<第1章>あなたが不真面目すぎるんです
最初に謝っておきます。この物語は、私にとって大切な人…いえ、大切だった人と置き換えた方が適切かもしれません。大切だったその人に届いて欲しいという思いで書いた作品です。
これから読もうとしてくださっている人には大変失礼なことと思いますが、ご理解いただいた上で読んでいただけるとありがたいです。
―世界で一番大好きだったあなたへ
朝。
通勤通学の時間帯の、満員電車の中。
押したり押されたりの大混雑の車内。
ものすごく気分が悪い。酸素が薄い。
汗でセーラー服が体に張り付く不快感。
一歩たりとも動くことの出来ない圧迫感。
頭の奥の奥が、がんがんと痛む。
もう、だめ。
激しい立ちくらみとめまいに襲われ、意識が遠のいていく。
『辻浦駅前―辻浦駅前、お降りのお客様は、お忘れ物の無いよう―…』
ああ、この駅で降りないといけないのに。
視界がだんだんぼやけていく。
体が思うように進まない。
「―こっち」
右耳の後ろあたりから確かに聞こえた。
男の人の声だ。
たぶん、腕を掴まれたんだと思う。
そのまま前方に引っ張られて、上半身がぐわんと持ち上がるのを感じた。
人の背中しか見えなかった景色から、一気に視界が開ける。
眼前には見慣れた駅のホームが。
勢い余って前傾姿勢になって倒れていく私の体を支えてくれたその人は、心配そうにこちらを見つめる。
「大丈夫か?」
突然すぎて、何がなんだか分からない。
というか、顔が近い。
そうか、この人が助けてくれたんだ。
緊張とめまいのせいで、相手の顔をちゃんと認識できない。
「まだ具合悪そうだな。ちょっと待ってろよ」
そう言って私をベンチに寝かせると、その人はどこかへ行ってしまった。
ええ…ここに置いて行かれちゃうの?
力が入らないし、立てないし、このままだと学校に遅刻しちゃうし。
そんなことを考えている間にも、頭はどんどん重くなっていく。
だるいなあ。帰りたい。
今から行ってもどうせ遅刻しちゃうし、少し休んだらこのまま帰ってしまおうか。
自然に瞼が落ちていく。それに合わせて肩の力を抜いてみたら、少しだけ楽になった。
ざっ、ざっ。
足音が近づいてくる。
「ごめん、お待たせ」
さっきの人の声。
突然、額にひやりとした感触が。
「ひゃっ!?」
思わず声を上げてその人を見た。
他校のブレザーを着ているけど、私と同じ高校生だ。
髪はさっぱりとした短髪で、くっきりとした眉が印象的な、目鼻立ちの整った爽やかな人。まさに好青年って感じ。
この人、こんな顔をしてたんだ。
その人の手には、水色のラベルのスポーツドリンクが握られていた。
「悪い、びっくりさせるつもりは無かったんだけど」
彼がペットボトルをこちらに差し出しながら、顔をくしゃっと崩して笑う。
「熱っぽいみたいだし、おでこ冷やした方がいいかと思って。あれ、熱があるときは体をあっためるんだっけ? いや、首を冷やす? 俺、そういうの詳しくなくてさ、ごめんな」
「い、いえ。別に」
知らない人から物を受け取るな。親にはそう教えられた…気がする。
わざとペットボトルを受け取らないように目を逸らす。
親切にしてもらっておいて、我ながら凄く無愛想な態度だ。
「いいから、飲んで。それとも、これ、嫌いとか?」
その人がペットボトルと私を交互に見て首を傾げる。
「いや、そういうわけじゃ…」
じゃあ。と、再び差し出され、流れで受け取ってしまった。
「あの。これ、いくらでしたか?」
「いいよ、俺の奢り。可愛いから、特別」
チャラい。一番苦手なタイプ。
こういうこと、平気で誰にでもいうんだろうな。
お世辞でも、可愛いとか言われるとどう反応していいのか分からないし。
その人は、今度は歯を見せて、にかっと笑った。
…笑顔の似合う人だな。
とりあえずご厚意に甘えて、程よく冷やされたそれを喉に流し込む。
身体全体に冷たい潤いがじんわりと染み渡る。
皮膚の表面からすうっと汗が蒸発するような心地が、直に伝わってきた。
あれ、スポーツドリンクってこんなに美味しかったっけ?
「その制服、辻浦一高だよね?」
「そうですけど。あなたは辻浦二高ですよね」
私が通う辻浦一高と辻浦二校は姉妹校で、その距離は百メートルくらいと近い。
だから、朝と放課後は一高生と二高生が大体同じ電車に乗り合わせることが多いのだ。
偏差値が県内トップクラスで進学重視型の辻浦一高に比べて、辻浦二高の方は就職重視型の、いわゆる学力に重きを置いていない三流高校だから、私は二高が少し苦手だ。
だって、要は馬鹿ってことじゃない。
「そうそう、二高生。俺のとこはおバカ学校だから。すごいな。君、頭良いんだ?」
「いえ。別に」
また愛想のない返事を返してしまった。
というより、意図的にそうしていた。
このひとが人間的に良い人であることは否定しないけれど、二高生という時点で、あまり関わりたくない人種だ。
チャラいし、頭悪そうだし、何考えてるか分からないし、あとチャラいし。
「顔色、良くなってきたな」
彼は安堵の表情を浮かべた。
言われてみれば、頭が軽くなってきた気がする。
「おかげさまで」
小さく会釈をすると、彼は私の頭の上に、ぽんっと優しく手を乗せた。
え、なにこれ。
初対面なのに。会ったばかりなのに。
「あ、悪いな、つい」
ついって何? 何のついなの? これだから、チャラチャラした三流校は苦手。
でも不思議と嫌じゃなかったのは。お腹の少し下の辺りがきゅっとなったのは、どうしてなんだろう。
あれ? そういえば、今何時だっけ。
すっかり忘れていたけど、登校途中なんだ。
鞄からスマホを取り出して、時間を確認する。
八時と、三十七分。
えっと、始業時間が八時三十分だから…
不穏な四文字が頭に浮かんだ。
いや、だって。今まで無遅刻及び無欠席の記録を伸ばし続けてきたのに。
認めたくないじゃない。
『遅刻確定』なんて。
「あー、遅刻か。どうする? 俺と一緒にサボっちゃおっか?」
「…え?」
あ、そっか。遅刻したのはこの人も一緒なんだ。しかも、私のせいで。
でも体調良くなってきたのにサボりなんてしたくない。
というか、この人に至ってはただのずる休みだし。
「だってほら、今から行っても…ね?」
いや。ね? とか言われましても。
「そうは言っても、まだ一時間目くらいですし」
「真面目ちゃんだなあ」
彼はまた笑う。
そんな能天気な態度に、少しだけムッとなったりして。
「あなたが不真面目すぎるんです」
「…まあ、そうかもな」
今度は、笑わなかった。
あ、やばい。怒らせたかな。
でも、間違ったことは言ってないし。
「そんなに行きたいの? 学校」
「行かないと、内申点にも響きますし」
「そっかそっか、行ってらー」
彼は気の抜けた声で手を振った。
「え、あなたは?」
「んー、いいや。めんちい」
めんちいって。めんどくさいってこと?
やっぱり、不良みたいな人なのかな。
この人のことはまだよく知らないけど、かなり苦手なタイプであることは間違いない。
第一章、最後まで読んでいただきありがとうございました!
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