見えない敵
青人とわたしの2つの灯で照らされた道はとても明るく感じた。
「みどりに聞きたいことがあるんだ」
と、青人はわたしに言った。そういえば訪ねて来た訳を聞いてなかった。
「何?」
「アトリエに着いたら聞く」
アトリエの木の下に着くと、青人は先に梯子に上り、手元を照らしてくれた。
「上り慣れたな」
「3回目だから」
そっか。ここに来たのは3度目だけど、青人に会ったのはまだ2度目ね。
「あっ!」
先に着いた青人が驚きの声を上げた。わたしは梯子から顔だけ出してアトリエを見回した。
「何?」
「バケツの中見て」
やっと床に上がり、青人の視線の先を見た。
「真っ黒だ」
「黒い絵の具、本当に回収出来るのか?」
「これなら隠し持ってられたかもしれないわね」
「いや、昔は絵の具回収所でしか作れなかったらしいよ。今は別だけど」
と言いながら、青人はバケツに溜まった黒を外に捨てていった。その手は怒りで震えていて、霧絵の具の水面に波が立った。
「みどりに聞きたいのは、地上のことなんだ」
青人は悲しいような、怒ったような細い目をしていた。
「おれも秘密の話をするよ」
青人が話してくれたのは、警察が灰谷さんという先輩を調べているということだった。それから、灰谷さんが地上に行ってなぜか帰って来たということ、最上層の投写室で倒れていて、その後、逃げ出したということも。
「天上に早く帰って来たくなるようなこと、もしくは黒い空に関係するようなことが地上にあるのか、みどりは知ってる?」
「わたしが生まれたのは天上だから、地上の様子は分からないわ。だけどきっと、戦争が関係していると思うわ」
両親が地上の人だってわたしに明かした時、話してくれたことを思い出しながら言葉にする。
「戦争は国と国のしょうがないケンカだって言ってたわ。苦しむのは、死んでしまうのは、巻き込まれる『国民』なのにって。もし戦争が終わっていても、病気や貧困で苦しむんだって...今もひどい状況なのかもしれないわ」
「それって、黒い空みたいじゃないか」
「えっ?」
「凍える真っ暗な冬と、おんなじだよ」
青人の目はさっきよりも細く、つり上がっていた。その目は白先生の目よりもっと鋭かった。
「人が人を苦しめると分かってやるなんて、許さねえ」
わたしは驚いていた。あの日、一緒に空を描いた青人は、どこへ行ってしまったんだろう?あんなに明るく笑っていた人と、まるで別人だ。
「だめ!」
気が付くと、わたしは青人の手をぎゅっと握っていた。青人はハッとこちらを見た。
「そっちへ行っちゃだめよ。その心はだめ」
確かに、怖いし、憎い。そして相手を消してしまいたい。だけど、それでは同じになってしまう。誰かが誰かを傷つけようとする心と。
「みどり...ありがとう」
青人の目は丸くなって、青人は青人に戻っていた。
「おれがやるべきことは、仕返しじゃないよな。ありがとう」
こうやって、誰かが止められれば、こうやってありがとうって言える心であれば、世界は平和なのよ。
「青人、灰谷さんを探すの?」
「ああ。この空を真っ黒にしたヤツも見つけ出すさ」
その言葉にまたひやっとしたが、青人の目は丸いままだった。
「だったら手伝うわ」
「怖くないか?」
「怖いわ。でも、このまま解決しない方が、もっと怖いわ」
百年前にちゃんと「敵」が見つかっていれば、今の黒い空はなかったかもしれない。
「よろしくな」
わたしと青人は、2度目の握手をした。
先日、初めて広島に行きました。戦いの後に残されたものや人の欠片を目の前にし、戦争という現実に愕然としました。こうして文章を書いたり、読んだりできることは、本当に平和なことです。




