なしてないよね、サトリは。