みどりの描く空
わたしは青人を待っていた。わたしがわたしの空を描くために。
白い星空が広がった後、空色職人たちの手で彩り鮮やかな空が描かれた。きらめく朝焼け、どこまでも澄み切った青空、陽が燃える夕焼け、遠い宇宙を思わせる濃紺の夜空。千差万別、行雲流水、空は刻々と移り変わっていった。
白色結晶の爆発で最上層が壊れ、上層も立ち入り禁止になった。残された中層と下層をフル稼働し、職人学校の先生も3年生も呼び集められ、空を描き続けた。
後から聞いた話、黒い空の修復以上に働き詰めなのに、誰も疲れていなかったらしい。むしろ、喜びで手が止まらなかったんだって。
5日間支配していた黒色から解放され、空は美しさを取り戻した。
わたしは空から目を離さなかった。皆そうだった。誰もが空を待ちわびていた。虹色に輝く太陽の光を受けて、心が潤っていった。
これが空の力なんだ。早く空を描きたい。
授業が再開される日が決まった。空の描き方を教わろうと、何度も青人のところに行ったが、まだ会えていない。
熱がうつってはいけないと面会できなかったし、退院の日に行ったら、とうに仕事へ出かけた後だった。その足で青人のアトリエに行ってみたけど、当然いない。仕方なく手紙を書くことにした。
「退院おめでとう。空を描きたいんだけど、しばらく忙しいの?」
翌日行ってみると、返事があった。
—もうひっきりなしに描いてるよ。寝込んだ分、描きたいんだ。授業が始まったらちゃんと教えるから。
それまで、自分で描いてみて。アトリエの霧絵の具も道具も使って良いから。
側に絵の具と道具一式が揃えてある。それらの使い方のメモまで添えられていた。初めて空を描いた時のことを思い出し、あの日と同じ青空を描いた。
「どうかな?」
手紙と一緒に写し取ったフィルムを残していった。
次の日の返事はこうだった。
—普通だなあ。初めの課題は自由に空を描けってことだろ? みどりの理想のままをぶつけて良いんだよ。
わたしの、理想......?
わたしが描きたい空ってどんな空だろう?
また新しい空を描いて、「今度はどう?」と書き置きした。
けやき寮に帰るなり、桃枝が駆け寄ってきた。
「青人さんはほかの3年生より長く、空を描くんだって」
どうして知ってるの? と首を傾げると、桃枝は誇らしそうに胸を張った。
「紅さんから聞いたのよ。今日から染め方を教わってるの」
ほら、と差し出す指先はほんのり茜色に染まっている。果樹園育ちの桃枝が植物を使った染めに興味を持ったのは自然だった。それより何より、桃枝はきりっとした紅さんのような人になりたいそうだ。
3年生になったら、格好いい桃枝になってたりして。まだ想像できないけど、良いかもしれない。
「ほかの霧絵の具の先輩を紹介しようかって、紅さんが言ってたよ」
わたしは首を横に振った。
「大丈夫。約束したから」
授業が始まったら教えてくれると手紙に書いてあった。それに、わたしは青人から教わりたい。桃枝はニマッと笑った。
「一途ね」
「モモ!」
キャー怖いと廊下を走る桃枝を追いかけた。案の定、寮母さんに見つかり、2人揃って怒られる羽目になった。頭を下げている間、わたしたちはこっそり目を合わせ、微笑んだ。たわいのない日常が戻ってきた。
青人の返事はこうだった。
—おれの感想なんて聞くことないよ。今度会う時まで何も言わないから、好きに描いてごらん。
ええ? 普通だなって言ったくせに。だけど確かに、空を描くのはわたし自身、わたしが決めることだ。
それから1人、空を描き続けた。
あー違うな。
混ぜ方が悪かったのか、濁ってしまった。手を振り回して、描いていた色を散らす。寝転んで本物の空と見比べた。描いてみると、今まで見えていないものがたくさん見えてくる。
青空の中に無数の色が広がっている。高い空は色濃い青、低く遠い空は淡い水色。その間を美しく変わるグラデーションが占める。
そっか。色じゃなくて濃度を変えたら良いんだ。まだ何にも知らないんだな。起き上がってまた描き直した。
ついに、授業の日がやって来た。寮を出ると、幸先の良い晴天だった。
空を見上げるとわくわくする。何かが始まる。角膜の外に出てから、空が近い。雲は風と寄り添って空を渡る。雲が駆け抜けると、空の表情はどんどん変わっていく。早くおいでと呼んでるみたい。
空がわたしを待っている。
「みどり、行こう!」
桃枝が声を掛けてきた。
今日から授業は始まる。やっと青人に会える。
午前中の清々しい空の下、わたしたち1年生は広場に集まった。最初の授業と同じだ。白髭の学長が優しい顔で出迎えた。いよいよ、授業再開だ。
「全員無事で再会できて、とても嬉しい」
無事という言葉が胸に響いた。皆元気で、という当たり前の挨拶とは違う。わたしたちが乗り越えたのは、夏休みなんかじゃないんだ。
「本来なら空の禁止法は後に学ぶのだが、君たちは先に黒い空を学んだ。空が人を脅かすことすらできるのだと、肌で体感したことだろう」
1年生の眼差しは真剣だった。入学してから今日までの間、空の恐ろしさと美しさを目の当たりにしたから。学長は優しく目を細め、わたしたちを見回した。
「とても苦しい期間だったが、将来、職人になった君たちがどんな空を描くか、楽しみだ。諸君は1年生にして空がどれほど大切な存在か、分かっているのだからね」
心にぼっと灯が点いた。せっかく学校に入ったのに、いきなり黒い空になって災難だと思っていた。だけど違うんだ。空を知ることができて、幸運なんだ。皆の目にも灯が宿っていた。その灯は闘志に燃えていた。
「今日から2週間、それぞれの望む空を思う存分、描いてきなさい」
同じ課題を前にしながら、新たな思いを胸に抱いていた。
わたしは地上の人間。地上に関わった人たちが黒い空にしたことが悔しい。地上の国が白爆を使っていることも。明るい空を怖れる人がいる。空ばかり見てちゃだめだ。まだ見たことのない地上を想わないと。
地上を変えたい。
ずっと地上出身であることを隠してきたけど、もう後ろめたいなんて思うことない。
わたしは地上の血を持ちながら、天上で生きている。根は大地に生え、枝葉は空に伸びているんだ。どっちの世界にも跨がっている。天地を跨ぐ空色職人になるんだ。
汚したくないって思うくらい美しい空を描くんだ。
だったらどんな空を描いたら良いのか。答えはまだない。描きながら探すんだ。少しずつ役に立つように、少しずつ何かをする。それならできる。そのために技術を身につけるんだ。
わたしの空の色を探すんだ。
「いつまで立ってるんだ?」
気付くと、広場には誰もいなくなっていた。きょろきょろと声の主を捜していると、頭上から笑い声が溢れた。なんだ。幹をどっと打つ。
わたしのあおいろ、早く下りて来い。
あ、余計ことまで話してしまいました。忘れてください。
どうでしょう? わたしが空色職人こそ1番の芸術家だって言うのも、分かってもらえましたか? えっ、早く空を描きたい? これは失礼しました。
長らくお待たせ致しました。
さあ、地上の皆さん、お手元の空色ペンを使って空を描いてみましょう! 大丈夫、最初は誰だって初心者ですから。あなたが心を込めて描けば、ちゃんと人の心に届きます。
どんな空の色が生まれるか、楽しみです。
これにて『空色の授業』は完結致します。長らくのお付き合いありがとうございました。今後、加筆修正するつもりなので、ご意見ご感想など頂けると嬉しいです。
ところで、物語を描いている間、世の中では様々なことが起きました。「それってあなたのためだけにやってない?」と問いたくなることばかりです。そうだと分かるようになったのは、青人のおかげでした。
しかし、はたと気づきました。
「自分だって誰かを傷つけていないだろうか?」
気にくわない誰かを。時には大切な人でさえも。誰だって尊重される確固たる存在なのに、です。
相手とって自分が1番の味方でいたいものです。




