上昇
貨物列車に乗り込もうとしたおれたちの背後に現れたのは、みどりのお父さんだった。お父さんは黙って出ていった娘の顔を見ると、おれに視線を移した。
「君が青人くんか?」
「はい」
もしかして、みどりは研究層へ行くことも言ってないんじゃないか? という心配をよそに、お父さんは声を潜めて言った。
「君たちを送るから、こっちに来なさい」
「研究層へですか?」
お父さんは答える代わりに微笑み、駅の脇の道へ導いた。
行く道は人気はないが、灯りにしっかりと照らされた通りだった。
「全く送って行くつもりだったのに、みどりは黙っていなくなるからな」
みどりのお父さんは娘に苦言を言った。
「だってお父さん、ひとことも言ってくれなかったじゃない」
みどりは憮然として言い訳をする。
「朝になってから気持ちが変わってないか、確かめるつもりだった。だが、もうその必要はないな」
何度か道を折れると、広場に出た。向こうには大きな倉庫が並んでいる。倉庫の正面にはシャッターが付き、それぞれ番号が振ってある。みどりのお父さんは7番の倉庫に近付き、シャッター脇にある扉の鍵を開けた。
中で待っていたのは4枚の翼を持った小型の高空機だった。水色のボディーに白い翼を持った鮮やかな機体だ。丁寧に磨かれ、輝いている。
「高空機で行くんですか?」
「いかにも。こう見えてパイロットなんだ」
そう言えば、みどりのお父さんは地上のパイロットだったと聞いていた。お父さんはコートを脱ぐと、操縦士の制服を着ていた。
こんな時だけど、わくわくする。高空機には父さんが仕事で撮影する時、1度乗ったっきりだ。
「本当にありがとうございます。危うく上に行けないところでした」
「君の意志も聞かせてもらったからね」
お父さんは駅員とのやり取りを聞いていたみたいだ。
「灰谷という若者は良い後輩を持ったな」
まもなく、本来のお客さんである、雲読み師の風真さんがやって来た。風真さんは街にいる間に黒い空になり、仲間が走り回っているだろう現場に戻れないでいたのだという。
みどりのお父さんは同伴するおれたちのことを空を取り戻すために行くのだ、と簡潔に説明した。
「そういう訳で、風真さん。うちのが一緒に乗りますが、よろしいですか?」
風真さんは快く頷いた。
「ええ、構いません。勇敢な娘さんたちですからね」
そう言ってもらえると嬉しい。みどりも照れたようにはにかんでいた。
4人が機体に乗り込むと、シャッターが上がる。高空機はぶんとエンジンを唸らせ、倉庫を滑り出た。みどりのお父さんが4枚の羽を巧みに操ると、機体は風に乗って舞い上がった。上昇気流を旋回して高度を上げていく。
思わず、すっげえー! と声を上げてしまった。おれは窓に張り付いて街を見下ろす。整備された電車より空を飛んでいる実感があって、気持ちがいい。
街は遠見る見るうちに遠ざかっていく。駅や家々の明かりは点のように小さく、ほとんどが暗闇だ。
「あっちはすごく明るいわ」
みどりはある方角を指差した。大きな灯りで広大な土地を煌々と照らし出している。答えたのは風真さんだった。
「あれは東区の穀物畑だよ。農家の人々が作物が黒く染まる前に、急いで収穫しているんだ」
東区は大規模な農園を営む地域だ。暗い大地で、畑の続く丘の上だけが明るい。
「葉もの野菜はもうだめらしい」
操縦席のみどりのお父さんが目を細めて言った。
「そんなに速く?」
みどりは食い入るように闇に浮かぶ丘を見つめている。黒の浸食は修復よりも遥かに速い。のんびりしてられない。やがてその光も星のように小さくなっていった。
最下層を離れると、黒い空の中、視界は非常に悪い。みどりのお父さんは無言でモニターをにらみ、高空機のライトを頼りに飛行していた。前方に霞みが掛かる。
「ここまで来て、やっと雲の姿が見えた」
風真さんがライトに照らされた雲の波が見つめ、つぶやいた。
「毎日、観測していた雲たちがいなくなって落ち着かなかったのですが、ほっとしました」
風真さんは愛おしそうに微笑んだ。何だかおれも嬉しくなった。
「雲が好きなんですね」
「雲読み師は誰だってそうさ。君たちも空が好きだろう?」
柔らかな笑顔におれとみどりは頷く。
「君たちも空が闇に消えて不安だろう?」
「いえ、空も雲と同じく、黒の中にちゃんとあります。空を待っている人たちのためにおれたちが取り戻します」
黒も空ですよ、と言った地上の門の女性の言葉が頭をよぎった。あの時は不快だったけど、本当は正しいのかもしれない。
風真さんは微笑みをいっそう深くしたあと、闇の中の雲を見据えた。
「こんな暗い中、天候が悪くなったら誰も気付かない。きちんと解析して予報を出さなくてはならない」
研究層に近付き、厚い大地と根に覆われた地盤が迫ってきた。高空機は地盤に開けられた入り口を通り、研究層に出た。先に雲読み観測所に着くと、風真さんが降りた。
「健闘を祈るよ」
風真さんとおれたちはお互いに姿が見えなくなるまで手を振った。
いよいよ、病院の屋上に辿り着いた。みどりに続いて機体から降りようとして、お父さんに呼び止められた。
「青人くん、くれぐれもみどりを頼む」
真剣な父親の顔だった。気の利いたことを言いたいけど、言葉が見つからない。
「はい」
代わりにできるだけはっきりとした声で答える。
みどりのお父さんはじっとおれを見た後、にっと笑った。
「透さんの息子さんらしく、真っ直ぐな性格だな」
「父をご存知なんですか?」
透はおれの父さんの名前だ。
「空の人間なら透さんの作品を知らない者はいない。澄み切った空そのものを写す人だ。写真展で何度かお会いしたことがある。君の名前を聞いていたから、息子さんだとすぐ分かったよ」
父さんがそれだけ有名だとは知らなかった。何とか賞を獲ったと言われても、正直どれほどすごいのか分からない。しかもまさか、みどりのお父さんと話していたとは驚いた。
「残念ながら、2人を見守ってやれない。わたしはわたしの仕事がある。君たちは君たちの仕事を存分にしてくれ」
胸が熱くなった。駅員には子ども扱いされたけど、みどりのお父さんは職人として扱ってくれている。
「分かりました」
またしても単純な返答しか出てこない。もっと何か言おうと考えているうちに、
「何を話してるの?」
離れていたみどりが叫んだ。気を利かせて待っていたが、しびれを切らしたらしい。お父さんは笑って、
「頑張れってことだ」
とだけ言った。
みどりのお父さんは最後によろしく頼む、と言い残し、飛び立っていった。




