走り抜けよ
小夜は時計を見つめ、約束の時間が来るのを待っていた。
狭い部屋の中で部屋の中は山積みの本と書類で埋まっている。壁いっぱいの大きな本棚や机の上はもちろん、床までも積み上げられている。どこに何があるか、本人にしか分からないだろう。
カチカチと秒針が鳴る時計はいつまでも進まない。何も出来ないままでいる時間が永遠のように感じた。
早くても遅くてもいけない。
あの人はそう言った。だけど、このままで良いの?
小夜の脳裏に、優しかった姉の顔が浮かんだ。
「小夜、雪だわ」
小夜の故郷に雪が降ることは滅多になかった。姉は窓から舞い降りてくる白い光の粒をみつけ、外へ出ていった。
「お姉さん?」
小夜は跡を追いかけようと踏み出した足を引っ込めた。つま先が凍るように冷たい。雪に触れた瞬間、靴の一部が溶けたようになくなり、素足に白い粉が積もっていた。
これは雪なんかじゃない。これはきっと、恐ろしいものだ。
姉はどこにもいなかった。
やがて雪は家も街も家族も何もかも、小夜の大切なものを全て奪い去った。
当てもなくさまよう中、白爆と言う名の爆弾の破片が遠い小夜の街まで飛んで来たのだと、耳にした。
小夜はあの白い雪を許せない。太陽の眩しい光を目にする度、目に焼き付いた白色を思い出し、激しい動悸が襲う。
もう光の中では暮らせない。
その後、辿り着いた洞窟に身を隠した。全てを包み込む、真っ暗な闇。夜にだけ食料を探しに出て過ごした。周囲に同じ境遇の何人かが住んでいたが、皆暗い目で相手を見つけると、隠れるように消えてしまう。
あれからどれくらい経ったんだろう? 何に希望も絶望もすることなく、時を忘れて暮らしてきた。
そんなある日、灰谷と出会った。
その日、小夜が水を汲みに洞窟を出ると、見知らぬ青年が川の前に立っていた。この辺りに潜む人と違って、着ている服に汚れはなく、きれいだった。小夜の気配に気付いて振り向くと、穏やかに微笑んだ。
「星がきれいだね」
空に浮かぶ沢山の星が語りかけるように瞬いた。小夜は白爆に遭ってから初めて、空の美しさを思い出した。それに、優しく声を掛けられたのも、初めてだった。
それから灰谷は小夜を気にかけ、毎晩少しずつ話を聞いてくれた。恐ろしい記憶を忘れようと、心の奥底に隠してきた。しかし本当は、辛い過去を誰かに共有してほしかった。話す度に不思議と恐怖は和らいでいった。
灰谷は全ての話を聞くと、天上のことを語りだした。この世に空の上に街があるとは、まるで物語のようだ。戦争のない場所で、自分と同じ空を描く人たちがいると言っていた。空を誰かが描いているなんて、信じられなかった。でも、行ってみたかった。
できることなら、黒い空に包まれて堂々と生きたかった。
灰谷はそれを聞くと、悲しい顔で、黒い空は禁止されていることを告げた。
「君の望み通りにはならないかもしれない。だけど、おれと一緒に天上に行こう」
次の日の夜、灰谷と小夜は空の階段を上り始めた。恐ろしく高い透明な階段に足がすくんだ。同じく透けている壁に守られているものの、視覚的には空中に放り出されているのと変わらなかった。
気が付くと、小夜は灰谷に背負われていた。その背中はとても温かかった。
これ以上、白爆で人を失いたくない。
小夜は立ち上がり、部屋を出た。廊下に築かれた本の山の間をすり抜け、玄関の扉を開けた。
夜の森はひんやりとした空気に包まれていた。風は冷たく、木の葉をざらざらと揺らした。見上げた黒い空に混ざる白色が目につき、思わずたじろぐ。
目をぎゅっとつぶり、深呼吸をする。
行こう。
小夜は目を開き、森の中に飛び出した。
第Ⅳ章「空を駆ける」の名のごとく、登場人物たちは走り回ります。彼らに追いつくよう、執筆もスピード感を持って。




