プール掃除
夏休みが終わり、始業式でもある本日。学校の授業は正午までであるが、一人、プールサイドをデッキブラシで一生懸命にこすっている学生がいる。
もう一時間ほど掃除を続けていた影響であろうか。半袖の白いワイシャツは汗でべたついており、黒い学ランの長ズボンも相まって、下半身は熱を帯びている。
「遅刻しなきゃよかった」
八尋聡は遅刻の常連である。一学期だけでも軽く十回は超えている。クラスの担任や所属している水泳部の顧問からも、何度も叱りつけられていた。
しかし、寝坊する癖がなおらず、遅刻を続けてしまい、ついには、顧問の先生から罰として、プール掃除を言い付けられた。
「何でこんな時期にするかね」
ぼたぼたと滴り落ちる汗をワイシャツの袖で拭いながら、一人呟く。
ここS高校は水泳部の強豪校であり、プールは大きく分けて三つもある。
まず一つは、一般用のプール。長さ25mのコースが6つあるプールで深さもあまりないことから、体育の授業や夏休み期間中は、無料で開放されている場所でもある。
二つ目は競技用と言われるプールであり、長さは50m、コースは8本ある。言わずもがな、水泳部専用のプールとなっている。
最後に、白い大きな飛び込み台がすぐ横にそびえ立っている、高飛び込み用のプール。深さは3m以上はある。部活で、八尋は高飛び込みを主に行っており、今回の掃除を言い付けられた場所も、この高飛び込み用のプールであった。
「よりによって、このプールかよ」
高飛び込み台ももちろん掃除する必要性がある為、八尋は人知れず大きなため息をついた。もう二時間は経っただろうか。ようやくプールサイドの掃除が終わった。次は、目の前にある飛び込み台の掃除だ。
掴み慣れたデッキブラシを右手に持ち、左手には濁った水の入ったバケツを持って、飛び込み台の階段を上っていく。
この飛び込み台は高さは最大で10m。一番低いと3mとなる。階段を上るほど、飛び込む高さも上がっていく。八尋は一番高い位置、10mの飛び込み台の板から掃除に手をつけていった。
正午から始めて、約四時間。ようやく飛び込み台の掃除まで終わった。両手はマメだらけである。裸足の為、両足の裏にも同様にマメが出来ているようだ。
「今からあそこの掃除か」
汗を拭き、顔をしかめながら、目の前にあるプールへと視線を向ける。深さ約3m。長さは50mはある。水はまだ抜いていない為、今から抜かなければ掃除は出来ないが、
「もう面倒くさいから、明日でいいか。先生に一応聞こう」
八尋は手足の疲れもたまっており、さすがに水を抜いてから、また掃除をする気力は無くなっていた。
デッキブラシとバケツをプールサイドに置き、上履きを履いて、一つしかない出入口から出る。忘れずに鍵もかけた。
もう掃除はしなくていいかもしれない。そんな気持ちが先走り、浮足立った足取りで職員室へと向かった。
校内は部活も休みである為か、渡り廊下を歩いている間、誰ともすれ違うことがなく、職員室の扉の前に辿り着いた。スライド式のドアをノックし、ゆっくりと開ける。
「すいませーん。失礼します」
いつもの常套句を口に出し、職員室の中を伺う。顧問の姿を探していると、後ろから右肩を小突かれた。
「いって!」
「何だ。もう掃除は終わったのか?」
振り返ると、綺麗に生えそろえた顎髭を右手でさすりながら、眉間に皺を寄せている男の姿があった。部活動で見慣れた顧問の森崎である。森崎はまだ髭をさすりながら、面倒な表情で八尋に言う。
「まさかさぼってるんじゃないだろうな」
森崎の独特の迫力と声量に少したじろぐが、八尋は精一杯両手を振って否定する。
「違います!違います!一応、プールサイドと飛び込み台までは掃除終わったんですけど、水抜きまでしないといけないかと思ってですね」
「水抜き?今からなら、かなり時間かかるぞ。何で先に抜いておかなかった」
「いやー暑さで頭がおかしくなってたみたいで」
「ふざけたことを抜かすな!」
バン!っと森崎は片手でドアを叩き付ける。
ドアにはめ込まれているガラスにひびが入りそうな勢いだ。
「すみません……」
内心では毒づいていたが、すぐに顧問に頭を下げる。その姿を見て、少し興奮が治まったのだろうか。森崎は口元に笑みを浮かべ、
「仕方ない。では、水抜きまではやっておけ。中の掃除は明日にずらしてやろう」
その言葉を聞き終わるか否かの間に、八尋は森崎の脇をすり抜け、プールの方角へと走っていた。背後から怒鳴り声が響く。
「廊下を走るな!あと、水が抜けたことも確認するように!」
水泳部に所属している八尋には分り切っている事だ。水抜きの際には、排水溝が詰まっていると最後まで水が抜けない為、必ず見守りが必要となる。
その事を踏まえて、森崎は忠告したのだろう。プールに着くと同時に、排水用の装置を操作する。飛び込み台の脇のプールだけ水が抜かれるように設定し、スイッチを押す。凄まじい勢いで水が排出されていく。勢いが衰える様子は微塵も見られない。
「これなら、見てなくてもいいだろ」
装置から離れ、プールからも飛び出し、学校の校門も抜け出す。約三時間も経てば、水は全て抜けるはず。その時間までは、近くのゲームセンターで時間を潰そうと考えた。
目当ての場所に着くと、地下に降りて、なけなしのお金を使い、格闘ゲームに精を出していった。
三時間後
「さすがに見に行くか」
目の前の画面に映る自分のキャラクターが相手にノックアウトされた後、椅子から立ち上がり、地上へと続く階段へと足をかける。その瞬間、自分の過ちに気付く。
プールの出入口に鍵をかけ忘れていた。
「ああ。やばいか?今日はもう皆帰ってるしなあ。ばれてなきゃいいか」
鼻歌を口ずさみながら、学校のプールまで戻る。プールの水が完全に抜かれているか確認する為、覗き込むと息が止まった。
赤い水が飛び散っている。水では無く、これは血だと八尋は認識せざるを得ない。
まさに、飛び込み台から飛び降りたかのように学生服の人物が頭から血を流して、うつ伏せに倒れていた。