婚約に浮かれていたら婚約者にぶっちされかけていたらしい。
他作『乙ゲーの世界に転生したけど攻略対象の婚約者ぶっちした。』のアレックスのお話です。
一瞬だけ人が亡くなった話が出ます。
アレックスの父が完全にクズ過ぎて胸くそです。
タグとあらすじに注意事項を追加しております。ご確認下さい。
恋愛に対する熱量がまるで釣り合っていない二人です。いちゃらぶはありません。糖度も0です。
活動報告に注意書きをしておきます。
気になる方はそちらをご確認頂いてからお気を付けて本編へどうぞ。
アレクサンドルは、公爵家に生まれた自分を恵まれているとは思っても、幸せだと感じた事は無い。
物心つく頃には両親の仲は冷め切っていたし、父のフリートリヒは度々愛人絡みの揉め事を起こしては、母イルザを呆れさせていた。二人の仲が冷めてしまったのは確実にこの父親のせいだ。
だが、母は大層できた人であった。
彼女が父を悪く言っている所をおよそアレクサンドルは見たことが無い。息子に父の話をする時、母は必ず良い所を挙げていた。
「貴方のお父様はとても素晴らしい方なの。国王陛下の側近として日々執務にあたっているのよ」
「フリートリヒ様は領地経営の腕も素晴らしいのよ。領民が豊かであることが大切ですからね。貴方もゆくゆくはお父様のように民に愛される領主となりなさい」
「剣の腕前ならフリートリヒ様が随一よ。騎士団長とも対等に斬り合ったのですから。伸び悩んでいるのなら是非お父様にお伺いなさい」
幼い頃は良かった。母の言葉を無邪気に信じて、将来は父のようになりたいとがむしゃらに努力できたのだから。
滅多に帰らない父がたまに帰ると、これでもかと甘えてしがみついて離れなかった。
父も眦を下げて抱き上げてくれた記憶がある。
それを信じられなくなったのはいつからだろう。
父が優秀なのは嘘ではない。国王の側近として、時に寝る間も惜しんで国の為、民の為に身を捧げている。
剣の腕前のことも本当だ。書類仕事に疲れてたまに公爵家の護衛と打ち合っているが、見る度に惚れ惚れするほどだった。
けれど、父が帰らないのは浮気しているからだと知ったのは、公爵家のメイドがしていた噂話を聞いてしまったからだ。
凄まじい衝撃だった。
ショックだった。
放心するアレクサンドルを見付けたのはイルザだ。茫然自失の我が子を抱き締めて背を擦り、優しく優しく宥めてくれたのを覚えている。
やがて感情を取り戻し静かにさめざめと泣くアレクサンドルを尚も優しく宥め、決して問い詰めたりなどしなかった。
そんな母に安堵してアレクサンドルは問うた。とても残酷な問いをしてしまった。
「お父様は愛人に夢中だから僕とあまり会ってくれないの?」
そんなことありませんよ。お父様はアレクサンドルが大好きですよ。
そう我が子を宥めながらも、幼い息子の嘆きを前にイルザの決断は迅速だった。
直ちに全使用人と面談をし、屋敷内で軽率に噂話をした者は勿論、そんな者を雇い入れた執事長や御しきれていなかったメイド長にも罰を与えた。当該のメイドは当然クビである。
心に傷を負ったアレクサンドルはやがて父と距離を置いた。息子から嫌われたと嘆いたフリートリヒは益々家に寄り付かなくなる。ここで反省して奮起しない辺り、この男は誠クズだ。
イルザは傷心の我が子に日夜語り掛けた。悪意ある言葉にばかり惑わされないよう、決して自暴自棄になどならないよう、繰り返し繰り返し。
母の献身もあり、元来の素直さもあり、捻くれる事無く成長したアレクサンドルは、年頃になると同年の者達と同じく淡い恋を繰り返した。
父のようにはならない。父のようではない。
自分は違うのだと思い知りたくて、破れても破れても恋を繰り返した。
そんな時だ。イルザからそろそろ婚約者を定めなければならないと告げられたのは。
「今は幼い恋を楽しみたいことは分かります。けれど、貴方は次期公爵。将来を見据えた付き合いも必要です。今のお相手のご令嬢は次期公爵夫人に相応しい方? それともそうでは無いのなら、そんなお相手を自分で見付ける?」
「……候補者がいるのですか?」
「いたとしても今の貴方に教えるつもりはないわ。強制的な縁談を強いるつもりはないの。けれど、今後この家に相応しくない者との交際は許しません」
「それは……、いつまでも子供ではいられないということですね?」
「そう。……貴方には苦難を強いるわ」
「いいえ。はっきりと仰って下さってありがとうございます」
母の言葉を受けてから、アレクサンドルはしばし同年代の女性達を観察した。
そして、立太子が確実視されている第一王子の婚約内定者でもある従妹のシルヴィアにも相談した結果、アレクサンドルは学園には次期公爵夫人に相応しい人物はいないと判断した。
「うーん、難しいわね」
シルヴィアも同様の意見らしい。
「ああ。優秀な者はそれなりにいるが既に婚約者がいる。そうでない者は何かしら難ありだ」
「そうね。殆どの方がハンソン様とのお遊びに夢中よ。……ごめんなさいね、躾られていなくて」
「いや、何を言っているんだ。あの方の矯正を同じ年の令嬢に任せている王家の方がどうかと思うよ。……これ、内緒だからな」
「ふふ。勿論。ありがとう」
「それでだ、公爵夫人に相応しい者を知らないか?」
「少し年下になってしまうけれど、この人なら良いんじゃないかって方はいるわ」
「誰だ? どのくらい下なんだ?」
「私の四つ下だから、貴方からすると六つ下の年代よ。成長すれば気にならない年齢差なんだけど……」
「……だが、今は八歳? だめだ。子供だ。子供過ぎる」
「そうよねぇ。でも、貴方に嫁いで王家の縁戚になってほしいのよねぇ」
「そんなにか?」
「そんなによ」
次期王太子妃の言葉には重みがあった。
アレクサンドルは悩んだ。あれから一週間ほど悩んだがやはり見付からない。
悩みに悩んで母にも相談すると同じ年代を挙げられた。そんなに良い娘が集まった年代だったかと首を傾げる。だが、それなら仕方ない。見繕おう。
そうして幾人かの候補者の釣書を用意され、アレクサンドルは運命を見付けた。
「初めまして、アレックス様。エレオノール・ロバンです」
幼い婚約者と初めて対面した時、アレクサンドルの胸は確かに高鳴った。
両親に似たのかその歳にしては背が高く、落ち着いていて仕草も美しく大人びて見えた。とても歳が離れているようには見えない。せいぜい一つか二つ下くらいに感じた。
かつて交際してきた同年代の者達よりも遥かに落ち着いている。とても好ましい。
「エレンとお呼びしても良いだろうか?」
無意識にそんな言葉が飛び出した。初対面でそんな事を提案しても良いものかと、言ってから悩んだ。けれど親しくなりたいと感じていたから後悔はなかった。
「はい。あの、アレックス様……これを」
「これは?」
「先日頂いたネックレスのお返しです」
エレオノールからはすぐに愛称呼びを了承された上に、実に見事な刺繍の施されたタイを差し出された。
彼女が刺した刺繍だろうか。素晴らしい腕前だ。この子もきっと自分を気に入ってくれたのだと、アレクサンドルは感動に打ち震えた。
受け取ったタイから顔を上げるとはにかんだ笑顔を浮かべているエレオノール。その首元には先日アレクサンドルが贈ったネックレス。
――ああ……もう、これは完璧に両想いじゃないか。
完全に浮かれたアレクサンドルは思い浮かぶ限りの未来の話をし、とてもいい気分でエレオノールとの対面を終えた。
アレクサンドルが苦労して見付けた宝石は一生物だ。その時その時で最高級のチェーンを節目毎に贈って、彼女の首元を占領しよう。
婚約祝いにと相手にネックレスを贈るのは一般的。けれど、その後に何度もチェーンを贈ることには『貴女に首ったけ』という意味が籠められる。
アレクサンドルは婚約者が幼い事も忘れてすっかり虜になっていた。
その後、半年も会えないとは露知らず――。
「エレンに会えない!!」
お誘いの手紙を送ったのに返って来たのはまたお断りの返事。もう、かれこれ半年になる。
何度誘っても断られていた。
「エレンに会えないエレンに会えないエレンに会えないエレンに会えないエレンに会えないエレンに会えないエレンに会えないエレンに会えないエレンに会えないっ!」
自室のデスクをガンガン蹴るがひたすらに自分の足が痛いだけだった。心も痛いし足も痛い。
心身共に大ダメージだ。
アレクサンドルは大層間が悪い。
公爵家でも滅多に取れない観劇のチケットを一公演分やっとの思いで取ったのに、日時が王妃主催の茶会と被っていた。
勿体ないしせっかくだからと、チケットは苦労して取ってくれた従者にくれてやった。後日その従者はこの時のデートが切っ掛けで意中の人と交際に発展し、やがて結婚。報告を受けた時アレクサンドルは思わず唸った。ちくしょう。
盛大に祝ってやった。
女性に人気だと評判のオペラがあると聞いたが、それを知った時には既に上演期間も終了直前。慌てて唯一時間の都合のつく日に誘ったが、王家からの食事会の誘いと被ってしまったらしく断られた。
慌て過ぎて返事を貰う前に予約をしてしまっていたので、執事に休みと共にくれてやった。彼の妻にも同じく休暇を与える。後日、久しぶりに妻とのデートを楽しんだ執事に子が出来たと報告をされた時、アレクサンドルは思わず吠えた。おのれ。
盛大に祝ってやった。
エレオノールの家は代々福祉に力を入れていて、その面では王家からも絶大な信頼を寄せられている。
だから他の貴族とは異なり、例え定期的な孤児院や教会への訪問であっても、絶対に日時の変更が出来ない事も多かった。王家へ報告に上がる事や、その逆に王家から呼び出される事も多い。
アレクサンドルがエレオノールをデートに誘う度に何かしら予定と被り、天秤にかけられる事無くアレクサンドルは断られ、結果的に何故か彼の周囲が幸せになってゆく。恨めしや。
毎回、盛大に祝ってやった。
まだ学園に通う前の子だからとアレクサンドルは油断していたが、エレオノールは他の令嬢達よりも数段忙しい。
学園に通っている為に平日、跡継ぎ教育の為に学園から帰宅後と休日の半分は潰れるアレクサンドルとでは、とてもとても予定を合わせられなかった。
近い内に会えるだろうと油断していたら会えぬまま半年も経っている。
それにしたって会えなさ過ぎではないか。アレクサンドルは考えた。もしかしたら、あの顔合せの日に何かやらかしてしまったのかも知れない。
初対面ですぐに愛称呼びを提案したのがいけなかったのか。きっとこれだ。
初対面で『君に首ったけ』だと伝えたのがいけなかったのか。きっとこれだ。
初対面前に用意したあのネックレスが、そもそも重過ぎたのかも知れない。婚姻時に自分の色の宝石を贈るのは一般的だし、婚約記念にネックレスを贈るのも当たり前だ。けれど、婚約記念に自分の色の宝石が付いたネックレスを贈るなんてあまり聞かない。絶対にこれだ。
独占欲を出し過ぎた。
考えれば考えるほど自分の言動が気持ち悪く思えてきて、アレクサンドルは足の痛みなど忘れて厩舎へ走り、愛馬に跨ると一目散にロバン侯爵邸へと向かった。
これに慌てたのはアレクサンドルの護衛と従者である。彼らも慌てて馬に跨り、あるいは馬車を手配し、全速力で主人を追った。
そうして半年振りに会えたエレオノールは、自室で勉学に励んでいた。開いていたのは公爵家に嫁ぐ際に必要となる領地経営についての教本。
良かった。アレクサンドルは安堵した。エレオノールは公爵家へ嫁ぐ準備をしてくれている。
けれど、こうして自宅に居るのに何故アレクサンドルに手紙をくれない。今日は居るのなら会いに来て良いと何故言ってくれない。
断ったのなら次はそちらから誘ってくれても良いだろう。
そう思うと俯向いてしまって顔を上げられなかった。
「あら?」
エレオノールの声に反射的に肩が震えた。
何を言われるのだろう。何と言われてしまうのだろう。
「タイとブローチ、身に着けて下さっているのですね」
エレオノールがとても嬉しそうな声色でそう言うものだから、アレクサンドルは恐る恐る顔を上げた。恐ろしいけれど今どんな顔をしているのか確認したい。
果たして、彼女は穏やかに微笑んでいた。
その穏やかで静かな微笑みにアレクサンドルは胸をなでおろした。体中の力が抜ける。良かった。嫌われていなかった。良かった。
けれどまた他の疑問も湧き上がる。では、何故会えなかったのだろう。エレオノールの手を握ったまま長椅子に沈み込むと、アレクサンドルは何度も考えた事をまた考えた。
けれど今は目の前にエレオノールがいる。直接聞けばいい。
そう思ったアレクサンドルだったが、次に放たれたエレオノールの言葉で完全に凍り付いた。
「もしかして、カミラ様と別れました?」
何故知っている!? 戦慄した。
アレクサンドルは確かにカミラと交際していた。その前にも幾人かと交際している。
婚約話が持ち上がった時にはまだ何も考えていなかった。釣書を見せられ正式に陛下から認められ、エレオノールへのプレゼントとして自分の色の宝石を探す頃には、もう完全に別れるつもりになっていた。
早い話が、アレクサンドルは釣書でエレオノールを見た瞬間にはもう恋に落ちていたのだ。
だからわざわざ自分の瞳の色の宝石を探し、それを使ってネックレスを作らせた。自らの足で宝石を探す事すら珍しいと言うのに。
カミラの祖父が亡くなって、彼女が葬式の為にと領地へ帰らなければ、その別れはエレオノールとの初対面前に済ませられる筈だった。冠婚葬祭は致し方無い。
エレオノールとの対面を終え、完全に婚約者の虜となっていたアレクサンドルはその後、恋人ときちんと別れている。
「お葬式に行っている間に他の女と婚約とか、ふざけているのですか!?」
当然、多少はごねられた。
彼女は怒っていたがアレクサンドルだって負けてはいない。
「いや、そもそも君は男爵家の人間ではないか。公爵家に嫁ぐなど殆ど無理だ。それに、いつかはこうなると最初に話した。互いに割り切っていた筈だよな?」
「それでも、お葬式ですよ? 私が王都からいなくなるのを狙っていたの!?」
「それはない。葬式が無ければ婚約者と会う前に別れるつもりだった。だって君は僕に婚約話が持ち上がった時――実家に帰る少し前だ。その時にはもう僕に飽き始めていたよね?」
「そう言えばそうでした」これにはカミラも頷いた。「自分のいない時を見計らったかのようなタイミングでの婚約だったので、思わず頭に血が上りました」
「まあ、それは……、うん。その辺りのタイミングの悪さは申し訳ないとしか言えない。本当はこんな話をする事も迷った。けれど、婚約者に不誠実な事はしたくないんだ」
「王太子殿下が入学されたのでそっちに行こうと思っていたんでした」
「おい。止めろ」
婚約の話が本格的になる直前に彼女は領地へ帰ってしまっていた。
亡くなる事を事前に予告など殆ど出来ない。こればかりは致し方ないなと、最終的には二人で溜め息を吐いて互いに納得し、そうして別れていた。
けれど事情があったとは言え、彼女との婚約が成立した時には他に恋人が居たのも事実。ほぼ別れていたとは言え事実は事実。
アレクサンドルは震えた。
最初から信じられていなかったばかりか、結果的に軽蔑している筈の父親と同じ事をしている。
挙げ句、エレオノールと婚約しているのに、そのエレオノールから恋人と付き合い続ける秘訣を伝授された。
なんだこれ。
訳が分からなくて真っ白になった頭でアレクサンドルはひたすら相槌を繰り返した。
エレオノールは嫌では無いのだろうか。自分の婚約者の心が他に向いていても良いのだろうか。アレクサンドルは絶対に嫌だ。
だってアレクサンドルはもうエレオノールが好きなのだから。
だから言外にアレクサンドルの私生活に興味は無いと言われて絶望した。これではいけない。このままではいけない。
あの父親と同じだと思われるのは業腹だ。
それに何より、同じように想ってほしい。好かれたい。
「僕はこれからどうしたら良いんだろう……」
「好きに生きて良いと思いますよ」
「……好きにって?」
どうしたら君に好いてもらえると、そう尋ねたくて堪らなかった。
けれど、心の底からまるで何とも思っていない事がひしひしと伝わってくる凪いだ瞳を見て、アレクサンドルには終ぞそれが聞けなかった。
それからアレクサンドルは手紙を送った。互いに忙しく時間が合わないのなら手紙が一番いい。時間のある時に読めるし書ける。
けれど、アレクサンドルはエレオノールから手紙が届いたらその日の内に読み、返事を書いて送っているのに、彼女からの返信は半月近く開く事もあった。寂しい。耐えられない。
「母上……」
「アレックス? どうしたの?」
「エレンから手紙の返信が来ません。それと、会えません」
「……少なくとも月に二度は手紙をくれるのはマメな方よ。それから、あまり机を蹴らないこと」
「はい……」
どうしたものかと母に相談すると叱られた。
「あちらのお家の方と相談して、定期的にお茶会でも出来ないか聞いてみるわ。予定を合わせようとしても合わないのなら、初めから会う事を予定として組み込めば良いのよ」
アレクサンドルは母を天才かと思った。
侯爵家からはすぐに了承され、最低でも月に一度はエレオノールと会えるようになったアレクサンドルは浮かれた。
けれど、またもすぐに撃墜される。
月に一度会っているのだから良いだろうと言わんばかりにエレオノールからの手紙は更に減り、会えた時に定期訪問以外の日も会いたいと願っても断られた。
まるで焦らされているようで、会えなければ会えないほど彼女への想いは募る。
「アレックス!」
「ハンソン殿下……」
ある日の日中、学園の廊下でアレクサンドルは立太子したばかりの第一王子に声をかけられた。
二つ年下のこの王太子は、アレクサンドルの従妹シルヴィアの婚約者でもあるので、会う機会は多くなかったが幼い頃からの顔見知りだ。
「実はな、今、王宮に隣国の王太子殿下が滞在しているんだ」
「……そんな国家機密並みの情報をここでさらりと言わないで下さい」
「人払いはしてある。その殿下なんだが、間もなく帰国されるんだ。その前に王都の外れにある平原へ遠乗りに行きたいと仰るのだが、お前も来られないか? あの平原には詳しいだろう?」
「何も無い広大な平原ですからね、方向感覚を失ったら迷いますよ」
「だから供を頼んでいる」
「いつですか?」
「来週の休日」
エレオノールとの月に一度の逢瀬の日だった。
「…………」
「なんだ? どうした?」
「日は改められませんか?」
「無理だな。休日で無ければ私には学園があるし、あちらも来週中には帰国せねばならない。なんだ? 何かあるのか?」
「婚約者と会える日なのです」
「そちらが日を改めろ。いつでも会えるだろ」
「……承知致しました」
物凄く不服だったが、仕方なくエレオノールに会いに行けなくなったと手紙を送った。理由は書けない。万が一、よからぬ者に見られでもしたら異国の跡継ぎの身に危険が及ぶ。
だから必ず埋め合わせはすると記し、代わりの日を設けて欲しいとも書いた。来月まで会えないのはつら過ぎる。
かなり落ち込んでいたアレクサンドルだったが、常よりもかなり早くエレオノールから返信が届いた事に浮かれ、そしてまたも瞬時に叩き落された。
『また必要になるまで暫く休止で良いですよ。そちらを優先して下さい。お体に気を付けて楽しくお過ごし下さいね』
完全にまだアレクサンドルに恋人がいる事を前提とした内容だった。婚約してから約二年、伝え続けているつもりだった彼の気持ちは微塵も伝わっていないらしい。
何故だ。アレクサンドルは頭を抱えた。
エレオノールが探偵を雇ってアレクサンドルの過去の女性遍歴を探っていた事は知っている。そして、それが継続されている事も。
何度かそれらしき人物を見掛けたが素知らぬ振りをした。第三者からの、それもプロからの報告を受ければアレクサンドルに二心は無いと分かって貰えるだろうと、敢えて好きに調べさせている。
それなのに――。
「たった一度、茶会の延期を申し入れただけでもう来なくていいとはあんまりでは無いだろうか!」
もう恥も衒いも何も無くなっていた。ぎゃんぎゃん泣き喚いてエレオノールの自室に突撃した。
恋い焦がれた彼女は完全に体の力を抜いて横たわっている。まるで全てを諦めたとでも言うかとように寝そべっている。何をしているんだ、何を。
「延期ですか?」
アレクサンドルの登場に驚きつつも、いつものように彼を長椅子に座らせてくれる。こういった優しい行動に期待してしまうのに、必ずその期待は潰されてきた。
けれどこの時ばかりはエレオノールも次の逢瀬の約束をしてくれた。多少なりとも罪悪感があるのだろうか。
「遠乗りはいつですか?」
「明日」
ぐずぐずと鼻を啜っていると、手拭いを差し出しながらエレオノールが問うてきた。
受け取ったそれで涙やら何やら拭きながら答えていく。
「集合はどちら?」
「王宮。そこから馬で郊外へ向かう」
「今日は早めにお休みになられた方が良いですよ」
「やだ。もう少しいる。まだ帰らない」
「では泊まりますか?」
「えっ」
一瞬、彼女の言葉の意味が分からなかった。
「客間を用意させます。侍従や護衛の皆さんのお部屋もご用意できますよ。ここから王宮でしたらそんなに遠くありませんし、この時間でしたら皆さんの夕食もお出し出来るでしょう」
「え……」
「如何なさいます?」
「泊まる!」
迷わず頷いた。
ちゃんと近付けていた。きちんと想いは届いていたのだ。アレクサンドルは浮かれた。
浮かれたら必ず叩き落されると分かっていた筈なのに、それすら忘れて浮かれていた。そして、見事に叩き落された。
「エレンは何も知りませんよ」
「え?」
アレクサンドルが泊まる事をにこやかに了承したエレオノールの両親は、すぐに彼の為の部屋を用意してくれた。
共に夕食を摂り、食後の憩いの時間を共に過ごし、そうしてエレオノールは先に眠るというので初めて就寝の挨拶を交わした。新婚かと錯覚した。
まだいつもの就寝時間ですらなく、また興奮冷めやらぬアレクサンドルを、エレオノールの父が茶を飲みませんかと誘ってくれたのだ。ほいほいとそれに付いて行き、一息つくと同時に言われたのが先程の言葉だった。
「エレンは何も知りません。あの子と婚約したての頃に交際していた女性と別れて以来、貴方が心を入れ替えている事を知りません。探偵の調査結果は私で止めています」
「な、んで……そんな……」
「あの子には同年の侯爵家の跡継ぎとの縁組みが持ち上がっていました。けれど王家とも繋がりのある公爵家からの婚約申し込みを断る事など出来ない。そちらは破談となりました」
初耳だった。
「初めは良かった。父親と違って貴方は誠実そうで、エレンも懸命に刺繍をし、貴方がどんな人なのか繰り返し聞いてきていました。けれど貴方には交際している女性がいた。すぐに別れた事は知っています。だが、親として許せなかった。何故、婚約の申し込み前に別れなかった。あの子は隠れ蓑か? 大人しい子だから御し易いと思いましたか?」
「それはない! ない、それは有り得ません! 違います、違います。有り得ない。僕がエレンを軽んじるなど、そんなこと……」
アレクサンドルは思わず立ち上がって強く否定した。
エレオノールと婚約したから心を入れ替えたのではない。彼女と婚約をしたかったから心を入れ替えたのだ。
「貴方がエレンを想ってくれている事は伝わって来ます。けれど、それでも許せない。探偵からの調査結果を見てからあの子は貴方の話をしなくなった。きっと傷付いていた。……私の、私達夫婦の大切な娘です。貴方のかつての恋人達に酷い嫌がらせを受けているあの子を思うと、とても許す気にはなれない」
「嫌がらせ!? それは、それはどんな? エレンに怪我は!?」
「知らなかったのですね。まずあの子の身を案じて下さるか……。侯爵令嬢と言えど、何故あの子が貴方に会う暇も無いほどこんなに忙しいのか。我が侯爵家が支援している孤児院や修道院、教会へ投石や荒くれ者共の襲撃があり対応しているからですよ。その為に、私達の反対を押し切って現地へ向かうエレンが襲われかけた事すら幾度もある。――貴方と婚約しているからです」
「……ま、待って下さい……、お待ち下さい……。なんで、なんでそんな……」
一度も聞いた事の無い情報の数々に打ちのめされて、アレクサンドルは再びソファーへ身を沈めた。だらしがないと分かっていても身体に力が入らない。
「嫉妬でしょう。貴方の心を得られなかった者達の」
「そんな、まさか。きちんと別れました。これまでもきちんと別れています。それなのに」
「それでも未練があるのでしょう。別れてから時間が経ってから湧き上がる思いもある。貴方もそれをよくご存知の筈だ」
そうだ、アレクサンドルは知っている。これまでに何度父の浮気相手に睨め付けられてきただろう。
アレクサンドルが生まれる前に関係があったらしき者から、何やら思わせぶりな事を匂わされた事もあった。
やたらとそう言う事がある。うんざりしていた。うんざりしていたのに、エレオノールにも同じ思いを、いやもっと酷い思いをさせてしまっている。
絶望しかなかった。
「子供の見る目などその程度のものです。割り切れる者の方が少ない。婚約したての頃に別れたご令嬢、その方も王太子にまるで相手にされないと悟ると、貴方に未練が湧いたのか来ましたよ。嫌がらせに」
「そ、そんな……そんな……」
もうどうしたら良いのか分からなかった。
「貴方が父公爵を嫌悪している事はよく存じております。わざと引合いに出して、誠、申し訳ない……」
「あ、いや、それは……自分のした事がよく分かった。分かりました」
「こちらもこれでも侯爵ですからね。件の男爵令嬢はお家共々責め立てております。直に潰します。これまでの嫌がらせ相手も、同位の者は弱味として握り、下位の者共は程度に応じてそれなりに対処していますよ」
「あの、エレンは……、エレンに怪我は?」
「ありませんよ。あれでいて豪胆な子です。暇な令嬢生活の潤いだと嬉々としてやり返しておりますよ。一度、街中で鳥の死骸を投げ付けられた時だけ、命を何だと思っていると殴り掛かりに行ったくらいで」
「え。え? エレンが?」
「エレンが」
アレクサンドルの婚約者は思っていたよりもかなりお転婆なのかも知れない。知らなかった一面を知る事が出来て、こんな話をしている時だと言うのに少し喜びを感じてしまった。
「孤児院への襲撃だけは許しませんが、投げ入れられた石と共に割れた窓ガラスを投げ返すような子供達です。それで怪我をしないかの方が心配なくらいだ。修道院は鍬を持ったシスター達が取り押さえていましたし、教会は騎士達が護衛している。何故か全て腐った貴族の炙り出しになっていて、思わぬ結果に国王陛下とつい笑ってしまったくらいです」
襲撃犯は全員返り討ちにあっていた。
昔から立場が弱い者は攻撃対象になり易いらしく、これまでも何度か同じような事があったらしい。だから、ロバン侯爵家の支援には武術訓練も入っているそうだ。
自分より余程強いのではないかとアレクサンドルは震えた。
「僕が不甲斐ないばかりに大事なお嬢さんを辛い目に遭わせてしまって、誠に申し訳ない」
「貴方は過去の行いの中でも誠実でした。けれど選んだ女性が最悪だった」
「返す言葉もありません」
「仕方ない事だと分かってはいても娘の事となると割り切れない。半ば八つ当たりのようなものです。次期公爵へ向けていい言葉でもない。いくらでも罰は甘んじて受け入れましょう。けれど、事実は事実として知って頂きたかったのです」
「何も知らずにいた己が恥ずかしい。教えて下さって感謝しております」
「……本当に、善くお育ちになられた。夫人のお陰ですかな」
「母には頭が上がりません。……母と話をしてみます。このまま何もしないではいられない」
「無理はなされるな。キツい事ばかりを言いましたが、貴方には娘と生きてほしいと思っております」
「必ず。必ず、期待に応えます」
深く深く頭を下げて、アレクサンドルは未来の義父に誓った。
「アレクサンドル」
「シルヴィア……、呼び捨ては止めてくれ」
ある日アレクサンドルはシルヴィアの突撃訪問を受けた。彼女にしては珍しい行動だ。
「抗議に来たのよ。貴方、何故マルリータ様を放置していらっしゃるの」
「マルリータ嬢? 誰だ?」
「ルーイ侯爵家のご令嬢よ」
「ああ、ルーイ侯爵令嬢。その方が何か? 昔から付き纏われてうんざりしている事は君もよく知っているだろう?」
「貴方の情報をなるべく遮断していたけれど、遂に婚約したことを知ってしまったようよ」
「うげ」
思わず変な声が出た。それくらい嫌な相手なのだ。
「しかも、貴方が彼女の屋敷に泊まった事も知っていたわ。今日の私のお茶会でエレオノール様は酷く罵られていたわ」
「何だと!?」
「貴方の心はマルリータ様にあって、エレオノール様とは愛の無い婚約なのだと嘯いていたわ」
「ふざけやがってあの女!! エレンに勘違いされたら一族郎党皆殺しにしてやる!」
そうしてその勢いのままエレオノールの元へ駆け付けるも、アレクサンドルが何を言っても彼女は無表情のまま動かなかった。
傷付いて心を閉ざしてしまったのだろうか。
もうあの笑顔は見られないのだろうか。
申し訳無さで胸が軋んだ。
「…………」
「エレン……」
が、アレクサンドルが口を閉ざすとエレオノールは耳からやおら何かを取り外した。きゅぽっと小気味よい音が響く。
「耳栓!?」
アレクサンドルの言葉は何も聞いて貰えていなかったようだ。
子供にするような注意をいくつかされ、その日は帰らされた。けれど沢山会う約束も出来た。僥倖だ。
少しでも目を離したらまた誰かに攻撃されてしまう気がして、それからアレクサンドルはエレオノールが教えてくれる空いた日時の全てを貰う事にした。
だが、当然の事ながら学園は休みがちになり、両親にはバレて叱られた。エレオノールに会いに来る為に学園をサボっている時に突撃され、言い訳も何も出来なかった。
珍しい事に父が現れ、次いで母もやって来た。
そしてアレクサンドルは話した。
長年父を恨んでいたこと、その父と同じだと思いたくなくて交際を繰り返していたこと、結果的にそのせいでエレオノールが今攻撃されていること。全て話した。
「アレックスが……そんな目に遭っていた、ですって……?」
イルザのあまりにも凄まじい怒りの形相に、アレクサンドルは心から震え上がった。
「は、は、母上……」
「アレックス、良いのよ。この際だからはっきりしましょう。フリートリヒ様」
「は、はい」
「貴方の長年の浮気のせいでアレクサンドルが傷付き、巡り巡って婚約者のエレオノールまで攻撃されているわ。いい加減になさい!」
「そ、それは! これは全て君に振り向いてもらいたいからで」
「はあ!?」
思わず変な声が出た。
「存じております。私にヤキモチを焼かせたくて浮気している事くらい」
「ま、ま、待って……、待って下さい! 母上、どういう事ですか!?」
「どうもこうもないわ。この人は嫉妬に狂う私が見たくて浮気を繰り返しているのよ」
これほどまでに呆れた事がこれまでのアレクサンドルの半生の中であっただろうか。いや、無い。
「そうだ! 私が愛しているのは君だけなんだ……。君の前では素直になれなくて本当にすまない。これからは、これからはきっと……」
「これを……許すのですか?」
「いいえ。許しませんよ。他の女の手垢の付いた男などお断りです」
母のその言葉を聞いてアレクサンドルは酷く安堵した。良かったと心から思う。
長年この男に苦しめられてきた。
本人は互いに合意の上で割り切った関係だとかほざいているけれど、相手方は必ずしもそうで無かったのだから。父の浮気相手に突撃されたのは何も母だけでは無い。
何度、社交の場で女性達から遠回しに父との関係を仄めかされただろう。
初めは割り切っていたのかも知れない。けれど、それが一生続くかは誰にも分からない。女性達本人にも分からないのだろうとアレクサンドルは思っている。
だから関係が終わってから未練が出て来て、それがプライドと綯い交ぜになって独占欲と嫉妬に満ちた視線や言葉になるのだ。何度それに攻撃されたことか。いい迷惑だ。
割り切っている、なんて言い訳をして不特定多数と関係を持つ者は、先を見通せない頭の悪いどうしようもない者ばかりだ。
何度、父に似た見目のせいもあって女性達から性的な目で見られてきただろう。
お前もどうせ同じだと言われているようで本当に気持ち悪かった。あんな父親と一緒にされては堪らない。
一度でも関係を持つと相手に対する認識が変わるのか、何でもない体を装ってはいるがふとした瞬間に視線を絡ませ合っている様子を何度も見てきた。見せられてきた。父を一方的に見詰める姿も見ている。
凄まじく気持ち悪かった。
何度、彼の浮気相手から父親を解放してやれと言われただろう。
本当に割り切れる人間なんているのだろうか。
ふとした瞬間に視線を向けないか。一瞬足りとも思い出す事もないか。相手の家族と出くわした時に要らぬ悪戯心が芽生えないか。
アレクサンドルも危うくこれと似た事をしでかす所だった。割り切っている筈だと言ったこともある。二度と使って堪るか。
「ま、待ってくれ。本当に、本当に……私は本当に君が好きなんだ……」
「それならば手は出さなければ良かっただけの話です。嫉妬してほしかったと言う割には、これまでのお相手の女性達にきっちり手は出しているではありませんか」
「それは……、その」
「平気で他の女に触れる貴方など、数多の女性達に触れられてきた男など薄汚くてとても愛せません。その言い訳も到底受け入れられるものではありませんわ」
母がこの男を拒絶してくれて良かった。
アレクサンドルは心が軽くなったような気がして、思わず呟いていた。
「見捨てられましたね。何を言っても結局やる事やっていたとか最低だ。ざまあみろ」
理由なんて関係ない。誰が許してもアレクサンドルは許さない。そして、それは母も同じだと言う。
子にまで影響が及ぶと想像すら出来なかった男は、ひたすらに項垂れていた。
「貴方には申し訳ないことをしたわね。婚姻前にも浮気をされていたのだけど、許してしまったのよ。そのせいでこうなったのね……」
「何故許したのですか?」
「…………顔が」
「え? 顔?」
「顔が……良かったのよねえ」
なんだそれはとアレクサンドルは思わず母を凝視した。
息子からの視線に耐えられず、イルザはつつ、と顔を逸らす。
「あれの顔面造形を理由に許したと?」
「……愚かな事だったわ。生まれてくる子の事まで、先々の未来の事まで考えられていなかったのよ。先見がまるで出来ていなかったわ。もしも婚姻後の浮気が無かったとしても、あの人の女性慣れした言動を見る度に過去の女性がチラついていたでしょうね」
「当たり前だと思います。母上に対してだけ純情だと言う事はつまり、そうではない人間が居るという何よりの証。母上を誰かと比べています。なんて失礼な。今更、本当は一途だとか言われて絆されないで下さい」
「勿論よ。もうそんな愚かな事はしないわ。巡り巡って貴方まで傷付けて、どんなに後悔してもし切れない。それでも公爵として、国の重鎮としては有能な人なの。離縁はせずに、これからは徹底的に管理するわ」
カツン、とイルザがヒールを床に強く叩き付け高音を打ち鳴らした。彼女が激怒している時の癖だ。
「疲れませんか?」
「貴方への贖罪となるのならこれ以上やり甲斐のある仕事も無いわ」
「……仕事?」
「ええ、そうです。貴方と夫婦を続ける事は私の仕事です。大人として母として、我が子に恥じぬよう職務に邁進しますわ」
「そんな……」
「自分のしている事が最低だと分かっていて、相手を選びさえすれば良いと己を戒められなかった人にこれ以上の譲歩は出来ません。愛人にばかり現を抜かして我が子にすら気を配れないのなら出てお行き! 愛人と共に生きなさい」
「嫌だ!! 愛人なんていないっ! 本当に、本当に継続している人はいないから!!」
「どれだけの人と関係しているの!? 嫌だわ、一体いくつ病気を持っているのかしら……。なんて気持ち悪い。公爵家はアレックスが継ぐまで私が守るわ! 貴方は用済みよ」
「ご安心下さい、公爵。貴方の跡を継いだら他人など居ない所でゆるりと過ごせるよう取り計らいますよ」
積年の恨みを思い知れ。
そう思って口にした言葉だったが、まさかこの日のやり取りを理由に、数年後の婚姻式直前に父が脱走をしかけるとは思いもしなかった。
――ちゃんと夫婦になってくれないと息子の式から逃走するぞ、イルザ!!
多くの参列者が集った聖堂でそう言い放ち、半泣きで逃走しようとする父には流石に母も慌てたらしい。そして激怒した。どこまで息子に迷惑をかけるつもりだ。どこまで自分本意なんだ、と。
けれどそんな公爵は、シルヴィアの「行け」の一言でまるで犬のように駆け出した王太子により、無事に捕えられた。
そして、とある侯爵がシルヴィアに首輪をそっと差し出した。何故そんな物を次期公爵の婚姻式に持ってきているんだ!? と誰もが思ったであろう重厚な首輪である。
さも当然のようににこやかにそれを受け取ると、シルヴィアは王太子に押さえ付けられ抵抗できない公爵に着けた。更にその首輪持ち侯爵の奥方から取り出される鎖。まさかの鎖の登場。なんだこの侯爵夫妻。
この時点で参加者の困惑は振り切れた。もう何が起こっても大丈夫。全て余興だ。楽しい楽しい。
現実逃避である。
公爵の首に巻かれた首輪へと繋がる鎖を手に、王太子妃は夫人へと向き直った。
「大切なのは、決して触れない事です」
そう言って鎖を手渡す。
褒めて褒めてと言わんばかりに妻へと駆け寄る王太子が伸ばした手は、ぴしゃりと容赦なくシルヴィアの扇に叩き落された。
そう言えばあの王太子も浮気三昧野郎である。公爵との唯一の違いは、相手の女性に全く手を出していない事くらいだ。腕を組もうとされただけで痴女だと騒ぐ本物の純情ボーイだった。
そんなに女性を侍らせたいのならどうぞと最愛の妻に側室を三人用意され、シルヴィアだけが良いとよく泣いている。けれど指一本触れさせてもらえていないらしい。
自分は彼らのようにエレオノールに見捨てられていないだろうか。
せっかくの婚姻式で号泣してしまいながらアレクサンドルは考えた。
最初のナメた理由で婚約者を探していた事も、その延長で彼女を選んだ事すらバレている。過去の女性遍歴も掴まれている。婚約してからは大切にしてきたが彼女に伝わっていないのなら、それはきっと彼女に合った態度では無かったのだろう。
どうしたらいい。
ぐすぐすと鼻を啜りながら隣に並ぶエレオノールへ視線を向けると、彼女は異様な様子のアレクサンドルの両親を見て目を輝かせていた。
――え? あれが好みなの?
困惑している間も涙は止まらない。誓いの言葉も涙声だ。婚姻証明書への署名も震えたし、涙もぼたぼた垂れた。しわくちゃの婚姻証明書を見てさらに泣けた。犯人は自分である。
けれど、そんなアレクサンドルの涙をエレオノールは拭ってくれた。
「ハンカチは持ち合わせておりませんの。柔らかいグローブですから、許して下さいね」
耳元でそっと囁きながら手で拭ってくれる。
婚姻式で花嫁に涙を拭われる花婿という実に情けない姿を晒したが、それでも子供のようにしゃっくりをするばかりで動けないアレクサンドルに、エレオノールの方から誓いの口付けをしてくれた。
王太子が良いな良いな良いなと煩い。けれど、呆れ顔の神父も含めて聖堂内の人々は皆が祝福をしてくれた。
絶対に大切にしよう。
心からそう誓ったアレクサンドルだったが、その晩の初夜の寝所でエレオノールから告げられたのは、「結婚しましたし子供も生みますし務めは果たします。でも、好きとかそういうのは長い目で見て頂きたいです」という彼女の正直な心情だった。
父のように愛情ばかりを求めて相手を蔑ろにはしない。だってエレオノールは、好意こそまだ無いもののアレクサンドルにはいつでも誠意を持って対応してくれた。
王太子のように拗らせたという下らない理由で傷付けない。だってエレオノールは、いつだってアレクサンドルと向き合ってくれている。
「何度でも言おう。僕は君が好きだ。愛している。同じ想いを返してくれなくとも、絶対に他へは目を向けないでくれ」
「それは勿論です。しません。でも、正直に謝罪させて下さい。アレックス様をお義父様と同じ人種だと決め付けておりました。貴方が心から嫌悪している、貴方を傷付けてきた公爵の浮気相手達と同じように」
後悔している事がはっきりと分かる痛ましい様子で真摯に頭を下げるエレオノールを見て、父親の浮気相手の時のように心が傷まないなとアレクサンドルは感心した。
例え同じ扱いを受けても、相手の心持ち一つでここまで受ける印象が異なるのだと驚きが湧く。
「僕を信じたくて探偵を雇い続けていた事は知っている。その調査結果がきちんと君に知らされていたら、その誤解は生まれなかった筈だ。それに、そもそもそんな誤解をさせてしまう原因を作ったのは僕の過去の行いだ。反省している」
「アレックス様の、そういう潔い部分は好ましいと感じます。……今日の婚姻式で貴方のご両親の有り得ない光景を目にして、私の心を欲して泣く貴方を見て、ここで生きてゆこうと思えたのです」
「変な家ですまない……」
「いいえ。家とかどうとかではなく、ようやくこの世界に生まれた事を、この世界で生きてゆく事を受け入れられたのです」
「? どういう事だ?」
エレオノールが何の事を言っているのか分からず問い返すが、彼女は詳しく語るつもりは無いようだ。
ゆるゆると首を横へ振る。
「内緒です。でも、やっとちゃんとエレオノールになれた気分です」
「よく分からないけれど、君はずっとエレオノールだよ」
「そうですね。それを受け入れられる度量がようやく身に付きました。改めまして、エレオノールです。本日より、どうぞ宜しくお願い致します」
そう言って深く頭を下げてから顔を上げ、三つ指をついた状態でにこやかにエレオノールは笑った。とてもとても、晴れやかに。
少し驚いて、けれどすぐにアレクサンドルも真似て手を付いた。そして頭を下げる。
「我が最愛の妻、エレオノール。貴女がこの世界に生まれてきて良かったと思えるよう最善を尽くします。どうか一人で耐えず、独りで抱え込まないで欲しい。僕と出逢ってくれてありがとう」
「はっ…………あ、ああ、もう。アレックス様、それは……その言葉は、ずるい。本当に狡猾な人。なんて、なんて――嬉しい。どうしてこのタイミングで心を奪ってゆくの?」
「え?」
顔を上げたアレクサンドルの視界に飛び込んできたのは、初めて見る頬に朱を注いだエレオノールだった。
「長い目でって言った直後に好きになってしまったではありませんか」
初夜の寝台の上で、そんな表情でそんな言葉を、自分に心底惚れ込んでいる相手に言ってはいけない。
明日、いつ起き上がれるか分からないけれど、二人とも起きられたらそう言おう。アレクサンドルはアレクサンドルでまた心を撃ち抜かれながら決意した。
覚えていたら、ではあるけれど。
ティトレイ「僕が一番乙ゲーに詳しい」
アンリエッタ「私が用意しました」