メッセージ
空を描く灰谷さんの背中はいつも大きかった。
始まりの授業でとにかく好きな空を描けって言われて、どうやって空を描こうか、ヒントを探しに歩き回った。
見つけたのが、灰谷さんだった。あの人は川で空を描いていた。
川に流れる水と同じくらい滑らかに、大きな刷毛を動かしていた。灰谷さんの描く曇りの空は、晴れた空の好きなおれが見ても、すごくきれいだった。
なんて言うか、鮮やかなモノトーンだった。
背後で見ていたのに、声をかける前に灰谷さんが振り返った。
「新入生か?」
びっくりした。集中してるはずの人が、周りの気配を感じ取ったんだから。
おれはろくに返事もせず、
「空の描き方を教えてください!」
と言った。灰谷さんは明るく笑って刷毛を投げてよこした。
「一緒に描こう」
受け取ると灰谷さんに並んで、描き始めた。真似をしているのに、刷毛は思うように動かない。それどころか、背の低かったおれは刷毛に振り回されてしまった。
手を止めて、先輩の動きを観察する。よく見ると、腰を据えて上体を大きく使っていた。そうか! めちゃくちゃに動き回っちゃいけないんだ。
腰を落として描き出すと、まるで違った。ふらふらしていた視界が定まり、腕が自由になった。刷毛も言うことを聞いてくれる。目の前に澄んだ空色が重なった。
「慣れてきたようだね」
気付くと、灰谷さんがおれの後ろに立っていた。
「さ、今日はここまでにしよう」
「もう終わりですか?」
片付け始めた灰谷さんは驚いた顔をしていた。
「もうって、君が来てからずいぶん経つよ」
先輩が指し示す先に夕日が見えた。橙の燃えるような陽光が川を同じ色に染めていた。
夢中になって時間を忘れていた。
「初めて描いたのに、すごい集中力だな」
そう言って先輩は右手を差し出した。
「おれは灰谷だ。よろしく」
「青人です。よろしくお願いします」
その時握った手から、全てをもらった気がした。
空を描く気概も、美しさを求める心も。それから相手を受け入れる優しさも。
次の日、すぐに山吹と紅を連れて、灰谷さんに会いにいった。灰谷さんはいきなり3人も後輩が増えて、さすがに驚いていたけど、まとめて面倒を見てくれた。それからずっとお世話になったな。
学校を卒業した時、灰谷さんはおれに白衣をくれた。
「お前にやるよ」
って、かっこ良かったなあ。
大事な人なんだ。おれに空を教えてくれた人。
空をよく見たいって地上に旅立ったのに、どうして帰ってきたんだろう?
どうして、灰谷さんが捕まったんだ?
おれは警察署内の椅子に座って待っていた。面会の手続きを終えて、廊下で待機するように言われた。警察の話だと、灰谷さんは黙秘を続けているという。
「青人くん」
声を掛けてきたのはあの若い警察官だった。
「どうぞ中へ」
緊張して立ち上がる。
部屋の中に入ると、ガラス越しに灰谷さんがいた。髪も服も汚れ、やつれていた。ぐっと何かが込み上げてくるのを、口を結んで押さえた。
「灰谷さんが犯人じゃないんですよね?」
灰谷さんは黙っておれを見る。その目の光は何も変わっていなかった。だけど。
「何で何も言わないんですか?」
それでも返事はなかった。
分からなかった。メモまで残してくれたのに、どうして今は何も話してくれないのか。何でも良かった。弁明してほしい。いや、頷いてくれさえすれば良い。
真っ直ぐ見る灰谷さんから目を離さなかった。
「青人」
ハッとして、ガラスに顔を近付いた。その後口元が動いたが、聞き取れなかった。何て言った?
突然、灰谷さんが立ち上がった。椅子がガンと派手な音を立てて倒れた。
「行け!」
灰谷さんの叫び声が狭い部屋に響いた。後ろに控えていた警官が灰谷さんを取り押さえ、ドアの向こうへ消えていった。呆然と立ち尽くすおれの肩を、こちらの警官が叩いた。
「彼は逮捕されたばかりで気が立っている。気にしなくて良い」
警官は慰めの言葉をかけてくれたが、決してショックを受けていた訳ではなかった。
警察署を出、立ち止まって考える。
灰谷さんはさっき、何て言ったんだ?
真似をして口を動かす。
カイダン?
灰谷さんの叫び声が蘇った。
「行け!」
そうだ。
空の階段に行け、だ。
おれは新しいメッセージを胸に走り出した。
1人で走ると息切れするので、どうかついて来てください。




