ⅰ ルナへ
ルナはテラの衛星であり、今は人類第二の故郷と言っても良いほどの繁栄を誇っている。
だが、その繁栄とは裏腹にこの星はある問題を抱えていた。
『自治権』と言う名の厄介な問題を。
宗主国であるテラと植民地であるルナ。
その関係は、人類が一つの星に固執していた頃の歴史とまったく同じ物だった。
そこに生まれるのは、『独立運動』と言う無為な闘争である。
イレギュラー・ブレイン、通称I.B.。
それがルナの住人を震撼させ、惑連にもっとも危険視されているテロ組織の名であった。
一旦壊滅に追いやられたその組織を再編した指揮官の名は『ドライ』。
全ての過去が謎に包まれている、『伝説の闘士』。
次第に凶悪化していくその活動を、惑連が黙って見ているはずもない。
それら生命の危機に晒される危険な任務に対応するために編成されたのが、俗に言う『特務』。
その存在を知る者からは『doll』とも揶揄される人工生命体。
その構成員の一人であるNo.21ことデイヴィット・ローは、そんな曰く付きのルナの大地に降り立った。
宇宙港から惑連ルナ支局までは車で約三十分。
資料が入ったショルダーバッグを肩にかけ、彼はルナの地へ足を踏み出した。
雑多なものが詰まったトランクは既にホテルへ送っているので、身軽なものである。
背中に届く淡い色の髪が風に揺れた。
さて、と彼は周囲を見回す。
ぱっと見たところは与えられた情報とは異なり、治安が荒れているようには見受けられない。
とりあえず、彼はタクシーが客待ちの列を作っているコンコースへと足を向けた。
愛想があまり良くない運転手に行き先を告げ、車窓から街並みを眺めることしばし。
都心部へ近づくに連れ、彼は最初に受けた印象を改めざるを得なかった。
建ち並ぶビルの谷間に歯の抜けたように空地が広がっている。
その様子に気付いたとおぼしき運転手が、ぼそりと呟いた。
「二週間前、I.B.にやられた跡ですよ。ここいらを持っていたのは、テラ資本の商社ですがね」
それから運転手はバックミラー越しに彼を見ながら続けた。
「お客さん、テラの方ですか?」
「そうですが……」
「なら気を付けた方が良いですよ。テラから来る人間は、お役人や惑連の職員さんはもれなく標的になり得る。早く切り上げて帰った方が身のためですよ」
そうですか、と答えてから、彼は曖昧な笑みを浮かべてみせる。
ささやかな忠告に感謝を込めて、彼は釣り銭を受け取らず車を降りた。
※
「確かに長髪ね。でも、限度っていうのがあるんじゃないの?」
ルナ惑連支局ビルに入るなり声をかけられて、彼は思わず足を止めた。
初めて訪れた場所で、しかも女性の声である。
まったく心当たりはない。
恐る恐る彼は振り返る。
柱に寄りかかるようにして立っていたのは、烏の濡れ羽色の髪と理知的に光る瞳を持つ美人だった。
と、その顔をデータベースに照会しようとした時に、女性はこちらに歩み寄り、彼の口元に向かい人差し指を突き立てる。
「デイヴィット・ロー中尉ね。はじめまして。ジャック・ハモンド……ᒍから話は聞いてる。このまま行けば出世街道まっしぐらだって」
「あ、あの……」
戸惑う彼……デイヴィットに、女性はにっこりと笑う。そして、おもむろにこう言った。
「私はルナ支局第一捜査室次席捜査官の楊香。ᒍは私のこと、何て言ってた、No.21?」
その名前とデータベースのあることが合致する。思わずデイヴィットは姿勢を正した。
「では、あなたが……」
「そう。シリアルID〇一二・〇・〇一七。階級はあなたと同じ中尉。名前でも階級でもNo.17とでも、好きなように呼んでくれて構わない」
けれど数字で呼ぶ時は周囲に気をつけてね。
そう言ってさらに笑う女性に、デイヴィットはわずかに顔を赤らめた。
が、当の楊香は自己紹介を終えると、ついてきてと言わんばかりにすたすたと歩き始める。
一体何事だろうか。
疑問を覚えながらもデイヴィットはその後を追った。
この星にいる彼の『同僚』は男女各々一名ずつ。
果たしてもう一人はどこにいるのだろうか。
そんなデイヴィットの内心を察したのだろう。
エレベーターにのるやいなや、楊香は肩越しに振り向きながら言った。
「着いて早々に悪いんだけど、これから定例の会議があるの。最新の資料はついてるかしら?」
「昨日十六時更新、となってますが、それでよろしいんでしょうか?」
「上等。まあ、更新なんていっても、捜査は進展してないからやるだけ無駄なのに。そんなところは生真面目なのよね、あいつは」
楊香の瞳には、いたずらっぽい光が浮かんでいる。
彼女の言うあいつとは他ならないもう一人の同僚、シリアルID〇一二・〇・〇一八、通称No.18大尉をさしているのだろう。
与えられた任務は忠実に遂行するが、それとは裏腹に惑連をどこか批判めいた発言を繰り返す『危険人物』。
それが蓄積されたデータベースから見えてくるNo.18の『人となり』だった。
そうこうするうちに二人はエレベーターを降り、扉が並ぶ廊下を靴音を響かせながら歩いていた。
そして、一際大きな扉の前で楊香は足を止める。
第一会議室、そう書いてあった。
そして楊香は振り向くと、声をひそめてこう言った。
「一つだけ注意しておくけれど、あいつの前ではᒍとNo.5少佐殿のことは禁句。忘れないでね」
はて、とデイヴィットは首をかしげる。
そして情報局の人事リストを介してNo.18のデータを掘り起こそうとした時だった。
楊香は扉を三度叩き、返事を待つことなくそれを押し開く。
室内には、すでに人が集まっていた。
つまり、多くの人を待たせてしまった、ということである。
出席者一同の視線を一身に受けて、デイヴィットは思わず硬直した。
そんな彼の様子を知ってか知らずか、先ほどまでとはまったく異なる種類の笑みを浮かべ、楊香は何事もなかったかのように一礼して切り出した。
「失礼します。テラからの捜査官殿が到着されました」
わずかに室内の空気が揺らめく。
居心地が悪いという状況とは、こういうことなのだろう。
そんな分析をしながらデイヴィットは楊香にならってその場で一礼した。
「テラ本局情報局デイヴィット・ローと申します。至らぬ点があるかもしれませんが、よろしくお願いいたします」
その言葉が終わらぬうちに、上席に座る男が一人立ち上がった。
癖のある暗い色調の髪を持つその男はデイヴィットの前に立つと、わずかに会釈し握手を求めて右手を差し出してくる。
「遠路はるばるご足労おかけしました。この事件の責任者、第一捜査室主席捜査官黄暁龍です」
差し出された手を握りながら、デイヴィットは目の前に立つ男を注意深く観察する。
年齢はおそらくデイヴィットとさして変わらないだろう。
が、身にまとっているのは仕立ての良いかっちりとしたスーツである。
おかげで並び立つと、暁龍の方が年かさに見える。
どこかで会ったような気がする。
記憶の掘り起こしを始めた時、メタルフレームの眼鏡の向こうから注がれてくる視線にデイヴィットは再び固まる。
その時彼はあることを思い出した。
彼の唯一の友人であり理解者であるᒍ……情報局主席技術士官ジャック・ハモンドが、別れ際に言った台詞である。
ルナにいる暁龍と小香によろしくな、そんな言葉。
そうすると、この人が『同僚』、〇一二・〇・〇一八……。
あっと声を上げようとした時、その手に激痛が走った。
暁龍が握手する手に力を込めたのである。
余計なことを言うなという無言の圧力だったのだろう。
我に返ったデイヴィットは恐縮したように黙礼した。
と、何事もなかったかのように暁龍は手を離し、元いた所へと戻っていく。
そして、唖然として立ち尽くすデイヴィットに向かいどうぞおかけ下さい、と空いた席を指し示した。
デイヴィットが席につくのを確認してから、暁龍は無感動な声で告げた。
「では、キャスリン・アダムス博士失踪事件に関する定例会議を開始します」