邪馬台国鹿児島説 倭人伝は簡単なパズルだった
私が邪馬台国をテーマに小説を書いてみようと思ったのには、きっかけがあった。
昔、高木彬光氏の著作を読んだことがあり、そのときは納得したものだが、内容をすっかり忘れていた。今回改めて昭和のにおいがぷんぷんする手垢のついたテーマに取り組んでみようと思ったのは、ある楽曲の影響による。ドイツのシンセサイザーユニット「CUSCO」の「KIUSHU」という曲だ。
最近になってパソコンを新調したので、ハードディスクに手持ちのCDの曲を落として、聴いてみた。なかでも、この曲の響きが、古代の日本をイメージさせ、九州に対する興味をかきたてた。 西洋人(作曲者マイケル・ホルム)の作った曲となめてかからないように。 これほど日本的な情緒にあふれた曲は聴いたことがない。
古代の九州。そこは日本の原点と呼ぶべき場所。そこで日本が生まれ、やがて東に広がっていった。きっとヤマタイ国も九州にあったに違いない。ネットで調べてみると、北九州説と近畿説がメインで、ほかは珍説扱い。しかし、両説にも無理がある。というのも原文をそのまま読むと、邪馬台国は九州のはるか南方、一月船に揺られて着き、さらに一月も歩かねばならぬほどの大きな島の中にあることになり――それで最初の一、二時間はフィリピン説を検討していた。ヤマタイ国はマニラだった?――それが北九州まで影響力を及ぼしていることになる――それでフィリピン説を放棄した――。
そこで近畿、北九州両説とも、末盧から先の陸上ルートが東南ではなく、実際には九州北岸沿いを東に進み、その先の船上ルートで両説は別れる。
魏志倭人伝
(魏志倭人伝という書物があるのではない。三国志の中の倭国に関する記述を一部抜粋。訳文には翻訳者の考えがどうしても反映されるので原文をそのまま引用したというのは表向きの理由。訳すのが面倒なので原文そのまま掲載)
倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里至對海國其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴毋離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴
又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之
東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐
東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴毋離有二萬餘戸
東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴毋離有千餘家
南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡
其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里
男子無大小皆黥面文身
倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣
自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史
原文では理解しにくいので、ざっと要約を述べる。
ヤマタイ国へのルート
帯方郡 対馬 壱岐 末盧(佐賀県松浦半島)
ここまではほとんど異論がない。
末盧から東南に五百里進むと伊都国(ヤマタイ国の属国)
定説では東南ではなく、東北に進み現在の福岡県前原付近
東南に百里で奴國、東に百里で不彌国、南に船で二十日進み投馬国、南に船で十日、歩いて一ヶ月で邪馬台国
伊都国からの行程は、そのまま記述の順に進む連続説と、それぞれが伊都国からのルートとする放射説がある。
周辺
邪馬台国の東、海を挟んだ千里先に倭人の国がある
東南、南にも国がある。
邪馬台国の北の国々についてはよくわからない。伊都国に置いた女王国の機関は北の国々を監視している。
斯馬国など二十一カ国(奴国も含む)にも影響を及ぼしている
南にある狗奴国と敵対関係
帯方郡から一万二千里以上
会稽東治の東
特徴
女王が統治する。温暖な気候。冬でも生野菜を食べる。人々は裸足でいれずみをしている。顔に赤い顔料を塗っている。海に潜って魚や貝を採る。
近畿説では伊都国以降のルートの記述は、すべて伊都国を起点とするという放射説をとり、さらに南と記されている方角が東の誤りとする。北九州説では、陸行一月を一日の誤りとしたり、帯方郡からの総日程と解釈する。
私も日本から出るのは無理があると考え、放射説をとることにした。末盧国が現在の松浦かどうかはっきりしないが、北九州の海岸であるのは間違いない。そこから五百里東南に向かえば伊都国がある。一里の定義が曖昧だが、良くいわれる75メートルとすれば現在の佐賀県南部、筑紫平野になる。干拓のできる前なので、当時は海に近かったはずだ。
伊都国への到着だけ、至ではなく到の文字が使われているのは、特別な到着だからだ。そこは女王の国の機関があり、漢や魏の使節が落ち着いていられる特別な中継地点なので、厳しい旅もここまで来れば、ようやく安心できますよということだ。
そこから先は女王国の関係者が案内してくれるので、細かい道のりは知る必要もなく、船で十日とか歩いて一月という大雑把な表現になったのだ。伊都国に着けば、女王国だけでなく、東や東南にある近くの国、さらには遠く離れた投馬にもいけるので、ついでに記してあるのだ。
その伊都国を起点に、東南に百里行ったところに奴国があり、伊都国の東方百里に不彌国があり、南に水行(船でしか行けない)二十日の地点に投馬国があり、伊都国から同じように南に向かうが、投馬国の半分の水行十日の地点、地続きなので一ヶ月歩けば肝心の邪馬壹国がある。
古代船で、有明湾から十日間南に進めばどこに着くか?
一日15から20キロ程度進むようなので、有明海を抜けることは確かだ。薩摩半島の西岸まで直線距離でおよそ百五十キロ。途中から東に向きを変え大隈半島や、さらに若干北上し宮崎平野まで行く可能性もあるが、この二つの候補地には海を隔てた東側に倭人の住む国はない。薩摩半島なら、東に鹿児島湾があり、その先には倭人の暮らす大隈半島がある。南や東南には屋久島や種子島、それでは近すぎるならはるか遠方にフィリピン、ニューギニアもある。
大隅半島まではもちろん千里もないが、実際に使節が行くこともないので、大げさに盛ったのだ。千年王国とか、釈迦の死後千年などと、区切りのいい数字は、適当に思いついた場合が多い。
薩摩半島なら同じ九州の中なので、船を使わず、徒歩でも行ける。陸行一月と水行の三倍程度の時間がかかるのは、宮崎康平氏の言われるように単に陸行の三倍にしたのか、実際の日数なのかはわからないが、時速何キロで一日何時間歩くので所要時間はこれだけというような、単純計算でははかりきれない要素があることに注意すべきである。
治安が悪く、道路が整備されていないので、非効率なルートを通る。川を渡る場所とタイミングが難しい。重い荷物を運ぶ。もともと歩くのは好きではない。雨だから歩くのはやめ。疲れたからこの辺で休もう。五日に一日くらいは休みたい。宿探し。食糧確保。食べ物を分けていただく代わりに何かお手伝いしましょう。途中の国々に寄るため、接待が長引き、翌日の午後になって出発するときに、欲しくもない土産をたくさんいただいて、それがまた荷物になる。無理に酒を飲まされて二日酔い。この近くに温泉があるんですが、寄っていきませんか。是非、立ち寄りたい場所がある。魏の国の方にあえるとはすばらしい、いろいろお聞かせください。腹を壊す。風邪を引く。怪我をする。一人のせいで全体が遅くなる。二十五日でもほぼ一月。この時刻に出発するのは風水的によくない。この方角に進むのは風水的に悪い。靴が傷んだ。悪霊にとりつかれたのでお払いをしなければいけない。暑いから涼しくなるまで待とう。もうじき暗くなりそうだ、早めに宿を探そう。のどが渇いたので、まず水を探そう。etc。
鹿児島県の平均気温は奈良県より四度高く、中国北方の魏の使節にとって温暖な気候といえ、冬でも野菜が栽培される。大陸との関係が深い先進地域北九州には帰化人も大勢いたと思われる。文明人であるそこの大人が、顔を赤く塗り、刺青をし、裸足でいたとは想像しにくいが、独自の文化を育んだ薩摩ならありえるだろう。草野貝塚からは真珠も見つかっている。
邪馬台国が薩摩となると、水行二十日の投馬国は奄美大島。邪馬台国と違い陸行が省かれているのは陸を歩いて行くことができないからだ。
女王国の北の国々については情報不足で戸数、道のりは省略するが、国名はわかっている。その次の文章で斯馬国など二十一カ国の名が記され、最後に伊都国の東南にある奴国の名がまた出てきていることから、邪馬台国のすぐ北にある国が斯馬国で、そこから熊本県の北の境あたりにある奴国まで女王国の影響下にある国々が続いているということだろう。
これらは有明海沿岸沿いの国々で、海から邪馬台国に攻め込まれるので属国扱いとなった。水行の場合は伊都国から船で南下するが、陸行の場合はまず東南百里の奴国に行くので奴国の位置と、同盟でない東百里の不彌国の位置を注意書きとして記した。この二十一カ国以外は、おそらく九州東岸や内陸部にあって詳細はわかっていない。
福岡県南端あたりと思われる奴国の北にある不彌国(伊都国の東百里、やや内陸)からは女王国とは別の勢力ということだ。つまり現在の福岡県は女王国の影響下になかった。
一般には朝鮮半島と思われている狗邪韓國は現在の福岡県にあった国だろう。後漢書には倭国の北西岸とはっきり記されている。荒巻義雄説でも、始度一海千餘里からそう導き出しているが、次の一文を読むだけでそう推測できる。
郡從り倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓國を歴て、乍ち南し乍ち東し、其の北岸狗邪韓國に到る。
倭に至るには、あれこれし、其の北岸狗邪韓國に到る、という文章を素直に読めば、狗邪韓國は倭の北岸にある国だろう。魏志倭人伝の冒頭で倭国全体について説明し、最大の勢力である狗邪韓國の名を出したのだ。当時、朝鮮半島は馬韓、辰韓、弁韓と三つに分かれていた(三韓)が、韓国としか表記されていないので、三か国をまとめた表現なのだろう。となると、狗邪韓國は朝鮮半島ではないことになるが、狗邪韓國という名前からして、朝鮮半島の韓国と深い関係にあったに違いない。
九州北部から山口県にかけて、長身、面長の人骨が多く見つかったことから、弥生時代、この地域に朝鮮半島からの渡来人が大勢いたことがわかる。北岸という曖昧な表現からして、かなり広大な地域を支配していたのだろうが、単一の国家だったのか、小国の連合なのかは不明。文化経済のレベルやプライドも高く、大国魏にさえ簡単には従わなかった。
福岡平野が邪馬台国へのルートからはずれているのは、魏と友好関係になかったからだ。それで魏の使節は、やや遠回りだが、平地が多い博多ルートを通らず、松浦川沿い、ほぼ今の国道203号線を通り、東南の山岳地帯を抜けたに違いない。この道は朝鮮半島と、有明海以南の諸国との交易ルートなので、利用者も多く、峠越えがあるとはいえ、それなりに開けていたはずだ。
金達寿氏の「日本の中の朝鮮文化10 筑前・筑後・豊前・豊後」によると、古代の北九州は朝鮮半島と同一文化圏だったそうだが、渡来人が多く、王族の起源を朝鮮半島に持つ狗邪韓國は、漢や魏の朝鮮半島支配に激しい敵意を抱いていたはずだ。漢や魏から見ると、狗邪韓國は近づくのを避けるほど危険な存在で、(字面が悪いのはその影響)それで、本州、四国、九州東岸の情報を入手できず、倭人伝の倭の国々は九州西岸の肥前・肥後・薩摩に偏ってしまった。逆に言えば、魏が九州北端に上陸できていれば、関門海峡以東についての記述が倭人伝に載っていたことになる。
狗奴国も女王国と敵対する。其の南とあるのは、女王国のすぐ南という意味だろう。水行でしかいけない投馬国を除き、狗奴以南の国のことが記されていないのは、それが九州南端の薩南に位置するからだ。王の名が卑彌呼と似た卑彌弓呼なので、同じ文化圏に属すると思われる。もともとは同じ国だったのが、分裂したのかもしれない。隣接しているので、争いは女王国にとって大問題だ。
南部を除いた薩摩半島で戸数七万は多すぎるが、単なる誇張でなければ、属国を含めた戸数を報告したのだろう。
戸数五万と奄美の人口も多すぎるが、単なる誇張か、邪馬台国側が実際の数字を把握しておらず、適当に答えたのだろう。使節が実際に足を運んだ地域はそれほど誇張できないが、話に出るだけの面積の大きい奄美なら、かなり誇張できる。薩摩半島と大隈半島までの距離は千里の半分もないが、倭種の国の中心が大隅半島の東にある志布志湾付近とすれば、船で大隅半島を迂回すれば千里を越える。千里という大雑把で誇張した数字で通用したのだろう。当時の邪馬台国の立場からすれば、大国魏の使節に対して、面積、人口など自分たちの勢力を少しでも大きく見せかけたほうが、交渉上有利になる。
会稽東治は現在の福建省福州といわれる。その東となると台湾北端になってしまうが、東治が東明の誤りとすると、現在の寧波。寧波の東は屋久島、種子島のすぐ南となる。東治を南治と間違えるよりはるかに些細でありえる誤りだ。
赤色は邪馬台国と魏にとって危険な地域。
伊都国:末盧の東南五百里、東南に百里行ったところに【奴国】、東方百里に不彌国
邪馬台国:海を挟んだ千里東に倭人の国。東南、南にも国がある。南にある狗奴国と敵対関係
女王国の北の国々:斯馬国から順に巳百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、【奴国】。奴国が二カ所出てくることに注意。
地図素材提供 CRAFT MAP様(http://www.craftmap.box-i.net/)
以上の方法で、方角も距離も日数もいじらず、邪馬台国の位置が導き出せる。何のことはない。壱岐から普通に九州に上陸し、東南に三、四十キロ進み、そこから船で南に十日進むか、一ヶ月間南に歩いた場所が邪馬台国なのだ。女王国以外の国へのルートもついでに載せたのでわかりにくくなっただけだ。地図上にプサンから佐賀県の筑後川下流まで直線を引き、そこから真南に直線を伸ばしてみていただきたい。アナログ時計でいうと十時半のイメージだ。
出版社が儲けようとして話がややこしくなっただけで、本質はたったこれだけのことだ。天才神津恭介もびっくりすることだろう。簡単すぎて、これでは長編ミステリなど書けず、短編エッセーにとどめるしかない。だが、どうして北九州や近畿が主流となっているのだろう。
まず、遺跡の問題がある。確かに畿内や北九州には遺跡が多い。宮崎には大規模な遺跡が発掘されたそうだが、鹿児島ではあまり聞かない。発掘調査自体の機会が地域によって差があり、現在、遺跡が見つからないといって地中に埋まっていないとは限らず、集落ごと焼き払われ遺跡が残っていないという理由も考えられる。それに、女王国が北九州や畿内より発展していたとも限らない。
倭人伝には、邪馬台国が倭国最大の勢力などと書かれているわけでない。魏の協力国だから記されているのだ。シャーマンが治める辺境の地だからこそ、北九州と張り合うため、大国魏と深い関係を築き、戦の時、魏の旗を掲げて戦ったのだろう。
ほかにプライドの問題もある。大和朝廷の前身である可能性が高い邪馬台国が、九州南端の熊襲の地にあると不快だからだ。大和の前身は熊襲だった。これはゆゆしきことである。日本という国は、九州の南端から出てきた勢力が統治し続けてきたなどと認めたくはない。だが、日本書紀には、初代天皇である神日本磐余彦天皇(神武)は日向の地から、東に向かい、大和を制圧したと記されている。古事記にも同じ出来事が記してある。日向を出て、大分、広島、岡山を経て大阪でナガスネヒコと戦うが勝てない。そこで熊野に入り、大和に向かい、エウカシを滅ぼす。その後、ナガスネヒコを倒し、即位した。
日向は今の宮崎県だけではない。八世紀に薩摩と大隈が独立するまでは、今の鹿児島も日向だった。ひょっとしたら、日本(漢の発音に近い音読みではニホン、ニッポンだが、訓読みではひのもと)の日は日向の日かもしれない。
魏から下賜された鏡が、大和地方で発掘されたからといって、鏡を授かった勢力が近畿とは限らない。死体発見現場は必ずしも犯行現場ではない。先祖から受けついだ自らの権威を高める宝物を、出身地に残したままにするだろうか。巨大建造物は無理でも、金属製の鏡なら壊れにくく、運搬可能である。日向から大和に拠点を移したなら、貴重品の類も一緒に移動させるはずである。鏡をほかの勢力が持っていたとしても、権力をつかんだ大和朝廷が、自分のところに献上するよう圧力をかけたことも考えられる。
倭の奴国の金印が福岡で発見されたのも、邪馬台国の同盟国奴国が北上に成功して福岡平野を平定したか、狗邪韓國が奴国から奪い取ったのだろう。あるいは、エジプトのように後世の泥棒の仕業かもしれない。要は、運搬可能なものは決定的な証拠にならないということだ。
ヤマタイ国の位置を算出する方法は、二次元座標におけるベクトルの合成と同じである。X座標とY座標の足し算にすぎない。単純な数学の問題に、社会科を持ち込むからおかしくなるのである。Y座標の値が31になる問題があった場合。北緯33度より南は文化レベルが低いので最終的な解答は、Y軸の値が33より大きくなくてはならず、設問自体がベクトルの方向を時計回りに90度変更するといったミスを犯していると考える者がいるだろうか。
ここであって欲しい、ここであるべきだなどと結論を先に出して、無理やりこじつけようとするから、おかしくなるのだ。肝心の方角や日程そのものが誤りであったとすれば、どこにでもこじつけられる。第一、邪馬台国が本州にあり、瀬戸内海を水行するのなら、本州や四国について説明があるはずである。本州を陸行一月する際も関門海峡を渡ることが明記されると思う。
使節が訪れたのは一度ではなく、一人で来たのでもない。少なくとも一日くらいは太陽が出ているはずである。十日も船に揺られて、南と東を間違えるだろうか。仮に日数や方角に記述ミスがあったとして、正しく記述されている説明文で宇佐や奈良にたどり着くことはできるだろうか。
三国志における倭人伝の占める割合はきわめて小さい。著者の陳寿はそこに力を注ぐことなく、当時の資料を書き写しただけのはずだ。なんらかの隠されたメッセージを込めるだけの意味がない。倭人伝は後世の人間に向けたパズルではなく、当時の人間のための道案内である。
水行十日、陸行一月を帶方郡からの総日程とすれば矛盾なく解けるというならば、倭人伝は邪馬台国の位置をわざと曖昧にし、場所を特定されるのを避けたことになる。そんな道案内をする馬鹿がどこの世界にいるか。
邪馬台国の場所を比定したすべての方に聞きたい。あなたは魏志倭人伝を読んで、自分が推測した場所にたどり着けますか?
倭国に向かうには、対馬、壱岐に寄る。そこから近い港は松浦だ。上陸してから東南に五百里前後歩けば、有明海の近くに出る。その後に十日船で南、あるいは一月南に歩くという解釈なら、正確な位置をピンポイントで当てるのは難しくても、薩摩付近だと誰でもわかるはずだ。
山間部も含まれているが、プサン鹿児島間の最短ルートであり、博多湾の勢力と同盟していなければ、もっとも合理的なルートだ。
こんな小学生でもわかる単純なことを、江戸時代から今に至るまで議論している理由がわからない。その議論も最近では、古墳の数が多い場所にすりかわっており、倭人伝はおまけ扱い。三世紀の日本におけるもっとも発展した地域を求めるなら、それで正解だろう。それと、魏志倭人伝の邪馬台国がどこかとは別の問題だ。
邪馬台国が当時の倭で最大だという思いこみがそうさせるのだろう。だが、文化的に低い蛮族とみなされた小勢力が大国を築く例などいくらでもある。春秋戦国時代。先進地域中原では諸国がひしめきあっていたが、西戎とさげすまれた秦は軍事改革を成し遂げ、最終的に天下を統一した。モンゴルがユーラシアを制圧したのは、人口が多かったからでも、文化が高かったからでもはない。軍事的に強かったからだ。小藩にすぎなかった織田や徳川が戦に勝ち抜いて天下を獲ったのは、小学校の歴史で習ったはずだ。邪馬台国より狗邪韓國のほうがはるかに大きかったが、魏が狗邪韓國の戸数を把握していなかったから記述が抜けているのだ。
旧唐書によると、日本と倭国は別の国で、倭国は日本に併合されたとされる。
当時の状況を想像してみよう。現在の博多を中心とした北九州は、朝鮮半島との関係が深く、経済文化が発展し、軍事的にも強力な大国狗邪韓國が君臨していた。薩摩を拠点とした南九州勢力は、秦と同じように野蛮とさげすまれていたが、南西諸島との交易で経済力はあった。
人々の気質も蛮勇で、優れた航海技術から強大な海軍力を持ち、北は有明海に面する佐賀県南部まで影響を及ぼしていたが、陸戦ではそれほど強くなく、狗邪韓國には手を出せなかった。彼らは先進地域北九州征服を悲願としていた。海から北九州を攻めるには、西側から大回りし、流れの急な玄海灘を通らなければいけないので、困難である。そこで、流れの穏やかな瀬戸内海を通って、後進地域でろくな兵力もない近畿に攻め込み、そこから西に勢力を拡大。東と南から北九州勢を挟み撃ちにする戦略をとった。
近畿との戦いに勝つと、本拠地をそちらに移し、出身地南九州は親戚筋や信頼のおける部下に治めさせた。しかし、時代を経るにつれ両者の関係が薄れ、いつしか南九州は朝廷に逆らうようになり、熊襲と忌み嫌われる。徳川が島津を落とせなかったように、西南戦争で官軍が苦労したように、薩摩の地は難攻不落なのだ。古代、日本(南九州)が大和(近畿)に進出し、その勢いで倭国(北九州)を征服し、明治初期、日本はその出身地を屈服させたのだ。
ここまで邪馬台国と記して来たが、原文では邪馬一国で、読み方もシャバイチかヤバイチのようだ。新井白石が大和と結びつけるため、そう読んだのが始まりのようだが、白石は倭人伝のルートを無視して、名前だけで場所の候補を絞り、近畿の大和地方と福岡の山門の両説をたて、それは今日まで影響を及ぼしている。
以上の見解はいろいろな人の意見を参照し、少しは自分のオリジナル意見(あまり本を読んでいないので、オリジナルだと思ってもすでにどなたかが思いついたことかもしれない)も混ぜ、私なりにまとめたものだ。邪馬台国の研究に人生を捧げたわけではなく、のべ一週間程度(24x7ではなく、一日二、三時間)で考えをまとめあげたにすぎないが、それでも多少の自信はある。といっても、もともとたいした興味はないので、一年後には、やはり皆様のおっしゃられるように畿内でございましたと、平身低頭しているかもしれない。
合理的に邪馬台国を考察したつもりだが、不思議な因縁を感じる出来事もあった。
歌手のさだまさし氏原作の連続ドラマ「ちゃんぽん、食べたか」は、氏の青春時代をほぼそのまま再現した内容で、第七話で宮下康平なる古代史研究家(俳優は寺田農氏)が登場するシーンがある。宮下のモデルは実在の人物で「まぼろしの邪馬台国」の著者である宮崎康平氏だ。筆者がその回を見た三日後、パソコンの電子書籍ファイルのなかに「まぼろしの邪馬台国」を偶然発見し、二日間で読破した。
残念ながらもうその頃には邪馬台国構想はほぼできあがっており、ほとんど参考にならなかったが、著者についてネットで調べてみると、さだまさし氏と深い関係があることがわかった。そのとき筆者の頭に、寺田農氏の演じた人物のことが浮かんだ。あの人物は、まぼろしの邪馬台国の著者に違いない。翌週第八話を見ると、その名が宮下康平とある。筆者のひらめきは正しかったわけだ。(実は宮下氏は宮崎氏とは無関係ですと言われても困る)
まぼろしの邪馬台国は映画にもなったので、いつか読んでみたいと思っていた。それが、毎日使っている自分のパソコンの中に隠れていて、しかもそれを発見した時期が、著者をモデルにした人物をドラマで見た直後とは恐るべきシンクロニシティ。
ちなみに、かなり参考にした荒巻義雄氏の「新説邪馬台国の謎」殺人事件も、偶然、パソコンの中で見つけた。これもすでに邪馬台国の位置を比定した後(二時間くらいで鹿児島に決めたので仕方ない)だったのだが、狗邪韓國の件は福岡県に倭国の大国が君臨していたという筆者の説に一致していたので採用。
実は、鹿児島説を思いついた後に一日だけ図書館に出向いたことがあって、そのとき「新説邪馬台国の謎」殺人事件を図書館でとばし読みしていた。内容をほとんど把握せず、価値のないものと決めつけていたが、じっくりと読んでみると、いろいろと参考になると認識を改めた。この電子書籍ファイルを発見した日付というのが、「ちゃんぽん、食べたか」第七話の三日前。
つまり、筆者が、「まぼろしの邪馬台国」の著者をモデルにした人物が登場したドラマを見る三日前に、「新説邪馬台国の謎」殺人事件を偶然発見し、三日後に「まぼろしの邪馬台国」をこれまた偶然発見したことになる。筆者の立場からいうと、この二作品は、ドラマから三日間の間隔を挟み、対称関係にあったことになる。なんというシンクロニシティ。
おまけ 図でわかりやすく説明
地図素材提供 CRAFT MAP様(http://www.craftmap.box-i.net/)




