ⅶ 困惑
冷たい空気を頬に感じ、黄暁龍は顔を上げた。
そこは今までいたはずの室長の部屋ではなく、自分の執務室だと理解するまで若干時間がかかった。
おそらく無様に気絶した後、ご丁寧にあのMPが運んできたのだろう。
そう分析し、彼は身体を起こし首筋に手をやる。
と、血管が力強く脈打つのが感じられた。
これが『生』の証か? 俺は生き物ではないのに……。
矛盾した思考に陥ろうとした小龍を、男の声が現実に引き戻した。
「もう気が付いたのか。オレとやり合ってこんなに早く意識を取り戻したのは、あんたが初めてだ」
もっとも多少手は抜いてやったがな、との言葉の後にくぐもった笑い声が続く。
その声に不快感を感じながら、彼は立ち上がる。
視線の先には、件のMPが立っていた。
「貴様……テロ組織とつるんでいたのか?」
「つるむもなにも、こんなやつを採用したそっちの人事に問題があるんじゃないの?」
言うとMPは右手首を外した。
そこには紛れもない銃口が、鈍く光っている。
「わざわざ自分の身体を改造したのか? 馬鹿なことを……」
低くつぶやく暁龍をせせら笑うかのように、男は続けた。
「馬鹿? それを言うならあんたらの方がもっと非人道的なことをしてるんだろ? え? 大尉さんよ」
「D、やめなさい!」
さらに続きそうな言葉を遮ったのは、意外にも鋭い女性の声だった。
だが、Dと呼ばれたMPは振り向きもせずに笑い続ける。
「ほら、張本人の登場だ。こんな所に一体何のご用です? アダムス博士」
暁龍は自らの耳を疑った。
が、室内に入って来たのは、現在消息不明で捜索対象になっているキャスリン・アダムス博士、その人に間違いなかった。
「怪我人の診察よ。ちゃんと許可は取っています。貴方こそ持ち場に戻らなくても良いの?」
厳しい言葉にやれやれとでも言うように肩をすくめると、Dは外した右手首を戻し部屋を出て行った。
「たいした自信だな。この分だと非常事態解除のパスワードも変えられているだろうし……」
うそぶく暁龍には耳も貸さず、アダムス博士は無言のまま歩みより、強引にその腕を取った。
突然のことに、瞬間暁龍の顔がわずかに強張る。
だが、アダムス博士は掴んだ手首と顔とを見比べていたが、呆れたようにため息をついた。
「脈拍は正常。顔色も平常の範囲内。気を失うほどの暴行を受けた直後とは思えない。一体どんな訓練を受ければこうなるの?」
打撲部分を見せてと言うアダムス博士の申し出を、暁龍は軽く手を挙げて固辞した。
「骨折するほどの重症なら、自分でも解ります。それより博士、どうしてI.B.なんかに……」
「弁解するわけではないけれど、肩入れをしている訳ではないの。ただ、犯した過ちの責任を取ろうとしているだけ」
少し肩をすくめると、アダムス博士は寂しげにため息をついた。
その言葉の意味を図りかねて暁龍は首をかしげたが、あることに気付き顔を上げた。
「さっきの……MP、あの日交代に来た訳じゃなくて……?」
すべては入念に練られた計画だった。
惑連のMPとして潜り込んだ先ほどの男……Dが、アダムス博士宅を監視の交代要員としてマンションに赴く。
そして、何の疑いも持たない『同僚』を血祭りにあげる。
後は無理矢理に博士を連れ出し、自分が到着した時には既に博士はいなかったと架空の証言をしたという訳だ。
そこまで惑連内部にI.B.による侵入を許していたとは、茶番としか言いようがない。
しかしその仮定が正しいとしたら、Dはどのようにして監視カメラをかいくぐったのだろうか。
思考の波に捕らわれて言葉を失う暁龍に、アダムス博士は背を向けた。
「また来ます。他にも怪我人が出ているから……。安静にしていて下さいね」
「待って下さい、博士! 話はまだ……」
あわてて暁龍が後を追おうとした時だった。
急に視界を、黒い靄が覆う。
「な……?」
突然のことに暁龍は自らの頭を抱える。
視界だけでなく思考にまでも、黒い靄はその範囲を侵食していく。
自分の中で一体何が起きているのか。
理解できないまま、暁龍は冷たい床に崩れ落ちた。
音も無いその完全な闇の中で、何かが目覚めた。
※
暗闇の中で、心臓の鼓動だけが不自然に響く。
……排除スル……I.B.ヲ排除シテ、秩序ヲ取リ戻ス……
虚ろな目を開き、彼は虚空を見据えた。
その闇の中で、何かが手に触れる。
室内に備え付けの端末機だ。
スリープ状態だった端末が起動し、薄暗がりの中に一筋の光がさす。
それを確認した彼は、キーボードに指を走らせた。
と、室内にけたたましいアラームが響き渡る。
だが、彼が何かを打ち込むと、それはたちどころに沈黙した。
支局内のセキュリティシステムが、彼のIDコードに対して無抵抗に介入を許可した証だった。
それだけの権限を彼は与えられている。
今の彼はその権限を行使することに、何のためらいも感じなかった。
やがて、問題の箇所に彼は到達した。
惑連の機能を停止させているシステムに。
無意味にも見える文字列が延々と続く画面を、彼はしばし無言で見つけていたが、端末は先ほどとは異なる警告音を発した。
何者かが彼の進入に気が付いたらしい。
それが味方ではないことは明らかだったが、このまま引き下がっても面白くはない。
彼の顔に、薄笑いが浮かぶ。
そして……。
※
頭の片隅に普段なら感じないはずの鈍痛が走る。
この痛みは物理的外傷に起因するものではない。
そう理由付けて、暁龍はわずかに首をかしげた。
〇と一から成立するプログラムが、思考回路と痛覚認識系統という異なる物を混同するはずがない。
もしこれが本当に思考回路の異常から起きる頭痛ならば、それこそ深刻なバグに他ならない。
しかしそれにしても、何故突然『意識が途切れた』のだろう。
アダムス博士が部屋を出て行ったところまでは記憶がある。
その後から今までがすっぽりと抜け落ちているのだ。
「ったく……どうなってんだか……」
ぼやきながら頭をかき回し、立ち上がると一つ息をつく。
そのタイミングを見計らっていたかのように、扉が開いた。
「……お前か。今度は何の用だ?」
不快感と嫌悪感とが入り交じったような暁龍の視線を真正面から受けてもなお、Dは笑みを崩さない。
その不気味とも言える笑みを唇の端に貼り付けたまま、Dは無言で歩み寄ると、前触れも無く暁龍に掴みかかった。
「油断も隙もありゃしねえな? え? 大尉殿よお!」
吐き捨てるように言うと、Dは暁龍を力任せに床に叩きつけた。
「いきなり怪我人に何するんだ……俺は今まで意識不明だったんだからな」
いくばくかの誇張はあるが、暁龍の言葉は大筋で間違ってはいない。
それが演技なのか否か、Dはしばらく図りかねているようだった。が、ややあってばつが悪そうに言った。
「ホストシステムに入って非常事態を解除しようとした奴がいたんだよ。出ていく時にパスワードを変えていきやがって。ご丁寧なことに……。あんたじゃないのか?」
「……その手の秘密事項をわざわざ敵に知らせる奴がどこにいるんだよ?」
胡座をかきながら苦笑いを浮かべ、呆れたように暁龍は極めて常識的な返答をした。
「第一、一介の大尉じゃ中枢部へのアクセスは不可能だ」
しばし、両者の視線が空中でぶつかる。
その緊迫した空気を先に破ったのは、Dの方だった。
「……『普通の大尉殿』なら、確かに無理だろうな。でも、そうでない場合は?」
皮肉な笑みを浮かべて自分を見下すDに、暁龍は言葉に詰まる。
「何のことだ?」
ようやくかすれた声で問い返す暁龍に、Dは笑う。
「さっきも言っただろ? あんたらの方がとんでもねえことをやってるんじゃないか、ってさ。俺の通り名の由来でもある、情報局の特殊部隊……」
暁龍は耳を疑った。だが、否定の言葉は、ない。
その沈黙を当惑と受け取ったのか、Dの言葉はさらに続いた。
「人体実験で開発された『Doll』……。俺は会ったことがある。まだガキのころの話だけどな」
この男は一体何を知っているのか。何を言おうとしているのか。
暁龍はまだ全体像が見えずにいた。