隙間
「どうしよっかな…」
振り向くと、あいつは困った様に笑っていた。
両手に小さな物体をいっぱい持って。
「何したの?」
あたしが聞くと、あいつは手の中身を見せてくれた。
「…リード?」
「そ。リード。」
ここは、吹奏楽部が練習に使っている倉庫の様な建物の二階。
いつもなら90人近い部員が練習しているのだけど、今日はオフだからか、あたし達の他には2、3人の先輩達がいるだけで、それぞれが楽譜の整理や楽器の整備に没頭していた。
あたし達は、この部活でサックスを担当していた。
でも、あいつは昨日の文化祭での演奏会で、部活を辞めた。
「空を飛ぶために、この部活を辞めることにしました。」
一か月前に、あいつは静かな声でそう宣言した。
空が好きで、飛行機が好きで、しょっちゅう空港に行って飛行機の写真を撮っては、同じパートの先輩に見せたりしていたから、「ああ、もう決めたんだ」って、すとんと理解出来た。
「なんでそんなにたくさんリードがあるの?」
「俺、溜め込む癖あるんだよね…ひとついらない?」
「…保存状態良ければ欲しいけど…」
「全部欠けてるよ♪」
「そんなの要る訳ないじゃん!!」
笑いながら突っ込むと、あいつは笑った。
覇気がない笑顔。
昨日みたいな笑顔。
昨日の演奏会。
プログラムの最後の曲。
あいつはソロを担当していた。
Tempo rubato
美しくて、やわらかくて、懐かしくて
それでいて哀しい、切ない旋律だった。
あいつは、男ならではの肺活量と、男とは思えない濃やかさでそのソロを吹いた。
そして、吹きながら泣いていた。
溢れてくる涙を拭いもせずに。
それを見てたあたしも目頭が熱くなってきて、困った。
「泣くつもりなかったんだけどなぁ」
演奏会が終わって、舞台袖に戻った時、あいつは笑いながら言った。
「今日、練習あるの?」
「うん。あと30分くらいしたら先輩も来るよ。」
「ふぅん。じゃ、それまでに帰りますかね。」
「そう。」
今日は午前中は文化祭の後片付けで、午後は休みになっているのだか、吹奏楽部はパート毎の練習が入っていた。といっても、さすがに文化祭の直後ではみんな疲労困憊な状態だから、大体どのパートも個人練扱いで、パートで練習するのはサックスぐらいなのだけど…多分これはパートリーダーの先輩の底なしの体力のせいだろう。
あたしは手早くサックスを組み立てて、音出しを始めた。
ひとつひとつの音を確かめる様に、ゆっくりと伸ばしてゆく。
30分後、先輩がやって来た。
「練習始めるよ!!」
「はい。」
回りを見渡すと、あいつはもういなかった。
その日の練習は最悪だった。
みんなクタクタに疲れていたせいか、集中力に欠けていた。
最初のうちは
「ちゃんと集中して」とか注意してた先輩も、やっぱり無茶だと認識したのか、2時間の予定だった練習を、1時間で切り上げてくれた。
フラフラしながら楽器を分解して、ケースにしまうと、そのケースを持って楽器庫に行く。
サックス専用の棚の前に立つと
あいつの楽器がないことに気付いた。
―もう、持って帰っちゃったんだ。
寂しくなんかない
そう思ってた。
朝練に遅刻しても
楽譜を家に忘れて来ても
全く悪びれなくて
そんなあいつが妬ましかった。
だから寂しくなんかないと思ってた。
だけど
あいつがどれだけ吹奏楽が
サックスが
好きだったか、知ってたから
ただただ、哀しかった。
棚の中の、楽器ケースひとつ分の隙間は、そのままあたしの心の中の穴になった。
ケースを棚に押し込んで、荷物を持って外に出た。
自転車をこいで家路に就く。
あんなにやわらかい、濃やかなサックスの音は、もう聴けないかもしれない。
それでも良い。
きっと、ずっと
あたしは覚えてるから。
あの旋律は、まだ耳の奥に残ってるから。
ありがとう。
でも、言ってなんかやんないからね。
あたしは纏わりつくモノを振り切る様に、自転車を走らせた。