第4話
カモミールの香りがした。気のせいか、別の臭いも混じっていた。何とはわからなかった。
「起きられましたか、お嬢様」
若い女が覗き込んでいた。使用人の格好をしているが、見覚えのない顔だった。
「あたしは」
ネイザは裸身を晒していることに気づいた。隠そうとしたが、やんわりと遮られた。
「お身体を拭きますので、しばらくお待ちください」
彼女は桶で手ぬぐいを絞った。カモミールはそこから香っていた。
「見ない顔だけど、新入り?」
彼女のほかに人がいないとわかり、ネイザは身体を隠すことが無意味だと知った。同性相手に隠す必要はなかった。むしろ、見せたいという気持ちがあった。
「はい、先日おやめになった方がいらしたようで」
ネイザは知らなかった。屋敷のことで、知らない話があるというのは不可解だった。彼女が床に伏していた間の出来事だろう。
「ルゥ……ルゥは!」
抜け落ちていた記憶が甦った。もっとも親しい間柄の使用人の名だ。二人で屋敷を抜け出し、以前から目をつけていた廃屋に潜んだ。そこで行われたことの記憶が、断片ながらも彼女の脳裏に戻ってきた。
血の海と、そこに浮かぶ手首。
「そのような名前だったと思います。やめた方は」
「どこにいるの!」
腕を掴んだ。新人の女は困ったように目を伏せた。
「申し訳ありませんが、私にはわかりかねます」
「そうか」
日も浅い使用人に聞くことではなかった。ネイザは後で執事に問いただすことにした。
「さあ、終わりました。お食事をお持ちいたしましょうか」
ハーブ湯で清められ、新しい夜着を着せられた。生まれ変わったような心地よさだった。
たが、それは身体だけだ。心の中は靄がかかっているようで晴れない。食欲もわいてこなかった。何か口に入れるのは億劫だった。
「お前の名は?」
新人の使用人は、整った顔立ちをしていた。見た目で採用不採用が決まるはずもなかったが、美しい顔を見ていて悪い気はしない。ネイザの感覚だ。
彼女は、髪が赤みがかっていることで、大人びているように見えた。実年齢はネイザより下かもしれない。
「リムと申します。未熟者ですが、よろしくお願いします」
恭しく頭を下げた。作法も心得たものだった。
「ずいぶん、手慣れていたわね。身内に病人でもいたの?」
「ええ、姉がいました。少し前に他界しましたが」
沈んだ顔が答えた。
「ごめん」
さすがに無神経と思ったのか、ネイザは謝った。
「気になさらないでください。病弱でしたので、いつかは別れなければならないとわかっていましたから」
リムは湯桶を抱え、退出の礼をした。
「あの、お嬢様。お身体に触りますので、あまり無茶はなさらないほうがよいと思います」
彼女は思い出したように言った。恥ずかしげな表情だった。
ネイザは意味かわからなかったが、彼女の笑みに釣られるように、曖昧な頷きを返していた。
ルゥの状況について執事から聞くことができたのは、翌日になってからだった。
やはり怪我が重く、仕事も満足にできそうになかったため、故郷に帰らせたとのことだった。生きていることを再確認し、ネイザは力が抜けるほど安堵した。
怪我は重いはずである。イズマに手を切り落とされたのだ。一生を不具として暮らさなければならない。充分な手当を出すようにと、執事に指示を出した。彼はすぐに手配すると約束した。
本心はすぐにでも会いに行きたかった。しかし、ネイザ自身の体力が弱まっていることもあり、いずれ折を見て訪ねることにした。
彼女は、執事の嘘に気づかなかった。ルゥは死んでいた。直接の原因はイズマにあったが、間接的にネイザが命を削り取っていた。無数の傷と搾り取った血液により、生命力が極限まで落ちていたのである。
ルゥは使用人の一人だった。替わりはいくらでもいた。現に彼女と入れ替わるようにして、リムが仕事を引き継いでいた。屋敷の中は、ほとんど何も変わらなかった。
ネイザは、ぼんやりと庭を眺めて過ごした。
何日かして、買い付けの旅から父親が戻ってきた。小言を言っていたが、耳には入らなかった。仕事疲れからか、ネイザの態度に諦めを感じたのか、溜め息と共に去っていった。
母は元より来なかった。同性だからだろう。娘の奇行が理解できないのだ。ずいぶん前から近づかないようにしていた。顔を合わせないようになって、すでに何年にもなる。
日だまりの中で、ネイザは目を細めた。
あの事件以来、目を閉じるのが何故か怖かった。眠るにしても、いつもどこかで緊張していた。以前にも増して、浅い眠りしか取れなくなった。そのため、体力はなかなか戻らず、たびたび熱を出すようにもなった。
ちゃんと眠り、休養を取れば快方に向かう。執事やリムが幾度となく促したが、言うことは理解できても、自分ではどうすることもできなかった。
熟睡するには、薬に頼るしかない。過度の使用は負担がかかるとしても、眠れないことの悪影響のほうが大きい。何日かに一回は、嫌でも飲むように懇願されたが、ネイザは拒んだ。眠る恐怖に、どうしても耐えられなかった。
連れ戻されてから、初めて目覚めた時、なんとも言えない違和感を感じた。リムが丁寧に身体を拭いてくれたのだが、どこか鼻につく臭いが残っていた。彼女が去り際に残した表情も、気にかかっていた。今更、彼女に問うのははばかられた。聞きたくなかったのかもしれない。
鳥が庭の梢から飛び去った。
ネイザの気持ちは、暗く沈んでいくばかりだった。年の近い友だちだったルゥは、何でも言うことを聞いてくれた。どんなことでも頷いてくれた。だから、二人でいろいろなことをしたのに、今はそばにいない。それが悲しいという思いと、不満に感じる自分がいた。
「お茶をお持ちしました」
年配の使用人が、作り笑いを浮かべて茶器を置いた。ネイザを軽蔑するような眼差しだった。ほとんどの使用人がそういった表情をする。本人たちはわかっていないのだろうが、ネイザには区別がついていた。
「ありがとう」
カップの中はカモミールティーだ。不眠症のネイザはこの茶を好んで飲んだ。唇をつけると、暖かい香りが喉を通り抜けた。
ふと、視線を感じた。
ネイザは振り返った。使用人が出て行くところだった。
閉じかけの隙間から腕を組んだ男の姿が見えた。ねっとりと絡みつくような視線が、こちらを見ていた。イズマの目は燃え立つようにぎらついていた。
ネイザは顔を背けた。手が震えた。茶器が音を立てる。
嫌な臭いを嗅いだ気がした。
口元を押さえる。胃の中から、飲んだばかりのお茶が戻ってきた。吐き出し、床に染みを作った。
肌を何かが這い回り、絡みついている。
吐き気が止まらなかった。記憶にない記憶が、押し寄せてきた。おぞましい記憶だった。
ナイフを探した。いつも手元に置いてあったはずなのに、見あたらなかった。
蛇の巣穴に落とし込まれたような、底なし沼にはまってしまったような錯覚を覚えた。全身の皮膚が、得体の知れない何かで粘ついていた。
「助けて――」
ナイフが欲しい。
すべて、削ぎ落としてしまいたかった。




