夜道で男をやっつけたアイドル
午後10時過ぎ。
ライブを終えた私は、帽子を深くかぶり、スタッフと別れて一人で帰路についていた。
数時間前まで、ステージの上で何千人ものファンに向かって笑っていた。
「今日はありがとうー!」
そんな声援に包まれていた自分が、今は誰にも気づかれないように夜道を歩いている。
アイドルだって、ステージを降りれば普通の女の子だ。
少し疲れた身体で歩いていると、前方から声が聞こえた。
「やめてください……!」
私は足を止めた。
路地の先で、一人の女性が男ともみ合っている。
次の瞬間、ドサッという音がした。
女性が地面に倒された。
息が止まる。
男は倒れた女性に近づいていく。
私はスマートフォンを握った。
怖い。警察を呼ぶべきだ。
そう思った。
でも、その女性がこちらに顔を向けた。
怯えた目。助けを求める目。
その瞬間、頭の中に浮かんだ。
——次は、私かもしれない。
私は一歩、前へ出た。
「……やめてください」
男が振り返る。
薄暗い路地の光の中で、酒の匂いがした。
目が少し濁っている。
「なんだ、お前」
声が震えそうになる。それでも私は立っていた。
普段なら、ステージで笑顔を作りファンを元気にするのが私の役割だ。
でも今は違う。
ここで逃げたら、あの女性を置き去りにすることになるから戦わなければならない。
私は帽子を取った。
長い髪が夜風になびく。
男が目を見開いた。
「……お前、アイドルじゃねえか」
私は答えなかった。
ただ、倒れている女性の前に立った。
彼女を背中にかばう。
「この人から離れてください」
「女が俺に勝てると思ってんのか?」
男が一歩近づいてくる。
声に苛立ちが混じっている。
酔っているせいか、足取りが少し不安定だった。
心臓が激しく鳴っている。怖い。足も震えている。
それでも、私は両足を踏ん張った。
ステージで何度も繰り返してきたダンス。
何千回も練習してきた体幹。
その全部を、今この瞬間に叩き込む。
男が腕を伸ばした。
その瞬間、私は身体を低く沈めた。
肩を引く。腰を落とす。両足に力を込める。
足の裏から腰、背中、肩へと、全身の力を一本の線にまとめる。
「てりゃぁぁぁぁぁぁっ!!」
ドンッ!!
肩が男の胸にめり込む。
硬い感触と、その先に伝わる衝撃。
男の体が後ろへのけぞり、大きく吹き飛ぶように後退した。
「ぐぇぇぇっ!」
男はバランスを崩し、そのまま尻もちをつく。
地面に手をついて、苦しそうに咳き込んだ。
私は息を切らしながら、その場に立っていた。
肩の奥が熱い。衝撃が腕から背中まで一気に走って、痛みで一瞬視界が白くなった。
手が小刻みに震えている。
さっきまでステージで歌っていた身体が、今は限界まで緊張していた。
でも、逃げない。
男を見下ろしながら、私は言った。
「……女を、舐めないでください」
声は震えていた。
それでも、その言葉だけははっきりしていた。
男は起き上がろうとしたが、私がスマートフォンを取り出すと動きを止めた。
「警察、呼びますから」
男は舌打ちをし、ふらつきながら路地を離れていった。
足音が遠ざかるまで、私は動けなかった。
しばらく、沈黙が落ちる。
夜風だけが冷たく顔を撫でた。
肩の内側が、まだ熱を帯びている。
私はすぐに振り返った。
「大丈夫ですか?」
倒れていた女性は、まだ呆然としていた。
そして私の顔を見つめる。
「あなた……もしかして……」
私は少しだけ笑った。
「今は、それより大丈夫ですか?」
女性の目から涙がこぼれた。
「……ありがとうございます」
私は彼女の手を取って、ゆっくりと立ち上がらせる。
「もう大丈夫ですよ」
女性は何度も頭を下げた。
「本当に……ありがとうございます……」
その言葉を聞いた瞬間、ライブで何千人からもらった歓声とは、まったく違う感覚が胸に広がった。
温かくて、少しだけ重い。
私はアイドルだ。
歌で人を元気にすることが仕事。
でもこの夜、私は歌ではなく、自分の身体で一人の女性を守った。
そして翌朝。
SNSには、こんな投稿が広がっていた。
『昨日の夜、路上で女性を助けたアイドルを見た』
私はその投稿を見て、しばらく画面を見つめた。
バレてしまったことへの照れと、少しだけ安堵したような気持ちが混ざっている。
「……バレちゃったか」
スマートフォンを置き、鏡を見る。
ステージ衣装に着替えた私は、いつものアイドルの顔に戻っていた。
スタッフが声をかける。
「今日も笑顔でいこう!」
私は笑った。
「もちろん」
昨日の夜より、ほんの少しだけ強くなった笑顔だった。
肩の内側に、まだうっすらと熱が残っている気がした。




