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「空色の授業」  作者: 翠野希
Ⅳ.空を駆ける
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メッセージ

 空を描く灰谷さんの背中はいつも大きかった。


 始まりの授業でとにかく好きな空を描けって言われて、どうやって空を描こうか、ヒントを探しに歩き回った。

 見つけたのが、灰谷さんだった。あの人は川で空を描いていた。

 川に流れる水と同じくらい滑らかに、大きな刷毛を動かしていた。灰谷さんの描く曇りの空は、晴れた空の好きなおれが見ても、すごくきれいだった。

 なんて言うか、鮮やかなモノトーンだった。

 背後で見ていたのに、声をかける前に灰谷さんが振り返った。

「新入生か?」

 びっくりした。集中してるはずの人が、周りの気配を感じ取ったんだから。


 おれはろくに返事もせず、

「空の描き方を教えてください!」

 と言った。灰谷さんは明るく笑って刷毛を投げてよこした。

「一緒に描こう」

 受け取ると灰谷さんに並んで、描き始めた。真似をしているのに、刷毛は思うように動かない。それどころか、背の低かったおれは刷毛に振り回されてしまった。

 手を止めて、先輩の動きを観察する。よく見ると、腰を据えて上体を大きく使っていた。そうか! めちゃくちゃに動き回っちゃいけないんだ。

 腰を落として描き出すと、まるで違った。ふらふらしていた視界が定まり、腕が自由になった。刷毛も言うことを聞いてくれる。目の前に澄んだ空色が重なった。


「慣れてきたようだね」

 気付くと、灰谷さんがおれの後ろに立っていた。

「さ、今日はここまでにしよう」

「もう終わりですか?」

 片付け始めた灰谷さんは驚いた顔をしていた。

「もうって、君が来てからずいぶん経つよ」

 先輩が指し示す先に夕日が見えた。橙の燃えるような陽光が川を同じ色に染めていた。

 夢中になって時間を忘れていた。

「初めて描いたのに、すごい集中力だな」

 そう言って先輩は右手を差し出した。

「おれは灰谷だ。よろしく」

「青人です。よろしくお願いします」

 その時握った手から、全てをもらった気がした。

 空を描く気概も、美しさを求める心も。それから相手を受け入れる優しさも。


 次の日、すぐに山吹と紅を連れて、灰谷さんに会いにいった。灰谷さんはいきなり3人も後輩が増えて、さすがに驚いていたけど、まとめて面倒を見てくれた。それからずっとお世話になったな。

 学校を卒業した時、灰谷さんはおれに白衣をくれた。

「お前にやるよ」

 って、かっこ良かったなあ。  


 大事な人なんだ。おれに空を教えてくれた人。

 空をよく見たいって地上に旅立ったのに、どうして帰ってきたんだろう?

 どうして、灰谷さんが捕まったんだ?


 おれは警察署内の椅子に座って待っていた。面会の手続きを終えて、廊下で待機するように言われた。警察の話だと、灰谷さんは黙秘を続けているという。

 「青人くん」

 声を掛けてきたのはあの若い警察官だった。

「どうぞ中へ」

 緊張して立ち上がる。


 部屋の中に入ると、ガラス越しに灰谷さんがいた。髪も服も汚れ、やつれていた。ぐっと何かが込み上げてくるのを、口を結んで押さえた。

「灰谷さんが犯人じゃないんですよね?」

 灰谷さんは黙っておれを見る。その目の光は何も変わっていなかった。だけど。

「何で何も言わないんですか?」

 それでも返事はなかった。

 分からなかった。メモまで残してくれたのに、どうして今は何も話してくれないのか。何でも良かった。弁明してほしい。いや、頷いてくれさえすれば良い。 

 真っ直ぐ見る灰谷さんから目を離さなかった。

「青人」

 ハッとして、ガラスに顔を近付いた。その後口元が動いたが、聞き取れなかった。何て言った?

 突然、灰谷さんが立ち上がった。椅子がガンと派手な音を立てて倒れた。

「行け!」

 灰谷さんの叫び声が狭い部屋に響いた。後ろに控えていた警官が灰谷さんを取り押さえ、ドアの向こうへ消えていった。呆然と立ち尽くすおれの肩を、こちらの警官が叩いた。

「彼は逮捕されたばかりで気が立っている。気にしなくて良い」

 警官は慰めの言葉をかけてくれたが、決してショックを受けていた訳ではなかった。


 警察署を出、立ち止まって考える。

 灰谷さんはさっき、何て言ったんだ?

 真似をして口を動かす。

 カイダン?

 灰谷さんの叫び声が蘇った。

「行け!」

 そうだ。

 空の階段に行け、だ。


 おれは新しいメッセージを胸に走り出した。


 





1人で走ると息切れするので、どうかついて来てください。

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