第2話
日が傾いていることに気づいた。
薄い光が、窓辺の花を包み込んでいた。萎れて、花弁を垂らしている。しばらく日に当たっていなかったようだ。鉢の水も枯れ果てていた。
ネイザの唇は濡れていた。じわりと湧いて出てくる液体によって、潤わされていた。それも残り少なくなってきた。
唇に残ったものをルゥに与えた。彼女は、弱々しく吸い付いて来た。舌先が動き、舐めとっていった。
ほんの少しの分け前でしかない。足りていないのだろう。何度も舌が見え隠れした。
ネイザはもう一度、ルゥの手首から赤い血潮をすくいあげた。味が薄かった。貴重な血液が、絶えようとしていた。
ルゥは浅い呼吸を繰り返していた。半開きの目は虚空を見ていた。
「終わりなの?」
ネイザの問いに、答えはなかった。
「終わりなのね」
何日が経過しただろう。壁の傷を見ると、三本の線があった。
「お前は、このくらいなのね」
ネイザは青白い顔を傾げた。そばに置いていたナイフを取った。
自分の腕を見た。消えかけた筋を軽くなぞった。新たな泉が湧いた。
少女の前髪を払って、顔を撫でた。伝い落ちた血が少女を汚した。集まった雫が筋となり、唇に消えていった。目蓋が震えた。喉がひとつ鳴った。
「お飲みなさい」
忍耐強く待っていると、ぎこちなかった動きに勢いが出てきた。むしゃぶる舌がくすぐり、傷に痛みを残した。
やがて、血は止まった。物欲しそうな目が見上げてきた。
ネイザは縄を切った。少女の手にナイフを握らせる。
「わかったわね。あなたの番よ」
囁き、理解を待った。
ルゥはうまく力が入らないのか、起きあがる気配がなかった。どうすればよいのか、飲み込めていないようだ。待つ時間が必要だった。
ネイザは壁に背を預けた。手首の赤い筋に触った。血が滲んできた。
視線を感じた。じっと見られていた。
求められている。
たまらなく嬉しかった。
濡れそぼり、滴り落ちた。
頬を撫でられた。ぎこちない動きだった。
まだ、迷っているのだろう。
ネイザは目を閉じて夢見心地を味わった。
長い時間をかけた甲斐があった。少しずつ傷をつけ、吸い上げた。腹や、脚や、胸の先を舐めて奪った。弱らせて、動けなくした。拘束して、弱らせた。
最後に、与えた。
今まで絞り尽くし、取り込んだものを返した。そうすることで、人に何が必要か理解したはずだ。
だから、与えてくれるようになる。
腕を取られた。手のひらが上を向き、手首の傷口が露わになった。自分で差し出すのとは違い、相手が自分の意思で見ていた。求められているということだ。
少し恥ずかしかった。身体の中を見透かされているような気がした。されるがまま、委ねた。
自分は今、相手の世界にいる。
体が傾いた。頭が横を向いて、押し倒された。床に倒れると思ったが、堅い木の板には辿り着かなかった。
今度は浮遊した。身体の下に腕を感じた。持ち上げられていると思ったのも束の間、やわらかい布の塊に埋もれていた。
「ネイザ様」
男の声がネイザを引き戻した。
甘美な世界が音を立てて崩れた。瓦礫が身に降りかかり、苦痛に躍る。夢から覚醒させられた。
目に映ったのは、若い男の顔だった。屋敷に住まう護衛の戦士である。嫌になるくらいそばを離れない従者だった。
おろおろとした男の表情が、気持ち悪かった。
「どうして、ここにいる」
睨み付けると、男は下を向いた。
吐き気がした。この男に触れられていたと思うと、嫌悪感に肌が粟立った。ナイフで皮膚を削いで捨ててしまいたかった。
「捜していました。また、危ないことを……しておいでではないかと」
聞き飽きた返事だった。
「あたしに構うな。近づくな。――見るな」
ネイザは身体を隠そうとした。だが、すでに遅かった。寝台に運ばれたことで、充分すぎるほど見られていた。いたるところを触られてもいた。
激しい目眩が襲ってきた。目を閉じて、落ち着くのを待った。取り乱した声を聞いたが、耳を塞いだ。
「薬を置いておきます。僕は外に出ていますから」
薬。薬は必要だった。あれがあると落ち着く。深く眠ることもできる。
「待て」
イズマという男の名は呼びたくなかった。口にするのも、汚らわしかった。本当は、声をかけることさえ、厭わしいのだ。ただ、確認しなければならないことがある。
室内に、強すぎる匂いが漂っている。濃密な蜜の味が撒き散らされていた。
「はい」
呼ばれたことがよほど嬉しかったのか、イズマは大股で近寄ってきた。
「ルゥは」
ネイザは寝台から起きあがろうとしたが、力が入らなかった。イズマが手を差し出して来た。睨み付けると、引っ込んだ。
寝台のシーツに爪を立てて這った。うつぶせになって、寝台の端から顔を出した。
少女の裸身が倒れていた。背中にも、小さな傷が無数にあった。ネイザがつけた傷痕だった。浅く速い呼吸で、背が動いていた。
生きていた。
ネイザは長い息を吐いた。安堵のためだった。
「こいつは、ナイフを所持していましたので、無力化しました」
床の血溜まりに、ナイフを握った手首が浮かんでいた。
イズマは刀の柄に手を添えて、にこりと微笑んだ。




