ピーター・チャリオットは妄想する
魔王ファルファナンが死んだのは、私が生まれる十年くらい前のことだ。
なんでもそれ以前は街の中を魔物たちが跋扈しているような、安心して眠れる場所も少ないような世界だったそうだ。お父さんもお母さんも腰に似合わない短剣を差し、また野菜を育てるのも難しいから栄養が偏って髪も肌もかさかさだった。毎朝のように魔物が人を殺し、道が血に染まる。それでも掃除をしなくちゃさらに多くの魔物が臭いにつられて寄ってくるから、人は慌てて掃除を繰り返した。
朝起きて血を洗い、死体を運び。
夜はまた血が流れ、死体が転がる――
「アリス、もう日が昇ってるわよ。起きてらっしゃい」
お母さんの声で目を覚ました私は、いつものように自室の窓を開けて家の前の道を見下ろす。そこには当然だけど、死体は転がっていない。魔物もいない。
一階のダイニングの方からはおいしそうなにおいがした。パンの焼けるにおい。
きっと隣にはサラダもあるんだろう。ゆで卵もあったりして。
お父さんもお母さんも、すごく熱心に食事の前にお祈りをする。
『神よ、勇者よ、この平和に感謝します』
だけど私たちワカモノたちはあんまり真剣にしちゃいない。大人がいないときは手も合わせない。でも、それはしょうがないでしょ?
だって生まれる前のことなんて、当然だけど、知らないわけで。
私は一階に降りる前に、一冊絵本が入っただけの小さな本棚の上に立ててある鏡を見た。
艶のある肌、髪、私のひそかな自慢。
いま大事なのは、神さまでも勇者様でもなくて、素敵なボーイフレンドを探すことだ。
……胸は、もうひとつ足りないかな。
*
そんな青春真っ盛りな私には胸の成長以外にひとつ、大きな悩みがあった。
予想通り、パンと一緒にサラダとゆで卵という朝食。それをおいしくいただいた後でお母さんは私の前に小さなバスケットを差し出した。
中身は知ってる。サンドイッチ。お母さんはにっこりと笑う。
「アリス。それじゃあこれ、ピーターさんに届けてきてくれるかしら?」
「……やっぱり、行かなきゃだめ?」
私は思わず顔をしかめた。手は伸びない。
「当然。これがないとピーターさん、お腹がすいて倒れちゃうわ。お母さん今からお父さんの畑を手伝いに行かないといけないし、アリスしかいないのよ」
お母さんはそう言ってバスケットを押し付けた。
落とすわけにもいかないのでそれをしっかり両腕で抱える。
ああ、今日もまた受け取ってしまった。私って、いい子だからなあ。
齢十五にして未だに親と喧嘩をしたのが両手の指で足りるくらい。
でもしょうがない。お母さんもお父さんも穏やかな人だから、私がわがまま言ったら怒るより悲しんじゃう。そんなんじゃ、いまいち反抗もしづらいよね。
「……わかった。行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
お母さん、とてもいい笑顔だ。私は今日もしぶしぶ、玄関から外へ出る。
正面から差し込む朝日は柔らかい。お昼にはきっとぽかぽかした春の陽気になるのだろう。今は、我慢の時だ。さっさと届けて、それでお昼寝をしよう。
……やっぱり行きたくないなあ。あの人、話が長いんだもん。
私はもう一度ため息を吐く。
「おお、アリス。今からピーターさんのところか?」
「あ、お父さん。……うん、そう」
家の隣に広がる畑。お父さんは今日も一番に起きて、ここの手入れをしていたのだろう。鉄製の鍬に肘をのせて、額の汗をぬぐう姿は絵にかいたような農夫。
真面目、温厚。
娘は父に似るというが、私の頼みを断れない性格はこの人から受け継いだのかな。
そう思うと、困ったような、まんざらでもないような、複雑な気持ち。
「そうかそうか、それならよろしく言っておいてくれ。あの人は私たちの恩人で、あの人がいなければアリスは生まれてこなかったかもしれないんだからな。はっはっは」
「…………」
何回も聞いたよ、という言葉はのどまで出かかって、なんとかとどまる。
家族でも気を使うんです。家族だから、気を使うんです。
はあ、私は小さくため息を吐く。よ、と一声、お父さんは鍬を担いでまた作業を再開した。その頭が時折、日の光りを反射する。
私はそっと自分の髪をかきあげた。
娘は父に似るというが、どうなのだろう。
これもまた、私の小さな悩み。
*
私の住むこのヤコラの村はその南側が巨大なチェイス山脈と接していて、件のピーター・チャリオットは村から少しチェイス山脈に入った先にある不思議な建物に一人で住んでいた。石造りの家が普通の私の村とは違い、彼の家は何から何まで木でできているのだ。
えいこらさ、よいこらさ。
私は今日もいつものようにそのピーターさんの家を目指してチェイス山脈を上る。
途中、道端の大きな石に腰掛けてバスケットを開き、サンドイッチを一つ食べる。
念のために言うが、これはつまみ食いじゃない。お母さんが私用にちょっと多めに入れてくれているのだ。感謝。神さまにも勇者さまにも感謝なんてしないけど、お母さんには感謝。
一つサンドイッチを食べ終えて、私はまた山道を登り始める。
えいこらさ、よいこらさ。
……しかし山を登るにつれて足と一緒に気持ちまで重くなってくる。
ピーター・チャリオット……苦手なんだよなあ、あの人。
魔術の名門、チャリオット家の最後の一人。年齢は……たぶん三十代半ば。
手入れされてないぼさぼさの髪。微妙に剃り残した髭がちくちくしそうな顎。お風呂は大好きらしくって、そのおかげかおかしな臭いはしないけど……清潔と清潔感には天と地ほどの違いがあるわけで。私は絶対に、あの人を清潔だとは言いたくない。
……ああ、なんかさらに行きたくなくなってきた。引き返そうかな。
一瞬、歩みを止めた瞬間だった。山道のさきから私のおでこの辺りめがけて、声が投げかけられた。
「やっほー、アリスちゃん。今日も御苦労さま」
声を聞くとどっと疲れが出た。なんて年に似合わない無邪気な声。
自然と足元に落ちていた視線を、理性で無理やり上げる。そこにはさきほど頭の中で思い浮かべた通りの姿。
ぼさぼさの髪、剃り残した髭。
それに、にやにや笑ういたずらっ子みたいな顔。
私の口の端は微妙にひきつっていた。
「……おはようございます、ピーターさん」
「いやあ、ぜんぜんはやくないよ。もうお腹ぺこぺこ。あ、でもアリスちゃんもお腹減ってるよね。せっかくだから一緒に食べようじゃないか。実はちょっと前に頼んでいたコーヒー豆が昨日アリスちゃんが帰った後に届いてね? 焙煎もしたから挽いてすぐに飲めるよ。ララーさんのサンドイッチはきっとコーヒーがよく合うだろう。うーん、今から楽しみだね。ほらほら、若いんだからしゃんしゃん歩いて」
「あ、いや、私はこれを渡したら帰らなきゃ……」
「なあに、遠慮は無用さ。僕とアリスちゃんの仲じゃない」
話を聞け。
ピーターさんはバスケットを受け取らず、ひょいひょいと一人山道を登っていく。
仕方なく、私はその後を追いかけた。私がお母さんに頼まれたのはこれをピーターさんに渡すこと。それが達成されていない以上、ここで帰るわけにはいかないのだ。
嗚呼……
と、そこでふわっとピーターさんが通った後に残る甘い香りに気づいた。
石鹸の香りとはまた違う。これは何の香りだろう。
「あの、ピーターさん」
「お、アリスちゃんから話しかけてくれるなんて珍しいねえ。いいよいいよ、おじさんなんでも答えちゃう。年は三十四。得意な属性は火と風、ついでにその二つを合わせて雷。ちなみに魔法は同時に三つまで発動させられるよ。すごいでしょ? あと、そうだな……あ、スリーサイズとか知りたい? えっとねえ、上から……」
「それは結構です」
「アリスちゃん全体的に細いから僕の方がナイスバディかもね」
「…………」
「おっと、それで質問って?」
耐えなさい、アリス。あなたはいい子。
「い、いえ……な、なんかピーターさんから甘いにおいがするなぁ~って」
ひくひくと苛立ちで声が震える。
「お、早速気付いたなこのいやしんぼう」
両人差し指をこちらに向けるな。それはいい年した大人の男がするポーズじゃない。
ああ、もう。この人は年相応という言葉を知らない。夏になれば家の脇の川に全裸で飛び込み、冬になれば雪を集めて転がして大きな大きな雪玉をつくる。ちょっと家から離れたところには木の上に立派な小屋を建てて『秘密基地』なんて看板をつけていた。
この人はいつもそう。
無邪気、陽気。
どうせこの甘いにおいの正体も、なにかそう言った遊びの結果なのだろう。
きっと喜々として語りだすに違いない。しまった。となるとここで質問をしたのは間違いだったと言えるだろう。ちょっとした好奇心。私は後悔した。しかし。
「……でも、今はまだ秘密かな」
しかし、その話はそこで終わってしまった。おや、と私は思う。
いつももっと話したがりなのに、と首を傾げる。こちらから前に向き直る瞬間の横顔は、ほんの少しだけ寂しそうにも見えた。
どうしたんだろう。少しだけ、心配になる。
……まあ、心配するだけ無駄だったんだけどね。ピーターさんが語りを止めたのはほんの一瞬で、それからの彼の家に着くまでの間、私は早口でまくしたてられるさっきの質問とは関係のない話に相槌を打ち続ける土人形であることを強いられた。
ああ、まったく。
私はこの人が苦手だ。
*
ピーターさんの家にはそれから少し歩いて到着した。
戸の横に目印のように立てかけられた、外れた車輪。チャリオット家の証。
ピーターさんはからからと玄関の引き戸を開けて、中へ入るなり靴を脱いだ。
ピーターさんの家は不思議だ。
まず第一に、そのすべてが木材で作られている。そして、家の中では靴を脱がなくちゃいけない。
私も一度バスケットを置いて靴を脱ぐ。小さなころからおつかいに来ているので、これにもすっかり慣れてしまった。靴下越しに感じる木のつめたさ。これは案外、嫌いじゃない。きしきしと音を立てて家の中を進む。
ピーターさんの家は、ピーターさんのご両親が亡くなってから彼が自分で建てたものだ。
だからとっても部屋の数が少ない。一人で生活するに十分なだけ。
廊下をちょっと進んだ先のいつもの部屋。その中央にぽつんと配置された足の短いテーブルの上にバスケットを置く。私はぺたんと床に座った。これも、ピーターさんの家じゃなきゃしないこと。
ピーターさんはちょっと待っててね、と言ってキッチンへ向かった。
……帰ってしまおうか。そんな考えが頭をよぎる。でもどうせ、明日の朝もおつかいに来るのだ。まったく、勝手に帰るなんてさびしいじゃないか、と後でへそを曲げられるよりはいまここで耐えてしまう方がいいだろう。そう判断し、私はその場にとどまる。やることがないのでバスケットのふたをぱかぱか。
と、そこでこの部屋にもさっきしたような甘い香りが漂っていることに気づく。
甘い香りの原因は、家の中にある。情報その一。
そしてよくよく嗅いでみれば、この香りは甘いだけじゃない。なんていうかもっと複雑な、においの形容にそこまで覚えがあるわけではないので厳密に表現することは出来ないが、そう、複雑な香りだ。
甘さと、苦さ?
「やあやあお待たせ。魔法って便利だね。何もない所からお湯を出せちゃう。こう、手のひらにぎゅうっと力を込めるとジャブジャブと。おや? となるとこのコーヒーはピーター汁とも言えるのかな」
「気味の悪い言い方はやめてください」
絶対に飲みたくない、そんな汁。
ピーターさんはカップを二つ、ふわふわと宙に浮かべて帰って来た。中身をこぼさないように、非常に繊細な魔力操作がされている。この人が本当に魔術の名門、チャリオット家の人間なのだという証明みたいな絵面。
ことり、とカップがテーブルの上に乗る。私は尋ねる。
「それで、これは何なんですか?」
「ピーター汁?」
「ではなくて」
「ああ、コーヒーだよ、コーヒー。ちょっと古めかしくいうならコーヒ」
いやだから、それは何なのだ。
ピーターさんは時々、どこからか不思議なものを取り寄せてくる。食べ物だったり、飲み物だったり、工芸品だったり、工具だったり。多くの場合それは何かを創るための材料。ピーターさんがそれを使い、新しい何かを創るための。
ピーターさんのことをお父さんは発明家だと言い、お母さんは料理人だと言う。
ピーターさんは何かを創るのが大好きだ。ただし……
ただし彼は自分を創作者ではなく再現者だと言う。
ピーターさんは少し寂しげな顔になった。ああ、そうか、最近なかったからすっかり忘れていた。ピーターさんが寂しそうな顔をする理由。
「これはね、僕が『前世』でよく飲んでいた飲み物なんだ」
*
私がピーターさんを苦手とする最大の理由は、話が長いからじゃない。
たしかにそれも彼をめんどくさい人物にする要因の一つだろう。矢継ぎ早に放たれるあの言葉が半分、三分の一、いや、四分の一? それくらいならきっと並の人間と同じくらいで、また楽しいコミュニケーションになる。
でも、それはまだいいのだ。私ももう十五。そろそろ大人って言われる年。話が長いだけでしびれを切らすほど子供じゃないつもりだ。
私が彼を苦手な最大の理由。それは彼の『妄想話』だった。
ピーターさんの言うところによると、彼には前世の記憶がある。
「地球」。それがピーターさんが前世で住んでいたと自称する世界。人はみんな、とっても広い空に浮かぶまん丸い球体(だったかな?)の上で暮らしている。そこには魔法がなくて、魔物がいなくて、その代り電気で動く道具と人間同士の争いで満ちているらしい。
……馬鹿馬鹿しい。少なくとも私は、これっぽっちも信じてはいなかった。
大体、魔法もないのに人間が球体の周りで留まれるわけがない。そんなことをしたらあっという間に外側に落っこちてしまうだろう。それに、電気で動く道具? 電気って、雷とかのあれでしょう? あれでどうして道具が動くのかさっぱりわからない。
『でも、本当なんだけどなあ』
ピーターさんは問い詰めるといつも苦笑する。じゃあ、その電気で動く道具を作ってみてくださいよ。いつかそう言ってみたことがあった。その時に彼は、ゴメン、僕も仕組みはよくしらないんだ、と言ってはぐらかした。
結局は、彼が妄想の中で作り上げた架空の世界だから。
だから現実の理論には出来ないのだ。
それでもピーターさんは主張を止めない。自分の作った架空の世界を披露する。
私は、それが苦手だった。
「いやあ、さすがに品種改良もされてないし最高とは言い難いけれど……しかしあれだね、懐かしい味だ。うーん、受験勉強で毎日のように夜更かししてた頃を思い出すよ」
勧められた通りミルクと砂糖を入れて、私もコーヒーとやらを飲んでみる。焙煎した豆をひいた粉にお湯をかけて抽出するというそれは、砂糖を入れてもまだ苦かった。どうしてすき好んで苦いものを飲まなくちゃいけないんだろう。砂糖で無理やり打ち消すなら、元から甘いものを飲めばいいのに。
設定づくりに、必死なのかもしれない。
でも私はコーヒーを最後まで飲んだ。出されたものは残さない。私は、いい子なのだ。
「受験勉強って、なんですか?」
相槌代わりに質問を。
ピーターさんは、私の言葉にすっと目を細めた。
「学校って、こっちにはあんまりないけどさ。地球には、というか僕の住んでいた日本って国にはたくさんあってね。まあなんていうか、学校がたくさんあったらそれだけ学力とか設備にも差が出てくるわけ。もちろん、より難しいことを勉強した方がためになるし、設備がいろいろある方が便利だろう? だからみんなそういう『いい学校』に入りたがる。でも、学校側もそんな人たちをみんながみんな入れてあげるわけにはいかないから、それで優秀な人だけ来てもいいですよ、って振るいにかけるわけ。学力って基準でね。それがいわゆる一般的な受験。もちろん、運動とかで学力以外で優秀な人は別の方法で認められたりもするんだけど」
「へえ」
大した妄想力だ。
ピーターさんは大人なのに。それが少し、見ていてつらい。
空になったカップ、その底をのぞき込む。ミルクと混ざった薄い茶色が少し残っていた。
「……ピーターさんは、その地球ってところに帰りたいんですか?」
その言葉は本当にぽろっと、無意識のうちに私の口からこぼれた。
話の流れという奴だった。僕の故郷はこんなにいいところでね、へえ、やっぱりたまには帰りたくなるものなの? 本当にそれだけの話。ごくごく自然で、日常的な会話のやり取りだと思う。
しかしなかなか返事をしないピーターさんを不思議に思い、顔を上げた私が見たのは今まで見たことのない表情だった。
ピーターさんは今にも泣き出しそうな、そんな顔をしていた。
いつも無邪気で陽気に笑う彼が。
顔の筋肉をひきつらせ、眉間にしわを寄せ。
唇をきゅっと引き結ぶ。
その顔を見た時、私の心がずきりと痛んだ。
そんな、妄想の話でしょう? なんで、そんな、泣きそうな、悲しそうな、寂しそうな。
ピーターさんははっとして、立ち上がる。そのまま部屋を出て行ってしまった。私は呆然と、そのうしろ姿を見送ることしかできない。
*
それから少しして、ピーターさんが戻って来た。
気まずさと胸の痛みで私にはずっと長い間に感じられたけれど、壁にかかった時計を見るとピーターさんが退室していたのは一分くらいだった。
帰ってきた時のピーターさんはもう、泣きそうな顔はしていなかった。
「ふふん、ではではアリスちゃん。今日は僕から君にとっておきのプレゼントをあげようじゃないか。おっと、遠慮なんかしなくていいんだよ? いつも朝ごはんのサンドイッチを持って来てくれるお礼さ。え? それはお母さんのリリーさんにも感謝すべきじゃないかって? はっはっは、心配ご無用、きちんとアリスちゃんとお母さん、ついでにお父さんの分も用意してるから」
陽気な声だった。無理をしているようなそぶりも、私には感じられない。
くるくると回りながらテーブルの向かいまで行き、すとんと腰を下ろす。その手に握られていたのは四角い小さな箱と、それとは別に銀色の紙に包まれた粒が三つ。
ピーターさんはまず、三つの粒の方を私の前に並べた。
「あの」
「ほら、さっきからアリスちゃんが気になるって言ってたでしょ? 甘いにおい。それの正体が、これさ」
私は口を閉じ、その粒の一つに手を伸ばす。ピーターさんが周りの紙をはがしてみて、とジェスチャーするので、その通り、私はその粒の周りを包む銀色の紙をゆっくりとほどいた。
それはまるで、黒い宝石の様だった。
硬い。それに、部屋に漂っているのと同じ、甘い香り。
「これ、なんですか?」
「それはね、チョコレートって言うんだ。甘いお菓子だよ」
お菓子。私はそれをじっと観察する。これが、お菓子?
私が知ってるお菓子って言ったら、お祭りのときに出る飴やクッキーくらい。こんな黒いお菓子は見たことがない。でも確かに言われてみれば、この甘いにおいはお菓子っぽい。
食べて、ピーターさんがまたジェスチャー。
私は少し緊張しながら、それをゆっくり、口の中に入れた。
ほんのり苦くて、とっても甘い。口の中の温度で飴みたいにゆっくりと溶けていく。
私は思わず目をぱちぱちと瞬かせた。その反応にピーターさんは満足げに笑う。
「……僕が前世で暮らした日本ではね。バレンタインデーっていう日があったんだ。女の子が大好きな人に思いを込めてチョコレートを贈るお祭りの日。もう男たちはその日が近づくにつれてそわそわしっぱなし。もらえるかな、もらえないかなってさ。世界が違っても男ってそんなもんなんだよね。僕もそりゃあ、ドキドキしたもんさ。ま、結局本命チョコなんてもらったためしがなかったけど」
私はピーターさんの話を黙って聞いた。チョコレートはゆっくり溶けていく。甘さと香りが口いっぱいに広がる。
全部がとけて、その余韻まで楽しんだあと、私は口を開いた。
「好きな人に甘いお菓子を贈る。なんだかとっても、ロマンチックなお祭りですね」
「ま、チョコレートを贈る風習はどっかのお菓子屋さんがお菓子を売るためにこじつけただけらしいんだけど」
「ロマンチックじゃない……」
「なあに、現実なんてそんなもんさ」
はっはっは、とピーターさんは笑った。私もつられて笑う。
「……地球に帰りたいか、って話だけどさ」
私は笑うのをやめた。じっと、ピーターさんの眼を見る。
「残念だけど、今の僕では前世の僕とは見た目が全く違うからね。万が一、あの世界に帰れたとしても気づいてもらえないだろう」
その時のピーターさんの顔は、やっぱり寂しそうだった。
だけどその後、にっこりとこちらを見て微笑む。
「でも大丈夫。この世界にもたくさん大事な人がいるから。アリスちゃん、君もその中の一人だ。そのチョコレートはいわば、僕からの親愛の証。よく味わってくれたらうれしいな」
ピーターさんの言ったその言葉は、たぶん、社交辞令じゃないと思う。
私もしっかり頷き、それから微笑んだ。もう一つ、チョコレートの粒を手に取る。
「神よ、勇者よ、この平和に感謝します」
私はそう言ってチョコレートを口へ放り込む。再び広がる、幸せな甘さ。
ピーターさんはなんだか少し、微妙な顔をしていた。
*
玄関を開けると、まずお母さんが気づいた。
「お帰りアリス。ピーターさんは元気だった?」
「うん、いつも通り。お喋りだったよ」
帰りは山のふもとまでピーターさんの魔法で飛んで帰って来た。ピーターさんは何でもかんでも魔法に頼ることをよしとしない。だからいつもは帰り道も歩きなんだけど、今日はちょっと話し込んでしまったので、お母さんたちを心配させてはいけないだろうと飛行魔法で送ってくれたのだ。
ピーターさんは村には入らず、私を着地させるとすぐに山道を歩いて登って行った。
でもそれはしょうがないだろう。ピーターさんが村にやってくると、きっとみんな驚いてしまうから。彼がチェイス山脈に住んでることを知っているのは、私の家族だけ。
内緒なのだ。
「おや、それはなんだい?」
畑仕事が一段落して休憩していたお父さんが、めざとく私の手の中の小箱を指さした。
私はそれを、体の後ろに隠す。
「うん、ちょっとね」
それだけ言って私は二階の自室へ逃げるように入った。
ベッドに腰を下ろし、それから小箱を開く。そこにはピーターさんの家で食べたのと少し形の違うチョコレートの粒が九つ、きれいに並べられて入っていた。
私と、お母さんと、お父さん。
三人が三粒ずつ食べられるようにと九つなんだろう。
でも、私はこれを全部ひとり占めするつもりだった。
それはちょっとしたわがまま。いつもいい子にしてるんだから、たまには悪い子になってもいいじゃない。心の中でそう言い分けして、一粒、チョコレートを口に入れる。
口の中に広がるのは、やっぱり幸せな甘さ。
残りの八つは後の楽しみにしよう。そう思って箱のふたを手に取って、気づく。開けたときには気づかなかったけれど、箱の蓋の裏に何か文字が書いてあった。私は舌の上でチョコレートを転がしながら、それを読む。
『九つも食べると虫歯になっちゃうかもしれないから、きちんと歯磨きするように』
私は思わず苦笑する。どうやらピーター・チャリオットに掛かればこんな小娘の行動パターンなんて御見通しらしい。ちょっぴり悔しいけど、でも、九つ食べてもいいよってことだと前向きにとらえよう。そうしよう。
チョコレートはあったかくなると溶けちゃう。そう聞いていたから、部屋で一番日の光りが当たらないところを探す。私が隠し場所に決めたのは鏡の下、絵本が一冊あるだけの本棚のスペース。ここならきっと、チョコレートも溶けたりしない。
チョコレートの箱を大事に、そこへ仕舞う。
それから代わりに絵本を取り出した。もうずっと、開くことがなかった絵本。
実話をもとに描かれた、英雄譚。大人たちが食事の度に感謝するあの人の話。表紙は右手に剣を、左手に杖を持った青年が勇ましく立つ姿。そしてタイトルは、こうだ。
『勇者ピーター・チャリオットの魔王退治』