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「空色の授業」  作者: 翠野希
Ⅴ.追跡
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日暗と青人

 だめだ!

 おれは持っていた小瓶のわずかな青色で黒い霧をしのいでいたが、耐えられなくなった。一か八か、手探りで捉えた門の扉を開け、転がり込む。どこかの層に出、身体を圧迫する感覚が軽くなった。霧は中まで侵入していない。すぐさま扉を閉め、階段通路から流れ込む霧を遮断する。

 何とか逃れた。

 床面に手を付き、長く止めていた息を吐く。やっと呼吸ができた。安堵と共にどっと疲れが押し寄せた。目を開くと、そこは研修で来ていた中層だった。いつもなら、走っても平気な距離なのに。あの霧の中じゃ、永遠に続く地獄のようだった。


 いつまでも休んでいられない。呼吸が整うのも待たず、立ち上がって霧絵の具のタンクに駆寄る。1つ目がカラになっているのを目にし、冷や汗が出る。まさか、ないのか? 黒い空の修復では出番ないはずだ。

 祈るように次のタンクに走っていくと、灰色がたっぷり入っていた。良かった。最初のタンクはきっと白色だったんだ。黄金、夕日、それから......。 

 あった! 

 タンクに充填された青色はほとんど満タンだ。バルブを思いっきり開け、青色を全身に浴びる。黒色に飲まれ欠けた意識を起こす。

「さみぃ!」

 中層の冷えた空気は青色に濡れた身体に容赦なく吹きつけた。おかげで眠気は吹っ飛んだ。

 扉に戻り、手を掛ける。息を胸いっぱいに吸い込み、目をつむって階段に踊りでた。行ける。そのまま一気に駆け上がった。


 全ての階段を上りきり、最後の扉を開けた。最上層は全体が投影室になっている。地盤の円周を囲むプールに採取された絵の具は黒い。わずかに白が入り交じったのか、墨色のプールもあった。

 投影機の向こうに人影が見えた。ケースに入った白い結晶が輝いている。

 瞬間、全力疾走した。声の限り叫ぶ。

「待って!」

 投影機を回り込み、相手の前まで出た。高空服を着たその人は、信じられないという顔でおれを見た。この人が誰なのか、二択だった。地上の門、病院、白色結晶の爆破現場、実習棟、今まで歩き、見聞きした全ての記憶を辿り、ある答えを出す。

「日暗さん」

 相手は肯定も否定もせず、立ち尽くしていた。


 肩で呼吸をし、黙って何か言うのを待った。プールに溜まった絵の具の静かな波音が聞こえる。

 向こうが先に沈黙を破った。

「どうやってここまで来た?」

 やっぱり人を寄せ付けないために、黒い霧を使ったんだ。相手は質問の内容を聞きたいというより、不意に現れたおれを見定めているようだった。おれも目を離さず、慎重に答えた。

「青色を使ったんです」

「青色を? 青色は海の水と同じなのか」

「ウミ...... ?」

 知らない言葉だった。研究者の専門用語か? あまり気に留めず、今度はこっちから尋ねることにした。


「あなたが黒い空にしたんですね?」

 相手はまた返事をせず、おれを見据えていた。分かりきった質問だ。だけど、なぜ何も答えようともしない? 無感情な眼差しを向けるばかりの相手に苛立つ。

「どうしてこんなことをしたんですか?」

 その人はしばしの沈黙の後、口を開いた。

「君は白爆を知っているか?」

 だから何だと言うんだ? 怒りに手が震えた。

「知ってますよ。白爆の正体が白色結晶だってことも。そのせいで地上の人が苦しんでるってことも」

「だったら止めるな」

「あんたは間違ってる!」

 おれはどうやってこの人を止めようか、ここに来るまでの間、ずっと考えていた。だけど、良い答えは全く見つからなかった。黒い空にした人間の気持ちなんて、全然分からない。


 だから思いの限りを全部ぶつけることにした。

「あんたは何も分かってない。自分のせいで苦しむ人がいるって、考えなかったのかよ? 黒い空になってから、人の心は擦り減ってる。作物を守る農家の人も、家族の安全を祈る親も、必死に修復する職人も、みんなだ」

 闇の中では、作物は育たない。相手の顔も、川も空も見ることができない。心を開けない。光の中でしか人は生きられない。


 しかし、白爆を受けた地上の人は光を怖れて夜の闇をさまよっている。

「白色が命を奪うなんて、絶対許せない。だけど、あんたのしたことは正義なんかじゃない。誰かを犠牲にするなんて、おれは許さない」

 黒い空と白色の破壊が誰かを守るためだというなら、間違っている。誰かを救うために、誰かが傷つくなんておかしい。どんな事情があったとしても、理由にならない。こんなこと、地上の人も誰も望んじゃいない。


「地上も天上も変えたいなら、知ってること、全部話したらどうなんだ? 勝手に死ぬなんて、そんなのただのテロリストだよ。あんたは、空色職人なんだろ?」

 ただの破壊者じゃない。戦争家でも、独裁者でも、狂った研究者でもない。

 空色職人は自分のために空を描くんじゃない。人の幸せを願って空を描く。この人には他人の気持ちが分かるはずだ。

「あんたの仕事は、独りで始めて終わらせることじゃない。今までのこと、責任とって全部話してくださいよ」

 

 相手は下を向いた。おれは睨みつけて構えた。何を言われたって、負けるつもりはない。だけど、あの人は声を立てて笑い始めた。

「何がおかしい?」

 予想外の反応に、内心怯んだ。本当に狂ってしまったのか?

「黒い空にしたはおれだ。君を巻き込まないとでも思ったのか?」

 相手は背後の投影機のスイッチを押した。起動音が広い空間に鳴り響いた。白色結晶を掲げ、近付いてくる。おれは身構えたまま、後ずさりした。すぐ側で水音がする。地盤の端まで来た。


 あの人の声が高らかに響いた。

「空を描くのは、自分のためでも、一部の人のためではなく、この世にいる全員のためだ。君が言うことは正しい」

 あっと思った時には、おれは突き飛ばされていた。背中からプールに落ちた。目の前が真っ暗になった。黒い絵の具の中でもがき、やっと顔を出す。

「君のような若者がいれば、空は必ず美しくなる。最後に会えて良かった」

 日暗さんは笑っていた。それは決して邪悪な笑顔ではなかった。

「死ぬな!」

 結晶のケースに手が掛かった瞬間、最上層を鋭い破裂音がつんざく。

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