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「空色の授業」  作者: 翠野希
Ⅵ.空を描く日
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青人の描く空

 熱に浮かされた頭の中で、白い空に浮かぶ星々がぐるぐると回っていた。おれは夢と現実とが覚束ないまま、これが人生最後の空なのか、と考えていた。

 空を取り戻した後、おれは高熱で倒れた。寒空の中、青色と黒色に全身を濡らし、走り回ったのが原因だった。

 何日苦しんだのか、やっと目覚めると、病室の窓から真昼の空が見えた。知らないところで、空は鮮やかな青色に染まっていた。

 何かがぴりぴりと身体を駆けめぐった。やっぱり空はきれいだ。

 看護士さんの話じゃ、同学年の3年生も空を描いてるってことだった。おれも描くぞ! と意気込んだせいで、また熱がぶり返した。留まることなく移り変わる空を目の当たりにして、大人しくするのって難しかったな。


 1週間経って退院すると、病院を飛び出した。久しぶりに眩しい陽光を浴びる。特別広い空だ。

 胸をいっぱいに開き、深呼吸をした。

 と、急に勢いよく背中を押され、前につんのめった。

「何やってんだ?」

 振り返ると、山吹がにっと笑っていた。隣りの紅もあははっと声を立てた。


「病み上がりだってのに、ずいぶん手荒い出迎えだな」

 大げさに背中をさすってみせた。だけど文句は、はいはいとあっさり切り捨てられた。

「こんな時に寝てたくせに、よく言うね」

「1人いないだけで大変なのよ」

 おまえら、親しき仲にも礼儀ありって知ってるか?


 と言っても、怒ってる訳じゃない。おれの手が必要だってことだ。走りかけたおれを紅が呼び止めた。

「忘れものはない?」

 よくご存知だ。仕事始めに道具を忘れたら様にならない。地面に道具を広げ、1つ1つ確認する。

 刷毛は大小、筆は大、中、小、細、極細、隈取り。筆拭き用の薄布。

「それから小瓶。青人、山吹、紅」

 おれの言葉に、山吹はにやりと笑った。

「それを言うなら青、黄金、夕日だろ」

 空の三原色はそれぞれ自立する上に、合わせれば無限大だ。おれたちもそうでありたい。


 行くぜ! と先陣を切ったら、またまた紅が待ってと言う。

「バケツ、忘れてるでしょ」

「いっけねえ!」

 相変わらず、格好つかねえなあ。紅はふっふと笑って、バケツを差し出した。

「行こう!」

 誰からともなく、空の階段まで走り始めた。


 階段付近まで来た。見上げると、修繕作業をする高空機が引っ切りなしに飛び交っている。最上層と上層に股がる角膜にぽっかり空いた穴は爆発した時のままだ。角膜の行く末は決まっていない。角膜を取り払い、風通しを良くしようという意見と、地上の戦闘機が入ってきては困るという意見が対立しているからだ。

 いつか地上と天上が1つになる日が来るかもしれない。


 階段の入り口に着くと、4人警備員の集まっていた。2人は葵さんと紺藤さんだった。先に葵さんがおれたちに気付き、手を挙げた。

「おう、やっと来たか」

 葵さんはすっかり元気そうだ。って、おれが寝込んでいたのが長かったんだけど。休んだ分、良い仕事しなくっちゃな。

「今日からよろしくお願いします」

 意気込んで言うと、紺藤さんが薄く笑った。

「寂しいけど、青人たちを迎えるのは今日で最後だ」

「最後って、どこか行ってしまうんですか?」

 紅が首を傾げると、葵さんが答えた。

「今日は引継ぎの最終日。わたしたちは明日から地上の門就きだ」

 そう言えば、地上の門は警備団の管轄だった。2人が担当の最上層は工事中だ。反対に、地上の門を守る人が必要なんだ。

 

「今1番大事な門だから、光栄だよ」

 葵さんが誇らしそうに腕組みすると、紺藤さんは頷いた。

「やるからには、新しい時代にふさわしい、新しい門にしましょう」

「紺藤にしては良いこと言うね」

 そりゃないですよ、という紺藤さんの言葉に、皆が笑った。この2人としばらく会えなくなると思うと、残念だ。だけど、地上の門の管理人になってほしい。葵さんと紺藤さんなら、同じ間違いは2度と起きない。


 葵さんは背中を向けた後、言い忘れた、と振り向いた。

「青人。あんたもあんただけど、みどりも相当危ない子だよ。しっかり守ってやんな」

 面食らってるうちに、紺藤さんが付け加えた。

「向こう見ずの勇気が1番怖いからね」

 みどりだけじゃなくて、おれにも言っているんだろう。分かりましたと返事をすると、2人は安心したように微笑み、去っていった。

「将来、警備員じゃなくて、管理人になるんだろうな」

 と山吹がつぶやいた。そうだ。天上と地上がお互いに許せる関係になれば、分ける必要はなくなるんだ。


 この日から空を描いている期間、黒い空の事件が未だ収束していないことを知った。


 紅が小夜を警察署に連れていくと、灰谷さんは全てを話したらしい。最上層への無断侵入、警察からの逃走、白い部屋への押入りは日暗に扇動されたことだった。

 1番の問題は地上の子を天上に連れてきたことだ。前だったら、天上のことを自ら地上に知らせるは許されなかった。

 だけど、今回の論点は「戦争被害者である地上の人間を救い出すことは罪かどうか」だ。命を奪い、街を滅ぼす戦争に拍車をかけたのが、天上の白色結晶だったんだから。

 灰谷さんと小夜がどう扱われるのか、議論は終わらない。納得いかない結論が出たら、意見してやる。

 人が人を助けることが罪になってたまるか。


 黒い空を引き起こした日暗、佳宮、佳也の3人は上空警察によって逮捕され、取り調べを受けた。

 日暗の動向は山吹が見つけた告発文によって明らかにされた。日暗は文書と同じく、

「白色結晶が地上の戦争において、白爆として殺戮に使われていることを天上の人々に知らしめること、白色結晶の処分が目的だった」

 と供述した。尋問に答えているうち、

「天上は地上に目を向けなくてはならない」

 ということを繰り返し主張していたらしい。

 この事件は天上と地上が1つの世界であることを思い出させた。どうあがいたって、日暗が新しい時代を招いたのは確かだ。

 だけど。

 右手に握った大刷毛をすいと伸ばす。揺るぎない黄金の軌跡が輝く。

 だけど、ほかにやり方があっただろ? 日暗さん。


 目の前に眩しい金色が広がった。職人チーフが指示を出す。

「だいたいの骨格ができた。次の仕事に移るぞ」

 大筆を手に取り、大刷毛の荒い霧を埋めていく。その後は中、小、細とどんどん細い筆で加筆していく。絹のようなきめ細やかさを目指して。


 翌日、燃えるような夕焼け空を描ていると、下から名前を呼ばれた。手を振る先輩職人の元へ走っていくと、隣りに顔見知りの警察官が立っていた。また事件のことを尋ねにきたのかと思ったら、手紙を渡された。地上の門で会った佳宮からの手紙だった。

「日暗はわたしの命を救ってくれました。だから、白色結晶を処分しよう、地上の救済に全霊を注ごう、とするあの人を止めませんでした。望む通りにすれば良いと思っていました。ですが、わたしが間違っていました。あなたのおかげで、今もあの人の命があることに感謝しています」

 文章はそれだけだった。折れないよう手紙をポケットに仕舞い、仕事に戻った。


 佳宮さんが白爆に遭わなかったら、地上で笑って暮らしていただろうに。

 筆からぽたっと雫が落ちた。足下に垂れた絵の具が2つ、3つ、赤い斑点を作った。絵の具を含ませ過ぎた。

 起きたことは変えられない。

 日暗たちは「空における異端行為」の条文に乗っ取り、天上から追放......とはいかなかった。階段または高空機で天上へ戻ることもできるからだ。つまり、天上で永久収容になる。


 それは、霧絵の具製作所長も同じだった。天上の人々の目を逃れ、白色結晶を密輸し、地上の技術を得ていた。裏付けは日暗の告発文と証言、それから前地上の門管理人、黄土が公表した論文「灰化原理」と密輸の記録だった。

 地上の設計図や密輸の記録は所長の手で白色結晶の爆破とともに消された。だけど事件後、黄土が論文とと密輸の詳細を書いた地上の門の記録簿を持って現れた。自分も捕まるっていうのに。きっと、密輸を見逃したことに耐え切れなかったんだ。

 白爆のせいで消えた命がある。所長たちの罪は、重い。


 警察は彼らから黒い空の経緯、地上の情勢や戦争、知っていること全てを聞き出す予定だ。のちに白爆がいくつ残っているか、戦争の詳細を地上に行って調査するという。それから警備団や研究所など各団体の代表が集まって、天地のあり方について議論を始めるらしい。天上が地上を見直すんだ。

 いつか天上と地上を行き来する時代が来る。地上から来たみどりたちが自分に誇りを持って生きられる日が来るんだ。

 あいつ、やってくれたな。まさかみどりに助けられるとは思ってなかった。会ったばかりの5日前じゃ、全然、想像できなかったことだ。

 

「青人、何やってる!」

 左隣りで描いていた木先生の声にハッとした。気付くと、目の前を緑色に染めていた。その日、描いていたのは青空だってのに、やっちまった。慌てて青色を足していく。

「あんまりぼんやりしていると、病院に送り返しますよ」

 右隣りの白先生は、筆をさばく手を止めずに言った。3年生が描いているくらいだから、当然、先生たちも借り出されている。両隣りを講師が挟む配置は、病み上がりの生徒への配慮らしい。

「よく言いますよ、ぶっ倒れた人が」

 と木先生は横槍を入れた。白先生は気にも留めず、続きに集中していた。無視したというより、無心になって筆を運んでいた。丹念に描いているのは、親友の過ちを正しているように見えた。

 先生を見習い、丁寧に修正をした。


 やがて終了時間を知らせる鐘鳴った。青空の完成だ。

 研究層に降りた時にはもう、描いた空が広がっていた。良い出来だ。


 何のために空を描くのか。

 空を描きながら、ずっと考えていた。


 空が人を悲しませたり、傷つけたりしたくない。絶対、何があっても。エゴで塗り固めるためのキャンパスではないんだ。

 人を安心させたい。守りたい。空は途方もなく可能性を委ねられるところだ。光を届け、鮮やかに世界を照らしたい。希望ある、心が解き放てるところでありたい。

 空が空であること。制限のない宇宙の果てまで続く、広い存在であること。見上げたら自由を、未来を感じること。他者と繋がっていること。地上も天上もなく、誰のものでもない、唯一の存在であること。

 

 大事なことは何なのか、描きながらやっと分かってきた。

 家族、友人、街、朝が来て夜が来る毎日。人を傷つけるんじゃなくって、偏った正義じゃなくって、優しさを伝えよう。

 皆が生きたいように生きられる空を描くんだ。

 大切なことって案外シンプルだ。 

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