白い部屋
山吹は仕事を終えると、緊張したまま階段を下りた。中層の入り口で霧絵の具の職人のグループが交替するのを見た。出てくる職人たちは全身真っ白になっていた。山吹が自分の手に目を落とすと、やはり真っ白であった。
彼は闇の中で見えない上層を振り返り、ため息をついた。一緒に仕事を始めたデータ描写技師はまだあの渦中にいるというのに、ひとり返されたのだ。
作業中、師匠の乾爺が言っていたことを思い出す。
「おれはこの日が来るのを恐れながらも、いつか来てしまうだろうと思っていた。人間は学ばない生きものだ。身を持って体感しなければ、悲惨な歴史を繰り返す。100年後が心配だ」
「おれたちが伝えていきますよ、乾爺」
師の隣りにいた一番弟子が即座に答えた。
山吹は前を向き、ひとつひとつ階段を踏みしめていった。
研究層への門を潜ると、やはり白先生が先に待ち構えていた。
「お疲れですね」
「いえ」
「行きましょうか」
「どこへ行くんですか?」
「ついて来てください」
山吹はくたくたに疲れ切っていたので、淡白な会話がありがたかった。しかし、淡白な講師が朝と違ってゆっくりと歩いているのは自分を気遣っているのかもしれない。山吹は心の中で感謝しながら黙ってついて歩いた。
山吹は歩いているうちに、2年生の実習棟に向かうつもりなのだと気付いた。2人の持つ灯りに照らされ、ガラス張りの建物が見えた。いつもなら2年生が総出で必死に描いているところだが、人気はなく静まり返っている。
山吹はここで脱落していった何人もの友人を思い出した。2年生は空の原画を1日空1つを描き、数をこなす修行の1年間だ。慣れないうちには相当辛い。彼自身、これで終わりか、と思った日は幾度もあった。データ描写は体で描くより変化を付けるのが難しく、この時ひねり出した技術は今でも役に立っている。
少なくとも、数日前までは。山吹は今日、白色絵の具を運ぶだけで手一杯だった自分が歯がゆかった。
白先生は実習棟の白い部屋の前に立つと、山吹を振り返った。
「君はこの部屋のことを知っていますか?」
「先生方がまとまって出入りしていたので、会議室ですよね」
「ではあの部屋は?」
先生はガラスの向こうの反対側に照らされた、黒い部屋を指差した。
「日の光に弱い淡色を保存している部屋と聞いています」
山吹は改めて考えると、白と黒の部屋についてはよく知らなかった。どちらも常に鍵か掛かっていたし、毎日、空を描くことで忙しく、それどころではなかった。
白先生は頷くと、白い部屋の鍵を取り出して開けた。手元灯りに照らされた床面は白く光っていた。先生は山吹を中に入れて扉を閉めると、部屋の灯りを点けた。
部屋は眩しく真っ白に輝いていた。床も壁も全面が上質な白鳥石で覆われていたのだ。広い部屋の真ん中に置かれた見事な木目の円卓が平凡に見えるほどだった。
「君に新しい仕事を頼みます」
「......現場から外される、ということですか?」
山吹の胸の中が冷たくなった。遅刻であの忙しさで切られることはないと踏んだのが甘かったのか。
「この部屋を管理してもらいます」
「この部屋を、ですか」
「実質、現場から離れることになりますが、こちらの方がより重要な仕事です」
「重要なことをなぜ僕に頼むのですか?」
山吹は身動きが取れなかった。講師の口元には冷たい微笑が浮んでいるのだが、目の奥には静かな怒りが宿っているように見えた。
「今は大人より生徒の方が信頼できる時なのです」
山吹に返事はできなかった。この黒い空の中で、何が変わったというだろうか。
8月は永遠に8月。




