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「空色の授業」  作者: 翠野希
Ⅲ.白の追求
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灰と黒

 その人は筆をいっぱいに振るい、灰色の空を描いていた。ほとんど黒のような墨色から白に近いライトグレーまで、どれも全て灰色だった。

「どうしていつも曇りばっかり描いているの?」

 紅はその背中に問いかけた。振り返った彼は微笑んでいた。

「曇り空は嫌いか?」

 紅はそうねえ、と厚く漂う灰色を見つめる。

「どんよりして落ち込んだ気分になるから」

「なんで?」

「なんでって......不安になる色だし、天気が悪くなるから」

「そう!」

 彼はパチン、と指を鳴らし、輝く目を紅に向けた。

「雨や嵐が来ることを知らせるのが、曇り空なんだ。危険が迫る『嫌な感じ』を大切な人に伝えるんだよ。強過ぎる日差しから守ることだってできる。だからおれは曇り空を描く」

 紅にはその目の輝きが眩しかった。鈍い空の間から光が射したようだった。

「その『大切な人』の中にわたしは入っているの?」

 若き空色職人はおっ、と不意を突かれた顔をした。その顔が妙におかしくて笑っていると、気が付けばあのきらきらと光る目に戻っていた。

「もちろん」

 彼は筆を握り、再び空を描き始めた。


 紅は目を覚ますと、茜の鉢を抱いていた。灰色は消え、アトリエの白壁に変わってる。畑の茜を鉢に移せるだけ移し、居眠りしてしまったのだ。

 灰谷さんはどうしてるんだろう?

 夢の覚めやらぬまま、腕の中の茜の葉を見つめる。研修で地上に行ったまま、帰れないでいるだろうか。寒さに震えているかしら? 側にいる人を助けているかしら? 紅の想像の中で、暗い空の下の灰谷が、泣いている子どもの手を取り、励ましている姿が浮かんだ。

 大丈夫、大丈夫。

 紅が1年生の頃、空を描けないと泣いた時、灰谷は笑ってそう言っていた。あの日と同じく、地上の子に語りかけているに違いない。

 大丈夫って言った人は大丈夫。

 紅はひとつ頷いて立ち上がり、隣りの部屋の扉をそっと開けた。今日出会った少女が朱色の天蓋の中で眠っているのを見ると、ほっと息をつき扉を閉めた。そのまま扉に背を預け、目を伏せる。

 わたしだってもう、泣いてばかりじゃないわ。

 天井を見上げると、柔らかな薄灰色の雲が脳裏に浮かんだ。

 視線を落せば、玄関に紅の靴と黒い靴が並んでいる。あの子は一体どこから来たのか、あの子のお姉さんはどこにいるのか。紅の心に次から次へと疑問が押し寄せた。

 トントントン。

 玄関の扉が音を立てた。紅の心臓がドクッと鳴った。

 トントントン。

 誰? 人が訪ねてくる時間にしてはもう遅い。紅はその場を動けずにいた。

「紅、いるか?」

 名前を呼ばれ、彼女は目を見開いた。走るように玄関に向かい、扉を開く。

 そこには灰谷が立っていた。

「灰谷さん、どうしてここに......?」

 髪も服も黒く煤けていた。灰谷は口を開きかけたが、足下を見て動きを止めた。

「小夜」

「サヨ? もしかして、あの子の名前?」

「あの子......黒い服の女の子か?!」

 灰谷は紅の両肩を勢い良く掴んだ。紅は驚きのあまり言葉が出なかった。灰谷の目には闇が映っていた。紅は辛うじて頷くと、隣りの部屋を指差した。灰谷は瞬時にその扉に飛びついた。

「小夜!」

 灰谷は部屋を見回し、天蓋の中のベッドに駆寄った。布団をはねのけると、中は空だった。冷たい風の吹く方を見ると、窓が開け放たれていた。窓の外は黒い森が続いている。

 紅が呼びかける前に灰谷は窓枠を越え、深い闇の中へと走り出した。

「小夜ぉー!」

 何が起きているの?

 呆然と立ち尽くす紅の耳に、少女の名前を呼ぶ声が何度も響いた。

  

 



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