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「空色の授業」  作者: 翠野希
Ⅴ.追跡
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水辺の洞窟

 日暗が目を覚ますと、ぽつぽつと水の滴り落ちる音が響いていた。薄暗さに目が慣れてくると、そこは洞窟だった。記憶を辿れば、確かに水辺の穴の中へ入った。枯れ草が敷き、布を掛けられて寝かされていた。

「大丈夫ですか?」

 目の前に黒装束の女性がいた。白爆の被害者だろう。顔の左半分に火傷を負っていた。

 倒れたところを彼女が助けてくれたのだろうか? 上体を起こすと、歩き回ってきた疲労は不思議と消えていた。


「あなたは黒い霧に当てられたのです」

「黒い霧?」

「この洞窟の奥にある、黒い石から発生するようです。慣れていない人は眠ってしまいます。少量は疲労回復になりますが、いきなり多量に吸い込むと、返ってだるくなります」

 黒い石、もしかすると、地上にだけあるという黒色の霧絵の具、それも、黒色結晶のことではないか。白色結晶は人工的に造られるそうだが、黒色結晶は自然の中で形成されるのだろうか。


 彼女は液体の入った器を差し出した。受け取って飲むと、日暗は顔を歪めた。

「これは、塩水ですか?」

「ええ。黒い霧には海水が1番効きます。塩辛いでしょうが、我慢してください」

「カイスイ?」

「海の水です。海を知らないのですか?」

 海。高空機から見た地上を包む水面のことだ。日暗が雨音と勘違いしたのは、波音だった。

 わたしたち生命は、海から生まれたと言われているんですよ。

 そう言ったのは佳也だった。


 日暗は地上に来て、もう何十回目となる質問をした。

「あなたは加角佳宮という方を知りませんか?」

「わたしです。なぜ捜していたのですか?」

 1ヶ月の時を経て、佳也の妹をやっと捜し出した。

「佳也さんがあなたを捜しています」

「兄が?あなたは天国の使者か何かですか?」

「天国の使者?」

 天上では聞いたことのない言葉だった。

「佳也さんは地上では知られていない、空の街にいます。おれはお兄さんの代わりに、あなたを捜しにきたんです」

 佳宮は口に手を当てて震えていた。

「兄が生きている......」

 目元に溜まった涙は今にも溢れそうだ。日暗は頬の火傷に染みる前に手を伸べて拭った。


 佳宮の動向は、救済所で出会った一家の話と一致していた。戦乱で佳也と父を失い、母が病死して以来、独りになった。老医師の元で同じ境遇の老人や子どもたちを世話していたという。

 しかし、白爆投下によって、家族同然の彼らをも失った。


「私はあの日、先生と共に爆心地から遠い村へ出向いていました。川の水を汲んでいる途中、白爆を見ました。眩しい白い光が飛んできて、顔が熱くってたまらなかった。夢中で飛び込んだ川に守られ、また独り生き延びたのです」

 佳宮は暗い洞窟の奥を見つめた。どこかで落ちた水滴が静かに空気を震わせた。

「どうして私だけが助かるのか、いつも考えていました」


 日暗は衝撃を受けた。死ぬことが当たり前で、生きることに理由が必要だというのか。黙って聞いていられなかった。

「せっかく助かった命を、生きている意味を疑うことはないです」

 罪のない人が、まして戦乱で傷を負った人が生きることに疑問を持たなくていい。

 何のために戦争をし、白爆を使うのか。健全な心をむしばんでいるだけではないか。1ヶ月間歩いてきた地上の姿は、多くのものを失い、何かを得たようには見えなかった。

「あなたは1人じゃない。待っている人がいます。天上に行きましょう」

 日暗は再び流れた佳宮の涙を慌てて拾うことになった。 

 夜が来るのを待ち、2人は日暗が降りた土地へと向かった。


 翌日、見回りにやって来た佳也の高空機が接近してきた。機体は時を惜しむようにぐんと高度を下げ、着陸した。透き通る4枚の羽が停止すると、佳宮は隠れていた木々の影から進み出た。音を立てて開けられたドアから、パイロットが飛び出す。2人は互いの存在を確かめると駆け寄り、ひしと抱きしめた。

「佳宮、良かった」

「兄さん…」

 佳宮は初めて微笑みを見せた。兄は妹の火傷に心を痛めたが、命あることを喜んだ。

 日暗は悲惨な運命に巻き込まれた兄妹のために何ができるか、自身に問いかけた。

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