空の修復
山吹は息を切らし、森の中を走り抜けた。紅のアトリエに立ち寄って、集合に間に合うかギリギリになってしまった。
森の終わりまで来ると、空の階段の下層へ続く門が見えてきた。灯りに2人の人物の影がぼうっと照らされている。
間に合ったか。
だが、その影は黒い空を修復する職人ではなく、知らない年配の警備員だった。時間内には辿り着いたが、先に行ってしまったらしい。警備員は荒い呼吸の山吹をにらみつけた。
「何用だ?」
威圧的な態度なのは当たり前だ。空が黒く染まってから警備は厳重になったのだろう。
「空の修復に来ました」
「学生だろう?」
警備員はなお怪訝そうに目を細めた。データ描写の山吹以外、ほかの学生は実習中止で来るはずもないのだから、疑われても仕方ない。普段この門に就いている警備員は、紺藤や葵と同じく、病院にいるのだ。
「データ技師の数合わせで呼ばれたんです」
警備員たちは不信な学生をじっと見据えた。山吹は嫌な汗をかいた。本当のことではあるが、証明も何もできない。早く来て先輩たちと合流すれば何の問題もなかったのだ。
警備員が口を開きかけた時、彼らの背後で門が開いた。
「彼の言っていることは本当です」
毅然としたその人は、警備員以上の威圧感があった。
「白先生…」
山吹はほっとしたと同時に、深く後悔した。
「あの、ありがとうございました」
山吹は先に階段を行く白の背中に礼を言った。
「いいえ、君の主張したことは正しいのですから」
山吹が密かにため息をついたところで白は、ただし、と足を止めた。
「職人は時間厳守でなくては勤まりません」
そう言った白の目は刃物のように鋭く、山吹は頷くだけで精一杯であった。
上層の門の前に来ると、白は再び立ち止まった。
「仕事が終わったら君に話があります。研究層の境で待っていてください」
「…分かりました」
どうも白先生は苦手だ。いや、苦手じゃない人はいるのか?
山吹は1人、現場へと逃げるように走った。彼の耳には自分の足音が嫌に響いた。
山吹が上層の投影室に入ると、20人あまりの職人たちが忙しなく走り回っていた。
「遅くなりました」
声を掛けても誰も気に留める者はないほどで、山吹は遅れてきたことを心から反省した。
「山吹、絵の具!」
パソコンの画面を食い入るように見つめる師匠の乾爺は、振り返りもせずに叫ぶ。我に返った山吹は散霧機の元へ続く白い絵の具のバケツリレーの列に加わった。さすが上層ということもあって、山吹が今まで見た中で1番大きな1メートル四方の散霧機が4台あった。
「今頃になって、わしらの仕事が認められるとはなあ! これだからバカでかいマシンを造る費用を出せと言っとったのに」
悪態をついても乾爺のキーを叩く速度は緩まることを知らず、カチカチカチと響いた。
「師匠、これで白色濃度はいくつですか?」
負けじとキーを叩く1番弟子の先輩が乾爺に叫ぶ。
「7.005パーセントだ」
それぞれの持ち場で嘆く声もあり、喜びの声も上がった。広い大気で0.001パーセントがどれほど大きい数値か、皆よく分かっている。しかし、これだけ時間を掛けてと落胆するのも仕方なかった。
「大丈夫だ。目視できなくとも、確実に上昇している。この6時間で0.005パーセント上昇。白色の回収率が徐々に上がっていくから、計算上、次は0.007パーセント上昇で濃度7.012パーセントだ。段々楽になる」
「つまりは2週間で元通りになる訳ですね」
答えたのは1番弟子だ。ほかの者たちは2人の計算についていけなかった。
2週間ということは、100年前の半分の時間で修復することができる。ただ、誰もその間にどれほど寒冷化するのか、予測できなかった。黒い空になって3日目、気候は春から初秋に変わっていた。
放っておけば、世界は凍りつく。
山吹の脳裏に、紅の顔が浮ぶ。
「させるかー!」
若造の叫びに、いつも冷静沈着なデータ技師たちは熱く燃えた。




