↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

夜道で男をやっつけたアイドル

作者: れっど
掲載日:2026/08/29

午後10時過ぎ。


ライブを終えた私は、帽子を深くかぶり、スタッフと別れて一人で帰路についていた。


数時間前まで、ステージの上で何千人ものファンに向かって笑っていた。


「今日はありがとうー!」


そんな声援に包まれていた自分が、今は誰にも気づかれないように夜道を歩いている。


アイドルだって、ステージを降りれば普通の女の子だ。


少し疲れた身体で歩いていると、前方から声が聞こえた。


「やめてください……!」


私は足を止めた。


路地の先で、一人の女性が男ともみ合っている。


次の瞬間、ドサッという音がした。


女性が地面に倒された。


息が止まる。


男は倒れた女性に近づいていく。


私はスマートフォンを握った。


怖い。警察を呼ぶべきだ。


そう思った。


でも、その女性がこちらに顔を向けた。


怯えた目。助けを求める目。


その瞬間、頭の中に浮かんだ。


——次は、私かもしれない。


私は一歩、前へ出た。


「……やめてください」


男が振り返る。


薄暗い路地の光の中で、酒の匂いがした。


目が少し濁っている。


「なんだ、お前」


声が震えそうになる。それでも私は立っていた。


普段なら、ステージで笑顔を作りファンを元気にするのが私の役割だ。


でも今は違う。


ここで逃げたら、あの女性を置き去りにすることになるから戦わなければならない。


私は帽子を取った。


長い髪が夜風になびく。


男が目を見開いた。


「……お前、アイドルじゃねえか」


私は答えなかった。


ただ、倒れている女性の前に立った。


彼女を背中にかばう。


「この人から離れてください」


「女が俺に勝てると思ってんのか?」


男が一歩近づいてくる。


声に苛立ちが混じっている。


酔っているせいか、足取りが少し不安定だった。


心臓が激しく鳴っている。怖い。足も震えている。


それでも、私は両足を踏ん張った。


ステージで何度も繰り返してきたダンス。


何千回も練習してきた体幹。


その全部を、今この瞬間に叩き込む。


男が腕を伸ばした。


その瞬間、私は身体を低く沈めた。


肩を引く。腰を落とす。両足に力を込める。


足の裏から腰、背中、肩へと、全身の力を一本の線にまとめる。


「てりゃぁぁぁぁぁぁっ!!」


ドンッ!!


肩が男の胸にめり込む。


硬い感触と、その先に伝わる衝撃。


男の体が後ろへのけぞり、大きく吹き飛ぶように後退した。


「ぐぇぇぇっ!」


男はバランスを崩し、そのまま尻もちをつく。


地面に手をついて、苦しそうに咳き込んだ。


私は息を切らしながら、その場に立っていた。


肩の奥が熱い。衝撃が腕から背中まで一気に走って、痛みで一瞬視界が白くなった。


手が小刻みに震えている。


さっきまでステージで歌っていた身体が、今は限界まで緊張していた。


でも、逃げない。


男を見下ろしながら、私は言った。


「……女を、舐めないでください」


声は震えていた。


それでも、その言葉だけははっきりしていた。


男は起き上がろうとしたが、私がスマートフォンを取り出すと動きを止めた。


「警察、呼びますから」


男は舌打ちをし、ふらつきながら路地を離れていった。


足音が遠ざかるまで、私は動けなかった。


しばらく、沈黙が落ちる。


夜風だけが冷たく顔を撫でた。


肩の内側が、まだ熱を帯びている。


私はすぐに振り返った。


「大丈夫ですか?」


倒れていた女性は、まだ呆然としていた。


そして私の顔を見つめる。


「あなた……もしかして……」


私は少しだけ笑った。


「今は、それより大丈夫ですか?」


女性の目から涙がこぼれた。


「……ありがとうございます」


私は彼女の手を取って、ゆっくりと立ち上がらせる。


「もう大丈夫ですよ」


女性は何度も頭を下げた。


「本当に……ありがとうございます……」


その言葉を聞いた瞬間、ライブで何千人からもらった歓声とは、まったく違う感覚が胸に広がった。


温かくて、少しだけ重い。


私はアイドルだ。


歌で人を元気にすることが仕事。


でもこの夜、私は歌ではなく、自分の身体で一人の女性を守った。


そして翌朝。


SNSには、こんな投稿が広がっていた。


『昨日の夜、路上で女性を助けたアイドルを見た』


私はその投稿を見て、しばらく画面を見つめた。


バレてしまったことへの照れと、少しだけ安堵したような気持ちが混ざっている。


「……バレちゃったか」


スマートフォンを置き、鏡を見る。


ステージ衣装に着替えた私は、いつものアイドルの顔に戻っていた。


スタッフが声をかける。


「今日も笑顔でいこう!」


私は笑った。


「もちろん」


昨日の夜より、ほんの少しだけ強くなった笑顔だった。


肩の内側に、まだうっすらと熱が残っている気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。