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(下)

  第6章


「待ってくれよ、俺はこの子と仲良くなりたかっただけなんだよ!」

「そうやって幼女を連れ去ったのは何度目なの?最低のゲス野郎!」

 杏珠は命乞いをする名もなき下等な悪魔に対して火を放った。絵莉はそれを後で腕組みしながら黙って見ていた。

「あなたの出る幕なんてないわよ。ご苦労様」

 杏珠はすれ違いざまにそう言うと猥褻目的の幼女誘拐犯の男の世界から抜け出た。悪魔が滅した今、すぐにこの世界も消え去るだろう。絵莉も続いて外界へ出た。

 現世では誘拐犯の男が頭を抱えうずくまっていた。そこへ泣きじゃくる幼女の声を不審に思った者たちが駆けつけてくるところだった。

「どうしてそう邪険にするのかしら。別にわたしはあなたの邪魔をするつもりなんてないのよ?」

 急ぎ足でその場から離れる杏珠を追って絵莉は切り出した。

「あらじゃあ見物のおつもりかしら」

「あなたは悪魔を軽く見すぎているわ。そのうち本当に命を落とすわよ」

「覚悟の上よ」

「そういう自暴自棄なところが良くないって言ってるのよ」

「だいたい誰のサシガネか分かるけど大きなお世話よ」

「彼はあなたのことを心配してるのよ」

 杏珠の足が止まる。実は鎌をかけたのだ。

「やっぱり。帰ったら蹴っ飛ばしてやらないといけないわ」

「あのねえ」

 ため息をつく絵莉。

「これはあなただけの問題でもないのよ。わたしたちの仲間はもう世界に数えるほどしか残ってないと考えられているわ。その中でも特に戦える者たちは一握りよ。あなたの命はあなただけのものではないのよ」

「そういうの、迷惑だわ。あたしだって好きでやってるわけじゃないんだから」

「いえ、好き嫌いに関わらずこれは私たちの勤め、使命なのよ。むしろ宿命と言うべきかしら」

「あなたはいつもそんなふうに思ってるの?」

「ええ、わたしは両親の意思を継いで戦っているわ。あなたは違うの?」

「あたしは自分が気に入らないものを叩き潰すだけよ。ゴキブリやダニを退治するようにね」

 その時杏珠の携帯が鳴った。

「サキからだわ!」

「うそ、なにかあったの?」

「あわてないでよ、それを今から訊くんでしょ!もしもしサキ?どうしたの?」

 向こうから紗季のか細い声が聞こえてきた。

「アンジュ、怖いよ、なんだか変なの」

「落ち着いて、変ってなにが変なの?」

「・・・生まれそうなの」

「!生まれそうって、え、ちょっ、ちょっと待って今すぐ行くから」

「今家に誰もいないの。お願い早く来て」  

 そう言うと電話は切れた。杏珠は携帯を握りしめたまま立ち尽くした。

「どうしよう、生まれるって」

「どうしようってあなたなにも考えてなかったの?」

「だってこんなに早いとは思ってなかったんだもの」

「まあ呆れた。本当にあなたって行きあたりばったりなのね」

「なによ、あなただっていざとなったら役に立たないじゃない」

「口出さないでって言ったのはあなたじゃないの。まあいいわ、ここで争ってても埒があかないわ。行くわよ」

「行くって?」

「サキのとこに決まってるでしょ!今あなた自身がそう言ったばかりじゃないの!」

「でも産婆さん探さないと」

「どこの世界に悪魔の子を取り上げてくれる産婆さんがいるのよ!わたしたちの手で取り上げるのよ!」

「・・・マジで?」

「マジ、大マジよ!さあ行くわよ!」 


 もう紗季には隠し立てをする必要もなく緊急を要するゆえ、二人はシャドードアで直接紗季の部屋へ出た。

 紗季はベッドに寝ていた。二人が現れたことに気づくと少し驚いた様子だったが、すがるように体を起こそうとするのを杏珠が押しとどめた。

「大丈夫、そのまま寝てて」

 紗季は杏珠の手を握った。

「あたし、まだお兄ちゃんには知らせてないの。心配掛けたくないから。だってどんな子が生まれるか分からないんだもの」

「大丈夫、大丈夫だから」

「あなたさっきから大丈夫しか言ってないわよ」

 絵莉が突っ込む。

「そう、そうね。じゃあまず、ええと、どうするんだっけ?」

「・・・とにかくお湯を沸かしましょうか。あと大きなタライか洗面器を用意して」

「り、了解」

 杏珠がバタバタと部屋を飛び出していく。

「まったく」

 絵莉は代わりに紗季の手を握りしめた。

「安心して。わたしは慣れてるから」

 もちろん嘘である。ただ絵莉の落ち着いた口ぶりは紗季を安心させる説得力があった。

そしてお腹の子に向かって呼びかけた。

「聞こえてる?前にも約束したようにあなたのママを苦しめるようなことはしないでちょうだいね。人間はとても脆いのよ?」

 だが返事はなかった。絵莉は少し不安になるのを気取られぬように作り笑顔を紗季に向けた。

(サナギのような状態なのかしら。じゃあ自分をコントロールできないの?)

紗季の腹部は妊婦のそれとは違って一目でそれとわかるほど膨らんではいない。もし生まれてきた子が化け物であったとしたら・・・。絵莉ははたして産むという選択が正しかったのか今さらながら迷わずにはいられなかった。

 ドアが開くと杏珠が洗面器に入ったお湯をこぼさぬようにすり足で慎重に入ってきた。そして足でドアを閉める。

「もう、お行儀悪いわね」

「仕方ないでしょ、手がふさがってるんだから」 

 紗季はそんな二人のやりとりを聞いてなんだか安心するのだった。

(不思議だけどすべてうまくいきそうな気がする)

 そう思うと途端に睡魔が襲ってきて意識が薄れていった。


 それは夢だったのだろうか。夢にしてはリアルに過ぎたが、現実にしてはあまりに風変わりであった。

 紗季はうつらうつらと夢見心地の中、体が弛緩して行くのを感じていた。本来の出産であれば苦痛を伴うはずであったが、まるで自然に麻酔が効いているかのように感覚が失われていき、なにも感じなくなっていた。

 ふと下腹部に目をやるとなにかが蠢いているのが見えた。なんだろう?なにか小さな無数の生き物。

(ウジ虫・・・)

 普通であれば嫌悪感でパニックになっていたかもしれない。だがその時はただそれを受け入れていた。

 その紗季の体より流れだしたあまたのウジ虫たちはやがて集まり出すと、いつしか玉のような赤子へと姿を変えていた。

 人の赤子であるならばここで大声で泣き出すところであろうが、この子はまったくもって怯えたようすもなく、ニコニコと笑っていた。

(産んでくれてありがとう)

 そう言っているように感じられた。


 杏珠と絵莉は驚きと戸惑いの中でこの「出産」を見届けた。赤子は約束通りまったく母体を傷つけることなくこの世に生まれいでたのであった。二人はどうすべきか迷ったが赤子を型通り産湯で洗い、タオルケットで包んであげた。そして紗季の傍らにそっと寝かせた。その無邪気な笑顔はとても罪の無い清らかなものであった。

 だがその魔物の正体に関してはどう捉えるべきなのか混乱していた。

 杏珠は紗季が眠るのを待ってその名を口にした。

「ベルゼブブ・・・とは予想外だったわ」

 絵莉もその因果関係については理解しようがなかった。

「もともと魔界の住人は決して死を受け入れることがないと聞いているわ。消滅させられた者たちも時を隔てて復活するのだと。それがこういう形となって現れるとはね。この子は前世でなにをしてきたのかしら」

「悪いイメージでばかり語られるベルゼブブも本来は豊穣を司る気高き王だったそうよ。見た目で判断するのは良くないわ。それに・・・」

 杏珠は赤子の頬にそっと触れた。

「あたしはこの子の笑顔を信じたい」

 正直、絵莉には杏珠の考え方にはついていけないところがあった。直感に頼り過ぎではないか。だがもしかするとそういうところが彼女の強さなのかも知れない、とも思うのだった。

「はあ、でもこのことをお兄さんにどう説明しようかしら」

 杏珠が頭を抱える。

「はあ、やっぱり何も考えてなかったのね」

「あなたも少しは考えなさいよ」

 そんな二人のやりとりを聞いていたわけではないだろうが、赤子がきゃっきゃっと笑った。

「ほら赤ん坊にまで笑われてるわよ」

「そんなわけないでしょ」

 絵莉もその笑い声に癒されるのを感じていた。

(確かに、この無邪気な笑顔は信じてみたいわね・・・)


 この後、剣二がこの出来事に大いに当惑したことはやぶさかではない。だが不思議なことに、剣二にもこの赤子を手放すという考えは浮かばなかったのだった。

 剣二はその笑顔を覗き込みながら思うのだった。

(この子は本当の天使かもしれない)


  第7章


 悪魔崇拝。いかなる時代にも邪悪を真理とする思想に陥る者たちは存在した。もちろん、彼ら自身はそれを邪教などとは微塵も考えていない。聖なる神に使えているだけなのだ。世間一般からは悪と思われようが彼らにとっては正義に他ならないのだ。

 だがしかし、彼らの教義には共通するあるあからさまな危険性をはらんでいた。それは異教徒の廃絶である。真理は絶対でありそれを疑うものは全否定されなければならない。そのためには命を奪っても構わない。それが真理を追求するためであれば罪にはならないと考えた。自分たちのしていることは世の中の浄化、聖なる戦いなのであると。

   

 それが例えばコンサート会場であるとかスポーツの競技場などであれば簡単ではなかろう。いかにも狙われそうな場所ではチェック体制が行き届いているからだ。しかし常に人々が流動的に行き交う場所であったならどうだろうか?はたしてテロは防げるだろうか?

 朝の通勤ラッシュ時。既にほぼ満員のバスが停留所に止まる。待っていた人々が次々と乗り込んでいく。もしこの中に爆弾を仕込んだバッグを抱えた者がいたとしても、それを見破れる者がいるだろうか?

 そして乗り込んで来たある男が突如バッグの中をガサゴソとかき回し始めたところで周りの者は少し迷惑には感じながらも、どうせ忘れ物の確認でもしているのだろうくらいにしか考えなかったとしても仕方のないことである。それが爆弾を起爆させる動作であったことを知るのは実際に爆発してからのことである。いや、実際にはその時には既に命を失ってしまった後なのだが。

 こうして通勤バス爆破事件は行われた。

 いまだ同時多発通り魔事件の恐怖も冷めやらぬ中、大量の死傷者を出すに及んだ惨劇は社会にあらたな衝撃と動揺をもたらした。いや、その持つ意味はもっと大きかったと言える。なぜならば通り魔はごく一部の頭のおかしな者たちが引き起こした特殊な事件であったのに対し、今回は明らかに計画的なテロ行為と目されたからだ。

 そう、テロは一度では終わらない、大元が潰されぬ限り必ず次があるのだ。いや例え大元を潰したところで残党がいる限り平穏は約束されない。彼らは蛇の如き執拗さで根絶やしにされるまで抵抗を続けるであろう。終りの見えない戦いが幕を開けてしまったのだった。

 通り魔の捜査本部がうやむやのうちに縮小され、剣二はあらたにこの通勤バス爆破事件に回されることになった。

 一見通り魔事件とは因果関係はないものと考えられていたが、剣二にはどうしても確認せずにはいられないことがあった。もしこれが一連の事件の延長線上にあるものだとしたなら?そう考えると悪寒を禁じ得なかった。

 はたして、犯人と思われる者の遺留品の中にそのペンダントは残されていたのだった。

 ここでさらに驚くべき事実が浮かび上がってきた。実は被害にあった乗客の中にこのペンダントを持った者が犯人以外にも4人見つかったのだ。その4人は損傷の激しさからいずれも犯人のごく近くにいたものと推定された。

(これははたして偶然だろうか?いや違う、彼らは犯人の盾役として周りに行為を気取られぬよう壁のように囲んでいたに違いない。つまりこの事件は単独ではなく組織による犯行だ。それも最初から自分の命を犠牲にすることもいとわぬ狂信的な者たちによる集団テロだ。だがそれならばなぜ犯行声明が出ない?やつらの望みはなんなのだ?)


 剣二はもはや一人で抱えるには大きすぎる秘密であることを感じていた。いつまでも隠し通せるわけもなく、上司である原に今まで独自に調べて来た事柄を報告することを決意した。

原は署内でも思慮深く信頼の置ける人物として知られていた。しかし玖珠の件もあることから公にはせず、二人だけの時を見計らって打ち明けることにした。

 原はいささか驚いた様子ではあったが、無言で聞き終わると言った。

「うむ、よく分かった。それでこの件について他に知っている者はいるのかね?」

 剣二は敢えて須藤や二人の不思議な少女たちのことは伏せた。

「いいえ、他にはまだ」

「そうか、それは賢明だったな。とにかくこの件は軽々には扱えないから私の指示があるまでは内密に留めておくように。いいね?」

 剣二は人に話すことで気持ちが楽になるのを感じていた。これで良い方向へ進展するだろう。だがその数時間後、その思いはあっさりと裏切られることになるのだった。

 原から呼び出しを受けた時には今後の捜査に関する指示を受けるものとばかり思っていた。だが原は意外な台詞を口にしたのだった。

「君をこの事件の担当から外すことになった。これは上からの通達だから従ってもらうほかない」

 剣二はその言葉に耳を疑った。

「なぜですか?私の捜査になにか重大な落ち度があったということでしょうか?」

 原は少し迷惑そうな顔をした。

「私からはなにも言えん。上が判断したことだ。とにかく君はもうこれ以上この件に首を突っ込まないように」

 剣二は悟った。すでに組織の影響力は警察の内部に及んでいたことを。

「いったい誰の―」

「今日はもういいから帰りなさい」

 原はまったく取り合おうともしなかった。そして席を立つと去り際に小声で言った。

「このことは決して他言しないように。そうしなければ君だけでなく君の周りの者にまで迷惑が及ぶことになるからそのつもりで」


 剣二は強いわだかまりを抱えたまま署を後にした。

(この流れはもはや止められないのか?このままではますます拡大していくだろう。おそらく全国、いや全世界的なテロの連鎖が生まれる・・・)

 そうわかっていながら自分一人ではどうしようもない。そうして思案に暮れていたことが周囲に対する注意をおろそかにした。

 剣二の背後から二人の男がスッと近づくと一人が羽交い絞めにし、もう一人が薬品を染みこませた布で口を塞いだ。

(しまった、後を付けられていた!署内に組織の協力者が・・・?)

 そう推測する間もなく意識が薄れていく。男たちはぐったりとした体を抱えると車のトランクに押しこみ、その場から消えていった。


 ブーン・・・・・・ブーン・・・・・・。

 剣二は遠くで虫の羽音を聞いた気がした。

(なんだ・・・ハエ・・・?)

 そして暗闇の中で目覚めた。ぼーっとした頭でもそこが車のトランクの中であることは察しがついた。

 どれほどの時間眠っていたのだろうか。まだ頭がクラクラする。口にはガムテープが巻かれ手足は縛られていた。犯人たちがいったん人目につかない場所に停め処置を施したのだろう。その場で殺さなかったのは事故死に見せかけるためか?玖珠もこうしてさらわれたのか?

(しかし気付いたはいいがどうやって逃げ出す?くそっ、考えろ、考えるんだ)

 剣二を乗せた車は国道を飛ばしていた。男たちはただ無言で無表情なまま前方に視線を投げかけている。ふと助手席の男が虫の羽音を聞いた気がして視線を巡らせると、どこから紛れ込んだのか一匹のハエが飛び回っていた。窓を開け追い払おうとしたその時、突如ドライバーの男が急ブレーキを踏んだためにあやうくフロントガラスに頭から突っ込みそうになった。

「おい、気をつけろ!」

 だがドライバーの視線の先に目をやると、ヘッドライトに照らされて異様な光景が浮かびあがっていた。

 そこには道路の真中にも関わらず一人の少女がすっくと立っている。黒衣のドレスを纏った黒髪の少女。

「かまわん、跳ね飛ばせ!」

 車は再び加速し、突っ込む。だが瞬時に少女の姿は消えていた。幻でも見ていたのか?あたりを見回す男たちに後部座席から声が響いた。

「おとなしく車を止めてトランクを開けなさい。そうすれば命だけは助けてあげる」

 後ろを振り向こうとするが体が言うことを聞かない。

「知っているぞ、貴様、黒い魔女。邪魔をする気か?」

「黙って言うとおりにしなさい。そのまま路肩に停めなさい。通行のじゃまにならないようにね」

「ふざけるな、おまえなど怖れるにたらん。あの方が守ってくださる」

「誰のこと?そのクズの名前を言いなさい」

「その名を口にすることは禁じられている。例え殺されてもな」

「じゃあ死になさい」

 その時それまで黙っていたドライバーの男が割って入った。

「ま、待て、そこで男を解放するから。お前の目的はあいつだろう」

 そう言うと速度を落とし停車した。そしてトランクを開けた。

「あいつは返すから見逃してくれ」

 杏珠は男が急に物分かりが良くなったことを不審に思いつつ車を降りると後部に回った。開いたトランクの中には縛られ目隠しをされた男が横たわっていた。

 その男に手を伸ばした時、無数のヘッドライトが杏珠を煌々と照らし出した。いつのまに集まったのだろうか、数十の車が周りを取り囲んでいたのだ。ドライバーと助手席の男は転がり落ちるように車から出ると走ってその場から逃げ出した。それはこれから起こることを知っていたからに違いなかった。

 杏珠がライトの眩しさに手をかざす。その刹那、四方から放たれた鎖が杏珠の体をがんじがらめに絡めとった。

(こいつら、ただのチンピラじゃなさそうね)

 杏珠は鎖を引きちぎろうと体をひねるがなにか勝手が違う。

「無駄だ。その鎖は対魔女用にあつらえた特性のものだ」

 一人、ライトを背にした男が言った。

「関わらぬように警告したはずだ。今となってはもう遅いがな」

 男は暴徒たちには相応しくなく、白いスーツを着こなしていた。初めて見る顔であったが、一見して魔界の住人の影響下にある者であることは疑いようがなかった。

「あなたがこの愚連隊のボスってわけ?お山の大将はさぞや楽しいことでしょうね」

 男はため息をつくと物分りの悪い子供に対するように言う。

「君はまだ自分の置かれている立場がわかっていないようだね。これから引きずり回されてボロ雑巾のようになる運命だというのに。それとも今すぐ両手両足を引きちぎってあげようか」

「やってごらんなさい」

 杏珠の周りをいつしか十数名の者たちが取り囲んでいた。その者たちは暴走族とは明らかに違っていた。頭からすっぽりと包みこむフード付きの灰色のローブを着ている。表情はうかがい知れぬが殺意に満ちた目だけがギラギラと光っていた。そして手にはそれぞれ小銃を携えていた。

「魔女狩り・・・愚かな言葉だ。やつらが処刑したものの中に本物の魔女は一人もいなかった。しかしそんなことはどうでも良かったのだ。ただサディスティックな欲望が満たされればそれで良かったのだ。

 その昔、聖職者を語る狂人共は魔女と疑われた女たちに対してあらんかぎりの拷問を加えたと言う。手を変え品を変え、よっぽど楽しかったんだろうねえ。まるで子供のように嬉々としていたぶるさまが眼に浮かぶよ。生きる価値のないクズ共だ。それを許した民衆も同罪だ。自分は違う、と人は言うだろう。思い上がりも甚だしい。全ての人間の中に悪魔の血は流れているのだ」

 白いスーツの男は唐突に語りだした。

「ん?おっとこれは失礼、脱線してしまった。要するにそう、これからわたしは本物の魔女狩りを執り行おうとしているのだよ。そう考えるとちょっとわくわくしないかね?」

 そう言うと杏珠の顔色を覗き込んだ。

「だがどうにも解せないことがある。なぜ君はそちらがわにいるのかね?君の守ろうとしているものははたして命を懸けるに値するものなのかね?うむ、回りくどい言い方はやめよう、こちらがわに来ないかい?」

 杏珠はいたって簡潔に答えた。

「いやよ」

「なぜ?」

「あなたたちのことが生理的に嫌いだからよ」

「・・・なるほど、それじゃあ仕方がない」

 男が合図をすると銃口が一斉に杏珠に向けられた。

「やれ」

 無数の銃弾が雨あられと浴びせられる。弾丸は杏珠の体を貫きその後の剣二を乗せた車も瞬く間に蜂の巣に変えた。

 だが男はすぐに異変に気がついた。そこにはすでに杏珠の姿は無かった。どこに消えた?ふと気配を感じて後を振り向くと二人の少女が言い争っていた。

「なにやってんのよ遅いでしょ。おかげであいつのしょーもない長話に付き合わされちゃったじゃないの!」

「仕方ないでしょ、剣二さん自宅まで送ってったんだから。だいたいあなたがこっちは任せてって言ったんじゃないの。なんなら一人で始めちゃえばよかったじゃないの」

「あっさり種をばらしちゃ黒幕が誰かもわかんないでしょ?それに―」

 白スーツの男はようやくまんまと騙されていたことに気がついた。

(プロジェクトイメージか。これほど確度の高い分身を作れるとはな。どうやら力量を甘く見ていたようだ)

 知っている。紫の女は更木絵莉だ。姿が見えないのが気になってはいたが、亜堂杏珠が囮になり気を引く間にトランクの中の男を避難させていたのか。

「おまえたち、生きて帰れると思うなよ!やれ!」   

 フードの手下たちが一斉に銃を構えた。がその銃は手の中で見る間に錆び付き、腐り、溶けて消えてしまう。とまどい、怖れる者たち。

「ねえ聞いた?『おまえたち、生きて帰れると思うなよ!』だって。典型的なやられキャラの台詞ね」

「あなたって人をからかう時が一番生き生きしてるわね」

「だってあんまり間抜けなんだもの」

「それよりあのフードの者たちにも下等な魔物が取り憑いてるみたいね」

「あの下品な臭いはゴブリンでしょ。あっちはあなたに任せたわ」

「ちょっと、なーんか引っかかるんですけど」

「あら別にあなたが下品って言ってるわけじゃなくってよ?」

「そりゃそうだけど、まあいいわ。それより油断しないでね、ああ見えてもかなり強い魔力を感じるわ」

 そう言うと絵莉は白スーツの男の前を素通りしフードの者たちの方へと向かった。

 白スーツの男はその余裕が気に入らず苛立った声をあげた。

「おい貴様、なにを勝手なことを―」

「あなたのお相手はあたしよ!」

 杏珠は男の中の魔世界にダイブして行った。


 そいつは自分が王であるその世界の中心で玉座に座り、頬杖をついていた。人と蛇と猫の三つの顔をもつ悪魔。

「アイン・・・あんただったの」

「ようこそお嬢さん、失望させてしまったかね?」

「あなたろくな主人にめぐり逢わないようね」

「子が親を選べないように召喚されるものは主人を選べないもんでね」

「とっとと地獄に帰りなさいよ」

 アインは大げさに天を仰いでみせる。

「ああそれができるくらいならこんな退屈な世界になど居座りはしないよ」

 そして立ち上がる。下半身は大蛇のそれのようにトグロを巻いている。

「面倒だから始めようか」

 アインは手に炎の柱を創ると一振りなぎ払った。そこから炎の絨毯が生き物のように周囲に広がった。

(同じ性質、属性を持つ敵・・・やっかいだわ)

 だがそれはお互いに言えること。杏珠は炎の波を涼しい顔で受け流した。そしてアインの背後に数体の毒蜘蛛を召喚する。毒々しい原色の巨大な蜘蛛たちがアインに襲いかかる。が、近寄る間もなく燃え上がり灰になる。もちろんこれは囮で、杏珠は手の中に弓を呼び出すと酸の矢をアインめがけて放った。

 しかしその気配を感じたアインは一瞬早く赤い霧の中に姿を消していた。身構える杏珠。

 と、突如背後から両手で首を掴まれた。アインの両手はどす黒い炎を纏い杏珠の白い首を締め上げる。それと共に肉の焦げる匂いが立ち昇った。

「ハハハ、脆いぞ、脆すぎるぞ黒き魔女!」

 しかしその時少し前の記憶が蘇った。

(これは・・・違う!)

 もう少し気づくのが遅れていたならば酸の矢に貫かれていたことだろう。アインは間一髪で赤い霧に身を隠して難を逃れた。

(くそっ、一度ならず二度までも!)

 捕まえていたのはこれも囮のプロジェクトイメージだった。アインは杏珠の居場所を探る。矢はアインの頭上から放たれていた。はたして杏珠は天上に逆さに立っていた。

「アイン、観念なさい、逃げても時間の無駄よ」

 アインは配下である無数の悪霊を召喚する。それらはたちまち杏珠の周囲を渦をまくように埋め尽くし始めた。

 だが杏珠は爆音と共に炎の波動を放つ。一瞬にして悪霊は燃え上がり、叫び声を上げながら昇華して消えていった。

「こんな雑魚、目眩ましにもならないわよ。もう余興はたくさん、さっさと退治されなさい」

 だがアインは赤い霧の中に身を潜め勝機を伺っていた。

「見たところお前の属性は火炎のようだな。毒のみによってわたしを滅ぼせるとでも思っているのか?」

「それはお互い様でしょ?あなたの攻撃があたしに届くこともないわ」

「そうかな?」

 アインは突如杏珠の背後から現れるとその巨大な蛇の尻尾で杏珠の体に巻き付き締め上げた。だがその背中を背後からアシッドアローが貫いた。

「まったく学習しないのね。それも影―」

「知っている!」

 突如アインの本体が現れると杏珠を羽交い絞めにした。 

「ハハハハ!油断したな、これは本物の肉体だ!お前が射ぬいたのもわたしの分身さ。お前にできることくらいわたしにとっても容易いことだ。お前のその思い上がりが―」

 そう言いかけた時、一閃、鋭利な刃物がアインの三つの頭のうちの人間の首を刎ねた。落とされた首は転がり落ち、その目で残る二つの頭が次々と切断されるのを見た。

「貴様、紫の魔女!いつの間に!」

 視線の先には巨大な鎌を持った絵莉が立っていた。

「あなたが油断してる間によ」

「黒い魔女は始めから囮役だったのか。小賢しい真似を。だがこの程度でわたしが倒せるとでも思ったか?」

 アインの斬り落とされた三つの首の切断面がボコボコと蠢き頭を高速再生し始める。そこへ絵莉が大鎌を撃ち下ろした。アインは思わず杏珠を放り出しそれをかわす。

 再生された頭が言う。

「何度も同じ手を―」

 だが言葉はまたしても途切れた。攻撃をかわしたはずのアインの体は一瞬にして氷結していた。

「わたしの属性は冷気。言ってみればあなたの天敵ね」 

「ハッ!」

 凍りついたアインの体を杏珠が気を込めて回し蹴りするとガラス細工のように粉々に砕け散った。その欠片を現れた杏珠の毒蜘蛛達が腹に納めていく。バラバラになったアインは毒蜘蛛の体内の酸により跡形もなく溶けて消えてしまった。

 やがて主人を失った世界がグラグラと揺れだし、崩れ始める。

「道理で」

 杏珠が呟く。

「?」

「なんとなくあなたが苦手なわけが分かった気がするわ。火と氷じゃ無理も無いわね」

「ふふっ、そういうことね。それよりわたしたちに報せてくれたのはやっぱり?」

「たぶん。あの子にはちゃんと人間としての魂が宿っているみたいね」

 二人は魔世界から抜けだした。


 現世に降り立つと主であるアインの消滅によりフードの者たちの姿も消えていた。ただアインに支配されていた白いスーツの男だけが抜け殻のようにその場に昏倒していた。

 絵莉が言う。

「これでやつらが先導してきた暴徒たちもおとなしくなるのかしら」

「どうかしら。アインを召喚したやつを始末しない限り根本的な解決にはならないと思うわ」

 二人はもはや長居は無用とその場から引き上げた。後には打ち捨てられた車両による大渋滞が残された。


 剣二は気がつくと自宅に戻っていた。だが車のトランクで目覚めて以降の記憶がどうにも曖昧だった。

(なぜここにいるんだ?あれは夢だったのか?)

 朦朧とした頭で記憶を手繰るとあの後女性の声を聞いた気がした。

(あの声は確か紗季の友達の・・・)

 しかしそれ以上思い出そうとすると頭が痛くなってくるのだった。

(なにかの拒絶反応みたいだ。知らないほうがいいことなのか。そう言えばあの時聞いたハエの羽音も幻聴だったのだろうか)

 ふと気になって妹の姿を探す。紗季はリビングの揺り椅子で赤子を抱いたまま平和な顔でうたた寝をしていた。赤子も普段と変わりなく健やかな表情で眠りについていた。二人の様はなぜか眩く、神々しくさえ見えた。

(なぜかこの子が守ってくれた気がしたんだが・・・)

 剣二はまだこの赤子の正体について知らされてはいなかった。

 今までの出来事、これから起こるであろう出来事を考えると頭が混乱し極度の疲労が襲ってきた。ソファーに倒れこむように横たわると睡魔が襲ってきた。


 実は剣二と紗季が知らないことが他にもあった。赤子が生まれてから夜毎、あまたの低俗な魔物たちが集い、この家を遠巻きにとり囲んでいた。その者たちは赤子をまるで信仰の対象であるかのように静かに見守っていたのだった。


  第8章


 剣二は重い頭を抱えながら目覚めた。紗季が掛けてくれたのだろう、知らぬ間に毛布にくるまっていた。

(昨日俺は殺される寸前だった。ここにいても追っ手が来るだろう。警察内部にもやつらの協力者がいるとすれば助けを求めるわけにも行かない。どうする?)

 自分一人ではどうすることもできない。だが誰を信用すればよいのか。そうだ、自分以外にもこの秘密を知っているものがいた。

 剣二は盗聴される危険を承知で鑑識の須藤に電話をいれた。次に危険が及ぶとしたら須藤に違いないからだ。

 幸いなことに須藤には組織の手は伸びてはいなかった。須藤は剣二の話を聞くと、事の重大さに鑑み、信用できる人物としてある者の名前を挙げ自ら話を通すことを申し出た。剣二は一も二もなくその話に乗らせてもらうことにした。

 その人物とは井上英龍、県警本部長であった。


井上は須藤を通して、人目を偲んで深夜に自宅を尋ねるように連絡してきた。応接室に通されしばらく待つと井上が入って来た。

 剣二はそれまでの経緯と今現在分かっていること、そして自分の推察について述べた。井上は特に口を挟むでもなく落ち着いてそれを聞いていたが、ひと通り話が終わるとおもむろに口を開いた。

「そうすると君はその秘密結社とやらが相当大きな力を持ったテロ組織ではないか、と言うのだね?そしてその影響力は警察内部にまで及んでいるかもしれぬ、と」

「まだ確信はありません。ただ玖珠は十分用心深い男でした。簡単に隙を見せるとは考えにくいのです。そしてその後の調査が不自然な形で打ち切られ、収束したのも理解しがたいのです。これは同時多発通り魔事件にも言えることです」

 井上はうんうんと頷くと悠然とタバコを取り出し、火をつけた。そして深く吸い込むとどこかあらぬ方に視線を向けながら語りだした。

「・・・昔は暇つぶしだった。人間たちが神だの悪魔だの大騒ぎするのがおかしくってね。事あるごとにやれ奇跡だ天罰だと勝手なことをわめき散らしてね。でもこれが結局自分のことしか考えてないんだな。我々から見たらぜんぶ同じことなんだがね。

 神の善悪の概念が人間のそれと同じ基準だとしたならばどうして犯罪や戦争がなくならないんだろうねえ?」

 剣二は井上がなぜ突然そのようなことを言い出したのかと戸惑いを隠せずにいた。

「それはね、その方が面白いからだよ。人間がゴシップやスキャンダルやエログロが大好きなように我々も下世話なことが楽しいのだよ。確かにその点は一緒だな、ふむ」 

 井上はタバコを灰皿に突き立てもみ消すと続けた。

「だがいつからだろうなあ、人間たちが目にあまるようになってきたのは。自分こそが神だと言わんばかりに傍若無人にふるまうクソどもが後を絶たない有様だ。何より増えすぎたな。人間が沢山いることで地球にとってなにかいいことがあるかね?なんにもないよ?

 むろん、我々のなかにもいろいろなやつがいる。人間を愛玩動物のように甘やかすものもいれば、そういったことになんの関心も示さずただ面白おかしく暮らしているだけのやつもいる。自分の機嫌の良い時は笑わせてやり機嫌の悪いときは泣かせてうさを晴らす気分屋もいる」

 井上はそこでようやく剣二に気が付いたように向き直ると言った。

「いずれにせよ、だ。とりあえず少しずつ数を減らしてみることにした」

「?」

「人間の数、を。なあに戦争やらせれば簡単なんだがね、今度やらかすと地球ごと破壊しかねないもんでね、そこまでやられても困るんだよ。本当に人間は馬鹿だからね、ほっとくとやっちゃうよ?マジで。だからすこしずつ、ね」

「本部長、さきほどから何を仰っているのか」

「いや、もう分かっているだろう。君はそこまで馬鹿じゃないからね」

 剣二は銃を携帯してこなかったことを後悔していた。これから起こることは命に関わる、そんな不安が押し寄せてきていた。

「まるで一連の事件はあなたが首謀者であるかのように聞こえましたが」

「うん、そうだよ」

 井上はあっさり認めた。

「通り魔事件もバス爆破テロ事件もあなたが指示したと?」

「指示、と言うのは正しくはないけどね。彼らの中にもともと存在する狂気を呼び覚ましてあげただけのことだよ。言っただろう?人間にはもともとゴシップやエログロを好む傾向があるのだと。多かれ少なかれ誰にでもその素養は眠っているのだよ。我々はそれを揺り起こしてあげているだけなのだ」

 そう言うと剣二の目の前に一部のパンフレットを差し出した。いったいどこから取り出したのかまったく気付かなかった。そこには『天上の秤』と記されていた。

「見覚えあるだろう?このマークに」

「あなたはいったい、なにものなんだ!」

「聞いてなかったのかい?君たち人間が天使だの悪魔だのと呼んでいる者だよ」

「そんなことが―」

「あるのだよ。そして君は既に認めている。そうだろ?よかったら君も入会しないかい?特別に幹部にしてあげよう。ちょうど今ある事情で人手が足りなくってね、優秀な人材を探しているところなのだよ」

 剣二は思わず立ち上がった。

「させない、あなたを止めてみせる!」

「無理だね」

 井上は穏やかに言う。

「君には無理だ。ただ・・・」

 井上はなぜかしばらく間を置いた。

「まあ、良い。いずれにせよ、君には止められない」

「俺を、殺すのか?玖珠のように?」

 井上はにやっと笑ってみせた。

「そうするのは簡単だがそれでは芸がない。言っただろう?我々は楽しいことが好きなんだ。もっとこのゲームを楽しもうと考えている。だから君を泳がせることにしたよ。でもあんまり退屈させるようならばこの世から消しちゃうかもね」 

「あなたを、告発する!」

「だから無駄だよ、誰も君の言うことなんか信じやしない」

「信じようが信じまいが事実を訴えるまでだ」

「それではこうしよう、今からゲームの始まりだ。実は今こうしている間にもある計画が進行している。それを阻止できたら君の勝ちだ」

「なにを勝手な」

「いや受けるかどうかは君が決めればいいんだよ」

「その計画とはなんだ?」

「ハイジャック―」

「!?」

「―した旅客機を東京のど真ん中に突っ込ませる」

「馬鹿な」

「じゃあ始めるよ。よ~いスタート!」

 剣二は唇を噛んだ。この男の言うことは真実なのか?だが真実だとしたら一刻の猶予もない。今井上をぶちのめしたところで拉致があかない。

「くそっ!」

 部屋を飛び出す。

(まず全ての航空会社に警戒を呼びかけるか。間に合えばいいが)

 車に飛び乗るとカーラジオをつける。するといきなり絶望を告げるニュースが飛び込んできた。

「繰り返しお伝えします。今入ってきました情報によりますと、札幌発羽田行き旅客機ボーイング777が武装グループによりハイジャックされ―」


 その一団は物言わず陰気である以外取り立てて異常性を感じさせるものではなかった。だから搭乗時のチェックも型通りのものでしかなかった。それぞれ手にはスポーツバッグをぶら下げていたが危険を示す反応は出ていなかった。金属探知機が異常を示さぬ限りいちいち疑ってかかるものでは無いのだ。

 だが凶器は金属製とは限らない。例えばセラミックならどうだろう?

ベルト着用のランプが消えたとき、その一団が一斉に立ち上がり頭上の荷物入れからバッグを取り出したときにもまだ危険を感じる者はいなかった。だが彼らがバッグから取り出したのは分解した柄の部分と底に仕込んだセラミック製の刃であった。そしてそれを繋ぎあわせてあっさりと凶器を完成させてしまった。

 ハイジャックするのに大げさな銃器など必要ないのだ。包丁一つあれば事足りる。彼らが機内を制圧し、コックピットに侵入するまでの時間はほんの数分に過ぎなかった。


 絵莉が世話になっている母の妹夫婦は表向き絵莉を疎んじることはしなかった。ただ、絵莉の持つ強大な能力ゆえ、超えられぬ壁が存在していたのは事実だった。微力ながらも魔力を有している者からすれば、その圧倒的な力の差に気づかずにいる訳にはいかなかったのだ。できるだけ普通に接しようとしてはいても、そこはかとなく距離感が生まれるのは致し方のないことだった。

 それでも幸というべきか子供が居なかったこともあり、実の子のように面倒を見てくれていた。決して裕福とは言えない環境にありながら不自由をさせることはなかった。その気持は絵莉にも痛いほど伝わっていた。だからこそ、自分も出来る限り普通の少女として振舞った。必要以上に力を使うことは避けた。そしてなにかあれば誰にも気づかれぬよう行動することにしていた。

 その夜もそうだった。

 どこから嗅ぎつけたのであろうか。不穏な気配を感じ、自宅のマンションの窓から覗くとバイクにまたがったガラの悪い連中が集まって来ているのが見て取れた。その数は瞬く間に膨れ上がり路上に溢れ出した。彼らは当然のごとく近隣に響き渡るほどの爆音を撒き散らし宵闇の静けさをぶち壊し始めた。

 絵莉にはすぐに彼らが例の一味の残党であることはわかった。自分のまいた種でもあり、これ以上問題を大きくするわけには行かなかった。

 絵莉はすっと部屋を抜けだした。義母もおそらくはそれに気づいてはいる。しかしことさら詮索はしない。それはいつものことだった。

 マンションを出るとリーダーと思われる一人の若い男が近づいてきた。男は絵莉を値踏みするかのごとく睨め回すと言った。

「おまえが更木絵莉か。羽鳥を壊した魔女」

 マインドコントロール下にある者を示す抑揚のない声だ。

「知らないわそんな人」

 男は構わず続ける。

「あれ以来羽鳥はクスリに溺れて廃人同様の身だ」

 どうやらあの白いスーツの男のことらしい。もともと悪魔に取り憑かれるような者は人格に問題があるケースが多く、悪魔の存在が唯一の現実との接点であることも珍しくない。その場合現実とのかすがいを失った抜け殻は廃人と化す。

「それであなたたちはその仕返しに来たのかしら?」

「我々と一緒に来てもらおう」

「お断りするわ」

「力づくでも連れて行く」

 絵莉は周囲を囲む暴徒達を見回しながら杏珠のことを思った。

(彼女の方は大丈夫かしら)

「お前は人間には手を出せない」

「?」

「だからお前の方を選んだ」

 絵莉は身の危険を感じ大鎌を呼び出したが一瞬早く背後から強力な電気の一撃を受けた。(油断!これじゃまるであの時の・・・)

「やったぜ、ちょろいぜ!」

 スタンガンを持った男が興奮しながら叫んだ。

「多米田さん、こいつどうすんすか?やっちまっていいすか?」

「あわてるな中島、この魔女は儀式に使う。ここでは殺すな」  

 多米田は下の者に命じて絵莉を車に運ばせた。そして絵莉を乗せた車は宵闇に消えていった。


 警察当局はすぐさま犯人グループとの接触を試みたが一切応答はなかった。なにが目的なのかもわからぬまま旅客機は飛行を続けていた。

 一方剣二は頼るすべもなく孤独な戦いを強いられていた。自分の上司には組織の息がかかっていた。それどころか署のトップが首謀者だったのだ。唯一の協力者と思われた須藤ははたしてこのことを知っていたのだろうか。いずれにせよ既に彼の存在は組織の知るところであり、連絡を取るのは危険だ。

「くそっ!」

 車のハンドルに突っ伏して叫ぶ。そしてなにかの手掛かりになりはしないかと先ほどの井上との会話を反芻してみる。

 ふと井上が口にした言葉が浮かんだ。

『君には無理だ。ただ・・・』

(ただ・・・?あの時何を言おうとしたんだ?)

 その時頭に浮かんだのはあの少女のことであった。剣二は紗季に電話をかけた。彼女の連絡先を訊くために。

(だがどう説明する?こんな荒唐無稽な話をどう切り出せばいいんだ?もし俺の思い違いなら馬鹿げた話だ)

 紗季は剣二の切迫した様子に驚き、心配した。

「たしかにアンジュならもしかしたら・・・。でもとても嫌な予感がするわ。とても危険な気がする」

「そうかもしれない。やつらは手段を選ばない感じだった。だが一刻を争うんだ。このままでは取り返しの付かないことになる」

「・・・わかったわ。アンジュに直接話してみて」

 紗季は剣二に番号を伝えた。そして切ると赤子をぎゅっと抱きしめた。

「カケル、一緒に祈ってちょうだい。みんなが無事でありますようにって・・・」


 ハイジャック犯はそれぞれ身近な乗客を人質に取っていた。人質の首につきつけられた鋭利な刃物は十分に殺傷能力のあるものであることが容易に察せられ、客室乗務員や他の乗客は遠巻きに見守るしかなかった。

 そしてリーダー格と思われる男がコックピットへ侵入を企てた。異常に気付いた副操縦士が制止を試みるが人質の前には従わざるを得なかった。

「なにが望みだ?」 

 機長は乗り込んで来たリーダーの男に刃物を首に付けつけられながら訊く。男はただ短く命じた。

「東京上空に迎え」

 敢えて手荒な真似は避けていた。手を加えるのは一瞬でこと足りるのだ。それまでは真意を気取られぬほうが良い。


 剣二はすぐさま杏珠の自宅へ電話をかけた。ハイジャックのニュースは杏珠も知るところであったが、その背後に例の組織があったことに震撼した。

「こんなことを君に伝えるのは馬鹿げているのかも知れない。しかしあいつらの超自然的な力を止めることができるのは君たちしかいないんだ。今こうしている間にも多くの犠牲者を生み出す計画が進行している。力を貸してくれないか」

 杏珠はただひとこと「わかりました」と応えて切った。だが具体的にどう対処すれば良いものか?現在飛行中の旅客機の位置さえ把握できてはいないのだ。

 その時傍らに控えていたメフィストがなにかに気づいて上方を指し示した。

「お嬢様、あれを」

 そこにはどこから紛れ込んだのか不自然なほど巨大な蛾が舞っていた。そして蛾が鱗粉を撒き散らすとそのキラキラと煌めく粉がスクリーンとなり映像を映しだしていった。

 そこに映しだされた光景に杏珠は息を飲んだ。

「エリ!」

 そこには捕らわれた絵莉の姿が映されていた。絵莉は十字架に磔にされ、手足は杭で打ち付けられ、さらに瘴気の漏れ出す蔦が幾重にも体に巻き付き自由を奪っていた。

 続いて蛾は主人からのメッセージを伝えた。

「これ以上関わればこの女の命はないものと思え。身の程をわきまえ大人しくしていれば命だけは保証してやろう」

 そう伝えると蛾は黒い炎に焼かれ燃え落ちた。

「メフィスト、今のはどこからなの?」

「私めにも皆目見当が付きかねます。おそらく結界のたぐいも施されていると思われます」

 どこかの魔世界であることは間違いない。そこでさきほどの剣二の話を思い出す。

「井上・・・そう井上とか言ったわよね、まずそいつを当たるべきだわ」

 だがおとなしく自宅に留まっているとも思えない。結局旅客機の場所も分からなければ絵莉の居場所もわからない。

(どうする?どうするの?)

「どうしよう・・・どうしたらいいのメフィスト?」

 それは久しく見なかった杏珠の弱気な顔だった。

「お嬢様、まず落ち着くのです。心の乱れは死神を呼び寄せます」

「あなたはよく落ち着いていられるわね」 

「私はお嬢様の悪運を信じておりますゆえ」

「冗談でも笑えないわ。このまま指を咥えて見守れっていうの?」

「まあ、とりあえずお茶にしましょうか」

「あなたはまったく!」

「蛾の鱗粉とはまったく不衛生でございますね。窓を開けて新鮮な空気と入れ替えましょう」

「メフィスト!」

「お嬢様、私を蹴飛ばすのはもうしばらくお待ちいただけませんでしょうか。ほら、今宵の珍客は他にもおられるようでございますよ」

 はたして窓から黒い影が飛び込んできて窓枠にとまった。

「カラス?」


 井上はソファーにゆったりと腰掛け、ハイジャック関連のニュースをテレビで見ながらそれを酒のつまみ替わりにとっておきのブランデーを啜っていた。そこは教団の施設の一室であった。

「あと1時間ほどだな・・・」

 時計を見る。旅客機は刻々と東京上空に近づいていた。

「やはり一人では退屈だな。あの者たちも呼んでにぎやかにやるべきだったか。だが男に酌をさせてもつまらんしな」

「じゃああたしが注いでさしあげましょうか?」

 背後からの声に驚き振り返る。

「貴様、なぜここが」

 そこには黒衣の魔女の姿があった。

「まさか警察署の地下にこんな施設を作ってたとはね。大胆と言うかふざけてると言うか呆れるわまったく」

「あの警告を聞いておきながらなぜおめおめと―」

「これ以上あなたとおしゃべりする気はないわ、おじさん」

 杏珠は井上の中の魔世界にダイブして行った。


 そこは広大な宮殿の大広間であった。玉座に鎮座する王は突然の闖入者にも関わらず悠然と構えていた。

 杏珠はその魔人を睨みつけた。

「ラシュヌ、そうあんただったの。ミカエルのような大物じゃなくって安心したわ」

「おやおや、ずいぶん見損なわれたものだね。君は自分の立場がわかってないと見える」

「エリを、彼女をさっさと開放なさい!」

「あの紫の魔女のことかね?」

「彼女の身になにかあったら許さないわよ!」

「ほう?」

 ラシュヌが指をパチンと鳴らす。と、背後の壁が崩れ落ち十字架に磔にされた少女が現れた。

「エリ!」

 それはまさしくあの蛾の鱗粉のスクリーンに映しだされた絵莉だった。巨大な杭に打ち付けられた両手両足からは血が滴り落ちていた。瘴気立ち昇る蔦は魔力を吸い続け抵抗する力を奪っていた。

「貴様あああ!」

 炎のオーラを全身にたぎらせる杏珠。だがラシュヌはいまだ平静を装っていた。

「まあ、待ちたまえ。前にも言ったように今行われている計画が滞り無く終わればすぐに返して差し上げるよ。なあにちゃんと傷もいやしてあげるさ。それまでおとなしくしていてくれればそれでいいんだ」

「そんなの知ったこっちゃないわ。今すぐ返してもらうわ、力づくでもね!」

「君は冷たいんだな。これから大勢の人間が死のうとしてるのに」

 その言葉に杏珠はあざけりの笑いで返した。

「ふっ、あなたまだそんなこと言ってるの?まったく呑気なもんね」

「どういう意味だ?」

 ラシュヌは少し不機嫌な様子で問うた。

「これを御覧なさい」

 杏珠は手の中から一匹のコウモリを呼び出した。するとコウモリの赤い目から壁に映像が投射された。それは現在のニュース映像だった。

「繰り返します、先程管制に入った情報によりますとハイジャック犯は全員身柄を確保され拘束された模様です。乗員乗客全員無事とのことです。詳しい情報は後ほど―」

「なんだと?」

 思わず起ち上がるラシュヌ。そして杏珠に向かって語気を荒らげた。

「何をした?お前ごときに、いや、誰の仕業だ?」

「さあね。協力者、とだけ言っておくわ」

 苛立つラシュヌ。

「舐めたことを!今後悔させてやる!」

 ラシュヌが唸るように呪文を唱え、両腕を開くと見る間に巨大化し身の丈数十メートルの巨人と化した。


 その少し前、ハイジャックされた旅客機内では異様な光景が繰り広げられていた。犯人たちが急に一様に頭を抑え呻きだしたのだ。ある者は耳に指を入れなにかを掻き出そうとしていた。なにか小さな虫が入り込んだとでも言うように。

 いずれにせよその千載一遇のチャンスに乗務員と乗客たちは無力化した彼らを拘束した。犯人たちはもはや抵抗する気力も削がれたのかなにか憑き物が落ちたかのようにぐったりとしていた。

 こうして事件はあっけなくも収束したのだが、いったいなにが起こったのか誰にも見当が付かなかった。ただ不思議なことに数名の乗客が機内を数匹のハエが飛び交っていたことに気づいていた。だがその事とこの現象とを結びつけて考える者はいなかった。


 巨大化したラシュヌは杏珠を踏み潰そうとするが瞬時に移動をしてかわされ、まるで地団駄を踏むような格好になっていた。

「木偶の坊とはこのことね」

 杏珠の嘲りにラシュヌは顔を紅潮させる。

「どこまでもこけにしおって!思い知るがいい!」

 そう叫ぶとラシュヌは矛先を絵莉に向けた。

「どうだ、お前の仲間を踏み潰してやろう!」

 そして右足を大きく上げ踏みつけようとしたラシュヌだったが絵莉の姿はそこにはなく、代わりにタキシードを来た男が立っていることに気がついた。

 その男はまるでお茶会に呼ばれたとでもいうかのように悠然とティーカップの紅茶を飲んでいた。

「貴様!メフィスト!」

「よくぞご存知で。おまねきあずかり光栄であります」

「呼んでなどおらぬわ!」

「呼んでないわよ」

「お嬢様までそのような」

 杏珠は絵莉を介抱していた。ラシュヌが杏珠に気を取られている隙を見て、メフィストが救出していたのだった。 

「こざかしい!ならばお前から潰されるがいい!」

 ラシュヌは振り上げた右足を勢い良く叩きつけた。地響きと共に揺れる魔世界。だが次の瞬間ラシュヌの体は吹っ飛んでいた。

 戸惑うラシュヌがそこに見たのは赤銅色のドラゴンだった。身の丈は己をさえ凌駕していた。

「バアル?貴様バアルだったのか!」

「グルアアアアアアァァァー!」

 一度破壊の化身と化したメフィストにはもはや人の言葉は通じぬようであった。鋭い鉤爪を一閃するとラシュヌの胸の肉がごっそりと削がれた。

「グオッ!」

 片膝付き崩折れるラシュヌ。だがかろうじて踏みとどまると即座に召喚の呪文を唱える。 すると地面が盛り上がり巨大な獣が出現した。水牛のような頭部に竜のような背中、トカゲのような尻尾を持つ怪獣、ベヒーモス。その体長はバアルさえも上回る規格外れの巨体である。

「どうだ、ベヒーモスを呼んだからにはもうこの世界から生きて帰ることは叶わんぞ!一人残らず喰われてしまうがいい!」

 ベヒーモスは鼓膜が破れるほどの咆哮を響かせるとバアルのメフィストに体当たりを食らわせた。さすがのバアルも吹き飛ぶほどのパワーに魔世界が揺れる。

 バアルは起ち上がるが左腕は破壊され垂れ下がっていた。

 杏珠は絵莉を安全な場所まで運ぶと事の成り行きを見守っていた。今近づけば理性を失い本能に任せ戦う怪獣たちの争いの巻き添いとなるだろう。特にあの姿になった時のメフィストは意思の疎通さえままならず手がつけられないと知っていた。 

「ベヒーモスはあらゆるものを飲み込み、咀嚼する。例えそれが人智を超えた妖獣であったとしても!滅多にお目にかかれぬ極上の餌だぞ、さあ食らうがいい!」

 巨大な野獣べヒーモスは本来穏やかな性質と言われている。だが召喚主ラシュヌの念に支配された今、荒れ狂う凶獣と化していた。正気を無くしたこの獣を止めるすべは無い。

 だがバアルと化し自我のコントロールを失っているメフィストも一歩も引く気配はなかった。

 長期化するかと思われたのもつかの間、ベヒーモスの巨大な口が裂けんばかりに開くとバアルを頭から丸呑みにしてしまった。

「馬鹿め、とうとう食われおったわ。そのまま胃液で溶けて無くなるがいい」

 ラシュヌはさも痛快というふうに笑うと杏珠の方に向き直る。

「次はお前たちの番だ。命乞いをしてももう遅いぞ?」

 杏珠は慣れないヒーリングで絵莉を治療していた。

「ああもううるさい。ちょっと黙ってなさいよ!」

 ラシュヌの脅しにもまったく気にかける様子もない。

「舐めた口を叩きおって!」

「あんたってそういうところがほんっとに雑魚キャラよね。そうやってしゃべればしゃべるほど自分で死亡フラグ建てまくってることに気づかないのかしらね」 

「どこまでも生意気な!ベヒーモス、踏みつぶしてしまえ!」

 そう命じたラシュヌだったが、そのベヒーモスの様子がどこかおかしいことに気づく。動きが鈍くなったかと思うと、突如苦悶の叫び声を上げ身悶え出した。

「ベヒーモス、なにを―」

 その直後、ベヒーモスの腹が裂けて夥しい血しぶきが滝のように流れだした。そして地響きと共に倒れるとそのまま息絶えてしまった。その血溜まりの中、食われたはずのバアルが立ち上がる。腹を食い破って出てきたのだ。 

「バ、バカな・・・」

 ラシュヌはひどく動揺し後ずさる。そしてどうあがいても形勢は圧倒的に不利と見るや逃亡を試みた。

 だがその行く手を巨大な炎の壁がせり出し遮った。

「あんたってどこまでもチンピラね」

 逃れようとするラシュヌだが四方をたちまち炎の壁で塞がれる。さらに天上と床も炎の壁で塞がれ密閉されてしまう。

「それは炎の棺桶よ。逃れるすべはないわ」

「ま、待て、お前の望みはなんだ?叶えてあげよう、私なら―」

「やられキャラにふさわしい悪あがきね。もういいわ、あなたにはうんざり」

「貴様!これで終わりと思うなよ!わたしはたんなる影に過ぎぬ―」

 巨大な炎の棺桶の中で地獄の業火が渦巻くと、ラシュヌの体は断末魔の叫び声だけを残し塵さえも残さず消滅した。

「ブラボー、お嬢様また腕をお上げになられましたな」

 振り向くと姿を人間に戻したメフィストが拍手を送っている。

「あなたは相変わらずで見てらんなかったわ」

「わたくしも出来ればスマートに済ませたいのですが化身中は自制が効きませぬゆえなにとぞご容赦のほどを―」

 そう言いかけたメフィストだったがよろけて片膝を付いてしまう。駆け寄り肩を貸す杏珠。胸元に血が滲んでいる。

「強がってばっかり。お願い、もう無茶しないで。ただでさえあなたは力を使うたびに命を削っているのよ!」

「なあに、わたくしめの寿命は人並みより長ごうございますゆえお気になさらずとも結構。ほれ古来よりバカは長生きすると言われておりますから」

「ほんっとにバカね。あたしの家族はもうそのバカしかいないのよ?」

「おっとそれより時間が。この世界が崩れる前においとまいたしましょう」


 現実世界では井上が魂が抜けたように崩れ落ちていた。精神の深部まで侵されていたこの男はおそらくはもうまともな精神状態には戻れまい。だがこの後のことは関知するものではない。人間たちが法によって裁くべきことだ。

 杏珠が応急処置を施していた絵莉は一命は取り留めていたが、血の気の引いた体は依然冷たく力なく横たわっていた。だがメフィストが本格的に治癒を行うと見る間に血色が良くなり精気を取り戻した。

「お嬢様は壊す方は得意ですが治す方もお勉強なさらないと」

「大きなお世話よ。人にはそれぞれ得手不得手があるものなのよ」

「まったくでございます。ですから支えあっていかなければいけません」

 と、絵莉の目が開いた。

「わたし・・・助けてくれたの?」

 杏珠はその様子を見て安堵した。

「もう大丈夫よ。今回は貸しにしといてあげるわ」

 絵莉の視線がメフィストに向けられるのを見て、

「彼のことなら心配ないわ。昔から仕えてくれている執事なの。名前は―」

「メフィスト、あなたも来てくれたのね」

 杏珠は絵莉の口からその名前が呼ばれたことに少し驚いてみせた。

「まあ、知り合いだったの?そうならそうと言ってくれればいいのに」

「まあまあ」とメフィスト。

「わたくしも顔が広うございますゆえ。亡くなられた杏珠さまのご両親と絵莉さまのご両親は生前からお付き合いがあったのです。こうしてお近づきになられましたのも運命と言えましょう」

「でもどうしてここが分かったの?」

 絵莉が怪訝そうに訊くと、その問にはメフィストが答えた。

「あなたの伯母様が教えてくださったのですよ」

「伯母様が?」

 メフィストは頷いて続けた。

「あなたはご存じないでしょうが、あの方もあなたのお母様と並ぶほどの力をお持ちなのです。それを人間の相手と夫婦となった折り、自ら封印なさったのです。ですがあなたの身を案じてその禁を破り、感知能力を使いここを突き止めたのです」

「この結界をどうやって?」

「失礼」

 メフィストはそう言うと絵莉の髪を右手で撫ぜた。そしてその手を絵莉に見せると手の甲に小さなテントウムシがとまっていた。

「この虫が探知機の役目をしていたんですな」 

「わたし、伯母様のことをなにもわかってなかった・・・。距離を置いてたのは私の方だった・・・」

「さあ、もう立てるでしょう。はやく帰って安心させておあげなさい」

 杏珠が肩を貸して助け起こす。と、絵莉は思い出して尋ねた。

「ハイジャックの方はどうなったの?」

「あの子が助けてくれたわ」

「あの子?」

「空の支配者、蝿の王よ」


  第9章


 剣二は無事復職を果たしたが、ハイジャック事件の裏側の真相は影の首謀者と目された井上の自害により闇に葬られた形となってしまった。また、ハイジャック犯がなにゆえ混乱を来たしたのかも謎のままとなっていた。そうして数々の謎を残したまま秘密結社『天上の秤』による一連の事件は収束を迎えようとしていた。だが『天上の秤』の残党は依然新たな火種となるやもしれず余談を許さぬ状況に変わりはなかった。

 杏珠と絵莉はふたたびいつもと変わらぬ平穏な日常へと戻っていた。ただ違っていたのはそこにいまだ紗季の姿が無いことだった。その件について紫穂は二人が何かを隠していることには感づいていたが、無理に問いただそうとはしなかった。秘密にしなければならない事情があるのだと察していたのだ。

 だが二人はもうそのことを紫穂に内緒にしておくのも限界と感じていた。しかしどう説明したものか?そこでその日の放課後、紫穂も誘って紗季の家を訪ねることにした。

 紗季は三人の友人を快く招き入れた。あらかじめ紫穂も来ることを聞いてはいたものの、どう話せば理解してもらえるものか悩んでいたのだが、いざ顔を見ると嬉しさが不安を打ち消した。

 紫穂は紗季の腕に抱かれた赤子を見ると戸惑いを隠せずにいたが、紗季の幸せそうな表情にほだされこの事実を肯定的に受け入れるようになっていった。

 ただ杏珠たちはまだこのカケルと名付けられた赤子の全てについては打ち明けることができずにいた。たとえその精神が善良なものであったとしても、異世界の力を持つことは公にするべきではないと考えたからだ。


 杏珠と絵莉は既にあの事件のあと紗季のもとを訪ね、翔に会いテレパシーを通して話をしていた。

『こないだ剣二さんが誘拐された時もあなたが助けてくれたのね?』 

 杏珠は翔を抱かせてもらいあやすふりをしながら尋ねた。翔は魔世界の者にのみ聞こえる声で答えた。

『ボクはママを悲しませたくない。だからあの人をなんとか助けたかった。でもあの時はまだ自分の力をどう使えばいいのか分からなかったから君たちにお兄さんを助けてもらったんだ。あの時はありがとう』

『礼を言うのはこっちの方よ。あなたは正しい心を持っているわ』

『ボクにはなにが正しいかはわからないよ。でもママが願うとおりにしてあげたい。飛行機の時もママがそう願ったからしたんだ』

『あなたはとてもいいことをしたわ。ママはあなたを誇りに思うでしょう』

『そうかな?』

『きっとそうよ。でもあなたの力のことはできるだけ隠したほうがいいと思うの。わたしたちがそうしているように』

『自分でもそう思っているよ。皆に知られればママに迷惑をかける事になるだろうから』 

 とても生まれたばかりの赤ん坊との会話ではないが、この子は前世での記憶を受け継いでいたのだ。その記憶はいまだ完璧ではないが日を追って思い出されてくることだろう。そしてすべての記憶が蘇り覚醒した時、この子がその後をどう生きようとするのだろうか。その強大な力をどう使うのだろうか。

(大丈夫、この子は母親に似て素直に育っているわ)


 紗季の家からの帰り道、杏珠は紫穂の様子を気遣った。

「今まで黙っててごめんなさい。でもどう伝えたらいいのか分からなかったの」

「ううん、気にしてないから。こんなこと学校に知れたら退学になっちゃうかも知れないし公にはできないわよね。それよりとても可愛い子だったわね。あたしも欲しくなっちゃった。な~んて」

 紫穂は努めて快活に振舞っているようだった。いつもならジョークでまぎらわせるところだがさすがに今日は話が弾むこともなくそのまま別れた。

 紫穂の姿が見えなくなると、それまでいつになく口数が少なかった絵莉が言った。

「ちょっと話があるの」

 その表情が硬いのが杏珠には気になった。

「どうしたの深刻な顔して?」

「伯母様が感知系の能力を持っていたことは知ってるわよね。その伯母様が不吉な妖気を感じ取ったらしいの」

「不吉な妖気?」

「実はかなり前からそれらしきシグナルは出ていたそうだけど、それが明らかに強まって来てるそうなの。もしかすると以前から話題になっていた神隠しの事件と関係があるかもしれないって」

 ここ数ヶ月に及んだ『天上の秤』関連の事件に隠れてはいたが、依然として神隠しの事件も未解決のまま続いていたのだった。

「その場所は特定できるの?」

「おおよそは。これが教えてくれるわ」

 絵莉が右手を掲げると、どこから飛んできたのか小さな黒いてんとう虫が人差し指にとまった。  

 そのてんとう虫を絵莉がフッと吹くと指を離れふわふわと漂い始めた。二人はその後を追った。


 てんとう虫はまるで陽気に誘われるかのように呑気に漂い先導した。それは傍から見れば和む光景だったかも知れない。だがそれを追う二人の少女は少し緊張の面持ちであった。

 杏珠は言いようのない不安を感じていた。なにか嫌な予感がする。この冷たい感覚はなんだろう?これも能力のひとつなのだろうか、悪い予感ほどよく当たるのだ。

(この通りは・・・)

 杏珠には見覚えのある通りだった。以前何度か来たことのある街並み。

「近いわよ」

 絵莉がささやく。ふと気づくとてんとう虫が赤く点滅をしている。その点滅は次第に速くなり、目的地が近づいていることを示していた。

 やがて絵莉はある家の前で立ち止まった。

「ここよ、ここから妖気が漏れてるのを感じるわ」

 そう言って振り向くと杏珠が青い顔で立ちすくんでいた。

「嘘・・・どうして・・・?」

「どうしたの?」 

 表札に目を向ける。そこには「惣津」の文字が。決してありふれた苗字ではないことから絵莉にもすぐその意味がわかった。

(惣津・・・まさか!)

「ここは・・・シホの・・・?」

 うなずく杏珠。

 絵莉は心を落ち着かせ言った。

「わたしが様子を見てくるからあなたはここで待ってて」

 だが杏珠は気を取り直すと前に出た。

「いえ、大丈夫。この目で確かめたいの」

 軽く深呼吸すると自らチャイムを鳴らした。返事は無い。再び鳴らして待つ。さらに二、三度軽くノックをする。どれほど待っただろうか。実際にはほんの数分に過ぎなかったはずだが二人には遙かに長く感じられた頃、ようやくインターホンから紫穂の声が響いた。

「どちら様ですか?」

 少し硬い声音だった。

「あ、あたし、アンジュ。ごめんね、エリと話したんだけど今日のことをもっとちゃんと説明したほうがいいんじゃないかって。今、少し時間あるかな?」

 わずかに間があって答えが返ってきた。

「ごめん、今日はちょっと疲れちゃったからまた今度にしてもらえるかな」

 その拒絶が杏珠たちの不安をさらに募らせた。

「やっぱりそうだよね、無理言ってごめんね。じゃあまた明日学校で」

 二人はそのまま家から離れた。が、角を曲がった所で杏珠が言った。

「あたしが様子を見てくるからエリはここで待ってて。もし・・・いえ大丈夫」

「遅くなるようならわたしも行くから」

「・・・わかった」

 杏珠はカメレオンのように周りの背景と同化するとフッと姿を消す。そして一人紫穂の家へと歩を進めた。

 音もなくドアをすり抜ける。その時、強い反発を感じた。通常ではありえない拒絶反応。

(これは結界じゃない。むしろ対外者にたいする備えは無防備なほどだわ。とすれば強すぎる魔力が抑えきれず自然と膨張して膜を作ってることになる・・・)

 張り詰めた空気の中その発生源へと向かう。幸い、紫穂はこの近くにはいないようだった。

 向かった先はキッチンだった。ふと視線を下に向けると小さな金属の取っ手が見えた。

(あそこは収納庫かしら・・・)

 言いようのない不安を抱えたままその場に跪くと取っ手を掴み引き上げた。その扉は特段変わったものでは無かった。だが杏珠の手には異様に重く感じられた。なにかが引き上げることを拒んでいた。両手でさらに力を込めて引き上げるとズルッと蓋が浮いた。

 途端に異様な臭気が漏れ出し、杏珠は顔を歪めた。そこには見てはいけないものがあった。

 最初に見えたのは肉の塊だった。いや、それが人の肉体であることさえすぐには判別出来なかった。その収納庫にはどれほどの広さがあるのかは見当も付かなかったが、およそ無謀なほどぎっしりと詰め込まれた肉体の堆肥。その中の一人の目が覗き込んだ杏珠とかち合った。おもわず後ずさる杏珠。

(なんなのこれは?死体の山?いえそうじゃないわ、生きながらにして魂を抜かれた抜け殻の塊!)

 意を決して改めて覗き込む。すると幾重にも折り重なった体の中に見知った顔を見つけた。それはまだ子供のものであった。

 杏珠は絶句した。その男の子は紫穂の弟であった。おそらくは他の家族もその中に見つかるであろうことは想像に難くなかった。

 ふと背後にゾクッと寒気を感じて振り向く。そこには紫穂が立っていた。その姿に言葉を失う杏珠。それは杏珠の知っている紫穂では無かった。その表情はまるで心の入っていない蝋人形のように冷たく硬かった。

「なにをしているの?」

 紫穂は抑揚のない声で問うた。間違いなく紫穂には杏珠の姿が見えていた。

「シホ・・・」

「なぜあなたはそこにいるの?」

 およそ普段の紫穂からは考えられない台詞だった。それもまるで機械がしゃべっているかのような感情の無い冷淡な声音で。

 杏珠には事の成り行きは見当が付いていた。だがそれでも確かめないわけには行かなかった。

「これは・・・すべてあなたがやったのね?」

「ええそうよ」

 紫穂は意外なほどあっさりとケレン味なく認めた。

「なぜ・・・どうしてこんなことを?あんなに仲が良かった弟まで・・・?」

「あなたには関係無いでしょ」

 そう言うと紫穂はスッと杏珠の方へ踏み出した。どこから取り出したのだろうか、それまで気が付かなかったが右手に包丁を握りしめていた。思わず後ずさる杏珠。

「やめてシホ!目を覚まして!いつものあなたに戻って!こんなの、本当のシホじゃないわ!」

「本当のわたし?」

 その言葉に初めて反応し表情に感情が現れた。だがそれは嘲笑と言うべきものだった。

「あなたなにを言ってるの?本当のわたし?」

「シホ・・・」

「あなたは本当のわたしを何も知らない!」

 紫穂はそう叫ぶと逆手に持った包丁を振り上げ、切っ先を真っ直ぐ杏珠めがけて突き立てていく。それは斬りつけるのではなく突き立てえぐる構えであった。

 その時紫穂の背後から声が響いた。

「シホ!やめなさい!」 

 紫穂が呼び止める声に振り向くと紫の魔女、絵莉が立っていた。心配になり杏珠の後を追って来たのだ。絵莉の存在は動転していた杏珠に平常心をもたらした。そして意を決すると、紫穂が気を取られている隙に紫穂の中に潜む闇の世界へとダイブしていった。続いて絵莉もその後を追った。


 アバドン―馬のごとき頭をもち、コウモリのごとき翼を携え、サソリのごとき尾をくねらせる堕天使。

 この世界の主アバドンは腕を組み仁王立ちで二人を出迎えた。

「これは珍しいお客さんだ。それも魔女が二人とは」

 杏珠は怒りに震え我を忘れそうだった。

「あんただけは許さない!殺してやる!」

「おやおや、これは物騒だね」

「よくもあたしの大事な友だちを―」

「勘違いしないで欲しいねえ。君も知っての通り我々はその者が持つ心の闇に入り込むものだ。つまりこの世界は彼女自信が望んだものなのだよ」

「信じるものですか!誰にだって弱い部分や暗い部分はあるわ。その小さな隙間に潜り込みかどわかすのがあなた達の手じゃないの。これがシホが本当に望んだ世界だなんて信じないわ!」

「信じない、か。彼女もそんなことを言ってたっけねえ。なにも信じられない、と。君のこともだ」

「嘘よ!」

「では聞くが、君は君自身や君の知る事柄について包み隠さずに彼女と接して来たかね?」

「それは・・・」

 口ごもってしまう杏珠にアバドンは追い打ちをかけるように言った。

「この娘が君のことをなにも知らないように君もこの娘のことをなにもわかってあげていなかったのだ!」

「アンジュ、惑わされないで!それがそいつの手よ!」

 絵莉が杏珠の動揺を見とがめて強い口調で叫んだ。そして瞬時に間合いを詰めると大鎌を振り下ろした。だがアドバンはそれをしなやかな身のこなしで易々と受け流した。

「こちらの魔女はいささかせっかちに過ぎるようだね。まだ話の途中だよ」

「あなたの話しなど聞く耳持たないわ!」

「これを見ても同じことが言えるかね?」

 アバドンが指を鳴らすとその背後に数十個の淡い光が浮かび上がった。その青白いほのかな光はゆらゆらと頼りなげに揺れていた。

「さあ泣け、喚け、そして絶望しろ」

 光をどす黒い瘴気が覆うとあたりにうめき声が溢れ出す。ありとあらゆる苦痛と苦悶の叫び声が空間に満ち溢れていく。

 杏珠にはその光の正体が理解できた。

「人の魂を弄ぶ外道め」

「どういうこと?あれは・・・神隠しにあった人たちの魂なの?」

 絵莉の言葉に頷く杏珠。

「あいつは人の魂を弄び苦痛を与え続けることに喜びを感じるサディストなのよ!」

 杏珠の辛辣な非難をアバドンは余裕の表情でやんわりと返す。

「心外だねえ。わたしは彼らを正しい信仰へと導いているだけだよ。言うなれば躾だな。人間だって犬や猫のように口で言ってもわからぬ獣には体で覚えさせるじゃないか」

「そうね、口で言ってもわからないやつには体で分からせる他ないわよね」

 杏珠の体が一瞬で灼熱の炎と化す。絵莉はその熱さに杏珠のリミッターが外れるのを感じた。

「おっと、この魂どもはまだ生きていることを忘れてもらっちゃ困るね」

 アバドンがそう言うと魂たちがアバドンの周りに集まり盾となった。

「だめよアンジュ!あの魂たちを傷つけちゃだめ!」

「そちらの紫のお友達のほうがいくぶん賢いようだね」  

 思いとどまり歯ぎしりする杏珠をよそにアバドンはおもむろに両手を天に掲げた。すると上空ににわかに黒い雲が立ち込め、辺りが嵐の前のように薄暗くなった。その黒い雲は見る間に勢いを増し広がりを見せる。

 だがその黒雲がだんだんと近づくに連れその正体が別のものであることが分かった。それは無数のイナゴの大群であった。

 高密度のイナゴの奔流はたちまち杏珠と絵莉を取り囲み襲いかかった。杏珠はそれを炎の波動ファイアーノバで遠ざけ、絵莉は大鎌を旋回させ寄せ付けない。

「たかが虫でも無限に湧き続ければ国を滅ぼす力にさえなるものだ。いつまでそうやってこらえていられるかな?」

 この世界では時間の感覚は現実世界とはまったく違う。真に永遠さえ存在するのだ。二人はいつ果てるともなく続く濁流に次第に推され始めて行くのだった。

 絵莉は押し寄せるイナゴの大群を大鎌を振り回しせき止めていたが、周囲の温度が異常に上昇して行くのを感じ杏珠の方へ視線を向けた。すると杏珠が放つ炎の波動が爆発的に拡大し始めていた。

「アンジュ!」

 返事は無かった。杏珠は怒りのあまり我を忘れ無意識に力を開放しているようだった。そしていつしか意思をはらんだ炎は龍のように鎌首をもたげるとアバドンの方へと牙を向けた。

「だめよ、それ以上あいつに近づいたら魂も焼かれてしまうわ!」

 絵莉の叫びは届かない。

「おやおや、結局君は人の命などどうでもいいんだね。自分の感情にまかせて戦っているに過ぎないじゃないか。それでは我々のことをとやかく言う資格はないね」

 アバドンの挑発は遂に杏珠のリミッターを開放した。爆発音と共に杏珠の頭上に炎の塊が出現する。それはファイアーメテオ、灼熱に燃える巨大な隕石だった。この世界に風穴を開けえるほどの強大なエネルギーが内部に渦巻き煮えたぎっている。

 だがアバドンはなおも挑発を重ねた。

「やるがいい!だがお前は自分の犯した罪に一生苛まれて生きることになるのだ!それがわたしがおまえに与えるこの上ない苦痛になるのだ!」

 はたしてその言葉は杏珠に届いているのだろうか。杏珠は顔色ひとつ変えずファイアーメテオをアバドンに向けて放った。

 だがその寸前、杏珠の体に絵莉が飛びつき身を挺して立ちふさがった。

「ダメ!しっかりしてアンジュ!正気に戻って!」

 マグマのように燃え盛る杏珠のからだは氷の皮膜のガードをいともたやすく溶かし、絵莉の体を焼いた。ぶすぶすと焼けただれた肉の臭いが立ち込める。だがそれでも絵莉は離さなかった。

「アンジュお願い!」

 絵莉の願いが届いたのか杏珠の表情に感情が戻り始めた。

 だがその時、すがるように叫ぶ絵莉の背中を激痛が貫いた。

「!」

 その場に崩折れ顔を歪める絵莉。その背を貫いたのはアバドンの蠍の尾だった。

「邪魔だ見苦しい。せっかく盛り上がってきたものを」

 絵莉の背中の傷は決して深いものではなかった。だがそれにもかかわらず痛みは想像を絶するほどの苛烈なものだった。

「その毒で死ぬことはない。殺す毒ではなく苦痛を与える毒だからな。だがこの毒を受けた者は皆その痛みにのたうちながらいっそ殺して欲しいと哀願するのだ」

「エリ!」

 正気に戻った杏珠はその場に倒れ身を捩らせて激痛に耐える絵莉を見た。助け起こそうとする杏珠に絵莉はかろうじて言葉を発した。

「わたしたちの使命を忘れないで・・・」

「エリ・・・あなたって人は・・・」

 杏珠は覚え知ったヒーリングで傷を癒そうと試みる。

「無駄だ、傷は直せてもその毒は消えることはない。わたしが死なぬ限りはな」

 余裕でせせら笑うアバドンを杏珠はキッと睨みつける。

「じゃああんたを殺せばいいわけね?」

「できるものならな。この人間どもの魂もろともだがな」

「そうかしら?」

「なに?」

 一転、杏珠が見せる余裕を訝しむアバドン。

「なんだ・・・これは・・・?」

 ふと気づくと周りに盾として張り巡らせていた魂が体を離れ始めていた。

「お前たちどこへ行く!勝手は許さんぞ!」

 だが魂たちはアバドンの元を離れ見る間に遠ざかって行く。

「なぜこんなことが・・・?」

 狼狽するアバドンが魂たちに気を取られ、自らの身の危険を察知したときには既に決着は付いていた。迫り来る巨大な炎の隕石はアバドンを押しつぶすと、ちぎれ飛んだ体を灰さえ残らぬほどの灼熱で一瞬にして蒸発させ消し去った。

 やがて下僕のイナゴの大群も潮が引く用に引き上げて行き、後には漂う魂たちが残された。

 体内に充満したすべてのエネルギーをファイアーメテオに込めて吐き出した杏珠は安定を取り戻していた。足元に倒れた絵莉に肩を貸し、助け起こす。絵莉の受けた苦痛もアバドンの消滅と共に消え去っていた。

 絵莉が揺れながら漂う魂たちを見て言う。  

「またあの子に助けられたようね」

「彼の下僕が魂たちを導いてくれたのよ」

 魂のひとつひとつを蝿たちが先導していたのだ。

「すでにアバドンよりも強い力を持っているということになるわね」  

「ええ・・・」

 杏珠たちの傍らの空間が揺れるとスッとメフィストが現れた。

「お嬢様、遅くなりまして申し訳ございません」

「あなた、しばらく安静にしてなきゃダメじゃないの!」

 メフィストは先の戦いで受けた傷はもとよりバアルとしての力を使ったためにひどく消耗していた。

「いえ、これしきどうということはありません。それよりもあの魂を救わなければなりません」

「できるの?」

「アバドンは魂に絶え間ない苦痛を与えるものの、命まで奪うことは無いと聞き及びます。今ならまだ救えるはずでございます」

「でも今あなたがその力を使えばあなたの命に関わるわ!」

「迷っている時間は無いのです。この世界が崩れ落ちる前に成さねばなりません」

「でも―」

「大丈夫、わたくしはお嬢様が考えるほどやわではございませんよ」

 メフィストはそう言うと天に向かい両手を広げた。

「ベルゼブブ殿、迷える魂をこれへ!」

 その声に従うように蝿達に導かれた魂がメフィストの頭上へと集められた。すると天上からまばゆい光が降り注ぎ、魂たちは浄化されるように光に溶けて消えていった。

 すべての魂を帰し終わるとメフィストは力尽きたようにその場に崩れ落ちた。

「メフィスト!」

 駆け寄ろうとしたその時、彼らの前に一人の女性が突如現れた。女神かと見紛うほどの端正な顔立ちと優雅な立ち姿。そして腕には赤子を抱いている。その赤子はまさに翔、ベルゼブブであった。

 メフィストはその女性を知っていた。

「アスタルテ・・・」

「バアル、見事なお点前でしたね」

 杏珠と絵莉は二人の関係については知る由も無かったが、それより彼女がなぜ翔を抱いてこの場に現れたのか疑問に思わずにはいられなかった。

 アスタルテはメフィストの傍らに立つと透き通るような声で言った。

「あなたが人間と交わした契約についての噂は聞いていましたが本当だったのですね」

「あなた誰なの?。その子をどうする気なの?」

 アスタルテは杏珠たちの方を向くと答えた。

「この子は私たちの世界へ連れていきます」

「なんですって?」

「それがこの子のため、そしてあなた達のためでもあるのです」

「でもそんなこと」

「そうよ、その子にはちゃんと母親がいるのよ!」

 絵莉も声を荒らげた。だがそれには翔自らの声が応えた。 

『仕方がないんだ。ボクはもともとママやみんなとは住む世界が違うんだよ』

「それは・・・だけどそのことを紗季は知っているの?」

『ママにはなにも言わないで行くよ』

「それじゃあんまりじゃ―」

『ううん、約束通り悲しませたりはしないよ。ボクに関する記憶はすべて消してしまうからね。ボクがいたこともボクを生んだこともすべて忘れてもらうから』

「あなたはそれでいいの?」

『ボクは忘れないから』

「私たちの記憶も消すつもりなの?」

『その必要はないよね?それからあの人、シホっていう人のやったことは全部本人と魂を抜かれた人たちの記憶から消しておくよ。それが正しいことなのかはよく分からないけれど』

「ありがとう、是非そうしてちょうだい」

 絵莉はその言葉に現実に起こった出来事をねじ曲げることに問題はないのかと自問した。

「それでいいのかしら・・・」

 杏珠にも絵莉の迷いは理解できた。だがきっぱりと言い切った。

「大丈夫、あたしはサキの本当の心を信じてる。アバドンに邪心を植えつけられただけよ。もしこの先、また歪んだ心が間違いを起こすようならあたしが止めてみせる」

 そんなに都合よくすべてを無かったかのようにできるのだろうか?この先なにも知らず平和だった頃のように振る舞えるのだろうか?絵莉にはすぐには答えが出せなかった。が、杏珠の「強さ」を信じてみようと思った。その強さは自分には無いもの、そして憧れるものでもあったのだ。

 地面のゆらぎが激しさを増し、アバドンの世界が終わりの時を迎えようとしていた。

 アスタルテは杏珠の方を向くと言った。

「もう行かないと。彼、バアルをお願いしますね。少々無理をしたようです」

 メフィストはうずくまったままだったが努めて気丈に言う。

「お気遣いなく。それよりその子を頼む。その子は神にも悪魔にもなりうる存在だ」

「神になるか悪魔になるかはこの子が自分で決めるでしょう。わたしはただ見守るだけ。縁があったらまた会いましょう。では」

 そう言うとアスタルテはベルゼブブを抱いて消えた。それから杏珠たちも崩れ行く世界を後にした。

 

 三人は元いた場所、紫穂の家のキッチンに降り立っていた。そこには意識を失った紫穂と魂の戻った紫穂の家族が倒れていた。他の魂を抜かれ囚われていた者達は地下の収納庫から消えていた。それぞれの居るべき場所へ戻ったのだろうか。じきに目覚めた時、彼らが過ぎ去った記憶のない月日をどう埋め合わせるのか知る由もない。絵莉には釈然としないものが残っていたが今は考えるのはよそうと思った。

「わたしはいいからメフィストを診てやって」

 杏珠はそう促されて絵莉の腕を肩から外すと、その場に伏したままのメフィストの傍らに跪き様子を伺った。メフィストは意識を失っているかのように身動きしなかった。杏珠は悪い予感に冷たい汗が背筋を伝うのを感じた。

「しっかりして、あれしきで倒れるあなたじゃないはずでしょ?」

 肩を揺するとうっすらと目を開いた。

「お嬢様・・・皆様ご無事で?」

 杏珠は少しほっとする。

「よかった、おどかさないでよ。ええ、みんな無事よ」

 それを聞きメフィストも安堵の表情を浮かべる。

「それはよございました」

 だがそう言うとまた目を閉じ意識が遠のいていくように力が抜けてしまう。

「ちょっと、しっかりして!」

 杏珠が揺すると再び目を開く。

「お嬢様、友達を大事になさいませ。人は一人では生きて行けぬものでございます」

「わたし、伯母様から聞いたわ」

 絵莉がそばに来て言う。

「この町に来たのはメフィストに勧められたからだって」

「やっぱりそうだったのね」

 メフィストは薄れ行く意識の中で呟くように言葉を続けた。

「わたくしもそう長くはございませんゆえ。絵莉様、お嬢様をよろしくお願い致します」

「縁起でもないことを言わないで!」

「お嬢様、今回は流石に少々疲れました。少し眠らせて下さいまし。今度の眠りは少々長くなるやも知れませぬが・・・」

 杏珠が支えていたメフィストの体からふっと力が抜けると首ががくっと落ちた。

「嘘!ちょっと、しっかりしてよ!ふざけないでよ!」

 杏珠はメフィストの体を少し強く揺すった。だが目覚める様子はなかった。

「目を覚ましてよ!」

 なおも揺する杏珠の手を絵莉が制した。

「だめよ、このまま寝かせておいてあげましょう」

「そんな・・・」

 杏珠が信じられないという顔を向ける。

「だってこんなによく眠ってるんですもの」

「え?」

 落ち着いて様子を伺うと小さな寝息が聞こえてきた。それは次第に大きくなりいつしかいびきとなった。

 杏珠は思わずメフィストの体をどたっと離した。

「こんの~!まったくまぎらわしい!」

 腹立ちまぎれにメフィストの尻に蹴りを入れる。するとメフィストは「うっ」と小さく呻いたがまた寝息を立てて寝てしまった。

「もうこんなのほっといてさっさとここを離れましょ」

「でもメフィストをこのままでは」

「いいのいいの、起こしちゃ悪いでしょ?さあ!」


 翌朝。杏珠は絵莉と一緒に紗季の家へと向かった。正直、一人で会うのは怖かったのだ。翔は自分に関する記憶はすべて消したと言っていたが、はたしてうまく行っているのだろうか。

 杏珠がチャイムを鳴らす。しばらくするとドタドタと慌ただしい足音が聞こえドアが勢い良く開いた。

「あ、迎えに来てくれたの?」

 そこには以前にも増して元気で明るい紗季の顔があった。

「ちょっと待ってて、すぐ支度するから!」

 二人はあっけにとられるほど快活な様子にほっとする。だが彼女は空白の時をどう捉えているのだろうか?その疑問には学校へ向かう道中、紗季が自ら語ってくれた。

「な~んかずっと体の調子が悪かったのよねえ~。嘘みたいに治ったけど」

「病気・・・だったのよね。そう、もう良くなったんだ」

 杏珠は適当に合わせてみた。

「そ、そうよみんな心配してたんだから」

 絵莉も当たり障りなく続く。

「ごめんね~心配掛けて。でももうすっかり大丈夫。快食快便!」

「え?」

「なんかねえ~よくわかんないんだけど極度の便秘だったみたい」

「便秘?」

「なにが悪かったのか不思議と思い出せないんだけど、ど~も長い間お腹が張ってたことだけは覚えてんのよね」

 杏珠と絵莉は顔を見合わせる。

(なんか勘違いしてるけどまあいいか)

(でも便秘で長期欠席とか前代未聞よ!)

(本人納得してるようだからいいでしょ)

 そこへ後ろからバタバタと駆け寄ってくる足音が聞こえた。

「おっはよ~!」

 紫穂だった。紫穂は紗季に気づくと抱きついた。

「ひっさしぶり~!元気になって良かったね!」

 その底抜けに明るい表情から、どうやら紫穂も事件の記憶は綺麗に消えているようだった。そして挨拶もそこそこに一方的にまくし立てた。

「ねえねえみんな聞いて、昨日大変だったのよ!」

 思わずドキッとする杏珠と絵莉。

「そ、そう、それは大変だったわね」

「まだ何も言ってないでしょ!」

「な、なにがあったのかしらねえ」

「実は昨日ね、目が覚めたらなぜか台所で寝てたのよ!」

「あ、あるあるあたしも時々」

 杏珠が無理やり合わせる。

「あるか~い!」

 裏拳で突っ込む紫穂。

「ま、それはいいんだけど」

「それはいいのね」

「気がついたら横にへんなおっさんが寝てるのよ!グースカ気持ちよさそうに涎垂らしながら!」

 顔を見合わせる杏珠と絵莉。

「それがまた変な格好してんの。今時タキシード着ちゃってさ。執事かっての」

(だからほっといちゃまずいって言ったのに)

(まさかあのままとは思わないじゃない!)

 目で会話する絵莉と杏珠。

「それ変質者よきっと」と紗季。

「でしょでしょ?」

「それでどうしたの?」

「弟がバットでケツに一発入れたら飛び起きて逃げてったわよ。それがまたおっそろしく逃げ足が早くっていつの間にか跡形もなく消えてたのよ。なんだったのかしらねえあれ」

「そ、そう。特に被害も無さそうで良かったじゃないの」と絵莉。

「そうなのよ、下着とか盗まれてんじゃないかと調べたんだけどぜんぜんなのよ。逆にちょっと失礼じゃない?」

「いやさすがにそんなことは」と杏珠。

「なによ、あたしの下着に魅力がないとでもおっしゃるの?あんたのゴムが伸びきったのと一緒にしないでよ」

「なにお~!」

「ま~た始まった」

 絵莉はそう言いながらみんなの屈託の無い笑顔にこれならきっと大丈夫と安心するのだった。


 人は善良と思われた者が突如豹変し悪魔的行為を行うと「魔が差した」と言う。だが誰もその「魔」の正体がなにものであるか気づくことはない。

 折しも、かまびすしく笑いさざめく女子たちの通り過ぎる傍らで街頭のビジョンがテレビのニュースを流していた。 

「昨日六道市の公園で何者かによって捨てられたドラム缶が見つかり、中から大量の人のものと思われる切断された頭部が―」



 完 

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