(上)
第1章
杏珠はその光景を目の当たりにした時、こらえきれず嘔吐していた。男が一人、さながら獣が暴れ狂った後であるかのように荒らされた部屋に佇んでいる。それはもはや人ではない、なにか異形の魔物の姿であった。いや、このようなものが断じて人であってはならない。
その男は右手に血に濡れて鈍く光る刃物を握り締め、左手にはそれによって切断されたと思われる頭部の髪を鷲掴みにしてぶら下げていた。その大きさからまだ幼い子どものものであることがうかがい知れた。それはまぎれもなく男の実の息子のものであった。
男は杏珠に気づくとひび割れた声にならない耳障りな叫び声をあげた。杏珠は口を拭うと顔を上げ、意を決し男の頭の奥底にある闇の中へ『ダイブ』していった。
「こらっ、置いてくな!」
杏珠が振り返ると紫穂がバタバタと駆けてくるのが見えた。二人はこの春から同じ中学に通うようになった同級生で、帰り道が同じこともありいつも一緒の仲だった。
「ちょっとひどいじゃないアンジュ」
追いつくと息を切らせながら言う。
「だってシホ今日日直でしょ?待ってらんないわよ」
「あなたねえ、ちょっと薄情じゃございませんこと?もしあたしが一人で帰り道にさらわれでもしたらどうすんのよ」
「ワイドショーじゃさらわれたのはみんな美少女って言ってたから大丈夫じゃないの」
「あら面白いことおっしゃいますわね。あたしなんか犯人が見たらほっとかないっつうの。ど真ん中ストライクだっつうの。だからあんたみたいな男勝りの用心棒が必要なんじゃないの」
「こんな華奢な乙女を捕まえて男勝りはないでしょ」
「ほらこのたくましい二の腕」
「勝手につままないでよ」
二人が通う六道中学の周辺ではここ数日不可思議な事件が続発し、世間でも話題に上っていた。何人もの少女が突如行方をくらませていたのだ。だが警察の捜索の甲斐もなく、まったく手掛かりさえ掴めぬままであった。ワイドショーでは連日六道町の神隠しとして取り上げられる事態となっていたのだ。
二人はその後も他愛のない世間話に花を咲かせていたが、信号待ちで立ち止まっていた時、杏珠の頭の中に陰惨なイメージが瞬間的にフラッシュした。それはヌメッとした赤黒い血のイメージ・・・。
杏珠は紫穂に悟られぬよう話を合わせながらも冷たい汗が背筋を伝うのを感じていた。
「ゴメンあたしちょっと用事思い出したから、じゃあ」
「ちょっとどうしたのよ急に」
「彼氏が待ってるから!」
「・・・それはない」
杏珠はそのアパートから異様な妖気が漂っているのを感じた。閑静な住宅街にあってただならぬ妖気。その時、悲鳴と共に二階の窓ガラスが内側から砕かれ飛び散るのが見えた。 杏珠は迷わず階段を駆け上がるとひとつ深呼吸をしてからドアを開け放った。
そこには地獄絵図が繰り広げられていた。返り血で真っ赤に染まった男が立っている。そして血溜まりの中には妻と思われる女性と首のない幼い子供の姿があった。
杏珠が嘔吐したのはそのおぞましさと同時に男から放たれる禍々しきオーラに当てられたせいであった。それはまさしく『悪魔』の侵入を許したものが持つオーラであった。
(かなり強力なやつ。勝てるの?)
男は杏珠を見つけると返り血で真っ赤に染まった口を裂けるほど大きく開き叫んだ。
(いや、やるしかない!)
杏珠は顔の前で両手のひらをクロスさせると男の目をキッと見据えて何事か小声で呟くと男の意識の中の世界へと飛び込んでいった。
その世界は一見もとの世界と変わらぬように見えた。だがどこか冷たく無機質で色のない世界である。
杏珠は黒いドレスに身を包んでいた。それが彼女が戦うときの正装であった。黒衣の魔女、生まれながらにして悪魔と戦うことを宿命付けられた者。
杏珠はその世界の主である悪魔の姿をしっかと見据えた。そいつはどろどろのヘドロの塊のような姿で全身を無数の目、口、舌が覆っていた。そしてその無数の口で男が作り上げた死骸を貪り食っていた。
「滅しなさい」
杏珠は右手を突き出すと指先から炎の矢を連打した。ヘドロは見事に砕け散った。が、その肉片は蠢きながら這いずるように集まり、もとの姿に戻ってしまった。
悪魔はようやく杏珠の存在を意識したといった口ぶりで言った。
「邪魔をするな、黒き魔女よ」
それははからずも透明感のある澄んだ声であった。
「人間はあなたの玩具じゃないわ。この人の中から出ていきなさい、悪魔め!」
「心外だな、これでも人間からは天使と呼ばれているのだがな」
「貴方は天使の仮面を被った悪魔よ、アズラエル!」
「俺から見ればお前こそ悪魔だがな、クックック・・・」
「人々に災厄をもたらす貴方達が天使を気取るなんてお笑い種だわ。私は許さない!」
杏珠は両手のひらをかざすと巨大な火球を作り出し、打ち込んだ。アズラエルは四方に飛び散り消えた。
(まだ近くにいる!壁や床の隙間にもぐりこんでこちらを伺っている!)
身構える杏珠。と、背後に気配を感じ振り返る間もなく左肩に焼かれたような激痛が走った。杏珠の左腕が肩から削ぎ落とされボトリと床に落ちた。
「惜しい、心臓を狙ったつもりだったがずれたか」
血溜まりに崩折れる杏珠を見下ろしたアズラエルの手には乗り移った男が妻子を殺めた柳刃包丁が握られていた。そしてその刃を舐めるように睨め回すと突如でたらめに振り回し始めた。
「美しい、美しいぞ!これはいい道具だ!なんと機能的だ、まったく無駄がない!」
しばし夢中なっていたが、やがてピタっと動きを止めると杏珠に向き直り言った。
「うむ、だが貴様はなぜ悲鳴をあげぬ?あの女や子供のように泣き叫ばぬ?それは正しい反応とは言えないぞ?」
杏珠はよろける足で懸命に立ち上がる。が、左肩からは鮮血が止まらず吹き出ている。それでも残る右手の平に再び火球を作りだす。それを見るとアズラエルはやはり四散し姿を消した。
「まったく学ばないやつだな。次はちゃんと悲鳴を聞かせておくれ。では今度はそのしなやかな足をいただくとしようか」
しかし杏珠はまったく臆することなく落ち着き払い、言い放った。
「地獄の業火に焼かれなさい」
次の瞬間、ドン!という地響きとともに杏珠を中心として半径100メートル以上の火柱が立ち昇った。ヘルファイアー、文字通り地獄の炎。触れる物全てを燃やし、灰に変える煉獄。炎はあたり一面を火の海と変え、まるで生き物であるかのように渦を巻き、手当たりしだいに飲み込んだ。
杏珠はその炎の中でアズラエルの断末魔の叫びを聞いた。それは普通の人間であれば耳にしただけで精神を崩壊させるほどの禍々しい悲鳴であった。うなるような軋むような歪んだ叫び声は長く尾を引くようにしばらく続いていたが、やがて消え入るように小さくなり、事切れた。
杏珠は出血にめまいを覚えながらもシャドードアを呼び出し、扉を開け、悪夢の世界を後にした。
翌日、メディアはこの猟奇的事件を一斉に報道した。
自ら妻子を手にかけたその男は近所の住民の通報により駆けつけた警官に取り押さえられた。その際、男は「悪魔が乗り移った」などと支離滅裂な言動を繰り返していたと言う。
異常で凶悪な事件にも関わらず、男の職場や近所での評判はすこぶる良く、家族仲も良かっただけに信じられないといった声が聞かれた。なぜ男は突如狂ってしまったのか?それは誰にもわからぬままであった。
杏珠たちの通う六道中学校でもこの事件のことで持ちきりであった。ことさら紫穂はショックを隠せないでいた。
「あそこの子、うちの弟と同じ小学校に通ってたんだって。こんな身近であんなことが起こるなんて・・・」
杏珠はただ慰めるほかなかった。あの日の事実は誰にも話せることではなかった。とりわけ、親友には。
あの時アズラエルによって受けた傷はまったく跡形もなく消え、なんの影響も及ぼしてはいない。魔世界で受けた傷は魔力によって治癒されうるものであったのだ。
しかしやがて教室に担任の教師が入って来ると、まるでいつもと変わらず普段通り授業が開始された。
(人間は忘れることができる。なんと都合のいい能力だろうか)
杏珠はノートにペンを走らせながらそう思っていた。
第2章
一方で神隠しの事件も一向に進展を見せていなかったが、それと同時にさらに気になる事件もあらたに胎動を始めていたのだった。
ことの発端は連続婦女暴行事件であった。それだけであれば単なる犯罪として扱われていただろうが、その事件には特殊な共通点があった。被害者の女性が皆ショックから精神に異常をきたし、錯乱状態に陥ったまま正常に戻らなくなってしまっていたのだ。
県警刑事一課の尾瀬剣二はこの事件を担当するにあたり、全ての女性に面会を求めたが、その証言のすべてがまるで要領をえないものであった。しかしそんななか、たびたび口にされる奇妙なキーワードがあった。それは「天使」と「悪魔」という単語であった。このまるで相反する言葉を彼女たちはまるで同義語であるかのように繰り返した。あるときは畏れを込め、そしてあるときは喜びに満ちて。
「オカルトかよ。俺の領分じゃないんだけどな。いっそ潮来か占い師にでも聞いてみるか?」
そう自虐的につぶやきながら妹のことを思い出す。剣二には年の離れた妹がひとりいた。数年前に両親を無くし、今は親の残してくれた家に二人きりで暮らしていた。
(そういやあいつそういうのに詳しかったよな)
「さあ、そういうのは聞いたことないわ」
自称オカルト研究家である妹の紗季は首をかしげた。
「そういえば昔『ローズマリーの赤ちゃん』て映画があったわね。あれはちょーやばかったわ」
(だめだこいつ、聞くだけ無駄だった)
「あ、今あたしのことバカにしたでしょ!でもその手の話にあるように悪魔崇拝とかに感化された犯人の犯行という可能性はあるんじゃないの?」
「う~ん、確かに」
(まあ、その線は否定できないな)
「あ、天使といえば」
紗季が思い出したように言う。
「え?」
「あの方は紛れもなく天使様だわ」
あらぬ方を見る紗季に呆れる剣二。
「やめとけ、どうせお前は見る目がないから」
「まだ何も言ってないでしょ」
「はいはい。で?」
身を乗り出して紗季、
「最近学校に新しく赴任してきた生物の先生がすっごい美形なのよ。もう歌舞伎の女形か宝塚の男役かってくらい、なんて言うか中性的な妖しさなのよね。あれこそ天使様に違いないわ。もう白衣なんて着ちゃった日にはあんたそりゃ反則ってもんで―」
「あっそっ」
ため息をつく剣二。
「とりあえず物騒だからおまえも一人で出歩かないようにな」
「へ~一応心配してくれるんだ」
「こら、冗談じゃないんだぞ」
「は~い」
生物の授業が終わると教師の鳴海は群がる女生徒達の質問攻めに遭うのが通例となっていた。たじろぎながらも丁寧に答える鳴海。それをやっかみながら横目で見ている男子生徒の構図。
まるで女性のような整った顔立ち。特にその澄んだ瞳は見るものを虜にする。長身ですらっとした華奢な体躯ながら決して弱々しくもなく、優雅な身のこなしでひとつひとつの動きが絵になっていた。
「こらこらもう次の授業が始まるから。熱心なのはいいけどほどほどにしてくれよ」
「じゃあ放課後聞きに行ってもいいですか?」
「ああいいとも。ではまた今度」
退散する鳴海を恨めしげに見送る女生徒達。
「やっぱいいわ」
ため息の紗季。
「あたしはもうちょっと野性的な方がいいかなあ」と紫穂。
「な~にが。あんたの質問、こないだとおんなじだったわよ。もうちょっと捻りを入れなさいよ」
「大事なところだから二度尋ねました。それよりサキ、あんたポーッとしててヨダレ落ちそうだからハラハラしたわよ」
「なにを―おっとあぶねえ」
「まったくふたりともいい気なもんね。さぞかし来週のテストも自信あるんでしょうね」
ちょっと冷ややかな杏珠。
「それを言うか。でもほんとアンジュはこういう話に乗ってこないわよね。ひょっとして男より―」
「キャッ、あたし、あくまでお友達としてしかお付き合いする気ないから」
「バカ言ってんじゃないわよ、まったく」
脳天気な二人の軽口をいなしながらも杏珠は軽い悪寒に襲われていた。
(なんだろう、このヌメッとした感覚は・・・生臭い腐臭は・・・)
放課後。紗季は大会を控えたバスケ部の練習のために連日遅くまで居残っていた。1年生部員は先輩部員たちが全員引き上げた後の片付けをさせられるのが日課になっていたのだ。
片付けが終わり、着替えも済ませ、仲間の部員たちと帰路につく。あたりはすっかり暗くなっていた。他の部の生徒たちはとっくに帰ったのか校舎は閑散としていた。
と、校門を出てだいぶん過ぎてからふと大事な事を思い出した。
「あ、いけない!部室に鍵かけてくるの忘れてた!」
「もう紗季ったら、ついてってあげるわよ」
「大丈夫、先に帰ってて」
学校に戻ると門は既に閉まっていた。
(非常時だし、しょうがないわよね)
紗季は辺りを見回すと、誰も見ていないことを確認し鉄柵をよじ登り乗り越えた。
部室は隣接する旧校舎の教室を利用していた。普段から利用者が少ない上に皆が帰ってしまいもぬけの殻と化した校舎はなにか異様な佇まいを感じさせた。
紗季はまるでなにかが飛び出して来るのではないかと怯えているかのようにおずおずと歩を進めた。明かりも消え、視界も狭くなっている。ミシミシという自分の足音だけがやけに大きく響く。
(懐中電灯持ってくれば良かった)
幸い二階の部室まではさほど苦も無く辿りつけた。鍵を掛け安堵の溜息をつく。と、その時上の階の方で「ガタン!」となにかが倒れるような音が聞こえた。
(嘘、誰か居るの?)
しばし耳を澄ませるがなにも聞こえない。
(風、よね?とにかく早くここを出なきゃ)
ますます暗くなった廊下を手探りで進む。本当なら走って逃げ出したいところだが足元がおぼつかないのだ。
ふと気配がして天井に視線を向けると、なにかが赤く光っているのが見えた。いぶかしんでいると突如バサっと羽音とともにそれが飛び去った。思わず腰を抜かしそうになる紗季。
(コウモリ・・・?でもこんなところにコウモリなんて・・・)
赤い光はコウモリの眼だった。
気を取り直し再び歩き出す。そうして階段の近くまでたどり着いた時、今度は人のうめき声のような音が聞こえた気がして立ちすくんだ。
(幻聴じゃないわ。確かに聞こえた。女性の声だったわ)
警察に連絡するべきか?とにかく自分はこの場から離れよう。なにかとても不吉な予感がする。
(もし誰かが襲われてたらどうしよう。助けに行かないと・・・でも無理、怖すぎる。早くここを出なきゃ)
だが心とは裏腹に体が思うように動かない。怖いもの見たさなのだろうか、吸い寄せられるように足は階段を上へと上り始める。
(確認、そう確認するだけ。おまわりさん呼んでなにもなかったら困るから)
誰かに言い訳するかのようにそう心でつぶやきながら声のした方へ歩みを進める。
ハッとする紗季。聞こえる!確かに女性の声が!それはまるで身悶えるかのような押し殺した声・・・。苦痛ではない、むしろ愉悦にあえぐ声。
(え?まさか、そうなの?)
そういう事なら、と引き返そうとした時、女の声とは別に不気味な声が聞こえてきた。それはなにかを引きずるような、耳障りなかすれた声。そうかと思うと水が泡立つようなゴボゴボとした喉を鳴らす声。
(なに?なんなのこれは?)
ただならぬ気配にやはり引き返すべきだと頭では分かっていながら、どうしようもなく吸い寄せられていく。
その声はかつて理科室として使われていた教室から聞こえてくるものだとわかった。紗季は暗闇の中を息を殺しながらにじり寄り、たどり着く。
(ダメ、見ちゃダメ!絶対ダメ!)
心は悲鳴を上げていた。だが手は抗えずそっとドアに添えられると、じわじわと開き始めた。
そして紗季は見た。青白い月明かりの中、何者かが女性を組み敷いているのを。何者?いやはたしてあれは人なのか?黒い影はまるで獣のように蠢いていたが、獣ともまた違って見える。なにか管のようなものが体から無数に伸びて、女性に絡み付いている。吸っているのか注ぎ込んでいるのか。
紗季は身動きも取れないままその行いを凝視していたが、気を落ち着けなんとかこの場を逃れようとした時、最悪のタイミングで紗季の携帯の着信音が鳴った。
怪物と、目があった。
その頃杏珠は自室のベッドの上で雑誌をめくりつつくつろいでいた。その時には今日感じた嫌な感覚についても忘れかけていた。せめて普通でいられる時間は普通でありたい、いつしかそう思うようになっていた。
だが突如窓がガタンと音を立て開け放たれた時、その願いは虚しく拒まれたことを知った。
直後、窓から突風が吹き込んだかと思うと一匹のコウモリが飛び込んできた。コウモリは天井に逆さまにぶら下がるとキュルキュルと甲高い声で盛んに鳴き始める。
杏珠はコウモリの小さな赤い目を通して今なにが起こっているのかを知った。それと同時にこれから起ころうとしていることも。
「サキ!」
尾瀬剣二は精神科の病棟で被害者に面談をしながらなにか犯人の手掛かりになるものがないかと探っていた。だが一様に魂が抜け出たような状態でまったく要領を得ず、徒労感だけが募っていた。
それでも根気よく、少しでも相手に伝わりやすいようにと努めてゆっくりと言い含めるように質問を繰り返した。
「その天使はどんな姿をしていましたか?どんな格好をしていましたか?」
女性はベッドの上に仰向けに寝たまま虚空を見つめている。はたして声が届いているのかさえ疑問だ。ベッドの脇の丸椅子に腰掛け、わずかな表情の変化も見落とすまいと覗き込む。
やがて少し離れて成り行きを見守っていた医者が声をかけた。
「これ以上は患者の負担になりますのでそろそろ・・・」
剣二があきらめて席を立とうとした時、女性の目に力強さが戻ったのを感じた。女性は医者のほうを見ると、むくっと上体を起こした。
「どうかしましたか?なにか思い出しましたか?」
女性はそれに答えるでもなく、医者のほうに力なく手を伸ばす。医者は少したじろいだ様子をみせた。
(犯人の人相風体に似ているのか?)
だが女性に注視しているとかすかに唇が動いていることがわかった。剣二は思わず耳を近づけ、そばだてた。
「・・・ハクイ・・・白衣?」
どうやら医者が着ている白衣に反応しているらしいと分かった。
(白衣・・・)
なにかが引っ掛かった。なんだっけ?最近なにかそんな話を聞いたような気が・・・。
そして思い出す。だがまさか。たんなる偶然にすぎない。そう思いながらもなにか言いようのない不安がどんどん大きくなるのを抑えられなくなっていた。
剣二は病室を出るとすぐに携帯で紗季の番号を呼び出した。応答はない。剣二は車に乗り込むと震える手でキーを差し込んだ。
(な、なんだこの胸騒ぎは。落ち着け、落ち着け!)
紗季は本能がすぐさま逃げるべきであると叫び続けているのにも関わらずその場を動けずにいた。怖さで足がすくんでいるのか?いや違う、あの男の魅力に抗えなくなっているのだ。
女性の上に覆いかぶさっていた男が身を起こすと、無数に伸びていた触手が女性の体から離れ男の体に吸収されていく。そして立ち上がったときには既に普通の人間の姿に戻っていた。
「一年C組、出席番号3番尾瀬紗季。こんな時間にどうしたのかね?」
紗季はその男を知っていた。
「鳴海先生・・・」
鳴海はひとつため息をついてみせた。
「覗き見とは趣味が悪いね。これはおしおきが必要だな」
紗季は身じろぎもできずにいた。鳴海は落ち着いた声で続ける。
「だが考えようによっては都合がいい。実は君はリストの上位者だったのだよ」
「リスト・・・?」
「うむ、わたしは今適格な母体を探しているのだよ。器としてふさわしい体をね。だがなかなかうまく行き着かなくってね。我々の種を育むには人間は脆すぎる。すぐに壊れてしまうのだ」
(なにを言ってるのこの人は?)
おののく紗季に構わず鳴海の独白は続いた。
「この女も駄目だった。すでに使いものにならない。やはり普通の人間には無理なのだろうか。単に頑健というのではなく、精神的に共鳴するものが必要なのではないか。どう思う?」
(逃げなきゃ、逃げなきゃ・・・)
だがあろうことかその足はまるで夢遊病者のように鳴海の方へと向かっていた。
「言葉より体で確認すれば良いことだね。さあ、おいで。なにも怖がる必要はない。とても気持ちのいいことなのだから」
紗季は吸い寄せられるように鳴海に歩み寄る。そして息がかかるほど近づくと鳴海は耳元に口を寄せささやくように言った。
「さあ、始めようか。ではそこに横になりなさい」
紗季は言われるままに静かに身を横たえた。すると鳴海の体が異形の者へと変化していくのが月明かりの中でもはっきりとわかった。これは夢か幻か?イソギンチャクとでもいうのだろうか、全身が細かい管に覆われ、蠢いている。鳴海は紗季の両足の間に膝まづくと、覆いかぶさるように倒れこんでいく。
だがその時、教室に騒々しい足音が近づいてきたかと思うとガラっと乱暴にドアが開いた。鳴海は邪魔者が持つ懐中電灯に照らされまぶしそうにした。
「お・・・兄ちゃん・・・」
紗季はドアのところに立つ兄の姿を捉えた。
剣二は妹と彼女に覆いかぶさる男の姿に混乱した。
(なんだこいつは・・・?今一瞬化け物かなにか異形の姿に見えたが・・・)
剣二は拳銃を取り出すと男に狙いを定めた。
「そこから離れろ!」
しかし鳴海はそれにはまったく興味を示さず行為を続けている。
剣二は引き金を引く指に力を込めた。だが思うように指先に力が入らない。焦れば焦るほど体が言うことを聞かない。そしてついには声さえ出せなくなってしまっていることに気が付いた。
(くそっ!なんだこれは、夢じゃないのか!)
為す術も無く絶望感に打ちひしがれていく剣二。だがその時、ふと先程からなにか小さな生き物が舞いこんで来ていることに気づく。鳥か?いやコウモリだ。なぜこんなところに?
そう思った次の瞬間、そのコウモリは人の姿に変わっていた。ありえないことだ。だがそうとしか考えられない。
そこには一人の少女がスッと立っていた。
杏珠は理科室に舞い降りるとすぐさま状況を把握した。一刻の猶予もない。そのまま鳴海の内なる異世界にダイブしていった。
黒衣のドレス姿の杏珠に気がつくと、鳴海に取り憑いていた魔物がむっくりと起き上がった。
「一年C組出席番号1番、亜堂杏珠。なんのつもりだね?君には関係のないことであろう」
「その娘から離れなさい、汚らわしい悪魔!」
「おやおや魔女から汚らわしいなどと罵倒される謂れはないはずだがね」
「わたしの友達に手を出す外道は許さないわ」
魔物は苦笑交じりに言う。
「正義漢のつもりかね?やめたまえ、下等な人間ごとき命を賭けて守るに値しないよ」
「正義とかどうでもいいのよ。わたしはあなたみたいなやつが気に入らないだけ。わたしの周りの人を不幸にすることは許さないわ。すぐさまその男から出ていきなさい、ライラ!」
杏珠はそう言い放つと左手を払う仕草をした。すると魔物の周囲の地面がボコボコと浮き上がり、それは見る間に数匹の人ほどの大きさの巨大な毒蜘蛛となった。赤や緑の毒々しい配色の体がヌメヌメと光り、異様な瘴気を放っている。蜘蛛たちは魔物を囲むと顎をこれ以上ないほど開き、威嚇した。
「なんとまあ、君の下僕たちの下品なことか。人間が君たちを忌まわしいものと考えるのも無理からぬことだ」
ライラと呼ばれた魔物は物分りの悪い生徒に対するように話した。
「どうやら君は分かっていないようだね。わたしは一方的にこの男の世界に侵入したわけではないのだよ。これはすべてこの男が望んだ世界なのだよ。
この男、鳴海翔平はかつてなんの取り柄もないうだつの上がらぬ教師だった。見栄えも悪く性格も暗く誰も寄り付こうとはしなかった。特に女生徒からは馬鹿にされ、疎んじられるありさまだった。
そんな彼が一方的に思いを寄せる女教師がいた。だがしかし、その女教師が婚約したことを知るに及んである決心をした。どうせ自分はこの先生きていてもろくなことは無いだろう。ならばいっそ彼女を犯して殺し自分も死のう、と。想いが遂げられるのであれば命さえいらない、この魂を悪魔に売っても構わない、と。
わかるだろう?すべてこの男が望んだことなのだ。われわれはその手助けをしているに過ぎない。願いを叶えてあげているだけなのだ。
そう言えばほら、こないだ君が回帰させた男とてそうだ。あの者はろくに働きもせず酒を飲み、ギャンブルと女にうつつを抜かしていてね、次第に女房子どもを疎ましく感じるようになっていたのだよ。ああなったのは当然の帰結なのだよ」
「知ったことじゃないわ。さっき言ったように貴方達の屁理屈なんて私には興味ないわ。あなたたちが人間の生き死にに興味がないようにね。御託を並べる暇があったらとっとと出ていきなさい!」
ライラはしばし考えていたが、頷くと誰ともなしにつぶやいた。
「うむ、これは使えそうではないか。なぜ気づかなかったのか」
そして杏珠の体を舐め回すように見定める。
「なに?なんのこと?」
身構える杏珠にライラは言う。
「おまえにわたしの種を植えてあげよう。われながらなかなか面白い考えだ。なに怖れることはない、とびきりの快楽を約束してあげるよ。もっとも産まれる時には腹を食い破るかも知れないがね」
杏珠は咄嗟に身構えた。
「無駄だよ」
体が動かない。
「君の力は既に把握済みだ。わたしとてあの業火を浴びては一溜まりもない。だから細工をさせてもらった」
いつの間にか杏珠の足元から触手が這い上がって来ていた。その触手はライラの無数の舌が変化したものであった。それが気付かれぬよう移動をしていたのだった。
「君にくだらぬ長話を話して聞かせたのはこれを悟らせぬためだったのだ。うむを言わさず攻撃を加えていればよかったものを。慈悲、と言うのかね?くだらぬ感情だ」
ヌメヌメとした触手が杏珠の肢体を舐め回すように侵食し絡め取っていく。やがてまるでミノムシの蓑のように包み込んでしまった。それと同時にライラの体もすべて移動を完了し、杏珠の体に取り憑いてしまっていた。
「さあこれで君とわたしはひとつになった。君はわたしでありわたしは君だ」
ライラは杏珠の恐怖を肌で感じる喜びに打ち震えていた。が、しかし杏珠の感情からは期待したものが読み取れなかった。
「なんだ?なにを考えているのだ?」
杏珠の体の中から灼熱の炎が湧き上がるのがわかる。
「一心同体、てことはあなたが身動きできるようにわたしも動けるってことよね?」
(こいつ・・・?)
ライラは恐怖を感じた。だがその恐怖はライラ自身から来るものであった。
「馬鹿な、わたしを殺すということはおまえも死ぬということなのだぞ!わたしはすでにおまえのあらゆる器官と同化している!そしておまえの子宮にはすでにわたしの―」
「あなたは慈悲がどうとかって言ってたわね。あいにくそんなものあなたに対しては一切感じ無いわ。その汚らわしい種で孕むくらいなら死んだほうがましよ!」
灼熱は見る間に燃え上がり体を火の玉と変えた。ライラのおぞましい叫び声が最高潮に達したとき、その体は杏珠の体と共に爆発し、砕け散った。そしてそのかけらを後に残された蜘蛛たちがついばみ、腹に収めていった。
剣二が黒衣の少女の姿を認めたのはほんの一瞬のことだった。つぎの瞬間には鳴海は崩れ落ちるように倒れ、動かなくなった。それと同時に体の自由が戻り動けるようになっていた。
剣二は妹に駆け寄ると抱きかかえた。鳴海は糸が切れた人形のように横たわっている。気のせいだろうか、まるで別人のように人相が変わって見えた。
「もう大丈夫だ、大丈夫だから」
紗季は兄の腕にしがみつき、泣いた。
杏珠は自宅の邸のベッドで目覚めた。素肌にシーツを一枚羽織っただけの姿だった。
「お目覚めですか、お嬢様」
黒服の初老の男が声をかける。杏珠はゆっくりと顔を向けると正気に返った。
「おはよう、メフィスト」
メフィストと呼ばれた男は紅茶を注ぎながら言う。
「どうにもお嬢様の戦い方は危なっかしゅうございます。敵がドレイン系の能力者であったならば復活もままならないのでございますよ?」
杏珠は上半身を起こしながら言う。
「そんなことは分かってるわよ。すべて承知でやってるわ」
「そうでございますか、それはよございました。ただわたくしめはお友達に気を取られて判断が鈍るようなことがあってはと心配いたしまして」
杏珠はティーカップを口元に運ぶ手を止めた。
「紗季は、どうなったのかしら」
「これへ」
メフィストが手をポンポンと叩くと一匹のコウモリが現れた。杏珠はコウモリの赤い目から記憶を覗いた。
「そう、お兄さんが・・・」
心の傷が癒えるまでには時間が必要だろう。だが彼女ならきっと乗り越えてくれるはず、そう思いたかった。
鳴海は連続婦女暴行の容疑で現行犯逮捕された。だが彼自身は自分がしたことについての自覚が希薄で記憶に無いと言い続けていた。もちろん、それらは言い逃れとして受け入れられることはなかったが、その後精神鑑定の結果分裂症の疑いありと診断された。
他の事件についても立件が進められたが、被害者たちは様子が変わってしまった鳴海をまるで初めて見る者であるかのような目で見た。状況から見て間違いないはずなのだが、捜査は釈然としないまま終了を見ることとなった。
紗季は数日の入院後、しばらく自宅で安静に過ごすこととなった。そんな紗季を心配して杏珠は紫穂とともに見舞いに行くことにした。
紗季は二人を迎えると、パジャマ姿のままではあったが、努めて明るく振舞った。もう明日からでも学校に行けると言った。
「でも不思議なのよねえ」
「なにが?」紫穂が訊く。
「あの時、お兄ちゃん以外に誰かいた気がするのよね。黒いドレスを着た女の人。そうちょうどアンジュみたいに長いストレートの黒髪だったわ・・・」
「へえー、なんかの亡霊じゃないの?あいつの犠牲になった人かも」
杏珠は当たり障りなくごまかしてみせた。その後三人は話題を変え、しばし時を忘れて世間話に花を咲かせた。
実はこの日、たまたま剣二も妹を気にかけ自宅に帰っていた。そして妹の友達が帰り際、すれ違いざまに軽く会釈をした時にふとあの日見た黒衣の少女のことを思い出していた。
(そうだ、ちょうどこんな感じの・・・)
あれは現実だったのだろうか?いまだに確信が持てぬままであった。
第3章
しばらくの間、平穏に月日は流れて行った。夏休みに入ると杏珠たちはまるでなにごとも無かったかのように海に山に遊び、はしゃぎ回った。
そして2学期が始まったとき、ある出来事があった。
その転校生は名を更木絵莉と自己紹介した。際立つ美しさに男子たちは色めき立った。だがインテリ風のメガネのせいであろうか、どこか人を寄せ付けぬ気高い雰囲気があった。
「では更木さんの席は・・・とりあえず後ろのほうでいいかしらね」
担任の鵜坂の話を聞いているのかいないのか、絵莉はツカツカと歩を進めると、突然杏珠の前で立ち止まった。
「亜堂杏珠、よろしくね」
突然の呼び捨てにざわめく教室。だが杏珠は彼女のもつ独特なオーラを感じ取っていた。
同じ系譜をもつ者、黒魔法の使い手。
そもそも稀有な存在である魔女が出会うことさえ稀である。それがなぜこのタイミングで現れたのか。仲間?いや彼女の口調からは好意的な感情は読み取れなかった。
昼休み、紫穂が物怖じしない性格を利して誘った。
「更木さん、よかったら一緒にどう?」
「ええ、よろこんで」
絵莉は意外なほど人当たりよく同意した。
「更木さん―」
「堅苦しいからエリでいいわよ」
「じゃあエリさんはアンジュとはどういう関係なの?」
絵莉は杏珠にちらっと視線をやると答えた。
「幼馴染・・・かな?」
杏珠は話を合わせることも考えたがなんだかしゃくだったのであえて言った。
「そうだっけ?覚えてないわ」
「あんたほんと失礼よね」と紫穂。
「アンジュって他人に興味ないから」と紗季。
「だって嘘ついてもすぐばれるじゃないの」
「適当に合わせとけばいいじゃないの」と紫穂。
「出た適当、適当出た」
「ほんとにこのコはああ言えばこう言う」
「おかあさん?」
コントに入ってしまった二人を尻目に紗季が尋ねる。
「エリさんはクラブ活動とかやってなかったの?あたしバスケ部なんだけど今部員募集中なんだ」
「ごめんなさい、わたし運動苦手なの」
「ああそう、残念。じゃあなにか趣味はあるの?」
「そうねえ、悪魔退治・・・かな?」
頬をつねりあっていた杏珠と紫穂が固まる。しばしの沈黙。紗季は取り繕うように笑って言った。
「エリリンっておもしろ~い」
「エリリン?」
その若い男を校庭で見かけたとき、用務員は生徒の父兄か卒業生と思い深く気にも留めなかった。それほどごく普通の穏やかな物腰だった。
それで軽い会釈のつもりで声をかけたのだ。
「どちらにご用ですか?」
男は質問に答える代わりにただ微笑んでみせた。用務員もほほえみ返したがその顔は次の瞬間驚きと戸惑いの表情に変わった。どこから取り出したのか、男の持つ飛び出しナイフが左胸を一突きに刺し貫いていた。
男は何事もなかったかのように倒れる用務員をその場に残して校舎に向かった。六道中学は授業中であったため、他に男の侵入に気づく者は誰もいなかった。
男は階段の前で立ち止まるとしばし思案した。そしてひとつうなづくと階段を上り、管理棟の二階を進み、教職員室のドアを開けた。
振り向いた女性の教員に告げる。
「田中先生はいますか?」
「田中?」
「ん~鈴木先生だったかな」
「鈴木・・・英語の鈴木先生ですか?」
「そう、その鈴木先生です」
「いま授業中なので留守ですが」
「じゃあしばらく待たせてもらいます」
応対した教員はいぶかしく思ったが来客用の椅子を勧めた。
やがて午前最後の授業の鐘がなり教員たちが戻って来た。鈴木は来客を告げられるが男の顔に見覚えがないため戸惑った。
「申し訳ないが思い出せないのだけれど卒業生かね?」
男はそれには答えずぐるりと部屋を見回すと言った。
「みんな揃ったね。じゃあ始めようか」
そして立ち上がると隅々まで聞こえるような大きな声でその台詞を口にした。
「だ、る、ま、さ、ん、が、ころんだ!」
あっけにとられる職員たち。湯のみを口につけたままの者、椅子の背もたれで伸びをしていた者、弁当の箱を開けようとしていた者、質問に来た生徒の相手をしていた者、談笑していた者・・・。
鈴木は不審に思い近づこうとした。
「おい君、いったいなんの真似―」
男はバックからなにやら取り出すと天井に向かって突き上げた。鈴木はそれをみて思わず後ずさった。
男は鈴木に向け、散弾銃を発射した。鈴木の体ははじけ飛び、それっきり動かなくなった。
「はい、アウト」
その銃声は校内に響き渡った。教職員室のある管理棟と杏珠たちのいる教室棟は階段の部分からL字型に分かれている。銃声は管理棟の方から聞こえてきたことはすぐにわかった。だがそれが何を意味するものであるのかはまだ誰にも理解できなかった。
「見に行こうぜ!」
一部の男子生徒が先走るのを見て杏珠は呼び止めた。
「馬鹿なことはやめなさい!すぐに警察に連絡するのよ!」
すでに誰かが通報したのであろう、サイレンと共にパトカーが詰めかけてくるのが窓から見えた。
「生徒たちは速やかに退避してください!」
不安の中、生徒たちは先を争うように校庭へ出た。入れ替わりに警察の特殊部隊が侵入を試みる。時を前後して校庭の花壇の近くに倒れていた用務員の遺体が発見された。
銃声がしたと思われる教職員室の窓にはシェードが降ろされ中の様子は見えない。特殊部隊は慎重に行動せざるをえず、また犯人像も割り出せぬままジリジリと時間が過ぎていった。
やがて、二発目の銃声が響いた。
鈴木に向けて散弾が発砲されると教職員室の中は瞬時にして阿鼻叫喚の地獄と化した。逃げ惑う教員や居合わせた生徒に対して男は宣告した。
「動くな!動いていいのは僕が『だるまさんがころんだ』といってる間だけです。その間に出口まで到達した奴は出てっていいです。でもそれ以外で少しでも動いたのが見えたら、撃ちます」
鵜坂は気丈に男に向かって叫んだ。
「バカな真似はやめなさい!そんなことをしてどうなると思ってるの?いったいなにが目的なの?」
男はにやりと笑った。
「目的?いちいち目的が必要ですか?僕は皆さんといっしょに遊びたいだけですよ。さあ、いいですか?だるまさんがこーろーんーだ!」
だが皆足がすくんで思うように動けない。
「速すぎましたか?じゃあもっとゆ~くり言いますよ。だ~る~ま~さ~ん~が~こ~ろ~ん~だ!」
やはりほとんど動いた者はいない。男はしびれを切らしたように宣告した。
「これじゃつまんないので、今度から動いた人がいない場合一番近くの人を撃ちます」
一同の顔色が青ざめ動揺が走る。
「そのかわり僕は窓の方を向いて言うので頑張って逃げてくださいね」
今一番近くにいるのは鵜坂だ。
「もうやめてちょうだい!お願い!」
その次に近い男性教諭も続いた。
「今なら銃の暴発ということで済むかも知れない、これ以上罪を重ねるのはやめなさい!」
男は構わずゲームを続ける。
「さあ次はちゃんと逃げてくださいよ。だ~る~ま~さ~ん~が~」
その時男性教諭が男の背後に駆け寄り銃を奪い取ろうと試みた。
「転んだ!」
男は早口に言うと銃口を男性教諭に突きつけた。思わず両腕を上げ降参のジェスヂャーを取る。
だが男は宣告した。
「はいアウト」
こうして2発目の銃声が響き、犠牲者があらたに生まれた。
鵜坂は思わず頭を抱えてしゃがみこんだ。
「あ、先生今動きましたね?」
男が鵜坂に銃口を向ける。鵜坂は震えて動けない。
「う~ん、でも今のはノーカンにしといてあげます。さあ続けましょうか」
警察は教室を包囲するも密閉された部屋でなにが起こっているのか把握できず、遠巻きに待機せざるを得なかった。犯人を刺激すれば被害者を増やす危険があったからだ。
交渉の機会を伺う間もなく、事態は二発目の銃声と悲鳴によりさらに緊迫を増した。中でなにがあったのか?だが間もなく職員室の後部のドアがカラカラと開いた。そして中から青ざめた男子生徒が顔をのぞかせた。たまたまその場に居合わせた者の一人だ。
特殊部隊の隊員は手招きでこちらへ来るように促すが、生徒は顔をひきつらせたままピクリとも動かない。それから犯人らしき男の声が聞こえてきた。
「だるまさんがころんーだ!」
それに合わせて生徒とその後ろから年配の男性教師が転げるように飛び出してきた。そしてその二人の話から中で行われているのが死のゲームであることを知った。
隊員は開いたドアから中の男に向かって説得を試みることにした。だがこれは逆効果だった。男はつかつかとドアに歩み寄ると言った。
「邪魔をすると全員殺しちゃいますよ?」
そしてドアは再びピシャッと閉ざされてしまった。
「白けちゃったなあ、まったく」
男はそう言うと突然ゲームの変更を告げた。
「そうだあれやろう、ハンカチ落とし。あれ面白いよね」
そして机を移動させ真ん中にスペースを作らせると全員を車座に座らせた。それから鵜坂に向かって言った。
「先生ハンカチ持ってますよね。はいそれで結構。じゃあこれから僕が十数えますのでその間に誰かの後ろにハンカチを落としてください。その人を僕が撃ちます」
「な、何を言ってるの?できるわけないじゃないの」
男は無視して続けた。
「十数えたときハンカチをもったままだったならあなたを撃ちます。さあ始めますよ?皆さんはしっかり目をつぶって下さいね」
「待って!」
「い~ち、に~い」
男は戸惑う鵜坂を見てニヤニヤしながらカウントを続ける。結局鵜坂はハンカチを握りしめたまま身動きできず立ち尽くしたままだった。
「残念、時間切れです」
男は鵜坂に銃口を向けた。
この時、誰も気づく者はいなかったが、男の頭上の空間にドアが現れた。そしてドアが開くと黒い影が男の頭の中へと飛び込んでいった。
杏珠は避難する生徒たちの人並みから抜け出すと人気のない場所へと移動した。それから校舎全体を透視し、なにが起こっているのかを探った。そして男の様子から妖気を察知し、確信した。事態は逼迫し、迷っている余裕はなかった。
杏珠はシャドードアを開くと職員室へと飛んだ。
男の中の世界。そこはすべてが歪曲し混乱し腐敗した死の世界だった。杏珠は平衡感覚以外にも臭覚や触覚などの五感すべてが麻痺しているのを感じた。
(なんなのこの世界は・・・?悪意と虚無と欺瞞に満ちてるわ。これがこの男にとっての地獄だと言うの?)
その死の世界の王はまるで不安定な足場に立っているかのようにゆらりと揺れながらこちらを見ていた。ただ果てしなく黒い影。
「この男の中からすぐ出ていきなさい。さもないとこの世界ごと焼き尽くすわよ」
男は答えない。ただ口から涎のような液体をゴボゴボとこぼしながらうめいた。
「あああ・・・ううう・・・」
(会話にならないわ。完全に自我を喪失してしまっている。この男から理性を奪い感情を奪い深い闇の中に埋没させた元凶。取り除くしかないわね)
杏珠は腐敗した泥土から数体のゾンビを召喚した。この不気味な相手の出方を探るためだ。
だが攻撃を命じる間もなく、ゾンビたちはボロボロと崩れ土塊に却ってしまった。
(どういうこと?この世界になにか特殊な力が作用している?)
杏珠は手のひらに火球を作ろうとした。だが火は尻すぼみに小さくなると消えてしまった。
(魔力が吸い取られていく!)
魔物はなにかぶつぶつと呟いている。
「ニクイ・・・ニクイ・・・」
魔物の中で憎悪が募っていく。自分以外は全てが敵だ。いや、自分さえ破壊の対象、忌むべき存在。
「アアアア・・・・・・」
杏珠は身の危険を感じ身構えるが、魔物はそれまでの鈍い動きからは想像を絶する速さで襲いかかった。
気づいたときには首を両手で捕まえられていた。
「フシュー・・・フシュー・・・」
魔物は涎を垂らしながら興奮した様子で声にならない声を漏らした。そして杏珠の首をきりきりと締め上げ始める。
杏珠はその腕を掴み抑えながら膝蹴りで応戦する。魔物が一瞬ひるんだ隙に抜け出す。魔物は抵抗されたことが意外であるかのように首をかしげた。だが気を取り直すと再び掴みかかろうとした。
これに対し杏珠は体術で応戦した。魔力が効かない以上そうするほかない。だが魔物はそれを楽しむかのようにやり過ごしじわじわと追い詰めて行った。まるでいつでも捕まえられるものを泳がせていたぶるかのように。
(こいつ、遊んでる。鬼ごっこのつもり?)
杏珠は追いすがる魔物をかわすと手の中に酸の毒を仕込むと右手を手刀にして胸部にねじ込んだ。魔物の動きが止まった。だが毒は瞬時に分解されて吸収されてしまった。
杏珠はすぐさま右手を引き抜こうとするが抜けない。動きを封じられたのは杏珠の方だった。
魔物は追いかけっこに飽きたのか杏珠の両肩をがっしり捕まえた。そして長い舌を伸ばすと顔を舐めまわし始めた。腐敗した死肉のような悪臭に杏珠は顔をしかめる。その様子がますます魔物を機嫌よくしていた。
(力をどんどん吸い取られてしまう。早くここから抜け出さないとまずい。もし今の状態でやられたら復活できなくなる)
杏珠は右手を切り捨てて逃れようと試みたが全身が痺れて言うことを聞かなくなっていた。
(まずい、どうする?)
魔物は舐めることにも飽きた様子で、ついに口を大きく開いた。限界を超えて裂けた口は悠に杏珠の頭を飲み込めるほど広がっていた。もうプライドなど考えている余裕はなかった。
「お願いメフィスト助けて!」
杏珠がそう叫び顔を背けた時、魔物の首に一筋光の線が走った。魔物はなにが起こったのか不思議そうに首をかしげたが、その首は胴体からズレるように滑り、ドサっと落ちた。首から上を亡くした胴体の切り口からはおびただしい腐ったような汚物が吹き出した。さらに杏珠を掴んでいた両腕が肩のところから寸断されるとその切り口からも汚物が勢い良く溢れ出した。
杏珠が右手に力を込めると今度はスッと抜けた。そこへ今度は魔物の体を縦に光が走りまっぷたつに裂いた。
その裂けた体の向こうには一人の少女が立っていた。紫のドレスをまとい、自分の身の丈よりも巨大な鎌を携えている。その大鎌の刃先からは黒い瘴気が立ち昇っていた。
「危ないところだったわね。アルマロス、魔力を無効化する悪魔。あいにくとわたしの鎌は物理的な攻撃だから影響受けないのよね」
「更木絵莉・・・」
引き裂かれたアルマロスの残骸がピクピクと痙攣している。この世界が消えるのも時間の問題だろう。
「今日のところは礼を言うわ」
杏珠がシャドードアを開き出ていく絵莉の背中に言うと、絵莉は振り向いた。
「別に礼なんていらないわ。あなたを助けようとしてやったわけじゃないし」
杏珠は絵莉が出て行くと頭を抱えた。
「ああ絶対聞かれたわ!助けてとか言わなきゃ良かった!」
鵜坂は撃たれることを覚悟したが、男が引き金を引くことはなかった。男はなにかの発作のように急にぶるぶると震え出すと口から泡を吹いて倒れてしまった。その隙をついて特殊部隊が突入し男の身柄を拘束した。こうしてあっけなくも事件は収束を見たのであった。
男の身元はすぐに確認された。当初卒業生による腹いせではないかと憶測されたが、実際にはこの学校の卒業生でもなく、動機に疑問点が残った。学生時代のいじめなどの事実も見当たらず、なにが彼に起きたのか関係者は一様に首をかしげた。結局浪人中であったことから受験ノイローゼから来る精神的な病による犯行と片付けられた。
「ああくやしい、なんなのあの女!」
杏珠は大いに荒れていた。メフィストは紅茶を注ぎながらいつものように受け流していた。
「さあさ、冷めないうちにどうぞ」
「だいたいなんで呼んだ時に来てくれなかったのよ!」
「勝手に間に入ってはまたお嬢様にしかられますゆえ」
「そんなことあったかしら」
「はい、一度などはそのお爪で顔を引っかかれましてございます。あの時はたいそう痛うございました」
「くっ、それはだいぶん昔のことでしょ」
杏珠は都合の悪い話題から話を逸らせる。
「それより彼女、更木絵莉のことを教えてちょうだい」
「あの時などは思いっきりお尻を蹴飛ばされつま先が股間に―」
「ちょっと聞いてるの?もう、そのことは謝ったでしょ!」
メフィストはひとつため息をついてからおもむろに片眼鏡をかけると胸のポケットから黒い厚手の手帳を取り出した。
「記録によりますと、更木の一族はもともとは由緒ある家柄でございましたがとうの昔に没落したと聞いております。その娘は血を引く末裔なのでございましょう。なにゆえこの町に現れたのかはなんとも察しが付きませんが」
「まるであたしに力を見せつけてるようだったわ」
杏珠が少しいまいましげに言う。
「考えすぎでございますよ。もしかしたらお友達になりたいのでは」
「ないわ。そんなタイプには見えなかったもの」
「はあ、しかし一人より二人、仲間は多いほうがようございます。爺もそう長くはございませんゆえ」
「またそんなことを。あなたは例え世界が滅びても生き続けるから心配いらなわいよ」
最近やけに弱気な台詞が多くなったメフィストが少し気になった。両親が亡くなって以来ずっと親代わりを務めてきたこの男だけが今の身内なのだ。杏珠はそんな考えを振り払うかのように言った。
「ああもういまいましい!」
第4章
六道中は例の事件の影響から休校が続いていたがようやく授業が再開されることとなった。担任の鵜坂も復帰し気丈にふるまってはいたが、どこか痛々しさが残るのはむりもないところであった。また事件のショックからか欠席者が目立つようになり、教室から活気が失われたように感じられた。
「サキ今日も休みなんだ・・・」
紫穂が紗季の席を見て言った。
「あの子はいろいろあったから無理も無いわ」
杏珠はあの事件のことを思いやる。
「いろいろって?」
絵莉はまだそのことを聞かされていなかった。
「あなたは知らなくっていいの」
「気になるじゃない」
「もう終わったことよ」
「心配して言ってるのに」
紫穂はまた始まったとため息をつく。
「はいはい、どうして穏やかにできないかなあ。とにかく一度サキん家にお見舞いに行こうか、ね?」
杏珠たちが紗季の家に行くのはあの日以来だった。もちろん絵莉は始めてのことである。
チャイムを押すとインターフォンから紗季の力ない声が応えた。
「ありがとう、でもいまは一人にしておいて欲しいの。ううん、大丈夫心配いらないから」
杏珠たちはしかたなくいとまを告げることにした。
途中で紫穂が別れ二人きりになるとそれまで押し黙っていた絵莉が口を開いた。
「あなた、感じなかった?」
「あらあなたもこっちの方角だったの?」
「とぼけないで!」
絵莉は少し声を荒らげた。
杏珠は観念し、あの日の出来事を語って聞かせた。
「じゃあサキは魔物と交わったって言うの?」
「そうとは言ってないわ。でも接触したのは事実よ」
「・・・あの子の家から気配がしたわ。まだとり憑いているのかもしれない。最悪もし彼女が―」
「そんなことありえないわ!」
杏珠はキッと絵莉を睨んだ。
「もし・・・もしサキになにかあったらあたしが責任持ってなんとかするからあなたは口を出さないでちょうだい」
そう言うと急ぎ足で駆け出すようにその場から離れて行った。後に残された絵莉はその後姿を見ながらため息をついた。
「聞いてたとおりのじゃじゃ馬ね。そりゃ心配にもなるわよね」
本来、魔界の住人には天使や悪魔といった区別は存在しない。同じ性質をもつ者たちである。それを人間が自分の都合に応じて利益なるものを天使、不利益なるものを悪魔と区分したに過ぎない。そのような区分けは魔界人にとってはどうでもよいことであった。彼らの価値観は人間のそれとは根本的にまったく別のところにあったからだ。人間の善悪の基準などなんの指標にもならぬのだ。
したがって一般に天使と呼ばれる比較的穏やかとされた者達にしても、時としてほんの気まぐれで災いをもたらすこともあった。すると彼らは堕天使と呼ばれた。
もちろん、主に人間を苦しめることを快楽としている文字通りの悪魔も存在した。彼らは人間の子どもが昆虫の羽をむしったり、爆竹を結んで火をつけたり、巣に熱湯を注ぐような邪気をもって蹂躙した。なかには人間がアブラムシを駆除するように不快感も顕に見つけ次第殺す者もいた。また単に殺すだけでは飽きたらず、直接手をくださず人間を内部から操り人間同士戦わせてその様子を楽しむ者などもいた。
人と悪魔の関係は今に始まったことではなかった。遠く原始の時代より常に身近に存在していたのだ。だが多くの場合、精神が健やかなる者には寄り付くこともなく、意識されることもなかっただけである。しかし言い換えるならば、精神が不安定な人間は常に悪魔の侵入に対して無防備であった。戦乱の時代、政情不安な時代には多くの者達が飲み込まれて行った。
時代は変わり、安定の時を迎えると悪魔たちは新たな生贄たちを求め彷徨うようになった。特に狡猾な者たちは隙あらば心の隙間に潜り込もうと期をうかがっていた。そしてそういった者たちの中には組織を作り活動する者もあった。それらは人間界では『カルト』などと呼ばれることもあった。
一方で、これら悪魔に対抗する者たちもいにしえより存在していた。彼らは悪魔と同様に人知れず活動していた。その者たちは数にしてみれば悪魔の軍勢に比べて明らかに卑小であったが、それを補って余りある魔力を宿していた。悪魔たちに行き過ぎた行為があれば、その強大な力で圧倒し、粛清した。そうして世の中のバランスを保っていたのだ。
やがて悪魔たちが強大化し、既存の魔術での対抗が困難になると、魔術師たちも更に強力な魔術を編み出すべく研鑽をかさねた。白魔法よりも攻撃的で破滅的な魔法、それが黒魔法であった。
だが狡猾な悪魔たちは一計を案じる。人間を洗脳し、その者たちこそ悪の元凶であると吹聴し、先導し迫害した。その行為は魔女狩りなどとして知られているが、その犠牲者の全てはなんの魔力も持たぬ一般人であったことは言うまでもない。
だが魔力を持った者たちが活動を制限されるようになったことも事実であり、次第にアンダーグラウンドに潜伏することを余儀なくされて行った。その者たちは悪魔以上に人間たちの集団の力を怖れていたのだ。怒りと恐怖に我を忘れた愚かな群衆ほど危険なものはないと知っていたのだ。
集団心理。時として明らかな間違いも正論と錯覚させる誤った連帯感。祭りの興奮にも似た本能を突き動かす高揚感と熱気。絶対を約束されたものに判断を委ねる安寧。そして思考停止。自ら考えることを放棄したときに黒も白と変わる・・・。
深夜。都会には静寂という休眠はない。騒音の大きさが自分の力の大きさであるかのごとく傍若無人に暴れ回る若者たち。徒党を拠り所と頼む主体性を持たぬ者たち。二輪四輪合わせてその数三十数台の蛇行する奔流。
「シュウ!」
四輪のリーダー格の男が、先を行く二輪に指示を出す。シュウと呼ばれた年端もいかぬ若い男は前を行く白い高級車の横に付けると鉄パイプでフロントガラスを叩き割った。リーダーの助手席に乗っていた女がそれを見て手を叩いてケラケラと笑う。シュウは急停車する車を尻目に奇声を上げながら次の獲物を探して加速した。
野獣の群れから逃げる草食動物のようにスピードを上げるスポーツタイプの車。シュウたち先鋒隊が前方に回りこみ塞ぐように蛇行運転をして煽る。中に乗っているものが若いカップルであることを知ると挑発はさらにエスカレートしていった。
シュウはパイプでフロントガラスを砕き無理やり停止させると、集団で囲みカップルを中から引きずり降ろした。
車から降りて来たリーダーに向かって言う。
「ヒデちゃん、こいつら学生だぜ。いい車乗りやがって、見せつけてくれるよなあ」
リーダーはおもむろにタバコに火を点けると一服吸い込んでから、カップルを蔑んだ目で見下ろした。そして簡潔に命じた。
「さらえ」
カップルの男は哀願するように叫ぶ。
「彼女は、どうか彼女だけは逃がしてやってくれ、お願いだから」
しかし彼らはニヤ付いた顔で聞き流すと嫌がる女を男と別の車に力づくで押し込んだ。
それからリーダーは男に向かって言った。
「何も言わず女を差し出せばお前は逃がしてやる。だが抵抗すればお前をぶち殺し女は犯してから殺す。さあどっちがいい。三つ数える間に選べ」
男が言葉に窮しているとそれを答えと受け取った。女を押し込んだ男が顔を近づけて言う。
「お前の彼氏は薄情な奴だな。あんなのは捨てて俺達と楽しくやろうぜ」
グループはそのまま国道を南下してアジトに向かうルートを辿っていた。だがそこで先頭のシュウがいち早く何かを見つけてリーダーの車まで下がると報告した。
「向こうから族らしいのが向って来る。見たことねえ奴らだぜ。どうする?」
リーダーは顔色を変えず命じた。
「潰せ」
それを聞いてシュウは嬉しそうに言う。
「やっちゃうか、やっぱそうだよな」
ヒデのグループは相手の行く手を阻むように単車や車をバリケードのように止めて待ち伏せた。数ではこちらに分がある。負けることはありえない。それどころか薬でハイになったやつらを抑えることなどどだい無理な話だろう。
車を停め、降りてきた者達の数は十数名。その姿を見た時メンバーはその異様な雰囲気に少したじろいだ。皆頭からフードを深く被り顔を隠していたからだ。その中には女も混じっているようだった。
シュウは構わず仲間たちに叫んだ。
「男は殺しても構わねえ。女は半殺しにしとけ。後の楽しみにな」
戦いは予想通り短時間であっさりとけりがついた。ほんの数分で県下最強を誇ってきたヒデのグループはあっけなく血の海に沈み、消えたのだった。
その者達はまるでルーティーンの作業のように行動した。トランクから自動小銃を取り出すとためらいなく目標を淘汰していった。異常に気づき逃げ惑う者たちも容赦なく背中から銃弾を浴びせ続け一人として逃さなかった。
カップルの男からの通報を受け、駆けつけた警官たちが見つけたのはおよそ人の形を留めぬ族グループの無数の死骸だけであった。そのなかで奇跡的にさらわれた女性は車の中で震えながら丸まっていたところを救出され、その証言からなにが起こったのかを知った。
警察はただちに捜査を始めたが、思うようには進展しなかった。また、この事件は銃器を使用した凶悪な事件であったにも関わらず、惨殺されたのが札付きの不良たちであったこともあり、市民の反応は様々であった。なかには彼らを世直しのヒーローとして崇める者たちまでいた。むしろ凶悪グループの暴走行為や略奪、傷害などに対する警察の対応の手ぬるさを避難する声の方が多かったのであった。
絵莉はこのニュースを知った時、すぐさま事件の背後になにかしら人智を超えた存在があることを感じ取っていた。だが杏珠はことさら動きを見せることはなかった。そのことについて絵莉は不満を口にするのだった。
「あなただって気づいているんでしょ?なぜ放っておくの?」
二人きりになった時を見計らって問い詰めたが杏珠は話に乗ろうともしなかった。
「まっとうな市民に危害を加えない限り動く気はないわ。あたしは別に警察の代わりをやってるわけじゃないのよ」
「でもどう考えても異常な行動よ。彼らは遠からず脅威になるはずよ」
「ならばあなたがご自分でなさったら?正義の味方さん」
「あなた、本気で言ってるの?わたしたちの使命をなんだと思ってるの?」
「使命?そんなの知ったことじゃないわ。あたしはあたしのやりたいようにやってるだけよ。だいたい善とか悪とか人間が勝手に決めてることじゃないの。そんなものは人の数だけ違うものよ。あたしは自分の周りにいる人達を守りたいだけ。世界を救おうなんてそんな大それたことは考えてないわ」
「そう、じゃあこの話はもうしないわ」
絵莉は杏珠の持つ未熟さをはがゆく感じていた。
(彼女はまだ自分の本当の価値さえ理解していないわ。自分がなんの為に存在しているのかさえ。その甘さが将来自らを滅ぼす可能性があることを分かっていない)
だが絵莉が杏珠にそれ以上を望むのも無理な話ではあったのだ。強大な魔力を秘めているとはいえ、人としてはいまだ十三歳の少女に過ぎなかったのだから。
後にその場に居合わせた者たちはなぜそれに気付かなかったのか不思議でならなかった。休日の地下街。人ごみの中で下着一つ身につけぬ裸の男。あまりにもその場に似つかわしくない姿だった。その男が突如奇声を上げたかと思うと手にした刃物を振り回しながら手当たり次第に斬りつけ始めた。
目は血走り口からは泡を飛ばし意味不明なことをわめき散らしていた。一見して精神に異常をきたした者であることがわかる。なぜそのような危険な存在に気づかなかったのだろうか?
最初の犠牲者が悲鳴をあげ倒れてから初めて人々はその男の存在に気づき、恐怖した。逆に言うならば、それまでその男は社会に存在していない人間だった。他人を傷つけることで初めて存在を認識されたのだ。今まで路傍の石ほどにも思われていなかった人間が他人の上に立った瞬間でもあった。恐怖による支配をそう呼べるならば。
男は切り刻み、刺し続けた。逃げ惑う男を、女を。逃げ遅れた老人を、乳母車を押して逃げる母と幼児を。逃げれば逃げるほど執拗に追いかけまわし、叫び声が聞こえなくなるまで刺し続けた。
狂人による通り魔殺人。それ自体異常な犯罪ではあったが、この事件はさらに大きな事件の一部でしか無かった。
同時刻、その現場からさほど離れていないアーケード街。突如ガードを突き破って飛び込んできた自動車はそのまま速度を落とすことなく通行人をなぎ倒しはじめた。
犯人の男はブレーキを踏むことなく人並みに突っ込んではUターンし、さらなら犠牲者を求めてアクセルを踏み続けた。
さらに同時刻、地下鉄の電車内でも惨劇が繰り広げられていた。
一人の女が乗り込んでくるとバッグから液体の入ったビニール袋を取り出した。そしてやおらそのビニール袋を引き裂くと中から液体が飛び散った。その揮発性の高い液体は匂いですぐにガソリンとわかった。だがわかったところでどうすることもできなかった。女は静止する間もなく火を放った。
同時多発無差別殺人。はたして単なる偶然であろうか?いやそれはまさしく未だかつてないテロであった。
存在を示すために刃物を振り回し続けた男は警官が駆けつけるまで暴れ続けていた。威嚇射撃の警告を無視して切りかかってくる犯人に対し射撃の体制に入ったとき、男は刃先を自分に向け喉を掻っ切った。
このようなことは可能なのであろうか?それを見届けた警官は悄然とした。刃物はまるで切腹後の介錯のように首を切断し、切り落としてしまったのだ。
ハンドルを握りしめた殺人者の男は逃げ惑う人々を追い掛け回していたが、対象がいなくなるとアクセルを目一杯踏み込みフェンスに向けて突っ込んだ。車は大破し、男は運転席の中で潰れ、絶命した。
地下鉄でガソリンをまき散らした女は自らもガソリンを被っていた。炎は車両に乗り合わせた十数人の犠牲者と共に女を焼き、後には煤しか残らなかった。
紗季の兄、県警刑事である剣二はこの3つの無差別殺人の合同捜査本部に狩りだされていた。
3つの事件は類似点を持ちながらもその背景はバラバラであった。刃物を振り回した男の遺体からは薬物が検出された。日頃から日常的に薬物を使用していた形跡があり、錯乱状態での犯行であると考えられた。
殺人ドライバーの男は事業に失敗し多額の借金に追われていた。最初から自殺することが目的でその道連れに犯行に及んだと思われる。
そして焼身自殺の女は長きにわたり重い病気に苦しんでおり、精神的にも追い詰められていたことから突発的に事に及んだのではないかと推測された。
捜査本部は腑に落ちない点があるのを認めながらも背後関係は無しとの見方を押し通すという方針を打ち出した。
(だがそれでは単独の事件が偶然重なったということになる。それではあまりに不自然ではないか)
剣二は鑑識課に足繁く通い、情報を募った。だがそれぞれの遺体の損傷が激しいこともあり有力な手掛かりを見つけ出すのは困難であった。
そんななか、写真の一枚が目を引いた。刃物男の裸の首なし写真である。
(なんだ、このあざみたいなのは?)
ちょうど胸のあたりに五百円硬貨ほどの大きさのなにかの模様が写っていた。
剣二は鑑識官の須藤に尋ねた。
「この、ほら左胸の上にあるあざみたいのはなんですかね?」
須藤は示された写真を見て答える。
「ああ、それはこの男が身につけていたペンダントの後じゃないかな。ほらこれ」
そう言うと区分けしたビニール袋に入れられた犯人の遺留品の一つを取り上げてみせた。
「なんだろうこの形・・・」
「天秤かな?」
「天秤・・・」
「なにか気になることでも?」
「あ、いいえ」
剣二にはそのペンダントがなぜか気になった。はたしてそれは直感だったのだろうか。見えるはずもないのだが、紗季が襲われたときに感じたどす黒い瘴気の残りかすのようなものがまとわりついているように感じられたのだった。
絵莉はこの事件のニュースを聞いて釈然としなかった。これほど悪魔的な犯罪に関わらず魔力の痕跡を感じられなかったからだ。
杏珠にそのことを言うと、案の定気乗りしない様子であった。
「人間の犯罪は警察の仕事よ。あたしたちが手を出すべきじゃないわ。勝手に介入すれば世の中のバランスを崩すことになるわ」
「でも不自然だとは思わないの?わたしは彼らの背後に黒い影を感じるわ」
「そう思うなら自分で調べればいいじゃないの、もうたくさん!」
杏珠は逃げるかのように足早に離れた。
(なにを考えてるのかしら。まるでなにかを怖れているみたい・・・)
実際、杏珠は怖れていたのであった。このところ立て続けに身近なところで起きる事件ははたして偶然なのであろうか?自分が呼びこんでしまっているのではないのか?魔物は魔力があるところに集まる。自分が関わることで親しい者たちを不幸にしてしまうのではないか、そう考えると不安で仕方がないのだった。
六道中は職員室で起こった事件のショックから徐々に立ち直りを見せていたが、紗季は相変わらず欠席を続けていた。
紫穂は再び見舞いに行こうと杏珠たちを誘ったが杏珠は浮かない様子だった。
「ほら、また断られると思うの。無理に行っても迷惑になるし」
紫穂はいつも強気だった杏珠が最近弱気になっていることが気になった。いつものように冗談で返す雰囲気でもなかった。
結局絵莉と二人で行ったのだがやはり会うことはできなかった。
紗季のことは兄の剣二にとっても心配の種であった。あの事件から必死で立ち直ろうとしていた矢先の職員室の事件が精神的に不安定にしたのだろうか、最近自分にも顔を見せずに自室にひきこもるようになっていた。
その事以外にも心に引っかかることがあった。あの時見た男のおぞましい姿はなんだったのだろうか。はたして錯覚だったのだろうか。月明かりで垣間見ただけでは正確にはわからなかったが、なにやらこの世のものとは思えぬ姿であった。その化け物の影がいまだに妹を苦しめているのか?
ドア越しに言葉をかけてみた。
「紗季、さっき友達が来ていたようだけどどうして会わなかったんだ?」
「・・・・・・」
「具合悪いのか?付き添ってやるから病院行かないか?」
「大丈夫だから、しばらく休んでれば治るから心配しないで」
「なにかしてほしいことはないか?」
「・・・栄養付けないといけないからご飯の量を増やして欲しい」
(食欲はあるのか。ならばそれほど心配することもないのだろうか)
そんな時、須藤から携帯にメールが届いた。直接会って話したいとのことだった。
すぐさま向かうと須藤は何枚かの写真を示した。それは残る二人の犯行の現場の写真だった。
部分的に拡大されたその写真には他でもない、あの天秤をかたどったペンダントが写っていた。
「あの後俺も妙に気になってね、他の通り魔事件の犯人の遺留品リストをチェックしてたら不思議なことにふたりとも同じタイプのペンダントを身につけていたことがわかったんだ。ここまで類似しているとなにか意味があるのかと思わずにはいられないね」
「これは一般に市販されてるものなんでしょうか」
「それを調べるのは君の役目だろう」
「ええまあ。しかしこれはいったい何を意味してるんでしょうね」
「さあね。ただこれが何かの団体のマークを表しているとしたら・・・」
「秘密結社みたいな?例えばクー・クラックス・クランみたいなカルト的な組織とか?」
「うむ、そういうつながりがあったとするならば・・・」
「?」
「また同じような事件が起きるかもしれん」
須藤の推察は的を射たものであった。だがその意味するものが理解されるのにはまだ時間が必要であった。
さきだっての暴走族惨殺事件の後、交通機動隊は連日各所に検問を設け不審者の捜索にあたっていた。その結果、犯人たちの発見につながる事柄は出てこなかったが、暴走族も自重して鳴りを潜めるようになっていた。
そんな暴走族グループのリーダーの一人である中島は暇を持て余し遊技場で時間を潰していた。
「くそっ、すられた!」
最後の球が落ちて行くのを恨めしく眺めながら腹立ちまぎれに台を叩こうとした時、後ろから聞き覚えのある声が制した。
「やめときな」
「多米田さん?」
族の前リーダーの男であった。だが自分が知っているものとはかなり印象が変わっていた。仕立てのよいスーツを着こなし物腰も柔らかく自信に満ちていた。
「いい会社にはいれたんスか?」
中島はそう言ってしまってからしまったと思った。多米田は軽口や冗談が通じない男だったのだ。だがここでも様子が違っていた。
「まあ、そんなところだ。それより話したいことがあるんだが、ちょっとつきあってくれないか」
多米田は中島を近くの喫茶店に誘うとなにやら小難しい話を始めた。
差し出されたパンフレットには『天上の秤』と表題が記されていた。
「てんじょうの・・・」
「はかり。てんじょうのはかり」
中島はすぐにマルチ商法かなにかの勧誘と思った。続いてなにやらあやしげなペンダントを取り出し、目の前に置かれる段になるといよいよ胡散臭さに鼻白んだ。
「騙されたと思ってこのペンダントを掛けてみて欲しい。これは肩こりや持病に効くとか運気を向上させるとかいったやわなものじゃあない。世の中を浄化する力がある」
(多米田さんやばい仕事してんなあ)
そこでなんとか口実を設けて引き上げようと考えたのだが、なぜか次第に多米田の話に乗せられていくのだった。話術と言うよりもなにか抗いようのない力が作用していた。
そして気づいたときには中島はその『研修会』に参加することになっていた。
それから数日後、同じ喫茶店に再び中島の姿があった。ただ前回と違っていたのは今回の中島は多米田のポジションでメンバーたちを勧誘する立場にまわっていたことであった。
それからほどなくして、事件は起こった。
甲斐なく徒労に終始する検問に疑問の声があがり始めた頃だった。国道を押し寄せてくる一団に交通機動隊の面々は色めきたった。
「やつら痺れをきらしやがったか。しかしあれは相当でかいぞ」
「通すな、ここでせき止めろ!」
機動隊はバリケードを築くと一斉検挙すべく待ち構えた。だが近づくに連れその規模に戸惑いを強めて行った。
「なんだ・・・あの数は・・・」
それは数百人規模の大群であった。このあたりの全ての族を合わせてもこれほどの数になるとは想像できない。さらに不思議なことに彼らは爆音を響かせながらも過剰にクラクションを鳴らすなどの威嚇行為がなく、不気味なほど静かだった。
隊員はその規模に圧倒されながらも彼らの前に出て制止を試みた。凶暴さを感じさせないことから穏便に事を運べるのではないかとの憶測もあった。
だがそれはあまりにも楽観的すぎた。獲物を見つけた獣の集団は隠していた牙をむき出しにして襲いかかっていった。
まったく躊躇することなくバリケードに突っ込むと隊員たちを跳ね飛ばして行く。そして車両が大破し動かなくなると車やバイクから降り、手にした武器で隊員たちの息の根を止めるべく群がった。
機動隊はピストルを抜き応戦したがその圧倒的な数の前には無力だった。銃弾は確実に何人かに命中したが、彼らはまったく臆することなく攻撃をやめなかった。
そしてあらかた破壊し殺戮し終わると、隊員たちだけでなくメンバーの中にも傷を負って動けぬ者や車両に取り残された者がいるにもかかわらず、一面に火を放った。
後に奇跡的に生き残った隊員の話したところによれば、彼らはその一連の行為をまるで無表情に作業のように行なったという。それらの行いがなにかの使命によるものであるかのようだったと。
この騒乱により機動隊、暴走族双方合わせて三十四名の死傷者が出る惨事となった。当然すぐさま犯人たちの割り出しが始まったが、銃乱射による暴走族惨殺事件同様捜査は難航した。
剣二は同時多発通り魔事件の専属となっていたため担当ではなかったが、この事件に共通する匂いを感じ取っていた。どこか人智を超えた力が作用しているように感じられてならなかったのだ。
そこで担当していた刑事の玖珠に同期のよしみであることを調べてもらった。玖珠はその意図を測りかねたが独自に情報を入手してきてくれた。
「例の件だが」
玖珠は直感的に内密にすべきと感じ人目を避けて携帯に電話してきた。
「お前の言ったとおり、あったよ。焼け焦げてはいたが暴走族の死体の首に天秤のペンダントが掛かっていた」
剣二は予想していたとはいえ、慄然とした。
「そうか、あったか・・・」
「どういうことだ?なにかのシンボルみたいなもんか?」
「今はまだよくはわからない。ただ、同じものを通り魔たちも身につけていた」
「・・・そっちの事件と繋がりがあるって言うのか?こいつら全部なにかの団体か宗教にでも関わっているのか?」
玖珠は自分もその線を当たってみると言った。剣二も独自に慎重に捜査を進めることにした。
だがその日以来、玖珠からの連絡はぷっつり途絶えてしまった。こちらからの連絡もつかない。剣二はいやな胸騒ぎを抑えることができなかった。
そしてその悪い予感は最悪の結果となって現れた。玖珠は数日後遺体となって発見されたのだ。
玖珠の遺体は川をうつ伏せの状態で漂っていたところを発見され引き上げられた。そしてその遺体にはある特異な点があった。両目がえぐられていたのだ。剣二にはそれが余計な詮索はするなという警告に思えた。
捜査は当初、当然のごとく他殺の線で進められた。だがおかしなことにすぐさま事故、もしくは自殺と訂正され、後に事故死として早々と打ち切られてしまった。
剣二は危機感を強めた。
(組織の力が警察内部にまで及んでいるとしか考えられない。俺はとんでもなく危ない組織を相手にしているのかも知れない)
第5章
嫌な夢だった。もうずっと前に吹っ切れたはずだったのに・・・。杏珠はうなされて目覚めた。べとついた寝汗がまとわりついた。
(呪われた力・・・。そうよこんな力無いほうがましなのに。パパやママはあたしに何を託したかったの?あなたたちのように戦って傷ついて、そうして誰からも感謝されるでもなく人知れず死んで行けと言うの?
あたしたちは戦えば戦うほどひとりぼっちになっていく。そうしていつのまにか周りには誰もいなくなってしまう)
杏珠が恐れているのは死ではなかった。孤独になることだった。それは死よりも恐ろしいことだったのだ。
(エリ、あなたは平気なの?どうしてそんなに落ち着いていられるの?)
絵莉は手のひらの睡眠薬を見て思った。
(魔女が薬の力に頼るなんて滑稽よね)
そして口に含むと水で流し込んだ。
もう何年も不眠症に悩まされていた。一人目を閉じるといつもあの日の記憶が絵莉を苛むのだ。
絵莉の父母はかつては絶大なる力を誇りこの世界での尊敬を集めていた魔術師だった。その力には悪魔たちでさえ怖気付いたという。
だが狡猾で強大な悪魔が奸計を巡らせ罠にかけた。敵は人間たちを洗脳し、大挙して邸を襲わせた。
悪魔には無慈悲だった父母も人間相手には決して手を上げようとはしなかった。人間たちに対し言葉で説得に努めようとする父母を凶弾が貫いた。何百という化け物を相手にしても不死身と思われた二人は信じられないほどあっさりと命を落とした。
絵莉はその様子を二階から震えながら見ていた。そして興奮した群衆が家を取り囲み火を放つのを見て裏手から裸足で逃げ去った。
その後絵莉は母の妹夫婦を頼った。だが妹は彼女を持て余した。妹には力が備わって無かったのだ。義父母は腫れ物に触るようによそよそしく接した。いつしか絵莉は自分を偽り、良い子を通すようになった。表立って魔力を使うこともまったくしなかった。
一方で悪魔に対する憎しみが消えることも無かった。邪悪な気配を感じれば人知れず偲んで家を抜け出し大鎌を振るった。悪魔を切り刻み屠る、それだけを心の支えとして生きてきたのであった。
玖珠の死以降、剣二は謎の組織を追うことに恐怖を感じるようになっていた。はたして彼はどこまでたどり着いていたのだろうか?このことを他の捜査員にも伝えるべきだろうか?
だがあろうことか、突如同時多発通り魔事件の捜査本部の縮小が決定された。この事件も狂った人間の突発的な事件がたまたま同時期に引き起こされただけと結論づけられたのだ。心神耗弱、なんと便利な言葉であろうか。すべての理不尽をその一言で済ませてしまう呪文のような言葉。それは事実上の打ち切りを意味していた。
剣二の心に重くのしかかっているもうひとつの気がかり、それは妹の紗季のことであった。もう何週間になるだろうか、こうしてドア越しでしか会話しなくなってから。
夕食の食器を下げに部屋に行く。今日もすべて平らげていた。
(食欲があるのが救いだな)
膳を持ち上げる。と、ふと食器の下に紙が挟まっているのに気づいた。メモ書きだ。広げてみる。そこには一言だけ書かれてあった。
『助けて』
剣二はドアを開けようとしたが鍵がかかっていた。
「紗季!どうした?ここを開けてくれ!」
中から紗季の声がした。
「なんでもないから心配しないで」
だがその声は弱々しく、どこかよそよそしかった。
剣二は自分の部屋に入ると窓から外へ出てベランダ越しに紗季の部屋へ移動した。窓にも鍵が掛かっていた。置かれてあった植木鉢を持ち上げると窓ガラスに叩きつけて割る。割れ目から手を伸ばし鍵を開け中へと入った。
紗季はベッドの上で丸まっていた。
「紗季・・・?」
だが紗季は同じ言葉を繰り返した。
「なんでもないから心配しないで」
だが力を振り絞るように言い直した。
「違うの、今のは本当のわたしの声じゃないの」
「どういうことだ?」
「わたしのなかの赤ちゃん・・・」
その時初めて紗季の腹部が膨らんでいることに気がついた。なぜすぐに気付かなかった?
「おまえ、まさかあの時の・・・?」
だが紗季は急に冷めた声で答えた。
「あなたには関係ない」
すると紗季は何者かを説得するように言った。
「あなたは黙っていて。大丈夫、この人は味方だから」
普通ならば妹の頭がおかしくなったと考えるところであろう。だが剣二にはあの日見た光景とその後起こった不可思議な事件のことなどからすぐにはそう決め付けられなかった。
「この子、堕胎させられるのを恐れているの。無事生まれたいと願っているのよ」
「なにを・・・言ってるんだ?おまえ、大丈夫なのか?」
剣二にはその意味が分かっていた。だが事実と認めるのが怖かったのだ。
「お兄ちゃんあの時、見たよね?あの人、普通じゃなかった。あの時は医者も異常なしって言ってたし自分でも未遂だったと思ってた。でも違ったのよ。あたし、あの時身篭ってたのよ」
「馬鹿な!でももしそうならすぐ病院に行こう。病院に行って―」
そう言いかけたとき突然剣二の頭に激痛が走った。
「や、やめろ!」
紗季はすぐさまお腹の子に厳しい口調で言った。
「やめなさい!この人を傷つけないで!」
すると痛みが収まった。
「今のは、その子の仕業なのか?」
紗季はお腹をさすりながら言った。
「この子は普通の子じゃないの。あいつと同じ魔物の子・・・」
「そんな、ありえない」
「でもそうなのよ、あたしにはわかるもん」
「それでどうする気だ?本気で産む気か?」
紗季は頷いた。
「あいつには嫌悪しか感じないけどこの子には罪はないわ。あたしにはこの子を殺すことはできない。でも・・・この先どうしたらいいのか分からないの。どうやって産めばいいのか。もし生まれてきた子が人間の姿をしていなかったらと思うと怖くて仕方ないの。だから病院にも行けないの」
「じゃあここで産む気か?無茶だ。俺には無理だ」
紗季は少し迷っていたがある名前を口にした。それははたしてどちらから出た言葉であったろうか。
「アンジュ・・・亜堂杏珠、彼女なら・・・」
剣二には直感で誰のことか察しがついた。
「こないだ見舞いに来てた髪の長い子か?」
「お兄ちゃんも見たでしょ?あの日黒いドレスの少女が立っていたのを。あたし、すぐわかったわ。あれはアンジュよ。あの時は幻か錯覚だと思ったけど、今ならはっきり分かるの。あれはアンジュだったのよ」
紗季からの電話は簡潔なものだった。ただ、なにも聞かずに来て欲しい、とだけ。
杏珠には予感がしていたのだ。分かっていて逃げていた。もう取り返しの付かないところまで来てしまったのかも知れない。でも他にどうしようもなかったのだ。
紗季の家の前までシャドードアで移動する。と、宵闇の暗がりの中に何者かの影が見えた。
「どうして分かったの?」
絵莉だった。
「ある人が教えてくれたのよ」
「メフィストね?」
「怒らないであげてよね。彼はあなたのことを心配してるのよ。それにわたしもなにが起こっているのか知っておく必要があるわ」
「・・・いいでしょう。でも前にも言ったように口出しはしないでね」
剣二は絵莉を入れることには躊躇したが杏珠の口添えで了解した。
挨拶もそこそこに二階の紗季の部屋へ向かうと、すでに階段のところで二人は異様なオーラを感じた。
杏珠は剣二には部屋の外で待っていてもらうように告げた。
「サキ、入るわよ」
杏珠がドアを開けると紗季は部屋の隅にうずくまっていた。二人が入ってきたことにも気づかぬふうであった。
杏珠は静かに近づくとそっと肩に触れた。すると紗季はハッとしてようやく二人を認識したようだった。それから紗季は杏珠の胸に顔をうずめて泣いた。
「大丈夫、心配しないで。あたしたちが付いてるから」
紗季は顔を上げると絵莉の方を向いて言った。
「エリリンも来てくれたんだ。ごめんね、巻き込んじゃって」
絵莉はやさしく微笑んで返す。
「ううん、わたしもあなたの力になりたいの。いいえ、きっとなるから安心して」
「シホは?」
「彼女には少しショックが大きいと思ったから内緒で来たの。それに・・・」
杏珠は少し言葉を詰まらせた。
「あなたの場合、特殊だから」
「やっぱり分かるの?アンジュには」
杏珠と絵莉は互いに顔を見合わせたが、意を決して打ち明けることにした。
「今あなたが置かれている状況を考えたら隠しておくことはできないわ。あたしとエリには持って生まれた特別な力が備わっているの。平たく言うならば魔法の力がね。そしてあたしたちの同族は大昔から魔界の敵と戦ってきたの」
紗季に理解してもらえるか疑問ではあった。だが遠まわしに理解を求める余裕もなかったのだ。
「あの日・・・」
それは思い出させたくはない出来事だったが避けては通れぬ話題であった。
「あなたの身に起こったことを覚えているわね?」
紗季は頷いた。
「あの時あなたはあたしの影を見たはず」
「やっぱりあれはアンジュだったのね?」
「そう、そしてあの男に巣食っていた魔物を除去したの」
普通ならこのような荒唐無稽な話は誰も信じ得なかったであろう。だが今の紗季は全てを受け入れることができた。自分の中に宿っているものが魔物そのものであると確信していたから。
「あたし・・・どうしたらいいの?」
すがるように訊く紗季。杏珠はその問にやさしく答えた
「あなたはどうしたいの?」
その台詞は絵莉には意外なものであった。
「ちょっとどういうこと?まさか産ませるつもりなの?」
杏珠は絵莉に向き直ると言った。
「あなたは口出ししない約束でしょ?あたしはサキの気持ちを尊重したいの」
「な、なぜなの?生まれてくるのは間違いなく魔物の血を引いた者なのよ?」
そう言った絵莉を激しい頭痛が襲った。
『おまえは出て行け!ボクを殺そうとするやつはみんな嫌いだ!』
紗季はそれを諌めた。
「ダメ、やめなさい!この人はあたしの友達なの、乱暴しちゃダメ!」
すると絵莉の頭痛は治まった。
「すでにこれだけの力を備えているの?いったいあなたは何者なの?」
「ごめんね、ひどいことして。でもね、あたし分かるの。この子は決して悪い子じゃないって。ただ怯えているのよ。これから自分の身になにがおこるか分からず怯えているのよ。今のあたしと一緒なの・・・」
紗季は膨らんだお腹を愛撫するようにさすりながら言った。そして杏珠に告げた。
「あたし、産みたい!この子を殺すなんてできないわ。例えそれが怪物だったとしても」
絶句する絵莉。
「バカ、何言ってるの・・・」
だが杏珠は違った。
「エリ、今むりやり引き剥がすようなことをすれば母体であるサキの身にも危険が及ぶわ。
それにあたしはサキの母としての直感を信じたいの。魔物だからといって全てが害悪をもたらすものとは限らないわ。それはあなたも知っていることでしょう?だいたいあたしたちにしたって魔物なんだもの」
「でも望まれて創られた命じゃないわ。そこに愛はないじゃないの」
紗季はその言語に顔を曇らせた。
「そう、それが一番の不幸だわ。むしろあたしはあの男を憎んでいる。思い出すだけで吐き気がするくらいに。でもね、それはこの子にはなんの責任も無いことなの。そうでしょ?」
言葉につまる絵莉。だが杏珠の言うとおり無理に堕胎させれば紗季の安全も保証されないのは事実だ。
絵莉は気を静めるとお腹の子供に語りかけた。
「聞こえる?あなたに危害を加えたりしないと約束するわ。だからあなたもサキ、母親を傷つけるようなことは絶対にしないで。人間はあなたたちとは体の作りが違って壊れやすいの。ささいなことで命を落とすの。そしてあなたたちと違って一度失った命はもう二度と帰らないの。だから痛がることや怖がらせるようなことはしないでね。約束できる?」
しばらくの沈黙の後に答えが返ってきた。
『・・・約束するよ。だってボクはママが大好きだから』
紗季はその言語に涙した。
二人はなにかあったらすぐ連絡するように紗季に伝えると部屋を出た。剣二には詳しい話は伝えなかったが心配しないようにと言った。剣二も敢えて突っ込んで訊こうとはしなかった。
が、ひとつだけ気になっていることがあった。
「君たちのことを詮索するつもりもないし迷惑も決してかけないつもりだ。ただ僕は職務柄どうしても訊いておきたいことがあるんだ」
そう言うと一枚の写真を取り出して二人に見せた。それは例のペンダントの写真だった。
「このペンダントに心当たりはないだろうか。天秤のようにも見えるこのマークに見覚えはないだろうか」
二人はその写真を見ると一瞬顔をこわばらせた。だがそれを気取られぬよう努めて冷静を装い返事をした。
「さあ、わかりません。それがなにか?」
剣二は二人の様子に気づいてはいたが追求はしなかった。
「そうか、いや妙なことを訊いてすまなかったね。でもこのせいで多くの人の命が奪われているように思えてならないんだ。なにか気がついたことがあったら僕に直接教えて欲しい」
杏珠も絵莉もそれがなにを意味するものであるのか知っていたわけではなかった。ただ共通して浮かんだイメージがあった。
二人きりになると絵莉がその名前を口にした。
「大天使ミカエル・・・」
最後の審判に望む人の魂の行方を定めるという秤はミカエルの象徴でもある。
「それは短絡的に過ぎるんじゃない?」
杏珠はすぐさま否定した。
「むしろイメージを利用してるように思えるわ」
「そうならいいけど。でもあの写真には不吉を感じたわ。それより・・・」
絵莉はあの場では言えなかった疑問をぶつけた。
「このまま魔物の子を産ませてその後どうするの?そんなことをしたらこの先サキは普通に暮らせなくなるのよ?」
「魔界の生き物だからといって全てが悪と決め付けるのはおかしいでしょ。あたしたちは神様じゃないのよ。生き物の生き死にを決める権利はないわ」
絵莉はしばらく考えていたが念を押すように言った。
「わかったわ。いずれにせよ今は見守るしかなさそうね。あの子は既にかなりの力を身につけているし簡単に手出しするのは危険ね。でももしサキやほかの人達に害を加えるようなことがあったら、その時は手を下すしかないことも覚悟しといてよね」
「・・・わかってるわ」
二人はすぐにその場から消えることもできた。だがそうしなかったのは何か不穏な気配を感じていたからだ。
絵莉が歩きながら言った。
「ただの痴漢とは違うみたいね。それよりどんどん気配の数が増えてきてるわ」
「とにかくもっと広い場所に移動したほうがよさそうね」
遠目に追って来る者が三人四人・・・十人・・・十五人・・・いやまだまだ増えている。
二人は住宅地や人ごみを避け公園に入った。やがて彼女たちを取り囲むように不審な者たちがぞろぞろと集まり始めた。その数はあっと言う間に百人程度にまで膨れ上がった。
彼らはなにか言うでもなく黙々と詰めかけた。それぞれ手にはパイプや金属バットなどを握っている。
「なんなのこの気持ち悪い連中は」
杏珠は見渡して言う。
「悪魔に取り憑かれているわけじゃなさそうね。でもその影響下にあるように感じるわ」
「どっちでもいいわ。目障りだから始末するわよ」
絵莉は諌めた。
「待って。この人達は人間よ。手出できないわ」
杏珠はにべもなく言う。
「振りかかる火の粉は払わなければいけないでしょ。それにこいつら、あたしたちのこと、なにも知らないわけでもなさそうだし」
「でも直接手を下すことは―」
「わかってる」
杏珠が呪いの呪文を唱える。杏珠の体から周囲にどす黒いオーラが溢れ出しガスのように漂い始めた。それは周囲を混乱に陥れた。さらに次々に精神を撹乱する呪文をばらまき始める。「恐怖」「激情」「憎悪」「錯誤」等々・・・。暴徒たちはある者は逃げ惑い、ある者は互いに戦い、ある者は意識を失い崩れ落ちた。自分を見失った者たちにはもう杏珠たちの姿は目に入らない様子だった。誰かれ構わず狂ったように傷つけあっていた。
杏珠はその混乱の中、すり抜けるようにツカツカと歩いて行くと気絶した男の傍らに屈みこみ、乱暴に胸をはだけた。そしてそこにあの天秤のペンダントを確認した。
絵莉も続きそれを目にした。
「どこかからあたしたちを見ているやつがいるわね。これは関わるなというメッセージ、いえ脅しのつもりなのかしら。あなたどうする気?」
「知ったこっちゃないわ。もしあたしの気に触るようなことをしでかしたら叩き潰すまでよ」
そして誰かに聞えよがしに言った。
「もう十分いらついてるけどね」
市民からの騒乱の通報を受けたのであろう、パトカーのサイレンが近づいてくるのが聞こえて来た。
「後は警察に任せてさっさとここを離れましょう」
杏珠はこのようなくだらないいさかいには興味が無いというふうだった。それよりも今は紗季のことの方が重くのしかかっていたのだった。