水辺の洞窟
日暗が目を覚ますと、ぽつぽつと水の滴り落ちる音が響いていた。薄暗さに目が慣れてくると、そこは洞窟だった。記憶を辿れば、確かに水辺の穴の中へ入った。枯れ草が敷き、布を掛けられて寝かされていた。
「大丈夫ですか?」
目の前に黒装束の女性がいた。白爆の被害者だろう。顔の左半分に火傷を負っていた。
倒れたところを彼女が助けてくれたのだろうか? 上体を起こすと、歩き回ってきた疲労は不思議と消えていた。
「あなたは黒い霧に当てられたのです」
「黒い霧?」
「この洞窟の奥にある、黒い石から発生するようです。慣れていない人は眠ってしまいます。少量は疲労回復になりますが、いきなり多量に吸い込むと、返ってだるくなります」
黒い石、もしかすると、地上にだけあるという黒色の霧絵の具、それも、黒色結晶のことではないか。白色結晶は人工的に造られるそうだが、黒色結晶は自然の中で形成されるのだろうか。
彼女は液体の入った器を差し出した。受け取って飲むと、日暗は顔を歪めた。
「これは、塩水ですか?」
「ええ。黒い霧には海水が1番効きます。塩辛いでしょうが、我慢してください」
「カイスイ?」
「海の水です。海を知らないのですか?」
海。高空機から見た地上を包む水面のことだ。日暗が雨音と勘違いしたのは、波音だった。
わたしたち生命は、海から生まれたと言われているんですよ。
そう言ったのは佳也だった。
日暗は地上に来て、もう何十回目となる質問をした。
「あなたは加角佳宮という方を知りませんか?」
「わたしです。なぜ捜していたのですか?」
1ヶ月の時を経て、佳也の妹をやっと捜し出した。
「佳也さんがあなたを捜しています」
「兄が?あなたは天国の使者か何かですか?」
「天国の使者?」
天上では聞いたことのない言葉だった。
「佳也さんは地上では知られていない、空の街にいます。おれはお兄さんの代わりに、あなたを捜しにきたんです」
佳宮は口に手を当てて震えていた。
「兄が生きている......」
目元に溜まった涙は今にも溢れそうだ。日暗は頬の火傷に染みる前に手を伸べて拭った。
佳宮の動向は、救済所で出会った一家の話と一致していた。戦乱で佳也と父を失い、母が病死して以来、独りになった。老医師の元で同じ境遇の老人や子どもたちを世話していたという。
しかし、白爆投下によって、家族同然の彼らをも失った。
「私はあの日、先生と共に爆心地から遠い村へ出向いていました。川の水を汲んでいる途中、白爆を見ました。眩しい白い光が飛んできて、顔が熱くってたまらなかった。夢中で飛び込んだ川に守られ、また独り生き延びたのです」
佳宮は暗い洞窟の奥を見つめた。どこかで落ちた水滴が静かに空気を震わせた。
「どうして私だけが助かるのか、いつも考えていました」
日暗は衝撃を受けた。死ぬことが当たり前で、生きることに理由が必要だというのか。黙って聞いていられなかった。
「せっかく助かった命を、生きている意味を疑うことはないです」
罪のない人が、まして戦乱で傷を負った人が生きることに疑問を持たなくていい。
何のために戦争をし、白爆を使うのか。健全な心をむしばんでいるだけではないか。1ヶ月間歩いてきた地上の姿は、多くのものを失い、何かを得たようには見えなかった。
「あなたは1人じゃない。待っている人がいます。天上に行きましょう」
日暗は再び流れた佳宮の涙を慌てて拾うことになった。
夜が来るのを待ち、2人は日暗が降りた土地へと向かった。
翌日、見回りにやって来た佳也の高空機が接近してきた。機体は時を惜しむようにぐんと高度を下げ、着陸した。透き通る4枚の羽が停止すると、佳宮は隠れていた木々の影から進み出た。音を立てて開けられたドアから、パイロットが飛び出す。2人は互いの存在を確かめると駆け寄り、ひしと抱きしめた。
「佳宮、良かった」
「兄さん…」
佳宮は初めて微笑みを見せた。兄は妹の火傷に心を痛めたが、命あることを喜んだ。
日暗は悲惨な運命に巻き込まれた兄妹のために何ができるか、自身に問いかけた。




