日暗と青人
だめだ!
おれは持っていた小瓶のわずかな青色で黒い霧をしのいでいたが、耐えられなくなった。一か八か、手探りで捉えた門の扉を開け、転がり込む。どこかの層に出、身体を圧迫する感覚が軽くなった。霧は中まで侵入していない。すぐさま扉を閉め、階段通路から流れ込む霧を遮断する。
何とか逃れた。
床面に手を付き、長く止めていた息を吐く。やっと呼吸ができた。安堵と共にどっと疲れが押し寄せた。目を開くと、そこは研修で来ていた中層だった。いつもなら、走っても平気な距離なのに。あの霧の中じゃ、永遠に続く地獄のようだった。
いつまでも休んでいられない。呼吸が整うのも待たず、立ち上がって霧絵の具のタンクに駆寄る。1つ目がカラになっているのを目にし、冷や汗が出る。まさか、ないのか? 黒い空の修復では出番ないはずだ。
祈るように次のタンクに走っていくと、灰色がたっぷり入っていた。良かった。最初のタンクはきっと白色だったんだ。黄金、夕日、それから......。
あった!
タンクに充填された青色はほとんど満タンだ。バルブを思いっきり開け、青色を全身に浴びる。黒色に飲まれ欠けた意識を起こす。
「さみぃ!」
中層の冷えた空気は青色に濡れた身体に容赦なく吹きつけた。おかげで眠気は吹っ飛んだ。
扉に戻り、手を掛ける。息を胸いっぱいに吸い込み、目をつむって階段に踊りでた。行ける。そのまま一気に駆け上がった。
全ての階段を上りきり、最後の扉を開けた。最上層は全体が投影室になっている。地盤の円周を囲むプールに採取された絵の具は黒い。わずかに白が入り交じったのか、墨色のプールもあった。
投影機の向こうに人影が見えた。ケースに入った白い結晶が輝いている。
瞬間、全力疾走した。声の限り叫ぶ。
「待って!」
投影機を回り込み、相手の前まで出た。高空服を着たその人は、信じられないという顔でおれを見た。この人が誰なのか、二択だった。地上の門、病院、白色結晶の爆破現場、実習棟、今まで歩き、見聞きした全ての記憶を辿り、ある答えを出す。
「日暗さん」
相手は肯定も否定もせず、立ち尽くしていた。
肩で呼吸をし、黙って何か言うのを待った。プールに溜まった絵の具の静かな波音が聞こえる。
向こうが先に沈黙を破った。
「どうやってここまで来た?」
やっぱり人を寄せ付けないために、黒い霧を使ったんだ。相手は質問の内容を聞きたいというより、不意に現れたおれを見定めているようだった。おれも目を離さず、慎重に答えた。
「青色を使ったんです」
「青色を? 青色は海の水と同じなのか」
「ウミ...... ?」
知らない言葉だった。研究者の専門用語か? あまり気に留めず、今度はこっちから尋ねることにした。
「あなたが黒い空にしたんですね?」
相手はまた返事をせず、おれを見据えていた。分かりきった質問だ。だけど、なぜ何も答えようともしない? 無感情な眼差しを向けるばかりの相手に苛立つ。
「どうしてこんなことをしたんですか?」
その人はしばしの沈黙の後、口を開いた。
「君は白爆を知っているか?」
だから何だと言うんだ? 怒りに手が震えた。
「知ってますよ。白爆の正体が白色結晶だってことも。そのせいで地上の人が苦しんでるってことも」
「だったら止めるな」
「あんたは間違ってる!」
おれはどうやってこの人を止めようか、ここに来るまでの間、ずっと考えていた。だけど、良い答えは全く見つからなかった。黒い空にした人間の気持ちなんて、全然分からない。
だから思いの限りを全部ぶつけることにした。
「あんたは何も分かってない。自分のせいで苦しむ人がいるって、考えなかったのかよ? 黒い空になってから、人の心は擦り減ってる。作物を守る農家の人も、家族の安全を祈る親も、必死に修復する職人も、みんなだ」
闇の中では、作物は育たない。相手の顔も、川も空も見ることができない。心を開けない。光の中でしか人は生きられない。
しかし、白爆を受けた地上の人は光を怖れて夜の闇をさまよっている。
「白色が命を奪うなんて、絶対許せない。だけど、あんたのしたことは正義なんかじゃない。誰かを犠牲にするなんて、おれは許さない」
黒い空と白色の破壊が誰かを守るためだというなら、間違っている。誰かを救うために、誰かが傷つくなんておかしい。どんな事情があったとしても、理由にならない。こんなこと、地上の人も誰も望んじゃいない。
「地上も天上も変えたいなら、知ってること、全部話したらどうなんだ? 勝手に死ぬなんて、そんなのただのテロリストだよ。あんたは、空色職人なんだろ?」
ただの破壊者じゃない。戦争家でも、独裁者でも、狂った研究者でもない。
空色職人は自分のために空を描くんじゃない。人の幸せを願って空を描く。この人には他人の気持ちが分かるはずだ。
「あんたの仕事は、独りで始めて終わらせることじゃない。今までのこと、責任とって全部話してくださいよ」
相手は下を向いた。おれは睨みつけて構えた。何を言われたって、負けるつもりはない。だけど、あの人は声を立てて笑い始めた。
「何がおかしい?」
予想外の反応に、内心怯んだ。本当に狂ってしまったのか?
「黒い空にしたはおれだ。君を巻き込まないとでも思ったのか?」
相手は背後の投影機のスイッチを押した。起動音が広い空間に鳴り響いた。白色結晶を掲げ、近付いてくる。おれは身構えたまま、後ずさりした。すぐ側で水音がする。地盤の端まで来た。
あの人の声が高らかに響いた。
「空を描くのは、自分のためでも、一部の人のためではなく、この世にいる全員のためだ。君が言うことは正しい」
あっと思った時には、おれは突き飛ばされていた。背中からプールに落ちた。目の前が真っ暗になった。黒い絵の具の中でもがき、やっと顔を出す。
「君のような若者がいれば、空は必ず美しくなる。最後に会えて良かった」
日暗さんは笑っていた。それは決して邪悪な笑顔ではなかった。
「死ぬな!」
結晶のケースに手が掛かった瞬間、最上層を鋭い破裂音がつんざく。




